切り立った崖のように、地肌を鋭くむき出している。ときおり、微風に吹かれて岩に吹いている粉のような砂が浮いた。
しばらく、見定める。何しろ頑丈に見えて、不意に足下が崩れてはひとたまりもないのだ。
だが迷ったものの、特に問題はなさそうだった。慎重に爪先から、大地へと、崖へと降りてゆく。とはいえ、それは崖というほど急なわけではなかった。ただ見渡す限り草木はなく、黄金色の砂が覆うばかり。何かに削られたようにも見える地肌には、尖った突起が幾筋もあり、間違えて体重をかけてしまえば靴底を破られそうだった。実際には、時が経ったためか、尖ったとはいっても風食によって丸まってはいる。ただ乗っただけでは問題はないだろう。
ただ、圧倒的な力によって地形が変形させられたことには違いない。
これまで歩いてきたところは、どこも似たような物だった。削り取られたような、ということが似ているのではない。舌の上が粘着質になるほど乾燥し、砂が薄力粉のように軽く舞っている。その点に於いて、変化はなかった。
再び踏み出した足下で、小石が転がる。岩に当たり、跳ね返され、そのカラコロとした音が響いた。
まるで吟遊詩人の、リュートのような旋律だ。
胸の内で、笑うように呟く。考えてみれば、音として耳に入れたのは、この数日間では小石の転がりが初めてかもしれなかった。
世界の各地で天災人災により、人声がなくってからは耳を使っていなかったような気もした。
「獣の音だけは、耳を使って捉えていたかな。」
と、独り言ちる。話す相手など、まだ見つけられていないのだから仕方ない。言葉を忘れてしまうよりは、独り言を呟き続けようと思っていた。
ようやく――というほどに時間はかかっていなかったが――崖の底へと降り立っていたようだった。これ以上、地は下がってはいない。一息、吐いてから腰に下げた水筒を持ち上げる。付着している砂を払い、一口だけ水を口に含んで蓋を閉める。そして辺りを見回した。
所々、何かの欠片が大地に突き刺さるようにして立っていた。表面は平らで、幾分か傾いている。恐らくは建築物の壁面だろう。止めていた足を動かして近づくと、靴底が人工物の残骸を踏んで瓦礫らしい音を立てさせる。ここにも人が住んでいたに違いない。何があったかは分からないが、数人くらいは生きていてもおかしくなかった。何しろ、この自分が生きて世界中を歩いているくらいなのだから。
もしかしたら、今踏みつけた一際大きな破片は、誰かの頭部を殴打したかもしれない。となると、この下に誰かがいないだろうか。息も絶え絶えに、然れども確かに呼吸をして。希望にすがりながら、眼差しを下ろす。すると破片の下には、不変の白さを失いつつある人骨があった。思わず眼差しを悲しげに、細める。そして気付いてはいなかったからではあるが、人骨の上を歩いてしまったことに肩をすくめて、歩みを再開。ここが何かによって滅んでしまったのは、相当な昔のことなのだろう。人は、いないかもしれない。ゆっくりと溜息を吐きながら、地面に刺さった破片の脇を通る。
と、十数歩離れたところに、人がいた。
ようやく微笑んで、落ち着いた足取りで歩み寄る。彼は痩せていた。細くなってしまった腕は、皮と骨。首筋には浮き彫りにされたように、骨だけが突き出ていた。それでも彼は、それとは分からぬ速度で振り向こうとしていた。
「やぁ。」
「……ひと、か。」
生憎と、表情すら分からぬほど、彼の顔からは肉が落ちていた。掠れた声からも、歓喜か驚きか。感情を読み取ることは出来なかった。それでも嫌われたわけではないと勝手に判断して、彼の隣に腰を下ろす。
「そう、僕は人だよ。あなたは、ここの人ですか?」
彼は無言で頷いた。喉が渇いているかもしれない、と水筒を差し出すと、彼は目尻を下げながら首を左右に振った。受け取るつもりは全くないことを見て取り、諦めて口を開く。
「ここでは何が起きたんですか。何が、ここをこんなにしたんですか。」
「…聞きたい、か。」
「えぇ。話したくないのなら、全く構いませんけれど。」
いいんだ、というように首を振ると、彼はひび割れた唇を動かした。
「…昔は、おおきな…大きな都、あった」
「都ですか。」
ぎこちなく、頷く。まるで間接が木偶人形のようになっているようにも見えた。
「外側は城壁に囲まれて、出入り口は南北にいやに大きな門があった。確か…開けるときに、やたらと軋む音がして、ウルサイという人もいたな。」
「あなたは、どう思ったんですか?」
「……とりたてて、うるさくはなかった。毎日、かならずある音で……悪くは、なかったな。」
「聞き慣れれば、そうですね。」
答えながら、座り込んでいる人を見下ろすと、唯一潤っている瞳は遠くを見ていた。その視界は、例外なく砂に覆われているのだろう。だが、彼の眼差しだけは奪い去ることができない。どれほど群青に近い輝きであっても、確かに彼は木偶ではないのだ。
懐かしむことに耐えられなかったのか、彼はそっと目蓋を伏せた。
「……中央には広い広い広場。」
しばらく空白をおき、残りわずかな唾液を飲み込む。喉仏が、こ、く、と微かに震えた。
「いつも人が集まっていた。通り過ぎる人もいた。犬もいた。猫もいた。鳩が人を追いかけては、餌を求めていた。こちらが追いかけると逃げるというのに、繰り返し繰り返し…寄ってきた。そんな広場が中央にあった。大きな通りを真っ直ぐに歩けば……ここ、宮殿に着く。」
その台詞に、目だけでなく体でも辺りを見回す。
あるのは、相変わらず荒れ果てた姿──宮殿の崩壊した跡。
「宮殿が、ここにあったんですか。」
「…あなたの後ろに、ちょうど槍を構えた鎧姿の石像が建っていた。もう、その矛先は折れてしまったから、危なくはないけれど。」
「そ、そうですか…でも、ちょっと立っているのは申し訳ないですね。」
答えながら、わずかに位置を変えた。足下は瓦礫だらけで、人骨など欠片も見えない。そう思っているだけで、実際は底に沢山あるのかもしれない。どこにあるのか分からないのだから、人骨を踏まずにいることは困難だった。せめて、像があったという場所が分かったのだから、避けておきたかった。
見ていた彼は目尻を柔らかくした。
「宮殿の他に、なにかありましたか?」
「あとは…家々。商店。宿。ごく普通の都。」
「…気候とか、どうだったんですか?」
「少し、乾燥気味で、乾いた風がときおり強く吹いた。雨も…少なかった。けれど、野菜を育てるくらいは大丈夫だったか。うちは……それで生計を立てていたから。」
「畑を、耕していたんですね。ずっと…こうしていたものだから、一カ所に留まって花を育てたこともないんです。」
自分の旅装束を見下ろしながら、笑う。
衣服は黄ばみ、砂まみれになり、湿度を奪われないよう体を覆っていた。それは農耕には不向きなものである。
溜息のように息を漏らすと、口内の粘りが強くなった。
「春先に苗を育てて、夏にはトマトだ。茄子だ。黒インゲンや白インゲン。うちではよく、スープにして食べていた。キャベツは虫によく食われて大変だったが…その分、味は格別だったな。」
実が熟すまでのことを思い出しているのだろうか。ひび割れて、もはや畑を耕すことなど出来ないほど弱々しい指先が、空をなぞる。それは葉の厚みや形をなぞっているようでもあった。
「けれど、もう、そんなことは出来ない。残っているのは、もうこの種だけ。会えた記念に…これをあげるよ。」
いいのか、と聞き返しながらも、男はありがたく種を受け取った。そして話題に戻る。
「…こんな、大地だから?」
「それもこれも……全部、この身が悪い。悪い。悪い。」
彼は指先を噛み、また噛み、またもや噛んだ。皮は歯形を付けてへこむ。弾力性がないために、それが元に戻るには時間を要した。だが、元に戻りきる前に、再度指を噛んだ。
その行動の原因が分からず狼狽え、首を落ち着きなく動かした。
「ですが、ここまで大きな災害。とても人の力によるとは…」
「起きたのは。うねる大風……っ。」
突然、彼が大声を発して、台詞は遮られた。目蓋を限界まで見開き、重い大空を凝視する。眼球には舞う砂が映る。
「それは、壁を砕いて、人を家畜を打ち……あぁ。風の爪痕は、まだ残っている。」
と、首を項垂れた。
抉られた地面を一瞥して、すぐに彼へと目を戻す。
「…なら、尚のこと、あなたの責任ではないでしょう。風は自然の現象。私たちには…どうすることもできませんから。」
「起こしたのは、私だから。あの風を呼んだのは私だから。この身が悪い。悪い。悪い。」
「……風を呼ぶなんて、そんなことは出来ませんよ。」
「いや、あの日…あのいつものように晴れだったか曇りだったか小雨だったか。とりたてて気にすることもない、ただの一日。しかし都の最後の日。少年が…いた。
少年は、いつものように畑へ行った。道すがらすれ違う人と挨拶を交わし、飛び跳ねるようにして畑へ行った。仕事が一区切り着けば、夕方。夕方には幼なじみの少女と会う約束をしていた。少女は背が低めで、くるりと巻いた髪が特徴の、愛らしい容姿をしていた。少年が秘やかに思いを寄せる相手だった。
土を耕し、手の隙間には泥がつまっていた。その手を念入りに洗い、水に細かい砂粒を流す。それを何度も繰り返して、手が綺麗になると満足げに笑みを浮かべた。衣服は、変えるほどの余裕がなかったため、土を払い落とすくらい。それでも出来うる限り、小綺麗に身支度を調えた。
そして、都の大通りをスキップしながら歩いた。
待ち合わせの場所は、よく遊んだ泉。小さい泉で、大して優美なわけではなかったが、思い出の場所。少女の笑みとともにある泉だ。
ふざけて水をかけると、頬をぷっと膨らませた少女が、少年に水をかけかえした。それを繰り返しているだけでも楽しかった。水で透けて見える服の下がときおり目について困ることもあった。甘美な甘美なひととき。
ようやく泉に着いて、息をつく。
顔を上げると、すぐそこに少女がいた。やぁ、と笑顔で声をかける。すると、少女は目を伏せたまま、小さく返事をした。
元気がないようだ、と心配になり、顔をのぞき込む。しかし、少女は嫌がるように顔を背けた。同時に一歩下がる。
“何か、あったのかい?”
問いかけると、しばらく少女は躊躇っているようだった。だが、数秒の後、思い切って顔を上げて愛らしい唇を動かした。
“ごめんなさい、私、もうあなたに会えないわ。”
“なんでっ!?”
驚いて、少年は少女の肩を掴んだ。少女は怯え、腕を振り払おうとする。しかし力の差があり、それは不可能だった。
どうして、そのようなことを言うのだろうか。これまでは会いに行くたび微笑んで迎えてくれたというのに、何があったのだろう。都を出るとでもいうのだろうか。だが、それにしても何故。
疑問を口にすると、少女は目を合わせようとはせず、頭を振った。体を小刻みに震わせているのは、掴まれた痛みだけではなく、躊躇いからでもあった。
ようやく、ぽつり、と呟く。
“違うの。私、好きな人できたの。もう、あなたと会うなんて…。ごめんなさい。”
謝罪を口にして、少女の愛らしい唇は閉ざされた。あとは、ただ俯いた顔と見開いた目とによる沈黙が、密閉された空気を漂わせるばかり。
そして、少年の目蓋が、目の乾きに耐えられず瞬きをした。
冷たい空気が、割れた。
大気に張りつめていた薄氷が割れた気がした。
張り付いていた唇を、引きはがす。いつのまにか乾いていた口のからは、まず吐息。怒気をはらんだ吐息。焼き尽くそうとでもいうのか、炎に思えるほど熱い息だった。
隙間から呻きが漏れる。
“お前なんか……”
声音にしたとたん、何かを止めていたものが遠くへと消え去った。あっという間に消え去り、躊躇いは霧でしかなかったかのように、抵抗もなく罵声が口から飛び出る。
それは荒々しく、全てを薙ぐようにして吹きすさぶ。
“もう、いらねえっ──”
」
台詞を言いきることが出来ず、彼はそれまでの語りが嘘であったかのように黙した。どうするべきか迷い、躊躇いがちに促す。
「どう、なったんですか…?」
「風が、来たよ。」
ひび割れた唇よりも乾いた呟きが、返ってきた。
「風が、来たよ……。叫んで、唐突に木々が揺れて、鳴いて…岩も何もかも突き崩されたよ。ひたすら逃げ、て……森を出たら、なかった。」
「なにが?」
「…都が。」
至極短い、返答だった。互いの吐息だけが微かに響く間、男は風景を眺めた。確かに、ここに都はない。それを認識した頃合いを見計らったのか、単に彼も回想を終えたのか、俯きながら首を左右に振った。
「人や牛馬や城壁は……吸い込まれては放り投げられ、まだ都の一部を巻き込んだ風の一軍が、少しずつ向こうへと消えて……あぁ。」
萎びた両手を震わせて、喉から声が絞り出された。
「私が………僕が…………みんな、ごめんなさい…ごめ」
相変わらず、砂の風が吹いていた。さらに肌から湿気を奪い去ろうとして、ひゅう、ひょおう、と足音を立てながら寄っては遠ざかり、通り過ぎていく。
男は、彼を見下ろして立ちつくしていた。手の中にあるのは、貰った種が一粒。シワを刻んだ固い感触を掌から伝えていた。
言葉にならなかった、残りの台詞は、彼の中で彼自身を責め続けているのだろう。頭を掻きむしり、掻きむしられた残りわずかな髪が抜けても、彼は一人で嘆き続けていた。
風が来たのは、彼が原因かもしれないが、だがそうではないのかもしれなかった。偶々、彼が罵声を口にしたときに、風が起こったかもしれないのだ。
男は、掌を軽く握り直した。
「もう、いいんですよ。」
そして、空いている掌を彼にさしのべた。
「十分、あなたは反省しました。もう…立っていいんですよ。ここを離れ、あなたのときを生きても、いいんです。」
少しずつ顔を上げ、微笑んでいる男の顔を彼は見上げた。そして、目尻を下げて、希うように細くなった指先を男の手へと近づけた。
乾ききった彼の顔に、大粒の涙が滲み始めていた。
口を開き、声にならない言葉を発そうとする。瞬間、彼は細かな塵となって崩れた。崩れて、小さな塵の山があとに残り、それも吹き飛ばされることはなく、ただ消えていった。
取り残されたのは、男と差し伸べた手だった。しばらく塵が消えたあとを見つめ、目を伏せて微かに笑った。
「はは…また、僕は一人でしかなかったのか。」
ただ一つ、種があった。握りしめていた種を、そっと指先でつまむ。表皮はシワに覆われていたが、確かな存在を指先へと伝えてた。足りないのは水。水さえあれば、種は芽吹くかもしれない。
「まだ、まだ…僕が歩き続ける目的は、あるんだよね。」
あまりにも小さな種に軽い口づけをして、男は廃墟であった都から立ち去った。
砂はまだ、吹き続けている。しかし、まだ全てが砂に覆われていないかもしれない。
だから男は遠く遠くへと旅を続ける。
いつか、芽吹くときがくるまでは。
<終>