自分の望みさえ叶えられない者が、どうして他人の願いなど叶えられようか。
戦渦は芽生えた。
平和な小国に巻き起こった突然のクーデター。国王を守るべき騎士団が、副団長の号令の下、いきなり牙を剥いた。
平和すぎるのだ、と彼は吠えた。
こんなに平和で、こんなにのどかで、安穏とした毎日を過ごしていては、そう遠くない将来に訪れるであろう大国の侵略を防ぎ切れない。見ろ、この大陸の地図を。
北方の小国が起こした戦争は、収まることなく続いていた。最初は隣国との小競り合いだったと思われていたのだが、戦火はみるみるうちに広がり、その支配地域は着実に増えていた。勢いはとどまることなく、大陸全てを凌辱し、飲み尽くそうとしている。
今、立ち上がらなければ。
気付いた時には、蹂躙されているだろう。
それなのに、国王は何もしない。軍備を増強するでもなく、食糧や金を蓄えるでもなく、ただ指をくわえて黙って見ているだけなのか。
それで――そんなことで、この国を、民を、全てを守れるなどと思っているのか。
副団長ビトーの掲げた新しい旗を見て、過半数の騎士が、兵士が、そして民人さえもが立ち上がった。
王国は――崩壊した。
悲しいかな、いざ、こんな状況に陥って、守るべき国王は無力であった。
人望はあった。温厚で粘り強く、公平で慈悲深い。経済、人事といった内政に関しても優秀な人物であったが、戦による外交はもちろんのこと、内乱にさえも振るうべき腕を持たなかった。もとより武官ではない。忠実だったはずの臣下の裏切りに、ただうろたえ、立ち尽くすばかりだった。
だが、騎士団の中でたった一人残された男、団長であるコーエンは、その傍らにいた。
傷を負っていた。
「コーエン様」
さらにその傍らには、まだ騎士団への入団を許されぬほどに年端のいかない少年がいた。
「ほっとけ」
国王に、彼に刃向かうビトーを止めようとして足に負わされた傷は、傍目からでも見て取れるほどに深かった。
「でも、ちゃんと治さないと」
「そんな暇はない」
手勢はなかった。ほとんどの者がビトーについた。国王とその一族をとりあえず逃すために、残っていたわずかな騎士たちも戦い、その数を減らしていた。
それなのに今夜、城を奪うために戻って来るビトーと戦わなければならない。
「でも、コーエン様」
「そもそも」
国王から賜った長剣を杖に立っていたコーエンが、首だけで少年を振り返った。
「どうしてお前がいつまでもここにいる?さっさと出て行け、お前なんかがいても役に立たん」
冷たい口調に、それでも少年は首を振る。
「嫌です!」
「何故」
「ボクにだって、何か出来ることが」
「ない」
きっぱりと、あまりにもきっぱりとコーエンは言い切った。
「むしろ邪魔だ。出て行け」
立ち尽くしたまま、再び顔を城門へと向けた。もうすぐ陽が沈む。そうすれば、衛兵のいない城門をやすやすと通り抜け、ビトーの率いる一軍がこの前庭へとやって来るだろう。ここは、戦場になる。
「俺にお前の面倒を見る余裕などない。まぁ、ヤツも……お前のような子供に手をかける男ではないとは思うが、他の連中がどうかは知らんからな」
低い声でつぶやくように言う彼の右膝が震えていた。
本来ならば、立っていられるのが不思議なほどの傷なのだ。それなのに、ろくな手当ても出来ないまま、時間だけが無駄に過ぎた。おそらく傷口は腫れ、膿み、熱を持って彼を苛んでいるだろう。戦うためにあの剣を振り上げれば、それだけでコーエンは倒れかねない。
一体、どれほどの苦痛か。
それを考えただけで、少年は気が遠くなりそうだったが、それでも変わらず、彼の傍らに踏みとどまった。
自分の身の安全を確保するなら、ビトーの軍に投降しさえすればそれでいい。反逆者であるとはいえ、その旗にも正義がある。彼らの目的はただ一つ、国王を倒して国権を奪い、来るべき侵略に備えられる新しい国を作ることなのだ。
「それが悪いことだとは思いやしねぇよ」
コーエンは言っていた。
「確かに陛下は、戦争という面においては頼りない。ぶっちゃけ、ビトーはイイ男だし、王にもなれる器かもしれん」
しかし、彼は、クーデターの計画には乗らなかった。
「だからって、やっていいコトと悪いコトがあるだろうが」
少年は首を振った。
そんなのは理由になってない。そんなに傷ついてまで、どうして。
陽が落ちる。
遠くから、蹄の音が近付いてきた。
ビトーはコーエンを殺さなかった。
剣の腹で、満足に動けないコーエンを思う様打ち据えた。何とか止めさせようと割って入った少年を一撃のもとに吹き飛ばし、なおも攻撃の手は緩めない。
抜き放った剣を片手に、もう片方の手で鞘を杖とするコーエンも、それに相対する。腕の力だけで剣を振り回し、幾度かビトーに当てては見せた。
剣の腕前も、力も、経験も、本来ならば、すべてにおいてコーエンの方が上回っていた。
だが、それでも、それを覆してなお余りある圧倒的な戦力差が、厳然としてあった。
やがて、震える膝を押えて、コーエンが片膝をつく。ビトーは苦しげなその顔を真正面から蹴り飛ばし、地面に這い蹲らせた。
「こっちに来い、コーエン。」
ゆるゆると橙から紺へと変わっていく空の下、薄闇の中で、若き反逆者の表情は見えない。ただ凛として冷徹な、よく通る声が、少年のいる場所までも届いた。
「それだけの腕を持ちながら、そのまま終わっていいのか」
「断る」
逆に、土を噛み、かすれた声は聞き取り辛く、雑音のように不快に響いた。
「……明日、また来る」
ビトーは背を向けた。
「明日は、殺すぞ」
「上等だ」
そのまま、青年は立ち去った。不満そうな声をあげる取り巻きを無言で黙らせ、静かに馬にまたがる。
蹄の音が遠く消えても、敗者はまだ、立ち上がれなかった。
「もしかして、まだいるのか」
やがて、倒れたままのコーエンがつぶやくように少年に声をかけた。
「だって……コーエン様」
「俺はもういいんだよ。お前は帰れ――っていうか、もう二度とここへ戻ってくんな」
無様に四肢を投げ出したまま、彼は動かない。大きく胸を上下させながら、苦しげな息をつく。
「知ってたか?もう、陛下も妃殿下も城内にはいねぇんだ……俺とお前だけ。だから、ここにいたって意味はねぇ」
知っていた。だが、少年はコーエンと一緒にいたかった。
憧れの騎士団長。強くて、カッコ良くて、大食らいで、美人には滅法弱かったりして、そんな彼が好きだった。騎士団に入りたかったが、さすがに年齢が足りず、いつも遠くから見ていた。
クーデターが起きたと知って、一も二もなく彼の元へ駆けつけた。自分が、何の役にも立たないと分かっていても。
「お願いがあります、コーエン様」
それでも傍にいて、何かが出来るのならば。
「お願いだから、死なないで……ください」
「バカ言え」
笑ったのか、わずかに肩が上下する。
「そんなお願い、聞けるかよ」
「でも、お願いなんです!」
近づけなくて、少年は跪いた。両手を組んで、大地に額をつけた。
「ボクの望みはたった一つ……あなたが、コーエン様が、ご無事でいることなんです」
尊敬する人に、愛する人に、苦しみとともにその思いを告げる。
長い、長い沈黙の後、コーエンは応えた。
「俺の望みは」
ため息にも似た、長く重い吐息とともに、ゆっくりと。
「ビトーの奴をボコボコにしてやることなんだよ」
どこまでも落ち着き払った低い声。砂を噛む音が時折じゃり、と混じった。
「ボコボコにして、地べたに這い蹲らせて、泣きながらごめんなさいって言うところが見てぇんだ。でもよ……なんだか体が動かないしよ。うっかりしてると意識だって飛んじまいそうで……正直、出来るかどうか分からん」
もちろんそれは弱音などではなかった。驚くほど冷静に、客観的に己を見た事実を述べたコーエンは、肩を震わせながら尋ねた。
「そんな、自分の望みさえ叶えられねぇ奴が、一体どうして……どうやったら、他人の願いなど叶えられると思う?」
少年には答えられない。
それは自分自身も同じだった。
傷つき倒れた人を、無理矢理にでも引きずり逃げ出す術さえ持たない、か弱い自分。
あまりにも無力な自分たち。出来ることは、何一つ、ない。
「少し、寝るわ」
黙ってしまった少年に、コーエンは言った。
「ちょっとでも体力回復しとかねぇとな……もし死にそうになってたら、引っ叩いてでも起こしてくれや。それぐらいなら、出来るだろ」
「コッ……コーエン様っ?」
唐突な言葉に、ふらつく足を引きずって彼の元へと駆けつける。顔を寄せると、あまり穏やかとは言い難いが、いびきまじりの寝息が聞こえてきた。
少年は、膝を抱えてうずくまった。
「はい……分かりました、コーエン様」
昼、太陽が中天に差しかかる頃、ビトーは城を訪れた。
一国を統べるべき者にふさわしく、豪華な飾りをつけた馬に乗り、大勢の戦士を引き連れて、前庭に踏み込んだ。
コーエンは片膝をついてそれを待っていた。
「決着をつけようぜ」
唇は動いたが、もはや声はなかった。今にも途切れそうな息だけが、彼の思いを伝える。
ビトーは馬を降りて、無言で剣を取った。
一歩、二歩とコーエンに近付き、優雅な動きで剣を抜く。そして、口を開いた。
「最後に一つだけ……いや」
緩慢な動きで、ゆっくりと、ゆっくりと、コーエンが両の足を踏ん張って立ち上がった。その姿を見て、反逆者は首を振った。
「もう、何も言うことはなさそうだな」
「ああ」
膝が激しく震えていた。
まともに立っていられる方がおかしかった。
脂汗がにじみ出る。それはすぐに滝のようにあふれ出して、止まらない。その様相は悲壮を通り越し、もはや滑稽でさえあった。
それでも彼は、おぼつかない手つきで剣を抜き、鞘を捨て、両手で上段に構えた。
「ゆくぞ」
用意が整うのを待っていたかのように、ビトーが襲いかかる。
決着は、一瞬であった。
少年は傍らで一部始終を見ていた。
若くして新しい王となった青年は、顔色一つ変えず、亡骸を踏み越えて城に入っていった。その後を、大勢の兵士たちが続く。誰も、息絶えて横たわるものに気を払う者などない。
やがて、土とほこりと足跡にまみれた人だけがぽつりと取り残された時、ようやく少年は立ち上がった。
「お疲れ様でした」
彼自身、自分でも思ってもいなかったような、すっきりとした声が出た。
「ボク……そろそろ行きますね」
亡骸はそのままに、ただ胸に誓いを刻んだ。
いつか必ず、強くなる。
願いを叶えるためには、自分が強くなるしか道はない。強くなって、いつか、必ず、自らの願いを叶えるのだ。
大切な人の望みを叶えるために。
少年は城を背にした。
少年の名前はレイ・イセス。
希代の魔術師として、その名が大陸中に轟き渡るのは、まだまだ遠く先のことである――