――バジリスク。
それは、8本もしくは6本の足を持つ蜥蜴の姿をした魔獣。体は普通の蜥蜴と同じく小さいが、その視線には石化の力があり、目を合わせたが最後、石像にされてしまうという。
そんな恐ろしいモンスターが孵るのは、どこにでもあるような鶏小屋の中。年老いた雄鶏が最期に産む卵こそが、バジリスクの卵となる――
「…って、本に書いてあったぜ」
ヨハンはそう言って、自分たちの足元を指差した。
母親に叱られて、昨日サボっていた鶏小屋の掃除に来たヨハンは、大変なモノを見つけてしまっていた。
自分が生まれる前から家にいたという年老いた雄鶏の死体と、その傍らにひっそりと転がっていた白い丸いもの。
それは、間違いなく、何かの卵だった。
「ホントかよ?」
ジョドーは不満そうな声を上げた。
モンスターの卵を見つけたと言われて、あわてて来てみたけれど、やっぱりどう見てもただの卵にしか見えない。ジョドーは半信半疑だった。
「でも、確かに、普通の鶏の卵より小さいよね」
同じように呼ばれて来たマルコは、興味深そうにまじまじと卵を見つめていた。
冷静に観察すると、その卵は、鶏のものよりふた回りほど小さかった。殻もなんだかうっすらと青みがかっているような気がするし、表面もやけにツルツルしている。形も、卵形というよりは楕円形に近い。やっぱり、鶏の卵ではない。
「雄鶏が産んだからヘンなんだろ?」
事の次第が飲み込めてないジョドーが言って、無造作に卵をつまみ上げた。
「あっ、勝手に触んなよ!」
あわてて取り戻そうとするヨハン。冷静に、マルコが突っ込んだ。
「そういう問題じゃないだろ、ジョドー?」
少年たちの手を離れ、卵はつるりと宙をすべってまた藁の上へ。割れてないのを確認して、ヨハンはほっと息を吐いた。
「とにかく」
慎重な手つきで卵を拾い上げ、ヨハンは真剣な面持ちで友人たちに告げた。
「この卵のことは誰にもナイショだ。俺たちで、孵化させてみよう…いいな?」
「え?食わないのか?」
「バカか、お前は」
かくして、不思議な卵は、少年たちによってこっそりと持ち去られた。
数日後、村に客人が来た。旅の占い師だというその女の人はとてもきれいで、都会のにおいと大人の色気をぷんぷんと漂わせていた。彼女は村長の家に泊まる事になったので、村長の孫であるジョドーは非常に自慢げだった。
「ルナさんっていうんだぜ」
ジョドーの家に遊びに行くと、彼は早速そう言って、自分の家族でもないのに何故か胸を張っていばった。
「オレの隣の部屋に泊まってるんだ。いい匂いがするんだぜー」
「占いって、どんな事するのかな?」
「なんか、これぐらいの透明な玉持ってたぞ」
生まれてこのかた、この村から出たことなどない男の子たちには、本物の占いというのは難しかった。母親や姉、そして村の女たちがこぞって隣室を訪れては、喜んだり悲しんだりして帰っていく。まったくもって、よく分からない世界だったが、ヨハンは思い切って言ってみた。
「俺たちも…占ってもらう?」
その響きに、なんともいえない神秘の響きを感じた気がして、三人はうなずいた。が、それより先に、ジョドーの部屋の扉が開いた。
「にぎやかね、ジョドー君。お友達?」
すらりとした長い手足に、真っ白い肌。唇は鮮やかな赤に塗られていて、村の女性たちとは明らかに別の生き物のような気がした。
「何か占って欲しい事でも、あるのかしら?」
悠然と腕組みをして、ルナはたずねた。おだやかで優しい声。少年たちは、その美しさにぼうっと見惚れることしか出来なかった。
が、ふいに、何かに気付いたかのような顔をして、彼女はじっとヨハンを見つめた。
「君…何か、大切なものを隠しているかしら?」
「え」
突然問われて、ヨハンはあわてて左右を見回した。しかし、占い師も、友達二人も彼を見ている。
「お…俺?」
「そう、君よ。何か隠してるでしょ」
「そ、それは」
色っぽい声にどぎまぎしてしまうが、それでも彼は、辛うじてその大切なものの事を思い出した。
バジリスクの卵だ。小さな布の袋に入れて、鶏小屋の裏、積み藁の下に隠してある。
「それに、何か起こってるかもしれないわ。確認してみて」
ルナは、そう言って笑った。まるで、全てを見透かしているかのように。
「う…う、うん、わ、分かった」
唾を飲み込んでうなずくと、ルナは我が意を得たりとでもいうようにうなずいて、静かに部屋を出ていった。
「ジョドー、マルコ」
その後ろ姿を見送って、ヨハンはつぶやいた。
「俺ん家だ。あの卵が…孵ってるかもしれない!」
占い師の言葉通り、卵は孵化していた。
布袋はわずかに濡れて、中で何かがもぞもぞと動いている。
「鳴かねーな」
「たぶん、ヒヨコじゃねぇからな」
恐る恐る袋を手に取り、紐をゆるめる。
「お、おい、出すのか?」
そっと手を差し入れようとしたヨハンを制して、マルコが悲鳴にも似た声を上げた。
「だって、ホントにバジリスクだったら…!」
「さ、触るだけだよ」
その声に驚いて、一瞬身体を強張らせてしまったヨハンだったが、意を決して、袋の中に手を入れる。
しっとりと濡れて冷たく、少しぬるりとした体。明らかに蜥蜴とおぼしき形。触るともぞもぞ動いたが、噛み付いたりしてくるような気配はなかった。
「ど、どんなだ?」
「やっぱり…蜥蜴の形してる」
少年たちは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「だ…出してみる?」
「そ、そ、そうだな」
恐怖は、好奇心には勝てないものと相場が決まっている。ヨハンは小さな蜥蜴を手のひらの中にそっと握りこみ、静かに袋から出した。指の間からはみだした尻尾は、寝ぼけたような、くすんだ青緑色をしていた。
「よし…手を、開いてみるぞ」
マルコとジョドーが、両手で自分たちの目を覆った。その隙間から思いっきり蜥蜴を見ているので、あまり役に立つとは思われないが、なんとなくそうした方がいいと思ったのだ。
ヨハンは、一本ずつ指を開いた。
蜥蜴は大人しく、少年の手の上でじっと立っていた。その足は四本、姿形はそこら辺にいるものと大差ない。
ただ、何故か、まぶたを閉じていた。
占い師ルナは、実は、偶然この村を訪れたわけではなかった。あるものを探すため、村長に呼ばれたのだ。
それは、数日前から行方不明になっている猟師二人だった。聞いた話では、この村の近辺で、猟師のみならず、旅人も数人姿を消しているという。
周辺に、何か凶悪なモンスターでもいるのではないか、と村長は考えていた。だが、その確証がないのでは、冒険者などを雇っても、金の無駄遣いになる。それに、純朴な村人たちを脅えさせるような事もしたくなかった。そこでまず占い師を呼んで、原因を究明することにしたのだ。
「分かりました」
夜毎、村のあちこちで占いによる調査を繰り返していたルナは、ある日そっと村長に告げた。
「確かに、凶悪な生物の気配がいたします。猟師さんたちは…残念ながら、もう」
「そうか…」
「しかし、魔法的な力は感じません。おそらく、賢くて獰猛な野獣の類かと。北東の方に、巣があるのが見えました」
村の北側にあるこんもりとした森を示し、水晶玉を抱えた占い師は言う。村長はうなずき、背の高い彼女を見上げた。
「それで、わしらはどうすれば宜しいでしょうかのう?」
「今のところは森に入らなければ襲われないでしょうが…もし、向うに、ここの人間は弱いと見くびられた場合が問題ですね」
「村の中までやってくる、と?」
「ええ。その可能性は大いにあります」
旅慣れた様子の占い師は、年若く見えるけれど、おそらく村長よりも経験は豊富なのだろう。彼女の言葉を噛みしめて、老人はうなずいた。
「では、やはり冒険者を雇って、退治してもらうしかないかのう」
あまり裕福な村ではないから、そんなに金はない。しかし、みなの安全には変えられない。
少し肩を落とした村長に優しく微笑んで、ルナは言った。
「わたくしも、もっとよく占ってみます。せめて、相手が何か分かればよろしいのですけれど」
「うむ…お頼み申し上げる」
そして、二人は夜の闇の中、静かに村長の家へと戻っていった。
「…って、じいちゃんたちが言ってたぜ」
ジョドーはそう言って、北東の森を指差した。
「あそこに、何かモンスターが?」
「昨夜こっそり聞いたんだ。ルナさんも言ってたぜ、間違いない」
少年たち三人は、うーんと首をひねって考え込んだ。
「それでか…最近ボギーおじさんを見かけなくなったの」
「王都へ行ったって言ってたの、嘘だったんだな」
「そうだな」
猟師のおじさんは陽気で気さくでいい人だった。狼の牙とかをくれた事もあったのに。寂しくなって、しんみりと肩を落とす。
その時、ヨハンのポケットがもそもそと動いた。
袋に入れていつも連れ歩いている、小さなバジリスクだった。普通の蜥蜴というものがどうなのかはよく分からないが、このバジリスクはとても大人しく、ヨハンの手から直接青虫を食べるほどになついていた。
ただ、相変わらず、大きな目はいつも閉じていた。別にどこか病気といった様子ではなさそうなのに、である。
「そうだ」
ふいに、少年はつぶやいた。蜥蜴を入れた袋を引っ張り出して、中をのぞきこむ。風変わりなペットは、主人の気配を感じたのか、のっそりと顔を上げた。
「こいつを試してみようぜ」
「え?」
すっとんきょうな声を上げて、ジョドーとマルコが同時にヨハンを見た。ヨハンは自信満々といった面持ちで蜥蜴を示し、二人に笑いかけた。
「だって考えてもみろよ。なんでこいつ、ずっと目を閉じたままだと思う?」
「目が悪いんじゃないの?」
「そんなわけねーだろ!」
少し気の抜けたジョドーの返事を盛大に否定して、彼は宣言した。
「そりゃ、こいつが本物のバジリスクに決まってるからだろ!だったら、こいつの力で、どんなモンスターだっていちころさ」
このまぶたが開いた時――こいつが相手を見た時、目の前にいる奴らは、全部石になってしまうのだ。
そう思うと、ワクワクせずにはいられない。ヨハンはぎゅっと袋の口を閉めて、言った。
「ちょっと、森へ行ってみようぜ」
小さな村を抱く北東の森は、そんなに鬱蒼と生い茂っているわけではない。木々の隙間からこぼれる光が下草に美しい模様を描き、とてものどかな光景を作り出している。
それでも、親たちに入ってはいけないと止められている場所へ、子供三人だけで探検に来るのはちょっと怖いし、後ろめたかった。
「やっぱり帰ろうよ」
マルコが少し情けない声を出した。ジョドーもおっかなびっくりで微妙にへっぴり腰になっているが、ヨハンだってそれは同じだった。ちょっとだけ、後悔もしている。
しかしやっぱり、恐怖は、好奇心には勝てないものなのだ。
戻ろう戻ろうと思いつつ、あと少しだけ、という思いに背中を押され、いつしか三人は結構村から離れてしまっていた。明るかった木漏れ日が、ふとかげった。
「か…帰ろうか」
さすがにこれ以上はまずいかも。
そう思って、ヨハンは友人たちを振り返った。そして、そこに、見てしまった。
「熊」
「えッ!?」
ジョドーとマルコが弾かれたように後ろを見る。
いつの間に、そこにいたのだろう。木々の枝を揺らす音さえもさせず、巨大な猛獣は、子供たちに忍び寄っていたのだ。
「……!!」
彼らの時間が凍りついた。固まってしまった小さな獲物たちの視線を浴びながら、黒い毛皮の熊は、悠然と自らを見せつけるかのように後ろ足で立ち上がる。丸太のように太い腕を広げ、獣は低く唸った。
「グルルル…」
口元から牙がのぞく。ヨダレが垂れる。そのまま、熊はゆっくりと歩いて近づいてきた。
食べられる――食べられてしまう!
熊だけではなく、恐怖が子供たちを襲っていた。手も足も、頭さえも動かない。逃げ出すことなんて、出来ない。
だが、ヨハンは頑張った。震える手で、自分のポケットをまさぐった。袋の口の紐を緩めて、蜥蜴をつかみ出す。目を閉じたままの、バジリスクを。
「頼む」
少年は、手のひらに乗せた相棒に向かってささやいた。
「あいつに向かって、目を開けてくれ」
もう、熊はすぐそこまで迫っている。動けない子供たちを前に、余裕を見せて楽しんでいる。いつ襲われてもおかしくないこの状況で、ヨハンは小さな生き物に頼み込んでいた。
「頼む、バジリスク!」
くすんだ青緑色の蜥蜴は、頭を上げた。少年の手のひらの上、前足を踏ん張って、熊のほうへと顔を向ける。
薄いまぶたの下で、濃い色の瞳がくるりと動くのが見えた。そして。
上から下へ、蜥蜴のまぶたが、まるで何事もなかったかのようにすっと開いた。
「熊ッ!これを見ろッ!!」
その瞬間を逃さずに、ヨハンは叫んだ。ただし、自分の目は固く閉じたまま。
もし、こいつがバジリスクじゃなかったら。ただの蜥蜴だったら。
真っ暗な中、いろんな事が頭の中を駆け巡っていた。
ジョドー、マルコ、ごめん。俺が、バカな事言ったから…ホントにごめん。
「………」
ヨハンは、じっと右手と蜥蜴とを差し出したまま、立ち尽くしていた。
だが、ふと、熊の唸りが聞こえない事に気が付いて、恐る恐る目を開けてみた。
ジョドーもマルコも無事だった。目の前にへたり込んでいる。もちろん、自分も無事だ。バジリスクも無事だ。またまぶたを閉じて、何事もなかったかのように手のひらの上にすっくと立っている。
「熊は…」
やっぱりこれも、目の前に立っていた。
今にも噛みつきそうに開かれた口、鋭く尖った爪、堂々とした巨大な体をそのまま石に変えて。
黒い毛皮は、灰色の石になっていた。もう唸り声も、むっとするような獣の体臭もない。本物の熊に限りなく近い、リアルな造形の石像がそこにあった。
「ヨハン…」
ジョドーとマルコが、ぎこちない動きで振り返った。視線の先には、なんだか威張っているかのように堂々と立つ蜥蜴の姿。
「そいつ、ホントに」
ヨハンも引きつっていた。
「本物…の……」
蜥蜴を乗せた腕が、急に震え始めた。
「バジリスク!!」
叫ぶやいなや、子供たちは後も見ずに駆け出した。熊の石像なんかもうどうだって良かった。
小さな蜥蜴を放り出し、村へと向かって一目散に走り出した。
「あらあら、捨てられちゃったのね」
下草の上に所在無く立ち上がったバジリスクを拾う、真っ白い手。蜥蜴は顔を上げ、まぶたを開いて相手を見つめた。
「ちょっとビックリさせ過ぎたみたい。悪かったかしら」
そう言って、占い師の女は蜥蜴を見ながらクスクス笑った。
小さな蜥蜴が見上げたその女には、髪の毛がなかった。その代わり、頭には無数の蛇が絡み付き、うねうねとうごめいていた。
メデューサと呼ばれる、石化の視線を持つ魔族の女。ルナは、熊の石像を見上げて満足そうに一人、うなずいた。
「ま、人喰い熊は退治できたんだし、いいわよねぇ?これで」
同意するかのように目を細めた蜥蜴を胸元へ滑り込ませ、彼女は村への帰り道をゆっくりとたどり始めた。
ヨハンもジョドーもマルコも、この日森へ行ったことを誰にも話さなかった。もちろん、何が起こったのかも。
「不思議ですねぇ…急に、野獣の気配が消えてしまいました」
占い師のルナが、首を傾げて村長にそう言っているのを、ジョドーは聞いた。
「餌場を変えたのかしら?とにかく、この森にはもう不吉な影は見えません」
それでいいのかどうかは良く分からないが、とにかく少年たちは沈黙を守ることにした。
本当は、人喰い熊の代わりに、バジリスクが棲みついたはずなのだが、そんなのは誰にも言えるはずがない。
「それにさ」
仕事が終わって村を立ち去ったルナを見送った後、ヨハンは友人たちにつぶやいた。
「あいつさ、俺が目を開けてくれって言った時に、初めて目を開けたんだぜ。きっと、いい奴だったんだよ」
「そうだな」
マルコがうなずく。
「そうでなきゃ、俺たちみんな、食べられてたよな」
あの瞬間は、絶対に忘れないだろう。自分たちに襲いかかろうとしていた猛獣が、一瞬でただの石に変わってしまったあの光景は。
「でも、捨てた事、怒ってないかな?」
「……」
「……」
ジョドーの言葉に、しばし沈黙。
ヨハンは、ちょっと考えた後、苦笑いして答えた。
「今度、探しに行くよ。お前ら、付き合ってくれる?」
「…そうだな」
少し怖いけれど、少年たちはうなずいた。
恐怖が好奇心には勝てるようになるのは、まだまだ先のようだ。