「分かりました」
青年は言った。
薄暗い部屋の中、蝋燭の炎だけが辺りを照らす。外はまだ明るいはずなのに、カーテン一枚隔てただけで、ここは作り事のように胡散臭く、暗い。
その中央で、豪奢ながらも古びたソファに腰を落とし、銀髪の男は静かに尋ねる。
「本当に、それでいいのですね?」
「………はい」
沈黙の後、彼女ははっきりと答えた。握りしめた両の手が、闇の中にいやに白く浮いていた。
「では、こちらへ来て、これを受け取ってください」
人間とは思えないほどに美しく整った顔立ちに、感情というものはなかった。最初から決まっていることを告げるようにただ淡々と口を動かして、事務的に用件を伝える。
差し出されたのは、一枚の羊皮紙。艶やかな琥珀色の紙に、青年と同じく繊細で美しい文字がきちんと並んでいた。
彼女は震える足を踏み出してそれを受け取り、書かれている文言を読んだ。そこには、人にあらざるものと交わすべき契約の内容が記されていた。ゆっくりと二度、読み返し、女性はうなずく。
「そこに、署名を」
「………」
声もなく再びうなずいて、ナイフを取る。鈍く光る切っ先で自らの指を傷つけ、わずかに滲み出す血で、契約書の一番下に自らの名前を書き込む。
文字もまた、彼女の手と同じように震え、滲み、かすれた。
とてつもなく長い時間をかけたように思えたが、それはほんのわずかの間のこと。振り返って青年に契約書を見せると、彼は表情を変えずに受け取った。
「いいでしょう」
そして、優雅な動作で立ち上がる。
「それでは、契約どおり、あなたの望みを叶えて差し上げます」
柔らかく、耳に心地よい青年の声。しかしそれは、異様に冷たくて、はるか遠い場所から響いてくるようだった。
「永久の生命、与えて差し上げましょう」
獣が遠吠えするかのようにひときわ大きく、高く軋んだ音とともに、部屋の扉が開いた。
その先には、さらに暗く冥い闇が広がっていた。
咎人の娘として生まれ、蔑まれ、虐げられて暮らしてきた。そばにいてくれる人などいなかった。温もりなど、知らなかった。冷たい泥の中でもがいているばかりだった。
ただあったのは、怨嗟と絶望。ただ老いて、死を待つだけの無意味な日々。
そんなある日、噂を聞いた。
永遠の生命を与えてくれるという男の話。
廃屋のような朽ち果てた屋敷で暮らす、銀髪の男。もう十数年もそこに住んでいると言うのだが、まったく変わらず、衰える様子のない美しい容姿に、いつしか魔物だという噂が広がり、近づく者は誰もいなくなっていた。
何故、そんな場所を訪れたのか、今でもよく分からない。
ただ、何か一つでもいいから欲しかったことは覚えている。
絶対、と言えるものを。
手入れの行き届かない、雑草の生い茂る荒れた庭を横切って、彼女は館の玄関を叩いた。何も、怖くなどなかった。
ほどなく扉は開き、噂の青年が姿を現した。彼は、彼女の顔を見ただけで、用件を理解したようだった。用件を問われる事もなく、彼女は招き入れられた。
昼間だと言うのに薄暗い部屋、冷んやりと湿った空気。噂が噂でない事を、如実に物語っているかのような、不気味な内装の部屋。
錬金術師か、死霊術師か、それとも本当に魔物なのか。
整った顔立ちの青年は、悠然とソファに腰を下ろし、彼女に言った。
「ここに来られたという事は、用件は一つとみなしますが、よろしいでしょうか?」
噂は――事実だった。
ここに来れば、永遠の生命が得られる。目の前の男が、夢を叶えてくれる。
人の生命に終わりがある限り、決して手に入れられないはずの、絶対を与えてくれる。
「はい」
彼女はうなずいた。
迷いはないはずだった。
「わたしに…永久に続く生命を下さい」
青年が、かすかに微笑んだように見えたが、それも一瞬。見間違いかもしれないほどに、彼は変わらず無表情だった。
「それは、自然の摂理にも、神の教えにも、人の道にも背く、許されぬ行為。言うなれば、罪ですが」
「…分かって、います」
そんなことは、とうの昔から。
しかし、罪だなどと、一体誰が決めることなのか。
今まで生きてきて、一度たりとも神にも人にも助けてもらったことなどない。一体、何に対して罪を感じればいいというのか。一体、誰に許してもらう必要があるというのか。
うつむく彼女に、青年はうなずいた。
「いいでしょう…では、そのように致しましょう。ただし」
わずかに顔を上げ、深い色の瞳でひたと彼女を見据えながら、彼は言う。
「無償という訳には参りません。引き替えに、頂きたいものがあります」
再び、彼女はうなずく。しかし、わずかにその表情に不安の色が浮かんだのを見て、青年は形ばかりの微笑を浮かべた。
「大丈夫、金品の類ではありません。人間ならば、誰もが持っているものです――そう」
白い指が、まっすぐに彼女を示す。心臓を貫かれたかのような感覚に、一瞬彼女は身体を固くした。
「あなたの……を、頂きます」
そこだけ、声が低くこもった。しかし、彼女にはそれがきちんと聞こえていた。
だから、またうなずく。
「構いません…わたしには、必要のないものでしたから」
そして、それは、これからも、未来永劫、わたしには必要のないもの。
そんなもので、絶対が手に入るのなら、後悔はしない。
「分かりました」
青年は言った。確認するように、彼女の顔をじっと見つめながら、銀髪の男は静かに尋ねる。
「本当に、それでいいのですね?」
「………はい」
沈黙の後、彼女ははっきりと答えた。握りしめた両の手が、闇の中にいやに白く浮いていた。
「では、こちらへ来て、これを受け取ってください」
差し出された契約書を手にするため、彼女はゆっくりと足を踏み出す。
その時初めて、自分が震えていることに気がついた。
実験室のような暗い部屋で、彼女はじっとその時を待つ。
身体を造り変えるために必要な手術を行うのだと、彼は言った。いつか脈打つことを止めてしまう人の心臓に替えて、けして止まらない作り物の心臓を入れるのだと。
多少…いえ、相当な、痛みが伴うことでしょう。
青年は言った。
耐えられなければ、叫んでも構わない。泣き叫び、苦しみ、もがき、暴れても構わない。
そして、最後の最後にどうしても恐ろしくなったら――悲鳴を上げて、彼を止めても構わない。
だが、それを越えなければ、何も手に入れられない。霊安室のように静かで冷たい部屋のベッドの上で、冷え切ったシーツを所在なげになでながら、ただ彼女は待った。
わたしは、必ず永遠の果てを見る。
冷え切った体とは裏腹に、心は熱く高鳴る。その瞬間を、渇望する。まるで恋焦がれる処女のように、新郎を待つ初夜の新婦のように。
そして、その心の片隅に、漠然とした不安もまた同時に抱きながら。
やがて――新しい心臓を入れたガラスの瓶を携えて、青年が扉を開けた。
「お待たせしました…それでは、始めましょう」
まず最初に彼女の心を訪れたのは、後悔だった。
横たわった体の上にのしかかる、男。その手にあるガラスの瓶の中には、色のない、形容し難い異形の塊が浮かんでいた。大切そうに扱うその様子から、これが新しい心臓なのであろうことはすぐに分かる。だが、その色は、形は、本能的に受け入れられないものだった。
青年は変わらぬ顔で、彼女の胸に手を当てる。
「……いや」
かすかな呟きが、口をついて出た。
人として、最後の何かを守ろうと。
「やっぱり、わたし」
「何をおっしゃいます」
しかし、彼は笑った。
「望みが叶うのですよ。永久の生命が手に入るのですよ。あなたは絶対の存在となり、何かを恐れる必要さえもなくなる……」
「でも…っ」
その時、ベッドの下からシーツを裂いて、無数の黒い手が闇の中から伸びてきた。それらは冷たく彼女の顔を撫で回し、幾重にも重なって口を塞いだ。
「契約は、完了しているのです」
青年は、彼女の心臓へ、手を伸ばした。
その痛みは、一体何に例えれば良かったのだろう?
虚しく木霊するくぐもった叫びは、決して彼の手を止めることはなかった。暴れようとする手足は戒められ、無力な身体だけが横たわる。
あくまでも冷静に迅速に、青年は彼女を造り替えていった。
最初から分かっていたことだった。踏み出した瞬間から、もう二度と帰れはしなかったのだ。途中で止めることなど、出来るはずがなかったのだ。
文字通り、心臓を奪われる痛みに耐えて、彼女は叫んだ。
誰にも届くことのない叫びを耳にして、青年だけが一人、微笑んでいた。
望みは叶えられた。
二度と止まらぬ心臓を胸に、女は、ゆっくりと歩き出す。行くあてなどないが、少し歩いてふと振り返る。
胸に重ねた手も、風になでられる頬も、あの部屋のように冷たいまま。あれだけ高鳴っていたはずの鼓動も、今はただ時計のように穏やかだ。
同じように、静かに屋敷も立ち尽くしていた。
もう、この屋敷の主人は、ここにはいない。美しい青年は、どこかへ立ち去り消えてしまった。
永遠の代わりに、彼女から奪ったものを持って。
最後に彼は、優しく笑って言った。
「あなたが差し出してくれたもの――それが何だったのか、決して誰にも教えてはいけませんよ」
もはや人ではなくなってしまった彼女には、失くしたものの重さはもはや分からない。
ただ、おそらく、人間にとって、とても大切だったはずのもの。どんな人間でも、決して差し出してはいけなかったはずのもの。
曇った空の下、ぽつり、と雫が落ちた。
自分が何故そうするのか分からないまま、彼女は泣いた。