急な坂道を登りきったところにその酒場はあり、振り返ると港が一望出来る。坂を登らなければならない分だけ、港に近い酒場ほど大勢の人でにぎわっている訳ではないが、眺めがよい分、まったく客足が途絶えるという事もない。
そんな、潮風に当てられ続けて少し寂れた佇まいの店の屋根に、いつも座っている男がいた。
たった一人、傷ついてこの町に流れ着いた男は、何も語らなかった。町の人々の好奇の視線も気にする事なく、毎日坂道を登り、この酒場を訪れ、屋根にのぼった。
朝から晩まで目を凝らし、ただ海を見つめ続けるために。
毎日、屋根にのぼってもいいかって聞いたのよ。
酒場のおかみはそう言った。
海を見たい。いつでも、どんな時でも、日が昇って沈むまで、見ていたいから。
別に何も困る事はなかったから、彼女はうなずいた。眺めがいいのはお店の売りだし、飽きたらそのうちいなくなるだろうと思っていた。
そんな折、風の噂で、どこかの港町が怪物に襲われた、という話が舞い込んできた。
巨体をもって船を沈め、嵐を呼んで雷雨を降らせるという海の魔物。船を出すことはおろか、毎日のように激しい津波に襲われて、町の命運は尽きかけていた。
その時、勇敢な男たちが立ち上がった。荒れ狂う波を越えて船を出し、化け物と戦った。何日も、何日も、今までにないほどの豪雨が降り続いて、そしてやがて、それが突然ぱたりと止んだ。
それ以来、怪物の姿は消えた。
町は助かった。だが、その代わり、男たちは誰一人として帰って来なかった。
そんな話がまことしやかに伝えられ、やがて、あの男は、その生き残りではないかという噂が持ち上がってきた。
いつも海を見ているのは、仲間たちが帰るのを信じているからではないか、と。
男は、一躍英雄になった。
だが、それも十数年も前の話。
何も語らない、名前さえ分からない男に、いつしか誰も興味を抱かなくなっていた。噂話を口にする者もいなくなり、男は酒場の看板代わりに指差されるようになった。
それでも、毎日彼は屋根にのぼる。まぶしそうに目を細めて、夕陽が沈むまで、ずっとずっと見ているのだ。
その日は夜明け前から雨だった。
暗く厚く重く、のしかかるように灰色の雲が垂れ下がって、酒場の屋根を押しつぶすほどに広がっていた。ほどなく白い光が町を染め、獣のように雷鳴が轟き始めた。
男は濡れるのも構わず、いつものように屋根にのぼった。だが、今日は座る事はなく、風に押されながら立ち尽くす。
こんな激しい嵐は、十数年お目にかかったことがない。あまりにもひどい雨風に、おかみが中に入るように言っても、彼は聞かなかった。
灰色の波を巻き上げ、わがままにうねり狂う波。一際大きく暴れたそれは次第に大きく育っていく。このままでは、いずれ大きな津波となり、町を襲うだろう。それを悟った人々が、次々と坂道を登って来る。不安げな顔つきが、酒場の前に揃う。
こんなひどい嵐は初めてだね。一体、どうなるんだろう。
口々にささやきが漏れた。
そんな中、男が突然屋根から下りてきた。
みなが見守る中、男は静かに坂道をくだり始めた。いつも決して屋根から下りる事ない男が、今はまっすぐに港を目指している。人々は昔聞いた噂話を思い出した。
嵐を呼ぶ化け物が――勇敢な、海の男たちに。
まさか。もしかして。
ほどなく、男の姿は町並みの中へと消えていった。そして――
夕方、嵐は止んだ。
さきほどまでとは打って変わって、嘘のように静まり返った、おだやかな海面に大きな夕陽が沈んでゆく。
町中の人々が、その光景を見ていた。
だが、男はどこにもいなかった。港のどこを探しても、彼の姿を見つけられる者はいなかった。
酒場の屋根は、ぽっかりと穴が開いたように、夕焼だけを背負っていた。