夜の闇の中、森は暗く、鬱蒼と生い茂り、視界を遮る。
そこだけがぽっかりと切り取られたように、黒く、ただ黒く、深淵のように口を開けている。
そして、牙を隠して、ほくそ笑んでいるのだ。
迷い込む者は誰も逃がしはしない。
誰もが、この森に迷い込み、そして、二度と逃げられなくなるのだ。
いつからか、僕は、そんな黒い闇の森に暮らしている。
どれぐらいここにいるのか、いつからいるのか……そんなことは、忘れた。必要のない事だから。
ただ僕はここにいて、ここに迷い込む人間を、ただ、見ている。迷い込んで道を失い、力尽きて倒れていく一部始終を。
僕には、人の声は聞こえない。何を考えているのかも分からない。
ただ、それを、見る。
そして――ほら。今夜も一人の女の子が迷い込んできた。
今夜といっても、この森は、いつも夜なのだけれども。
「――」
少女は、誰かの名前を呼んだ。
僕には、それが何と言っているのかは分からない。虚ろな唇が形作るのが、人の名前だと分かるだけだ。
「――、――」
何度も何度も、彼女は泣きながら誰かを呼ぶ。
だが、呼んだ程度で、その人が来てくれるとでも思っているのなら、それは全くのお門違いだ。この森に暮らしているのは、僕らだけ。生きている人間なんて、いないんだよ。
それなのに。
涙がこぼれる。握りしめられた拳が、闇の中、白く浮かび上がる。
悲しみに歪む唇を見ていると、僕はふと、何かを思い出しそうになった。
何だろう?
前にも、これと同じ光景を、見たような気がする。
この女の子が泣いているところを。誰かの名前を呼びながら、喉も張り裂けんばかりに嘆きを訴える姿を。
けれど、僕は首を振る。
遠い昔の話だろう。この森の中では、誰もがこんな風に泣き叫ぶものなのだ。彼女に似ていた女の子を見たのだろう。珍しい光景ではない。
僕は羽ばたく。
これ以上、彼女を見ていたくないから。
でも、辺りを一巡りして、僕はまた彼女のところへ戻ってきてしまった。
だって、この森に、出口などないのだから。
少女は泣くのを止めようとはしない。誰かのために、泣いている。
新しい道を探そうともせず、暗い森の中でうずくまり、一人、嘆いているばかりだった。
そして僕は、そんな彼女をただずっと見つめていた。彼女を見ていると、何かが思い出せそうな気がするから。
何だろう。
「――、――」
その名前を知りたい。その言葉を聞きたい。
君は一体、誰のために泣いているの? 何がそんなに悲しいの?
何を――誰を、失ったの。
その時、赤く泣きはらした目が、僕を見た。
僕は、思い出した。
この森は、死者の森。
死に旅立った者の魂が通る森。
けれど、残してきたものが多過ぎて、この森を越え、黄泉路へ向かうことが出来ない魂もある。
死に往けない魂は、やがて何もかも忘れて無為に時間を過ごすだけのモノになる。闇夜の烏のように、いてもいなくても変わらない、ただの黒に紛れてゆく。丁度この、僕のように。
そして同じように、死んだ者を忘れられなくて、この森に来てしまう生者もいる。
悲しみから逃れられなくて、いつしか先に進めなくなる。闇の中立ち止まり、道を失い、残りの生さえも無くしてしまう。
丁度あの、少女のように。
そう、彼女は、僕が愛した女性じゃないか。
どうして忘れていたんだろう。何をおいても君を守ると、誓っていたはずなのに。
闇の森の中に、翼がはためく音がする。
少女が顔を上げると、暗い空になお暗く黒く、一羽の鳥が浮かび上がった。
おいで。
鳥は確かにそう言った。
こっちへおいで。
僕は、君を導こう。この森の出口へ、必ず君を連れて行く。
少女は立ち上がった。
お願いだから、泣かないで。君を助けたいんだ。
愛する少年の声に呼ばれ、涙を拭いて、歩き出す。
僕は死んでしまったけれど、こんな風に、いつでも君を見ているから。
黒い翼が羽ばたいた。
さあ、行こう。
言葉はないけれど、確かに二人はここにいる。
少女はうなずく。少年は、羽ばたく。
もう、一人で歩けるよね。
君を心配している人たちのところへ、帰るといい。
森の出口は、見えていた。
黒い木々のシルエットの向こうに、ぽっかりと蒼く向こう側が見える。
もう、大丈夫。
少女はもう、泣いてはいなかった。
悲しくても、辛くても、これ以上立ち止まるならば、本当に道に迷う。
細い足が下草を踏んで、出口へと向かう。その傍らをすり抜けて、漆黒の鳥が一足先に森を抜ける。
一枚の黒い羽が少女の目の前にひらり、ひらりと舞い降りてくる。
それを手に取り、一歩進んで、少女は天を仰いだ。
鳥はもう、いなかった。
ただ、満天の星空が、眩しいほどに大きく、果てしなく広がっていた。
さよなら。
そしてありがとう。