水鏡の涙


 二人の恋を、決して誰にも邪魔をされないように。そして、決して誰にも知られないように。
 深く静かな森の奥に魔術でこしらえた塔を作り、青年は少女を閉じ込めた。
 窓の外に見えるのは、どこまでも広がる木々と、その向こうに見える小さな湖。朝は朝焼けで薔薇色に染まり、黄昏時は黄金と紫に彩られる。藍色に沈んだ夜空にも、無数にきらめく星が見える。
 たった一人で過ごす時間も、愛しい人を想えば、決して寂しくはない。美しい景色を見ながら、少女は今日も待ちわびる。
 そして、彼が訪れてくれた夜は、誰も知らないこの場所で、心ゆくまで抱き合い、愛し合い、語り合うのだ。

 人の世は甘くない。
 少女の姿が見えなくなったことは、すぐに両親の知るところになった。けれど、青年は頑として少女の行方を語らなかった。
 何故ならば、これは、誰にも知られてはならない恋なのだから。
 兄と妹と呼びあうお互いが愛し合うことは、誰も許してはくれない道だったから。
 頑なに口を閉ざす青年に、二人の両親は罰を与えた。罪を犯した子供たちに、親として与えうる、もっとも残酷で重い罰。
 それは、遠く国境の果てに、兵士として戦に行くことだった。

 戦に行く。それは即ち、死に逝くこととほぼ同義である。
 しかし青年は、必ず生きて戻ると誓い、自らの代わりとして、一つの壺を少女に与えた。
 冷たく澄んだ水がたたえられた、美しい白磁の壺。覗き込むと、鏡のように穏やかな水面に少女の顔が映った。
 その壺に蓋をして、青年は言った。どうしても寂しい時だけ、会いたい時だけ、この蓋を取って覗き込むといい。
 どんなに離れていても、どんなに変わり果てていようとも、君が僕を愛してくれている限り、信じてくれている限り、この鏡に僕の姿が映るだろう。君が、望む姿で。
 少女はうなずいた。
 涙を我慢し、誓った。必ず彼が戻るまで、ずっと信じて待ち続けると。変わらない愛を。

 春が逝き、夏が過ぎ、秋が来る。緑の森は赤く燃え上がり、夕暮れになると湖さえも赤く染まり血の色に沈む。
 どれほどの夜を過ごしただろう。一晩寂しさに耐えるたび、募るばかりの想いに潰されそうになる。
 会いたい。一目でいいから、彼の顔を見たい。
 風が吹くたび、窓が揺れるたび、愛する人が戻ってきたのかと思っては顔を上げる。小さな物音一つでさえも、すべてが彼に思えてくる。
 そしていつか、すべてを信じられなくなる。
 幾度目かに風が吹いて、白磁の壺をかすかに鳴らした時、少女はベッドから起き上がった。
 本当はもう、戦など終わっているのだとしたら。
 本当は――本当は、もう、もしかして。
 白磁の蓋に、手をかける。
 寂しくて、切なくて、狂おしくて、分からなくて。
 少女は、壺の中を覗き込んだ。

 それは澄み渡る水の鏡。
 どうしても寂しい時だけ、彼に会いたい時だけ、覗いてもいいと言われていた魔法の鏡。
 決して、心に疑いを抱いたまま覗いてはならなかった、人の心を映す鏡。
 少女は、そこに彼の姿を見た。見知らぬ美しい女性と共に並んで歩く、愛しい男の姿を。その優しげな微笑を、女の肩を抱く掌を、楽しそうに言葉を紡ぐ唇を。
 あぁ、何故、覗いてしまったのだろう。
 少女は後悔した。
 見なければ――愛する人を疑わなければ、こんな辛い光景は見なくてすんだのに。信じることが出来なかった、誓いを守れなかったわたしが愚か者だった。
 落とした涙が、水面に波紋を描いた。疑念の姿は消えてゆく。けれども、一度見てしまったものは、まぶたの裏から消すことは出来なかった。
 あぁ、それならば。
 続いて落ちた涙は、血の色をしていた。
 もう何も、見なくてすむように。
 白く細い指で自らの眼を突いて、少女は泣いた。赤い涙と共に、その両の眼球がこぼれ落ちるまで。

 長かった戦も終わりを告げた。青年は再び愛する少女の下へと駆けつけた。
 扉を開けて、寝室へと向かう。ベッドの上で、少女は昔と同じように待っていた。
 純白のフリルとレースに飾られたドレスが蝶の羽のように広がっていた。開け放たれた窓から吹き込む風に、白いリボンがふらふらと揺れた。
 けれど、愛する少女の声はない。
 差し込む夕陽を浴びて赤く染まった細い指、朱の色に満ちた顔。そっと触れる頬は冷たく固く、美しい瞳の代わりに虚ろな眼窩がぽっかりと口を開けていた。
 傍らには、あふれるほどの血を湛えた白磁の壺。青年は、理解した。
 あの時。
 たった一度、たった一度だけ、欲望と寂しさに耐えかねて、他の女性を抱いてしまった。彼女は、それを見たのだ。
 たった一人だけの愛する人を愛し抜くことが出来なかった、誓いを守れなかった、自分への罰。
 青年は少女の体を抱いた。腐り始めた体が崩れて、腕が落ちた。そんな彼女を慈しむように抱きしめて唇を重ね、彼は微笑んだ。
 同じになろう。
 君が僕だけしか見ていなかったように、僕も君だけを見よう。そのために必要のないものは、捨てよう。
 しなやかな指で自らの眼を突いて、青年は笑った。涙のようにこぼれ落ちる血の海、そこから両の眼球を拾って、白磁の壷の中へ。
 これで、お互いだけを見つめ続けていられるだろう。
 約束を違えることは、二度とない。

 水鏡の底、二人は並ぶ。手を繋ぐ。
 その恋はもはや誰にも邪魔されることはなく、誰に知られる心配もない。
 そう。
 いつまでも、一緒だよ。



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Materials by 桜月棺