水晶の涙


 彼の者は、宝石を枕とし、金貨をベッドとして眠る。滑らかな石は長い黒髪の飾りとなり、手足は黄金色の輝きに染められる。
 眠るのに飽いたら、玉の杯に美酒を満たし、水晶の雫石を浮かべて日が落ちるまで眺める。
 飢えることなく、渇くことなく、傷つくことなく、満たされることなく。
 彼の者は、たった一人で、冷たい金貨の上に眠る。なぜならば、彼の者は人ではないから。
 その名をフェブリレス・トゥール、人の姿をすれども、その本性は龍である。

 「勝負だ!」
 シーガルは剣を構えた。
 邪悪な黒い翼を持つ龍に、幼馴染みの恋人をさらわれてから早数年。彼は、彼女の仇を討つために、自らを鍛え上げた。剣を学び、魔法を学び、故郷では五本の指に入るほどの魔法剣士となった。
 そして、長い道のりをたどり、幾つもの山を越え、谷を渡り、ようやくこの邪龍の巣窟にたどり着いたのだ。
 「さあ、俺と戦え、ブラックドラゴン!」
 辺境の山奥に似つかわしくない壮麗な宮殿の中を駆け抜けて、ついに見つけ出したにっくき黒龍。噂話で聞いた通り、黒い翼と長く艶やかな尾を持つその生き物は、山のようにうず高く積み上げられた金銀財宝の上に寝そべっていた。
 というか、寝ていた。
 「おい!」
 シーガルが呼びかけても、翼と尻尾を生やした人間型のモノは動く気配がない。
 黙って様子を見ていると、規則正しく気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
 「……おい!ドラゴン!」
 やっぱり、返事はない。
 「くっ…」
 馬鹿にしやがって。
 青年は歯ぎしりをした。
 危機感なんか感じてませんってことか?俺なんか、眼中にないってか!?
 そもそも、この宮殿の中にも、財宝と主人を守護するべき他のモンスターは何一ついなかった。それほどに、この目の前で熟睡している野郎は強いということなのか。
 「くっそう!起きろよ!」
 それでも、寝ているところをバッサリとやるのは何となく気が引けて、シーガルは振り上げた剣を財宝の山に突き刺した。腹立ちまぎれにぐるぐるかき回すと、山が崩れた。
 「う……ん」
 それと同時に、ブラックドラゴンが寝返りを打った。
 「あ…?」
 背中の翼が窮屈そうに金貨を打ち、長い尻尾がうねるように這う。
 とっさにシーガルは剣を引いて、その場から飛び退いた。
 次の瞬間、微妙なバランスを保っていた山の一角が崩れて、ドラゴンが床まで転がり落ちてきた。
 ごん!
 うつ伏せになった額が大理石の床に当たり、鈍い音が響き渡る。
 「………」
 長い、長い静寂。
 やがて、息を殺して見つめるシーガルの前で、ドラゴンが目を覚ました。
 「痛い……」
 うつ伏せのまま、指一本動かそうともせずに、ドラゴンはそうつぶやいた。

 結局その後、シーガルが声をかけるまで、ブラックドラゴンはずっと倒れたまま動かなかった。
 「だ…大丈夫か?」
 間抜けにもそう声をかけると、ようやくドラゴンは顔を上げ、傍らに人間がいることに気が付いた。
 「君は…?」
 「お、俺は」
 お前を殺しに来た!
 威勢良くそう言いたいところだったが、あまりにものほほんとした空気に、何故か口ごもってしまう。視線をさまよわせるシーガルを不思議そうに見上げながら、黒龍の青年は起き上がり、あぐらをかいて座った。
 「客人か?まぁ座れ」
 そこら辺の床を指しつつ、緊張感のない大欠伸をする。だが、もちろん言われるままに座れる訳もなく、シーガルは所在無さげに立ち尽くすしかなかった。
 「いや…俺は」
 「金が欲しくて来たんなら」
 今度は肩越しにベッド代わりの財宝の山を指し示し、相変わらず寝起きのぼんやりとした表情のままでドラゴンは続ける。
 「好きなだけ持って帰れ。財布破れない程度にな」
 「いや、だから、俺は」
 「だが、僕を倒しに来たというんなら」
 口調はまるで変わらなかったが、一瞬だけドラゴンの視線が厳しくなったように思えた。
 ――が、それはただの錯覚だった。
 体を強張らせたシーガルの目の前で、無防備にもまた欠伸をしながら、青年は言った。
 「面倒くさいし、今すごく眠いから、イヤ」

 興が削がれること甚だしい。
 シーガルは、大きくため息をついた。そのまま黙って立ち尽くす。
 俺が今日まで頑張ってきたのは、一体何のためだ?こんな――こんなにも、あまりにも覇気のない、だらーんとした奴が敵なのか?
 ドラゴンは、少々下がりかかってきたまぶたを頑張って開きながら、シーガルの答えを待っていた。早く返事をしてやらないと、本当にまた眠り込んでしまいそうな顔だ。
 怒りを抑えてシーガルは尋ねた。
 「一つだけ、答えろ」
 「いいよ」
 「五年ぐらい前の話だ。アンという女を知っているか?」
 「アン?」
 腕組みをして首を傾げる。また待たされるのかと思いきや、すぐに思い至ったのか、緊張感のない顔つきがわずかに固くなった。
 「ああ…いたな。可愛い娘だった」
 「…だった?」
 そのまま、ドラゴンは黙ってしまう。歯切れの悪い過去形に、シーガルは剣の柄を握り締めた。
 「お前が殺したんだろう」
 とぼけた顔をしていても、やはり魔物は魔物なのか。邪悪なふうには見えないと、油断させるための演技だったのか。
 白くなるほどきつく握った指に、ドラゴンは目をやった。
 「そう…君、アンを追いかけてきてたのか」
 「そうだ」
 シーガルはゆっくりと剣を取り、目の前の青年に向かって突き出した。
 「彼女の仇を討ちに来たんだ。面倒くさいとか、そういう問題じゃねえ」
 「そうか……そうだな」
 黒い翼が大きく広がった。眠そうだった赤い目を見開いて、ドラゴンは立ち上がった。
 「彼女には悪かったと思ってるよ。でも、言い訳はしない」
 そう言った口が裂け、牙がのぞく。肩が、腕が服を破って盛り上がる。
 シーガルと同じぐらいだった身長はたちまち見上げるほどになった。だが、それでもなお、青年は変貌を続ける。
 「そう来なくっちゃな」
 最初から勝てるとは思っていなかった。ただ、復讐のためだけに、ここまで来た。ただ、全力で戦いたかった。
 シーガルは剣を構え直し、今まさに、真の力を発揮しようとしているブラックドラゴンに向かって立つ。
 その時だった。
 「あれ、フェブリレス?」
 緊迫感のない声が、二人の間に割って入った。
 「何やってんの?」
 「アン!?」
 「シ……シーガル!?」
 振り返ると、彼女が、そこにいた。

 アンは、いなくなった時とまったく変わらない様子でそこにいた。顔つきも髪型も、結婚を申し込んだ時に贈った水晶のペンダントも、何一つ五年前と変わらないまま、だ。
 「アン?」
 あまりにも懐かしすぎる彼女の姿に、奇妙な違和感を覚える。
 シーガルは目を細め、じっと恋人の姿を見つめた。だが、彼女は感極まったように涙を浮かべ、両手を握りしめて立ち尽くし震えていた。
 「シーガル…迎えに来てくれたのね!?」
 「あ…ああ」
 「嬉しいッ!」
 懐かしい声。満面の笑顔で飛び込んでくる彼女を受け止めながら、シーガルはドラゴンの方を振り返った。
 何か――何か、違わないか?
 「すまない」
 その疑問符に答えるように、ドラゴンは首を振った。
 「君も気付いているだろう…今の彼女は」
 両腕の中に抱きしめる温かい感触は、不安定で脆かった。
 「シーガル…大好き」
 声がかすれた。彼女の笑顔の向こうに、財宝のきらめきが透けて見える。しっかりとした人の体の感触は、次第に雲をつかむかのように薄れて消えていく。
 「アン」
 「五年前に、僕が殺してしまった」
 抱きしめた恋人は、瞬く間に腕の中からこぼれていく。シーガルの手の中に残ったのは、涙の粒を模した水晶のペンダントだけ。
 「ただ、君に会いたがっていた…だから」
 「どういう事だよ」
 「君が来るのを待っていたんだ」
 「どういう意味だよ!」
 ペンダントを握りしめて振り返った青年は、同じように打ちひしがれた顔をした黒髪の青年をにらみつけた。
 「説明はする…ただ、少しだけ、休ませてくれないか」

 黒龍フェブリレスは、五年前の夜、ふらりとシーガルたちの暮らす町を訪れた。ただの気まぐれ、暇つぶしだった。
 人の姿に化けて、ぶらぶらと田舎の町を散歩する。その道すがら、あるものを拾った。
 それは、雫型の水晶のペンダントだった。月の光を浴びてきらめく石は、とても美しかった。
 いいものを見つけた、と機嫌良く帰ろうとした矢先のこと。
 「待って…それ返して!」
 突然、背中に飛びついてくる何か。
 フェブリレスはとっさに龍の翼を出して、振り払った。まさかそれが、か弱い人間の女性だとは、思いもせずに。
 「あ……っ」
 軽く払っただけのつもりだった。だが、ドラゴンと人間では、力の差があり過ぎる。吹き飛ばされた女性は路上を転がり、街路樹に叩きつけられて止まった。
 しまった。
 驚いて駆け寄ると、彼女はまだ生きていた。震える手で、それでもフェブリレスの握ったペンダントを取ろうと必死で腕を伸ばした。
 「わたし…の……」
 「しゃべらないで。それよりも、今は君を何とかしないと」
 少し遠いが、自分の住処に連れて帰れば何とか助けられるかもしれない。
 フェブリレスは龍の姿に戻り、彼女をつかんで飛び立った。だが、彼女は、黒龍の思いもよらない行動を起こした。
 はるか空の高みで、彼がくわえていたペンダントを取り戻そうと、自ら彼の手から逃れ出てしまったのだ。森の中に落ちた彼女は――もちろん、もう、生きてはいなかった。

 「最初は愚かな女だと思ったよ。たかが石のために、自らの命を落すとはね」
 冷たい大理石の床に座り込み、黒髪の青年は苦笑した。
 「だが、ここに帰って、改めてその石に触れた時に気が付いたんだ。そのペンダントには…君と彼女の想いが込められていた」
 シーガルから贈られた、愛情を誓う証。アンが大切にしていた貞節の証。うっかり落としてしまったとはいえ、それは、彼女にとって、何よりも大切なものだったのだ。
 「それを無くすのは、君を無くすのと同じこと。彼女はそれ程その石を大切にしていた」
 赤い目が、じっとシーガルの手元を見つめた。
 「だからこそ、君と彼女をもう一度会わせることが出来たんだ」
 強い想いを込められた石に魔法をかける。持ち主の姿を今一度映し出し、最期の願いを叶える。
 もう一度でいい。あの人に、会いたい。
 そのために、黒龍は眠りながら待っていた。
 死に逝く魂を現世に繋ぎとめておくためには、いかに龍といえども膨大な魔力を必要とする。だから、ゆっくりとまどろみながら、石と、アンの魂と共に、シーガルが来るのを待っていたのだ。
 「もし、俺が来なかったら」
 「君はきっと来たさ」
 少し疲れた、しかし自信に満ちた顔を見せて、フェブリレスは微笑んだ。
 「何年かかっても、何があっても、君はきっと来ただろう。だって、彼女が待っていたんだから」

 かくして、彼の者は満たされた。
 人の友を得て、その命が尽きるまで共にあることで、飢えを知り、渇きを知り、傷つくことを知り、満たされることを知った。
 待っていたのは、彼女だけではなく、彼の者も同じであったのだ。
 その名はフェブリレス・トゥール、龍の姿をすれども、その心に人を知る。




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