王女マリアの十七歳の誕生日。それは、とりもなおさず、人形マリアの最後の日。
リーシャとキンブルは、ただひたすらその時を待っていた。
マクレーン・イゼールを探すビラが国中にまかれたが反応はなく、最後の手段を探しに出かけたランディスも戻らないまま、時間は淡々と過ぎていく。
マリアは体が痛いと言ってベッドに横たわったまま、微動だにしない。
「昨夜も来てくれなかったの…」
うわ言のように、彼女は言った。
「もう…二度と会えないの…?」
二つの瞳にまた、涙が浮かぶ。
その様子を、キンブルとリーシャは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら見つめていた。
彼が、本当にマクレーン・イゼールだったことは間違いないだろう。なぜなら、ビラが配られた日からぱったりと彼は現れなくなったから。
国中の人々が血眼で彼を捜してくれている。だが、それは本当に王女のためになることなのだろうか。
「会いたいよ…」
冷たい手が、ゆるゆるとシーツを握り締める。
「大丈夫です、マリア様」
リーシャは涙をこらえて答えた。
「きっとあの方は来て下さいます…今夜こそ、必ず」
「ああ」
キンブルもうなずいた。
「どうか、気落ちなさらないで。必ず会えますとも」
「…うん」
虚ろな瞳が辺りをさ迷う。そして、また尋ねる。
「ねえ…ランディスはまだなの?まだ、帰ってこないの?」
「もうすぐです」
それも、確証のない答え。だが、二人にはそう言うしかない。
「いつ…?」
何度も繰り返された質問。答える方にも苦痛が伴う。
その時。
「お待たせしました」
扉が開いた。
ぼさぼさの黒い髪、汚れきった黒いローブ。
「ランディスッ…!」
キンブルが弾けるように立ち上がった。乱暴にその腕をつかむ。
「遅いじゃないか!何やってたんだ!」
「くっ…」
一瞬、明らかにランディスの顔が歪んだ。だが、次の瞬間すぐにいつも通りの無表情に戻ると、魔術師は言った。
「痛いですよ。放して下さい」
「あ、ああ」
キンブルはあわてて手を引っ込めた。何か、とてつもない違和感を感じたからだった。
「すまん。で、どうなんだ?姫を戻す方法…見つかったのか」
「ええ、大丈夫です」
彼はそう言って、腕まくりをした。
「!!」
リーファが息をのむ。白い腕には、何かで抉られたような傷痕があった。血は止まっていたが、その周りが紫色に腫れ上がっている。
「ランディス様、その手は…」
「大したことはありませんよ」
にこっ、と微笑んで魔術師は答えた。
「帰って来る途中でちょっとたちの悪いチンピラにからまれただけです」
「じゃあ、さっき痛いって言ったのは」
「かすり傷程度です。それよりも、殿下の具合はいかがです?」
ランディスは言いながら、ベッドの側に近付いた。マリアは、微笑んで彼を見上げていた。
「ランディス…こっち来て」
「はい」
ランディスは王女に顔を寄せた。
「もう…会えないかと思った」
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「嬉しい……ほんとに、良かった」
ぽろぽろと涙をこぼし、マリアは重い手を伸ばした。ランディスはその冷たく堅い手を握り、微笑んだ。
「そんなに泣かないで下さい…また、目が取れてしまいますよ」
「いいの…あなたの顔を見れたから、もういいの」
「何をおっしゃいますか、これからですよ。さあ、起きて下さい」
彼が手を引くと、マリアは嫌がる素振りも見せずに上半身を起こした。
「あなたが戻ってきてくれただけでもう十分よ。これ以上…何をしたいの?」
「殿下の体を戻す方法が見付かりました」
ランディスはそう言って、懐からナイフを取り出した。
「何を…するの、ランディス」
マリアの声がこわばる。
「大丈夫です。力を抜いて下さい」
手慣れた魔術の実験でもするように、彼はマリアの手にナイフを握らせ、自分の両手を上に添えた。ナイフの刃は、まっすぐ、ランディスの胸の方を向いている。
「彼を見つけることは出来ませんでしたが…代りに、私の命で殿下を人間に戻す方法を見つけて参りました」
彼は静かに言った。
「ですから、どうか遠慮なさらずに」
「どうしてなの?ランディス」
その言葉を途中で遮り、王女は涙をためた瞳で尋ねた。
「あたしに、あなたを殺せるわけがないじゃない。あなたを……なのに」
「えっ!?」
最後の辺りは、小さなつぶやきになっていた。しかし、紛れもない主君の台詞に、キンブルとリーシャが反応した。
「姫、今…今、何て?」
「ランディスのこと好きだって…愛してるって言ったのよ!」
半ば叫ぶように彼女は言った。
「殿下…気付いていたんですか」
「当たり前じゃない」
色の違う二つの瞳が、じっと愛しい人を見つめる。揺るぎのない強い眼差しに、彼はうつむいた。
「一体いつから…いえ」
ランディスが、困ったように口元を緩ませた。
「そんなことを聞いても意味がないし、それならばもう隠しても仕方がありませんね」
頭に手をかける。軽い音と共に黒髪のかつらが床に落ち、野暮ったい魔術師のかわりに銀髪の青年が現れた。
瞳は緑。初めて会った日と同じように、優しく王女に微笑みかける。
「このマクレーン・イゼール、殿下の命を救うために戻って参りました」
「なっ…!」
途端に、キンブルがいきり立った。
「何言ってやがる!大体、お前が出て来なければ、最初っからこんなことにはならなかったんだよ!それを、何を今更!!」
「ええ…そうです。私が無知だったから、殿下やあなた方にいらない苦痛を強いてしまいました」
緑の瞳が、寂しそうにさまよった。
「どうして、ランディス様が?」
リーシャの問いに、彼は答える。
「サウザント公に騙されていました。両親は国王陛下に処刑されたと言われて、信じていました。いつか、両親の仇を取ろうと誓って、魔術師となって殿下の傍に仕え、公爵の言うなりに働いてきたのです」
だが、真実は違っていた。
「もっと早く気が付いていれば、こんなことは絶対にしなかった…親子揃ってまんまとはめられて、愚かしいにもほどがあります」
うつむくマクレーンに、誰も、声をかけられなかった。
「ですが、今ならまだ間に合うのです。さあ、殿下」
再び顔を上げた彼は、マリアの手を握る腕に力を込めた。
「いやっ…!!」
しかし。
「離して、マクレーン!!」
鋼鉄の腕を振るうと、マクレーンの手はいとも簡単に振りほどかれた。
「殿下、わがままは大概にして下さい」
「わがままじゃない!」
不器用な指からすっぽ抜けたナイフが、がっと鈍い音を立てて床に突き立った。勢いがあり過ぎたのか、その刀身が半分以上木床に埋まっている。
「あなたを殺して人間になったら」
王女は言った。
「あたし一生後悔するわ。悔んで、悔んで、一生泣きながら生きていくんだわ」
「それは私も同じです」
マクレーンは立ち上がった。つかつかとキンブルに歩み寄ると、ベルトから短剣を抜いた。
「いえ、それよりも」
もみあった時に切れたのか、紅く染まった指を舐めて彼は続けた。
「あなたがサウザント公を告発してくれなければ、誰があの男を止めるのですか。あなたが人間に戻って王位を継がなければ、あんな男が王になるのですよ?」
「キンブルがいる…リーシャもいるわ。あなただって、騙されてた被害者なんだから、叔父上を何とかすることぐらい出来るわ!」
「いいえ、殿下でなければ」
彼はマリアのすぐ傍に腰を下ろし、再び短剣を握らせて言った。
「さあ、しっかり握って下さい。キンブル殿も手伝って」
「あ…あ、ああ」
突然呼ばれて、キンブルは戸惑いながら二人に近付いた。うながされるまま、二人の手に自分の手を重ねる。それを確認して、マクレーンはうなずいた。
「いいですか、殿下。私の心臓はここです」
刃の突端を自分の胸に当て、マリアの顔をじっと見詰めながら彼は言い聞かせた。
「先程みたいに暴れると、キンブル殿が怪我をなさいます。かといって、御自分の手だけを引っ込めると、キンブル殿が私を殺すことになります。これでは全く意味がない…お分かりですね?」
「うっ…」
マリアはしゃくり上げながら、納得したのかどうかいまいちよく分からない返事をした。
「じゃあ、マクレーン…最後に一つ教えて」
「何でしょう?」
「あたしのこと…愛してる?」
一瞬の間。
そして、彼は首を振った。
「いいえ」
「……そう」
その返事に、マリアは微笑んでうなずいた。
「ありがとう」
「…いいえ」
マクレーンがうつむく。視線の先は、三人の手に握られた短剣。
「では、一気にやって下さい…痛みが長引くのは、辛いですから」
「うん」
ぐっ、と王女の手に力が篭る。勢いをつけるためにちょっとだけ引いて―――
そして、短剣は、青年の体に深々と突き刺さった。
「で…ん、か」
赤い血が、刀身に添って流れ落ちる。
「どうして…どうしてですかっ!」
それに、透明な雫が混じった。
「だって、やっぱり好きな人は殺せないもの」
マリアは抑揚のない声で答えた。
「それに…そんなこと出来てしまうのは…人形だわ」
短剣は、マクレーンの左腕に突き刺さっていた。出血こそひどいが、生命を奪うには至らない傷。
ぐらっ、と機械の上半身がゆらめいた。
「姫!」
「キンブル…マクレーンを許してあげて」
体を支えてくれる騎士に、王女はささやいた。
「叔父上を捕まえるために必要な、大事な証人だから、殺しちゃ駄目よ…」
「分かってます…必ず、守りますから」
首がかくん、と不自然に折れ曲がった。
「リーシャも…ごめんね」
「そんな」
駆け寄る彼女の眼前で、人形の首が折れる。
マクレーンが、両腕を伸ばしてそれを抱き留めた。
「どうして…私なんかのために」
「だって好きなんだもの」
か細い声で、だが心なしか楽しげに彼女が言う。
「もう一回聞いていい?あたしのこと…好き?」
「ええ」
力を込めて抱き締めると、役目を終えた木製の人形が腕の中で崩れていく。
だが、マクレーンは力いっぱい彼女を抱いた。
「愛しています…愛してるに決まっているじゃないですか!!」
よかった。
そんな声が聞こえたような気がして腕を開くと。
木屑が、さらさらと床にこぼれていった。
数日後、王弟サウザント公爵は、罪人のように縛られ、王の間に引き立てられていた。
「では。お前は本当に、マクレーン・イゼールとは何の面識もないというのだな?」
「もちろんです、兄上」
大勢の人の見守る公正な裁判の席で、サウザント公はきっぱりと言い切った。
「その者の」
同じく、縄を掛けられて王の近くに立たされているマクレーンを顎でしゃくる。
「言いがかりにすぎません。大体、その者が亡きイゼール公爵の嫡子だとする証拠は?」
「それは、ないが」
「そうでしょうね。そもそも、マクレーンは公爵婦人と共にどこか国外で暮らしているはず」
「うむ」
それを聞いて、国王は王妃に持たせていた布の包みを解いた。
「この日記帳を読み上げても、まだそう言い切れるか?」
「それは、一体?」
「これは、エイブラハム・イゼールの日記だ。その死後、その妻の手に渡った」
王はぼろぼろになった紙をゆっくりとめくり、消えそうな文字をたどった。
「十の月、十一日。マリア王女殿下の誕生日の贈り物にするための珍しい物品を、サウザント公爵が取り寄せて下さる。ありがたく頂戴し、明日はこれを持っていくことにする、とある。」
サウザント公が黙り込む。
「その後、しばらく空白のページが続くが、やがて、婦人のものらしい筆跡で、こうある。『私達は公爵に騙された…夫は王女暗殺の罪を着せられ、私もこんなところで死んでいくのだ…マクレーンが公爵の手にあるのが気がかり。神よ、どうか、あの子の命だけはお守り下さい』これは、どうやら血で書かれたようだな」
何かを考えているのか、黙ったままの公爵に、国王は告げた。
「そして、この日記は、お前の屋敷の地下から発見された。女性のものらしい死体もあった」
「……」
うつむいたまま、サウザント公は言い訳を考えていた。
あの時、国外退去の通告を受けた公爵婦人をかくまうと言って騙し、マクレーンを落としたあの地下室に突き落として殺したのだ。まさか、そんな日記帳など持っていたとは。
しかし、ここで負ける訳にはいかんのだ。
「それは、どうせその盗賊風情が持っていたのでしょう。私に罪を着せるため、地下室に…」
「いつまで言い逃れを続けたら気が済むのだ」
それを、国王がぴしゃりと遮った。
「キンブル」
「はっ」
合図を受けて、キンブルがマクレーンの傍らに立つ。彼は、うやうやしい手つきでマクレーンの縄を解いた。
「この者をそれ以上貶めるような事を言えば、弟といえども容赦はせんぞ」
「…えっ?」
「証人がおれば素直に話すかと思ってわざわざこの様な罪人の格好までしてもらったというのに。我が弟ながら情けない」
「ちょ、ちょっと待って下さい、兄上」
マクレーンはキンブルから剣を受け取り、リーシャにマントを着せ掛けてもらっていた。自信に満ちた緑色の瞳は悠然として、うろたえるサウザント公を見下ろしていた。
「これは一体どういうことなのですか?」
「イゼール公爵の献上品に毒を混ぜて王女マリアを暗殺しようとした罪、イゼール公爵婦人を殺害した罪、そして、イゼール公爵夫妻の遺児マクレーンを騙して王女マリアを病にならしめ、二度までも暗殺しようとした罪…極刑に値する!」
「そっ…それでは!」
公爵は、しつこく食い下がった。
「それでは、兄上亡き後誰がこの国を治めるのですか!」
「王女マリアとその夫、マクレーン・イゼール公爵だ。お前の公爵領を継がせることにする」
「なにっ…!?」
だが、もはや、それ以上サウザント公が抗弁することは出来なかった。
メイドを従え、静かにその場に現れた人物を見て、彼は息を呑んだ。
「なっ…なっ…何故、何故マリアがっ?」
小柄な体は昔のまま、マクレーンに手を取られ、王女は恥ずかしそうに頬を赤らめながら国王の隣に立った。ただ、前と違うのは、左目がトパーズのイエローになっていたこと。
だが、それは紛れもなく、人間である王女の姿だった。
「マクレーンが生きているのなら、マリアは人間には戻れなかったはずっ…!!」
「何を訳の判らないことを言っているの、叔父上」
にこっと微笑んで、マリアは言った。
「あたしはこの通り、もう元気になったのよ。マクレーンが治してくれたもの」
「そういうことだ…連れて行け!」
国王の号令で、謀反者は引き立てられた。
あの時。
人形の体は塵となって崩れ落ちた。だが、その時、きらめく光とともに、一人の妖精が現れた。
「間に合った」
小さな両腕を広げ、彼女はマクレーンの涙をすくった。
「マクレーン、よくやった。よく、王女の魂を失わず守ってくれた」
「え…?」
思いがけない出来事に、リーシャとキンブルも立ちすくむ。
「まさか…あなたは、もしかして」
「ああ、その通り…国王夫妻に王女の体を作ったのは、わたしだ。だが」
その妖精は、くすっと笑った。
「魂は彼女自身のもの。王妃の腹の中で生まれる事無く消えていくはずの魂を拾ったのだ。このようにな」
差し伸べた腕の中に、妖精は光を抱いていた。
「ただそれを入れる生身の体を作るのにはどうしても時間がかかってしまう。だからしばらくの間は人形の器に入れて魂を守らなければならなかった」
だが、不安定な人形の器は、魂が揺れ動くとたちまち壊れてしまう。だから恋をしてはならなかったのだ。
「でも、私は…?」
「壊れた人形の姿になっても、お前はずっと王女のそばにいた。何度も励まして差し上げたろう?だから彼女は耐えられた。わたしが本当の肉体を作り上げるまでの時間を稼ぐことが出来た」
小さな妖精の姿がさらに小さくなる。その代わり、腕の中の光は輝きを増し、大きくふくらんでいく。
「…さあ」
その中に、マクレーンは元通りの、可憐な少女の姿を見つけた。
「わたしの最高傑作だ。抱き締めてあげて…お前を待っているぞ」
うなずいて、彼は手を伸ばした。
「殿下…マリア」
名前を呼ぶと、少女が薄くまぶたを開いた。
青い右の瞳と黄色い左の瞳が、ゆっくりと青年の姿を捕らえる。
「……ランディス…マクレーン?」
「ええ」
「あたしは」
マリアは自分の両手を目の前にかざして、呆然とつぶやく。
「もう大丈夫です」
その柔らかくて温かい体を抱き締めて、彼は答えた。
「もう大丈夫…人間に戻ったんです。もう、何の心配もいりませんから…!!」
数日後、王女の成人の祝いは、かつてないほど盛大に行われた。何故なら、その祝賀の宴は、王女の結婚式ともなったのだから。
そして、お伽話は語り継がれることになる。
この上もないハッピーエンドの、幸せな王女の物語として。