使者は、首に鋭い剣をあてがわれ、震える声で親書を読んでいた。
「…で、すから……我が、国の…」
冷たい金属の刃が、がたがたと小刻みに揺れる肌に触れる。その度、声は止まり、また怯えながら続きが読まれる。
玉座の主人は何の感情もないまま、じっと自分の足元を見下ろしていた。
サマランカ帝国の王城、謁見の間。
居並ぶのは、人形のように整然と列をなした騎士たち。その中央に使者は通され、いつでも首を落とせるように、二人の騎士に剣で固定されていた。
「王妃殿下と…王女殿下を、そのっ…」
ちら、と使者が前方を見ると、黒い鎧に身を包んだ皇太子は自分の膝の上にメイドを乗せ、その髪をなでていた。
「皇太子、殿下の…側室に、と、いう、件は」
まるで話を聞いていなかったような様子のエドガーが、その時初めて眉毛をぴくりと動かした。
白に近い、淡い金色の髪の毛で、端正な顔の左半分は隠れている。だが、右側の顔…特に、その強烈な光を放つ金色の目が、じっと使者を見つめた。
「どうか、ご容赦を……」
「もういい」
猫のように縦に細長い、人のものとは思えぬ異様な瞳がさらに細められた。ブーツでどん、とメイドの肩を蹴飛ばして立ち上がり、彼は言った。
「切れ」
「えっ?」
使者が問い返す暇もなかった。
次の瞬間、鈍い音がした。
「ごあっ……!!」
鮮血が噴き出す。
両側から、無慈悲な刃が彼の首を落とした。
だが、誰一人、声をあげる者もない。静まり返った広間に、皇太子の号令だけが響いた。
「兵を出せ。フェアウェルを落とせ。私も夕刻には出る」
返事もない。騎士たちは黙って広間を後にし、残ったのは皇太子とメイドと、一つの死体だけ。
忌々しそうにそれを見下ろし、彼は言った。
「アニタ。片付けておけ」
「はい」
長い黒髪のメイドは、微笑んで答えた。
サマランカ帝国は、十数年前までは、このソロン大陸にたくさん存在する小国の一つでしかなかった。だが、その年老いた国王が、ある時大きな野望を抱いた。
大陸を統一したい…この世界を、支配したい。
そして、望みは叶えられた。
年老いて生まれた唯一の王子は、強大な力を持っていた。
十歳でまず、隣国オレンブルグを、そして翌年にはさらに次の国を併合し、サマランカ帝国の建国を宣言したのだ。
圧倒的なカリスマと、ずば抜けた戦闘能力と、反抗を一切許さない冷酷さで、皇太子エドガーは瞬く間にその領土を拡大し、近隣諸国を支配下に収めていった。
そう。もはや、誰一人、彼に逆らえる者はいないのだ。
サマランカは使者を切ったその日の午後には、フェアウェルとの国境に軍を進めていた。飛竜を飛ばし、エドガーも翌朝には前線に到着していた。
「向うの様子はどうだ」
「兵を出していますが、物の数ではございません」
「…だろうな」
将兵の報告を聞いて、エドガーは少しつまらなさそうにフン、と鼻で笑った。
フェアウェル王国の王妃と二人の王女を彼の側室として差し出せば、自治権を認めて併合するという無茶な要求を出して一週間。ようやくやって来た使者を始末したその翌朝なのだ。まさか、もう攻めてくるとは思っていないだろう。
だが、そうでなければ、国は落とせない。
「失礼致します」
その時、天幕がそっと開かれて、一人の騎士が入って来た。
「出撃の準備、全軍整いました」
「よし」
立ち上がる皇太子。
「進軍の指示を出せ。いつも通りだ、細かいことは任せる」
「畏まりました」
全身を真紅の鎧で包んだ騎士は一礼し、すぐに外に出て行く。たちまち、天幕のまわりでときの声が上がり、重々しい足音が動き始めた。
二日後、フェアウェルはあっけなく陥落した。
破れた国の王は、妻たちの目の前で、敵将の飛竜のエサにされた。そして、遺された王妃と王女はサマランカに連れ去られた。エドガーの欲望のはけ口となるためだけに。
「今回も見事な御采配です、皇太子殿下」
あの真紅の騎士が、死体の山を見下ろすエドガーに声をかけた。
「当然だ」
非難と、怒りと、悲しみと、そして絶望の声が、破壊された王城の庭園を包み込む。
「お前がいるのだからな。勝たない方がおかしい」
「ありがたきお言葉にございます」
真紅の騎士は少し嬉しそうな声を出した。
「次は」
それに気付かないのか、エドガーは続けた。
「久々に一騎討ちで国を取りたい。目星をつけておけ」
「畏まりました」
「帰るぞ」
「はっ!」
踵を返す主人に、騎士は付き従った。
エドガーの言う一騎討ちとは、国をかけて行う命懸けの決闘である。これから侵略しようとする国から一人の剣士を募り、一対一でエドガーと戦うのだ。
もし、相手国の剣士が勝てば、エドガーは侵略をあきらめる。兵を引き、少なくとも彼が生きている間は、もう二度と攻め込むことはない。
もちろんエドガーが勝てば、その国はサマランカに蹂躪される。それはもう、目も当てられないほどに。
このような条件でも、国によっては飲まなければならないこともある。あからさまに国力が弱い場合、一騎討ちの方が勝算ありとみるからだ。
だが。
今のところ、エドガーが一騎討ちで負けた試しはなかった。
負けるはずがないのだ。
エドガーの黄金の右目は、邪眼だった。これは、睨み付けた相手の心を自在にコントロール出来る能力を持つ。生まれつき彼に備わった、最大にして最強の武器だった。
一騎討ちとなれば、戦っているうちに相手はいつか必ず彼の目を見る。金色に輝く、恐ろしい悪魔の目を。
その一瞬のうちに、相手はエドガーの操り人形となる。
剣を取り落としたり、戦意を喪失したり…または、自ら、エドガーの剣の餌食となる。
魔法ではないのでいくら魔法に抵抗力のある者でもかなうはずもなく、彼の前ではあわれな敗者と成り果てる。
そして、この能力は内政でも発揮されていた。強引で残虐なやり方に異を唱えていた忠臣たちも、今は彼の道具にすぎない。能力だけを残し、ただ忠実に黙々と職務を執り行う便利な道具たちが、サマランカ皇太子の手足として働いていた。
何もかも。
エドガーのモノでないものなど、なかった。
ルシヨン、という帝国の一地方がある。ここも、多分に漏れず、数年前まではルシヨン公国という弱小国だった。
このルシヨン出身の流れ者の傭兵、キース・ヘントは、職を求めてサマランカの城下へやって来ていた。
だが、それは表向き。本当の目的は、専制君主であるエドガーの打倒だった。彼には、忘れることなど出来なかった。
あの日の一騎討ち。
国王の親衛隊長で、ルシヨン一の剣の腕を持つ女剣士ティート・インは、エドガーの前に破れた。十二歳の誕生日を迎え、初めて戦場に出ることを許されたキースは、その一部始終を見て、そして知っていた。
彼女が自ら負けたことを。
数度剣を打ち合わせ、そしてあろうことか、ティートは自ら剣を捨てた。
何故。その行動は、まるで理解できないものだった。
己の肩を抱いてうずくまるティートの姿。皇太子の勝利の宣言。雲霞のように攻め寄せてくるサマランカ兵。今でもそれは、彼の記憶に鮮烈に残っている。他のルシヨン兵たちの助けもあって、キースは何とか戦場から脱出したが、ティートの姿は消えうせていた。
兄弟のいないキースにとって、彼女は実の姉のような女性だった。剣を教え、人の道を教えてくれた彼女が、なぜ自分から剣を捨て、国までも捨ててしまったのか。それを知りたくて、彼はティートを探し始めた。
一騎討ちで負けた女戦士は例外なく皇太子の慰みものになると聞いて、あちこちを探し回ってもみたが、彼女が連れ去られたという話の一つもない。危険を冒してサマランカ城下まで来たというのに、やっぱり彼女の姿は見当たらなかった。
つまり、死んだ、ということ。
ここ数日の間、彼は自分にそう言い聞かせ続けた。そして、復讐を誓った。サマランカ軍に入り、奴の信頼を得るまで、心を鬼にして耐えるのだ。そうすれば、いつか必ずあの男を倒せる…!
そう決心して、ついに彼は重い腰を上げた。
城に行こう。
暗い足取りで、街を歩く。賑わいのない、妙に静かな街を。恐怖政治に脅え、生気の無い人々の間を抜けて。
いろいろと渡り歩いて来た他の街と比べると、市場ですら静かに感じる。
その時。
「おっと、ごめんなさい」
軽く肩が当った女性が、小さく会釈した。
「あ、こちらこそ」
振り返るキースの目に飛び込んで来たのは、ショートカットの赤毛の女性。驚きに見開かれる赤の瞳が、彼を捉えた。
「キッ…」
口から出そうになった言葉を無理矢理飲み込んで、あわてて顔を背ける。
「し、失礼!」
踵を返す彼女を、キースは捕まえた。
「待って!」
周りの人々は、何が起こっても反応がない。キースは力強く腕を引き、その女性を引き寄せた。
「あなたは…!」
市民にまぎれるためか、ラフな身なりをしているが、見間違えるはずはなかった。キースは、低く小さな声で、彼女の名前を呼んだ。
「姉上…ティートでしょう」
「違います。離して」
眉をひそめ、彼女は腕を振り払おうとした。細く見えるが、筋肉質で締まっている。やっぱり、ティートに間違いない。
キースは手首を握る手に力を込め、さらに彼女を引き寄せた。
「僕があなたを忘れたとでも思っているのか?こんなに…探したのに」
「……」
女性の顔がみるみる曇っていく。買い物袋をぎゅっ、と強く胸に抱え、絞り出すように出した返事には、抑揚がなかった。
「この街から立ち去って下さい、キース様」
「何を…」
「殺されます。どうか、お願いですから」
「何を言ってるんだ!」
心配したのに、探したのに。
その表情を察したのか、ティートは告げた。
「あなたのご存知のティートは、もうどんなに探しても見つかりません。命が惜しいなら、この街を出ていってください」
「な……」
呆然とする。その緩んだ手を一気に振り解き、彼女は走り出した。
「あっ……ま、待って!ティート!」
だが。
人込みに紛れ、懐かしい人の姿はすぐに見えなくなった。
「どうして…」
ただ、キースは立ち尽くした。
「アニタ、戻ったか」
「はい」
誰もいない広間。
皇太子は、メイドを呼んだ。長い黒髪に赤い瞳の、一番お気に入りの娘が彼の足元にひざまずいた。
「これを」
主人は一通の書簡を取り出した。
「はい、承りました」
宛名は書いていない。だが、アニタはそれを受け取ると、すぐに手を叩いて人を呼んだ。すぐさま無表情な兵士が一人飛んで来た。
「トリールへ、二日以内で」
こくり。
何も言わずに書簡を胸元にしまうと、彼は広間から消え失せた。
「一週間だ」
アニタを手招きし、エドガーは告げた。
「あと千人、兵士を補充しておけ」
「はい」
メイドは素直にうなずく。
「それから、地下牢の女ども…何人かいたろう」
「フェアウェルの王女と王妃…あと、貴族の娘達も」
「処分しろ」
どんなことでも、アニタは従う。
「はい、かしこまりました」
笑顔で、うなずく。ただ、主人のために。
キースは悩んでいた。
「命が惜しいなら、お帰りなさい」
きっぱりと冷たい口調でそう告げた、彼女の顔が目の前をちらついて離れない。
姉とも慕う愛する女性が生きていた…それも、元気そうだった。あの鬼畜と恐れられるエドガーの毒牙にかかりながら、何とか逃げおおせたのかもしれない。
それなのに、何故あんな事を言う?
しかも、僕から逃げ出した…あの時、一騎討ちで負けたことを恥じているにしては、態度が妙だ。そもそも、危険なはずのこの街で暮らしているなんて。
考えても分からない。
だが、少なくとも、ティートが近くにいることは分かったのだ。この辺りをうろうろしていれば、必ずまた会えるはず。
「そうしたら、今度はちゃんと捕まえて…」
コン…コン。
その時、宿屋のドアが控えめにノックされた。
「あのう…」
小さな声。
「はい?」
キースは身構えながら返事をした。
そっと、剣を手に取る。
帝国の兵士か。僕のことがバレた…?
「開いてますよ…どうぞ」
「それじゃ、失礼します」
静かにドアが開く。顔をのぞかせたのは、まだ十代前半ぐらいの子供だった。可愛い顔つきなので、男か女かはよく分からないが、とにかく見たことのない人間だった。
「…誰だ?」
キースはベッドに腰かけ、シーツで手元を隠しながら尋ねた。
「あの…」
子供は後ろ手にドアを閉め、もっと小さな声で言った。
「ルシヨン公国の…キース公子様、ですよね?」
「!」
キースの顔がこわばった。
その通りだから。
エドガーは、滅ぼした国の王族は、徹底的に探し出して殺してしまう。少しでも血が繋がっていれば、どんなに身分が低かろうと関係ない。反乱を防ぐために必要なことだとキースも理解していた。
それ故に、キースは逃げていた。混乱する戦場の中で、ルシヨンの兵士たちは、とにかく公子を逃がすことを一番に考えて行動してくれ、それは成功した。サマランカの中にキースの顔を知っている者がいなかったのも幸いし、こうして今、生き延びてどうにか暮らしているのだ。
だが、身分がばれたらどうなる?
彼は、じっとりと汗ばむ手で剣を握りながら、笑顔を作った。
「何の話だい?僕は…」
「いいんです、隠さなくても」
子供はほっとしたように微笑んだ。
「お探ししておりました。打倒エドガーの旗印となる、正当な王子達を」
そして、キースの足元に平伏した。
「どうか私たちと共においで下さい」
「…君の言ったことが嘘ではないと、どうやって証明する?」
罠かもしれないから、慎重にならざるをえない。
「トラリー伯爵がお待ちです」
それは、ルシヨンの忠臣の名前だった。
「…トラリーが?生きているのか?」
「はい。ですから、どうか」
キースは少しだけ逡巡し…そして、剣を収めた。
「分かった。行こう」
静かだ。
いつでも、どんな時も。
ゆっくりと髪の毛を梳いてくれる細い指が心地よい。
皇太子エドガーは、壁に揺れる蝋燭の炎をぼんやりと眺めながら、ベッドに横たわっていた。調度品のない広い部屋の真ん中に、ただ置いてあるだけの大きなベッドの上に。
分かっている。
自分がやっていることが、多くの人々の恨みを買うことぐらい知っている。多すぎる血を流し、怨嗟の声を聞いた。
だが、と彼は思う。
必要なことだ。
大陸を統一するには、誰かがやらなければならない。恨みたいなら恨ませておけばいい。
「…喉が渇いた」
子供のように、彼は膝枕してくれているアニタの顔を見上げた。
顕わになった左の目は、普通の人間と同じ、柔らかく澄んだ蒼い色をしていた。
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
主人の頭をそっと枕の上にうつして、メイドは立ち上がった。
「少しだけお待ち下さい」
「うん」
彼女は静かにベッドから離れた。エドガーはだるそうに頭だけ持ち上げてその様子を見るともなく眺めていた。
ドアを開けて、彼女が出て行く。
誰かの小細工を防ぐため、皇太子の私室にはベッドとテーブルと椅子しかない。ワイン一本でも、他の使用人と同じ物を飲むことで、彼は自分を守る。
「ふわぁ……」
格子のはまった窓は侵入者を拒み、飾り気のない壁には暗殺者が潜む影もない。この部屋には天井裏もないのだ。
のんびりとあくびしながら、待つことしばし。
ガチャーン!!
廊下で、ガラスの割れる音がした。
「…?」
優秀なメイドであるアニタは、あまりそのような粗相をしない娘だ。
「アニタ?」
皇太子は、ただならぬ気配を感じて立ち上がった。剣を手に、ドアを開ける。
「どうした……?」
だが。
そこに、人影はなかった。
「?」
足を踏み出すと、ぺちゃ、と水の音がした。ぷんと立ち上る、酒の香り。
ワインの瓶とグラスの破片が廊下に散らばっていた。それから、アニタの靴の片方も。
まさか…かどわかされた?アニタが?
瞬時に状況を理解して、エドガーは眉をひそめた。
「私の玩具に手を出した罪は重いぞ」
赤紫色に染まった手紙を拾いあげ、彼は笑った。金の瞳が細く、細く笑った。