ああ、あの人に見てほしい。
裕福な婚約者が贅をこらしてあつらえた、上等な白の花嫁衣装。それを着て、少女はまだ明け切らぬ朝靄の中をひた走った。
喜んでくれるかしら。きれいだと言ってくれるかしら。
家人が目を覚ます前に戻らなくちゃ、と彼女は暗い道を急いだ。
彼に初めて出会ったのは三年前、彼女がまだ十四歳の時だった。近くの林にコケモモ採りに行った彼女は、いつのまにか小さな洞穴の前まで来ていた。そこは、絶対に入ってはいけないと両親にきつく言われたところだった。
冷たい風が吹いてきて、少女の頬をなでる。
「は…入らなきゃ、大丈夫よね」
彼女は自分に言聞かせ、その場を立ち去ろうとした。
再び風が吹き、それと共に、美しいメロディが聞こえてきた。若い男の歌う、切なげな声。
コケモモをたっぷり入れた篭を握り締め、少女は洞穴を振り返った。何故来てはいけないのか、ということは聞いていなかった。ただ、都から偉い人が来て、ここに近付くなと言ったらしい。
「…よし」
少女は一人でうなずいた。
誰か来て歌っているぐらいなんだから、大丈夫。怖そうだったら途中で帰っちゃえばいいんだから。
好奇心と美しい歌声にひかれて、彼女は洞穴に踏み込んだ。狭いながら足元はしっかりしており、子供の足でも容易に奥まで来ることが出来た。入り口からの光が途絶えると、今度は行く手から淡い青い光が差してくる。魔法の光かしら、と思いながら、彼女はそっと通路の先をのぞいた。
同時に、歌も止まった。
「…誰かいるのか?」
優しげな男の声が聞こえた。
「こっちへ来て、顔を見せてくれよ。俺はここから動けないんだ」
少女はどきどきする胸を服の上から押さえて、呼吸を整えた。
なんて素敵な声…素敵な人!
ほつれた髪を手ぐしで直し、精一杯スカートの汚れをはたいて、彼女はそっと進み出た。
予想していたのよりはるかにかっこいい青年が、少し広くなったところの中央に座っていた。長くて真直ぐの青い髪、優しい光をたたえた青い瞳。田舎者の農村の男しか知らない彼女には、その男の美しさにただ息を飲んで見守るしか出来なかった。髪の間からゆるやかな螺旋を描いて生えている象牙色の角も、細く長く尖った耳も、背中に広がる翼も、まるで問題にはならなかった。とにかく彼は美しかったのだ。
「もっとこっちへおいで」
言われるまま、彼女は部屋の中央へと歩いた。よく見ると、床に丸い円が描かれている。彼女はその手前で立ち止まった。
「コケモモか…うまそうだな」
青年は微笑んだ。
「…食べる?」
「残念だけど、食べられないんだ」
「どうして?」
少女の問いに、青年はすっと手を伸ばした。その手が円のところで止まる。見えない壁があるのが分かった。
「お兄ちゃんはここから出られないんだ。君もここには入れない。コケモモ、食べたかったのになあ」
本当に残念そうなその様子に、少女も何だか悲しくなってきた。
「じゃあ、お兄ちゃん何も食べられないの?…お腹がすいて、死んじゃわないの?」
「心配してくれてありがとう」
彼は笑った。
「でも、お兄ちゃんは人間じゃないから大丈夫なんだよ」
「人間じゃない…」
少女は初めて気が付いたように、見えない壁に両手を突いて彼の頭を見上げた。
「角があるのね…耳も長いわ。お兄ちゃん、一体何なの?」
尋ねると、彼は少し情けない顔をした。
「お兄ちゃんは悪魔なんだよ。都の大司教様に捕まって、ここに閉じ込められたんだ」
「じゃあ…お兄ちゃんは、悪い人なの?」
「いや」
優しい笑顔。お伽話で聞いて想像していたものとは、まるで違う。怖いとは微塵も思わなかった。
「悪いのは、大司教の方なんだ。聞いてくれるかい、お嬢ちゃん」
そんなことを言って泣き付いてくる男の、一体どこが悪魔だというのだ。少女は何だか可哀相になってきた。
「何があったの?」
「大司教は、俺の恋人を奪ったんだよ!」
彼は本気で怒っていた。
「しかも、俺が取り返しに行けないようにこんなところに封印しやがって…くっそー」
悪いとは思いながら、少女はくすくすと笑い始めた。青年はたちまち情けない顔になった。
「…笑わないでくれよ、お嬢ちゃん。辛いんだぜ、悪魔だって」
「うん…ごめんなさい」
少女が笑うのをやめると、彼もにっこりと微笑んだ。
「さてと。あんまり長い間ここにいるとまずいんじゃないのかい?お父さんやお母さんに叱られるぜ」
「あっ!いけない!」
「早く帰りな」
悪魔は茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「あ、でも、ここに来たことは内緒だぜ。他の奴らの見せ物になるのはごめんだし、君だって怒られたくないだろう」
「誰にも言わない。約束するわ」
少女もウィンクを返した。そして、可愛らしく小首を傾げて尋ねた。
「あなたの名前は?」
「俺はラファエル」
悪魔は答えた。
「君は?」
「わたし、チェリーよ」
足元に置いたコケモモの篭を拾い上げ、彼女は言った。
「ここに、また来てもいいかしら」
すると、ラファエルは嬉しそうに笑った。
「君さえ良ければ、俺はいつでも待っているよ」
それからというもの、チェリーは数日おきにラファエルのところへ行くようになった。数千歳だというラファエルはいろんなことを知っていて、少しずつ彼女に教えてくれた。読み書き計算はもちろん、歌や踊り、化粧の仕方から礼儀作法まで、農家の娘には必要のないことまでも。持ち前の好奇心と素質の良さで彼女は全てを吸収し、一年たつうちに、チェリーはどこに出しても恥ずかしくない立派な淑女に成長していた。そして、両親は、いつのまにか美しく、賢くなった娘を不思議がっていた。
「チェリーは一体誰に教えを乞っているんだろう」
娘が眠ってしまった夜、父親は母親に疑問を投げ掛けた。
「知りませんよ。でも、悪いことを教わっているんじゃないんだからいいじゃありませんか」
「それはそうだが…やはり、気になる」
彼は頬杖をついた。
「あれだけのことを教えられる人だ。相当の貴人と見て間違いはないだろう。そうなると」
自然と、父の顔が緩む。
「我が娘はそれほどの御仁のお眼鏡にかなったということになるな。そのうち、立派な馬車にでも乗ってチェリーを花嫁として迎えに来てくれるんじゃないか?」
「まさか」
「だが、それぐらいしか考えられんぞ」
彼は自信たっぷりに言った。
「こんな田舎の小娘にものを教えても何の得にもならんことは、お前にだって分かるだろう。チェリーは気に入られたんだ」
「そうねえ…」
母親は考えてみたが、確かに他の可能性は薄い。
「新手の人買いかしら?でも、売り飛ばすつもりなら、読み書きなど必要ないものねえ。歌や化粧だけ教えればいいものね」
「そうだろう?大体人買いが、こんなに手の込んだことをするもんか」
そうなると、その貴人とは一体誰かが気になってくるのが人の常である。親たちの想像はとどまるところを知らなかった。
そして、翌日、二人は出掛けたふりをして娘の後をつけたのである。
チェリーはいつもの通り、身仕度をして家を出た。時折辺りを見回しながら、足早に林の中へと向かう。だが、嬉しそうな笑顔を浮かべながら娘が入っていったのは、恐ろしい洞穴だった。
「あなた…あそこは」
「大司教様が魔物を封印したとかいう場所じゃないか」
二人は互いの顔を見合わせた。
「あの中で待ち合わせているのか」
父親は首を傾げた。
「確かにここなら、他の村人は絶対に近付かないな。貴人が来ても、気が付かないはずだ」
「そうねえ」
母親はうなずいた。
「でも、魔物がいるのに、危なくないのかしら」
「…のぞいてみるか」
薮の中から立ち上がり、二人は洞穴の入り口をのぞきこんだ。冷たい風と共に、楽しそうに談笑している声が聞こえてくる。聞いたことのない若い男の声に、両親の胸は期待に高鳴った。迷いはあったものの、娘の、おそらく恋人であろう男を見たいが故に、二人は洞穴の中へ入っていった。
そして、一年前、彼らの娘がどきどきしながら踏みだした時と同じように、彼らは淡い青い光の向こうをそっと覗き込んだ。
「誰だっ!」
鋭い誰何の声が上がった。
チェリーが驚いて振り返り、立ち上がる。
「どうしたの、ラファエル?」
「その向こうに誰かいるぞ」
青年は言った。
両親は、息を殺して様子を伺っていた。
見てはいけないものを見てしまったことに気が付いて激しく後悔しながら、同時に恐怖と怒りに震えていた。
「…あの男は、何だ」
父親は傍らで凍りついている妻に尋ねてみた。
「知らないわ」
彼女は答えた。
「でも…あれは、人間じゃない」
象牙色の螺旋の角、細く尖った耳、背中を覆う青い翼。それさえなければ、何と美しい青年だと思ったことだろう。だが、二人は、彼を受け入れるにはあまりにも年を取り過ぎていた。
「誰かがつけてきたんだろう。のぞいてみろ、どうせ同じ村の人間だろう」
優しい声は、悪魔のささやきに聞こえる。はい、と従順に答える娘は、だまされているとしか思えなかった。
「あら…お父さん、お母さん!」
二人の前に現われたチェリーは、思わず声を上げた。
「チェリー」
父親は気の抜けた声で返事をした。
「今日は町へ行ったんじゃなかったの?」
「あの男は何者なんだ?」
尋ねると、娘は眉を釣り上げた。
「…嘘をついたのね。わたしの後をつけてきたんでしょう!ひどいわ!」
「お前のことが心配だったんだ」
父親は情けない声を出した。母親は夫の肩を抱き、娘を見つめた。
「あの人は…悪魔ね。大司教様が封印したという魔物なのね?」
「ええ、そうよ」
チェリーは誇らしく胸を張った。
「でも、お父さんたちが思っているような悪い人じゃないわ。信じて」
「……」
二人には、何と答えてやればいいのか分からなかった。両親はお互いに顔を見合わせ、言葉を失ってうつむいた。
その時、洞穴の奥からラファエルが声をかけてきた。
「俺の見えないところで話をされても、困るんだが…チェリー、君のご両親だというなら、こっちへ来てもらったらどうだ?」
「そうね」
チェリーは微笑んだ。
「お父さん、お母さん。ラファエルもああ言ってくれているわ。どう、直接話をしてみない?」
娘の提案に、二人はただうなずくしかできなかった。
ラファエルと名乗った悪魔は、外見が美しいだけではなく、非常に礼儀正しい青年だった。彼はチェリーが両親を連れてきたのを見て、丁寧に片膝をついて礼をした。
「はじめまして。俺はラファエルという。見た通り、悪魔だ」
「は、はじめまして…」
当たり前だが、両親はとても緊張していた。がちがちになって礼を返す二人に、チェリーがぷっと笑った。
「大丈夫よ。ラファエルは封印されているの。その魔法陣の中から出てくることは出来ないのよ」
「何も取って食おうっていうんじゃないから、安心してくれ」
ラファエルも苦笑しながら言った。
「地べたで悪いが、まあ座ってくれ。椅子なんて気の利いたものがないんでな」
「はあ…」
両親は呆然としながらも、床に座った。チェリーは魔法陣のすぐ脇、丁度ラファエルの横に座って二人と向かいあった。
「この人がわたしの先生よ。悪魔だから紹介できなかったの…許してね」
「ええ、ええ、それは分かるわ」
先に立直ったのは母親の方だった。彼女はただじっとラファエルを見ているだけの父親を横目で見ながら、口を開いた。
「でも…一体どうして、うちの娘にこんな立派な教育をして下さったの?こんな田舎娘を育てても、あなたには何の得にもならないでしょう?」
「確かに」
ラファエルは笑った。
「暇つぶし、というのが一番正しいかな。ここに封印されて、他に何もすることがなかったんだ。退屈していたところに、あなた方のお嬢さんが遊びに来てくれた。その礼と言ったら信じてもらえるだろうか」
二人は、悪魔と、自分の娘とを代わる代わる見比べた。人好きのするにこやかな笑顔の悪魔。彼らの思い浮べていた魔物とは、まるで違う美青年。
母親は理解した。だが、父親には出来なかった。
彼は立ち上がり、チェリーの腕を取った。
「帰ろう、チェリー」
「お父さん?」
「お前はだまされているんだ」
父親は言った。
「悪魔が親切でそんなことをすると思うのか!幸いにも、こいつはここに封印されている。だから、お前さえ近付かなければ」
「何を言っているの、お父さん」
チェリーは父の手を振り払った。
「ラファエルは悪くなんかないわ!」
「悪魔だぞ!」
有無を言わせぬ口調だった。彼はラファエルの方に向き直り、きっぱりと言い切った。
「わしには貴様を信じることなど出来ん。娘をここまでしてくれた礼は言うが、これ以上構わないで貰いたい」
「あなた…」
母親が何かを言いかけたが、父親は一瞥して彼女を制した。
「チェリーは町へ連れていって、貴族の家で奉公させる。ここには、二度と来てはならん!」
「そんなの嫌っ!」
「うるさい、黙れっ!」
甲高い音がした。平手打ちを食らったチェリーは、母親に抱き留められてうなだれた。ラファエルはその様子をじっと黙って見つめていたが、やがて口を開いた。
「お父さんの言うことはもっともだ、チェリー」
「…ラファエル?」
「俺は悪魔だ。封印が解けた瞬間に、君を取って食うかもしれない。それが嫌なら、もうここへは来ないことだ」
青い瞳は、真直ぐに彼女を捕えた。
「教えることはもうない。どこへ行っても通用するほどの知性と教養は備わっている。お父さんの言う通り、都会へ行って貴族の家で働いてみたらどうだ?君はかわいいし、頭もいい。必ず、素晴らしい恋人が出来るだろう」
「ラファエル…いや」
彼女は頭を振った。
「わたしは…あなたが好きなのに」
「忘れたのか?俺には恋人がいると言ったはずだ」
意地悪な笑み。チェリーは涙を浮かべ、ラファエルを見上げた。悪魔は娘の両親に視線を移し、笑いながら言った。
「早く帰ったほうがいいんじゃないのか?あんなことを言っているぞ」
「言われなくとも、もう帰る!」
父親は吐き捨てるように言った。そのままうなだれた娘の腕をつかんで引いた。チェリーは力なく、引かれるままラファエルの傍を離れた。
「さよなら、チェリー」
ラファエルが言った。
「お世話になりました」
母親が頭を下げる。そして、三人は去っていった。来たときと同じように、静かに。
ラファエルは魔法陣の中に、一人取り残された。