紫翼の天使
序章 〜 封印 〜


 あれから二年。
 貴族の家で働き始めたチェリーは、ラファエルの言った通り、その屋敷の一人息子の目に止まった。向こうの親も、そしてもちろんチェリーの両親も非常に乗り気で、二人は結婚の約束を交わした。相手の青年はそこそこの容貌で、チェリーのことを一途に想ってくれていた。
 それでも、彼女の心に住みついた悪魔は、意地の悪いことに、いつまでたっても出ていこうとはしなかった。
 婚約者のことは、確かに愛している。だが、何かにつけラファエルのことを思い出すのだ。
 豪華な花嫁衣装をもらい、いよいよ数日後には結婚式というある日、チェリーは婚約者に頼み込んだ。
 「父や母と一緒にしばらく過ごしたいの…村の人にも会っておきたいし。ねえ、いいでしょう?」
 愛しい彼女の言葉に、青年は賛成してくれた。チェリーはドレスを手に、婚約者を伴って再び故郷の村に帰ってきた。
 そう、ラファエルに会うために。
 林の中を慎重にくぐりぬけ、彼女は洞穴の前にたどり着いた。耳をすますと、冷たい風と共に、かすかなささやき声が聞こえてきた。悪魔はまだ封印の中にいるのだ。
 チェリーはドレスの裾をまくし上げて、洞穴の中に踏み込んだ。淡い青い光が昔と同じように辺りを照らしていた。
 ああ、あの人に会える。
 幸せな気持ちが彼女を満たしていた。

 不安な気持ちに苛まれ、チェリーの両親は早くに目覚めた。
 娘の寝床をのぞいた二人は、その姿がないのを見ても、さして驚かなかった。やはりそうか、という思いの方が強かった。
 「迎えに行くぞ」
 父親はさっさと着替え始めた。母親はそんな夫の姿を眺めていたが、ぽつり、とつぶやいた。
 「心配しなくても帰ってくるわよ、あの子は」
 「何故そんなことが言える?」
 「そんな気がするのよ」
 「…気がするだけだろうが」
 彼は妻を非難した。
 「あいつは悪魔だぞ。またチェリーを誘惑するに決まっている」
 「誘惑ねえ」
 妻は首を傾げた。
 「あのラファエルという悪魔は、あなたが思っているほど邪悪な性格じゃないようですけどねえ」
 「お前まで、そんなことを」
 すっかり準備の整った父親は、立ち上がって彼女を見下ろした。
 「猫をかぶっているだけだ。分からないのか」
 「…あたしは行きませんからね。あなた一人で行ってらっしゃい」
 彼女はそう言って、窓の外に視線をやった。闇の中に黒々とした木立が見える。その中に、青い光の点がぽつっと灯った。
 「…?」
 よく見ようと、身を乗り出す。
 爆音とも轟音ともつかないような鈍く激しい音と共に、青い光は巨大な柱となって、天を突いた。
 「何だっ、あれは!」
 父親が叫んだ。
 「あの、悪魔のところか?」
 何が起こったんだ。
 急激に収束していく青い光。
 二人は、家を飛び出した。

 青い光が輝きを増す中、呪文の詠唱をするラファエル。見えない壁がいやいやをするように白い光を放ち、陽炎のようにゆらめく。
 チェリーは一部始終を見ていた。
 魔法陣が壊れ、結界が砕けてラファエルが自由になる様を。そして、洞穴が崩れて自分がその下敷きになる様を。
 「チェリー!」
 ラファエルの声が聞こえた。
 「どうして、ここへっ!もう二度と来ないと約束したじゃないか!」
 瓦礫の下から救いだしてくれる力強い手。
 「ああ…ドレスが」
 破れてしまった…
 「あなたに、見て欲しかったのに」
 「いいから!今は何も言うな」
 ラファエルは傷だらけの彼女を胸に抱いたまま、自分の唇を噛み切った。
 「チェリー…」
 冷たい唇が、チェリーの唇に重なった。

 「お父さん、お母さんっ!」
 林の中へと急ぐ二人に、娘の婚約者もついてきていた。
 「何ですか、今のは?」
 だが、返事はない。
 「気が付いたらチェリーはいなくなってるし…何か知っているんなら、教えてください!」
 青年がそう言った途端、二人は振り返って彼を立ち止まらせた。
 「帰ってくれたまえ」
 父親が言った。
 「これは、わたしたち親子の問題なんだ。君には絶対に悪いようにはしないから、わたしたちを信じて家で待っていてくれないか」
 「ですが…」
 「お願いよ。チェリーのことを思うなら、帰ってください」
 青年はうろたえた。チェリーもこの両親も、今まで彼に隠し事などしたことはなかったのに。
 立ち尽くす彼を見て、二人はうなずきあい、地面に膝をついた。
 「この通りだ…!帰ってくれ、頼む」
 「お願いします」
 「…顔を上げてください」
 彼は言った。
 「一体何がどうしたと言うんですか。きちんと説明してもらえなければ、僕は帰れません」
 「これだけは」
 父親は額を地面にこすりつけた。
 娘が悪魔に会いに行ったなどと、一体どこの誰に言えよう?ましてや、娘を愛してくれている男にそんなことを言ったら最後、どうなることやら見当もつかない。
 その時、二人の背後の薮ががさっと音をたてて動いた。
 振り返った両親は、そこに、見てはならないものを見てしまった。
 「ラファエル…なぜ、ここに!」

 ラファエルは、その両腕に気を失ったチェリーを抱いていた。幸いなことに、角も耳も隠しているらしく、とりあえず普通の人間に見える。
 「やあ…お父さん、お母さん…久しぶり」
 彼は苦笑しながら言った。
 だが、それどころではない。ぐったりと目を閉じた娘を見て、父親は即座に立ち上がった。ラファエルに近付いて、小さな声で詰問する。
 「貴様っ…一体、どうして」
 が、怒りのあまり、声が詰まる。ラファエルは、同じように声をひそめた。
 「話は聞いたが…あれがチェリーの婚約者か」
 「そうだ」
 すると。
 悪魔は困ったような、だがしれっとした笑顔を見せて答えた。
 「いや、魔法の練習をしていたら暴発させちゃってさ。まさか、近くにチェリーが来てたとは知らなかったんだ」
 「このっ、大馬鹿野郎!」
 父は思わず叫んでいた。
 「チェリーはもうすぐ結婚するんだぞ!そんな大事な時に、何をやってるんだ!」
 「いや…その、悪いと思ってるよ」
 邪気のない笑顔に、婚約者はおずおずと口を開いた。
 「失礼ですが、あなたは…?」
 「チェリーの兄だ」
 両親が何と言おうか迷っているうちに、ラファエルはさっさと答えてしまった。あっけにとられて見つめる二人にウィンクを送り、彼は続けた。
 「いつもふらふら遊び歩いてるもんだから、かわいい妹が結婚するとはついぞ知らなかった」
 「ですが…お兄さんがいるとは聞いていませんでしたよ」
 「そ…それは」
 母親が答えた。
 「この子ったらいつもこんな調子で遊んでばかりいたもんだから、ずっと昔に勘当したのよ。わけの分からない魔法ばっかり使って、恥ずかしくてとてもこれが我が子とは言えなかったの」
 そう言ってラファエルを見上げると、彼は我が意を得たりとばかりに微笑んだ。父親もそれに気が付いて続けた。
 「どうか、わたしたちにこんな馬鹿息子がいることは、誰にも黙っておいて下さい」
 「馬鹿息子だなんて、そんな…立派そうな人じゃないですか」
 婚約者の笑顔に、父親は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
 「立派なのは見た目だけだ」
 「まあまあ、そんなに言わなくてもいいじゃないですか。ねえ、お兄さん」
 青年は笑って、背の高い兄を見上げた。
 「もちろんあなたも、結婚式に来てくださいますよね?」
 「いや」
 ラファエルは首を振った。
 「俺は、そういうのは苦手でな。遠慮するよ」
 そして、胸に抱いたチェリーを婚約者にそっと手渡した。
 「あれっ?このドレスは…?」
 「すまない」
 兄は茶目っ気たっぷりにウィンクした。
 「せっかく君がくれたものなのに、俺が破ってしまってね。新しいのを魔法で作ってみたんだがどうだろう?」
 「魔法で?…素晴らしい出来ですよ」
 「気に入ってもらえて良かった」
 淡い青のドレスの花嫁を抱いて、婚約者はラファエルを見上げた。彼は一歩下がり、そして、一瞬、背筋の凍るような恐ろしい笑みを見せた。
 「絶対に悲しませるなよ」
 彼は言った。
 「もしチェリーが涙を流すようなことがあってみろ。例えどこにいても、俺は君を殺しに行く」
 「ち…誓います!」
 有無を言わせぬ迫力に、青年は誓った。
 目に見えぬ女神に誓約の言葉を述べるより、目の前の悪魔と交わした約束の方がはるかに重い。
 そうと気が付かなくても、青年は、誓いを破ることはないだろう。
 「ようし、それでいい」
 ラファエルは微笑み、彼に背を向けた。
 「ラ…ラファエル」
 その時、父親がおずおずと声をかけた。
 「…本当に、結婚式には出てくれないのか」
 「あなた」
 驚く母親の手を握り、父親は言った。
 「ラファエル」
 「お父さん、お母さん、俺はもう行く」
 彼は振り返らずに答えた。
 「チェリーのきれいな姿なら、もう十分見せてもらった。それに」
 「それに…?」
 「息子だと言ってくれたな。結構、嬉しかったぜ」
 三人が見守る中、彼は静かに林の奥へと消えていった。
 「たまには顔を見せろよ、性悪息子!」
 父親が叫ぶと、手を振ったのがちらりと見えた。
 「でも…多分、もう、帰ってこないでしょうね」
 母親がつぶやいた。父親も、黙ったままうなずいた。

 「そう…ラファエルは、行ってしまったの」
 日が昇った頃目を覚ましたチェリーは、母親から話を聞いて、満足そうにうなずいた。
 「わたしの花嫁衣装、見てもらえたのね」
 「きれいだと言っていたわ。でも、ダメにしてしまって本当にごめんって…そして、あそこに置いてあるものは、全部彼からの贈り物よ」
 淡いブルーの花嫁衣装に、それに合わせたブルーサファイアのアクセサリー。婚約者は後からそれを全部検分して、とんでもない魔法使いだとひどく驚いていたという。
 「そりゃあそうよねえ。あの人に勝てる魔法使いなんて、都の大司教様ぐらいのもんでしょう」
 「そうね。でも」
 チェリーは壁にかけてあるドレスに目をやった。青い宝石が、ちょうど彼の瞳のように輝いていた。
 「あの封印を解いたんだから、今なら、もう勝てるはずよ」
 「いつのまに、大した息子を持ったものだわ」
 母娘は楽しそうに笑った。


序章〜封印・終

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