私慾の天使



 「やめて」
 彼女は言った。
 「お願いだから、もうやめて」
 静かな声だったが、それは、戦場にいる誰の耳にもきちんと届いた。
 「サロメ」
 だから、全員が動きを止めて、そちらを見た。
 オズボーンの、キューブの、攻撃に転じようとしていた手が止まる。アクエリアスはゆっくりと振り返り、彼女が現れるのを待った。
 「アクエリアス」
 埃が晴れる。整然とした客間はすでになく、ソファは砕け散り、テーブルはばらばらに壊れている。散らばる瓦礫を踏みしめて、堕天使は静かにその場に現れた。
 「もう、いいでしょう?もう…やめてちょうだい」
 「サロメ」
 彼女の問いかけに、アクエリアスは眉を寄せた。
 「何を言ってるの?いいわけないじゃない」
 その笑顔は、引きつっていた。
 「こいつらを倒さなければ、あなたは天界へは戻れないのよ!?」
 最愛の友人に、堕天の汚れを負わせた忌まわしい魔族ども。その身にこびり付いた汚れを拭わなければ、二度と天界の門をくぐることは叶わない。それは、サロメも知っているはずだった。
 それなのに、悲しげに目を伏せて、彼女は首を振った。
 「いいの」
 「出来ないって言うんなら、代わりに私がやるから。だから」
 「いいのよ、本当に」
 サロメは小さな声で、しかしきっぱりと断った。
 「その必要はないの。あの時も、わたし言ったわ。それなのに、どうしてみんなを傷つけようとするの?」
 「それは、奴らが魔族だから」
 それは天使として、ごく正当な理由だ。しかし、堕天使は首を振ってさらに言葉を続けた。
 「記憶を消して、姿を偽って、嘘をついて……罪のない聖騎士の命を奪い、」
 そう言って、彼女の後ろに立っていたシェーンベルグを振り返る。
 「罪のない彼の心まで利用して」
 そして、サロメは、無様に床に手をついた大司教を見下ろした。
 無力な大司教には、ただ呆然と彼女たちを見上げることしか出来なかった。
 「どうしてわたしを連れ戻そうとするの?」
 「それは、あなたが…天使だから」
 乾いた唇をなめて、赤毛の天使は答える。
 「違うわ」
 堕天使はまた首を振る。
 「わたしは堕天使。ただの魔族なのよ?それはもう天によって定められた事実なのだから、もう変える事なんて出来ないのに」
 そして、そこまで言って、唇を閉ざした。一歩、二歩とアクエリアスに歩み寄り、じっと彼女の顔を見上げる。
 「そ…それは」
 答えを求める真っ直ぐな瞳。
 何年、何百年たとうと、その清らかさは何一つ変わっていない。こんなに美しいのに、一点の曇りさえ存在しないのに、何故、どうして、サロメが闇へと堕ちなければならないのだろう?
 アクエリアスは唇を噛んだ。
 「!?」
 答えの代わりにサロメを強く抱きしめて、ひときわ大きく翼を広げる。
 「――私は」
 二人を中心に、風が巻き起こる。
 「私は」
 唯一にして絶対である光の女神の意思に反してまで、彼女を取り戻しに来た理由。それは、間違いなく罪に値する。
 だから、この計画は、決して失敗してはならなかった。成功しさえすれば、多くの魔族を打ち倒して仲間を救い出したという功績のみが残る。しかし、失敗したら――
 「やめて!」
 次第に激しさを増していく竜巻に、サロメが声を上げた。
 「どうして…やめてくれないの」
 彼女の瞳に涙が浮かぶ。
 「違うのよ!」
 泣かせたくなどない。
 「私はただ」
 「もういい…いいから、やめて!」
 それは、否定の言葉だった。こんなにも、すぐそばにいるのに、アクエリアスを拒んで、大きく左右に頭を振った。
 「ラファ…」
 そして、助けを求めて悪魔の名を呼ぼうとした時。
 アクエリアスは、両腕でしっかりと抱きしめたサロメの口を、塞いだ。

 愛していた。
 幼い頃からずっと、彼女だけを見ていた。何の疑いもなく、永遠に共にいられるのだと思っていた。
 美しくて聡明で、優しくて、誰にでも公平に接することの出来る彼女。だから、彼女が堕ちたと聞いても、それを信じることは出来なかった。
 疑うことを知らないから、魔族に騙されたのよ。愚かなことにね。
 しかし、周囲から聞こえてくるのはそんなささやきばかり。一度闇に染まってしまった者を顧みようとする者などいない。
 アクエリアスは憤りを覚えた。
 それなら、私が救ってみせる。
 魔族に手を貸すなど、本来あってはならない事だが、それでもアクエリアスは、やらずにはいられなかった。彼女をたぶらかした魔族を調べ上げ、綿密に計画を立て、準備を進めた。決して失敗しないように、念入りに。
 大切な友人のため。
 最初はそのはずだった。
 それなのに、彼女に再会した瞬間に、アクエリアスは気がついた。
 誰にも、渡したくない。もう片時も離したくない――そう、誰よりも、彼女のことを愛している。
 渇望と劣情。
 自らの中に生まれてしまった罪をひた隠しにして、引き返せない道を歩き出すより他、なかった。

 ごとり、と鈍い音がした。
 白銀の剣が白い指を離れ、力なく床に横たわる。その音で、その場にいた誰もが、はっと我に返った。
 だが、誰も、何も言葉を発することもない。ただ、サロメだけが、頭を振って重ねられた唇を引き離した。苦しげに息をつき、体をよじって腕の中から逃れる。
 「アクエリアス」
 一歩、二歩と後退りながら、サロメは絞り出すように言った。
 「これ以上…罪を重ねないで」
 彼女を捕らえようとする手が空をつかみ、真っ白な羽根が一本、ふわっと宙を舞う。
 足元に舞い落ちた羽根を目で追って、アクエリアスは、ただ呆然と首を振った。
 欲望に負けて、一番やってはいけないことをやってしまった。感情だけで相手を求めるなどという行為は、魔族にも等しい。だが、それよりももっと辛いのは、目の前の愛する人に、間違いなく嫌われたであろうこと。
 顔を上げられないまま、アクエリアスは床の上の羽根に手を伸ばした。そして、そのまま視線は、吸い寄せられるように聖剣カテドラルへと移動する。
 手にした剣は、ずしりと重かった。
 「ねぇ、どうしてなの?」
 うつむいたまま、天使は質問を口にした。
 「何故、あなたは堕ちたの?一体あなたに、何の罪があるっていうの!?」
 女神から与えられた聖剣は、いまだサロメに従う意思を見せている。翼はまぶしく白く、一点の汚れもない。
 「ねぇ、一体何が…何が悪かったって言うの!」
 「わたしの罪は、誰にも拭えないの」
 血を吐くかのような叫びに、堕天使は静かに告げた。
 「わたしはね…許したの」
 自分を汚した魔族たちを。天から引きずり落とし、故郷を失わせた者たちを、サロメは許した。
 「だから、一緒には帰れない。ごめんなさい」
 そして、彼女はゆっくりと背を向けた。
 「わたしは、あなたに愛される資格なんてないのよ。分かったのなら、早く帰って」
 足を踏みだす先には、魔族たちが待っている。愛する人は、去ってしまう。
 アクエリアスは、剣を握りしめたまま叫んだ。
 「……分からないッ!!」
 だが、彼女との間に、魔族たちが立ちはだかった。
 「愚かな女よ、まだ分からんのか」
 少年の姿をした老人が、無遠慮に杖を突きつけた。
 「何よ…お前たちに、何が分かるって言うのよ!」
 髪を振り乱し、天使は吠える。手に持った聖剣で眼前の魔族を切り倒そうと、やみくもに振り回す。だが、カテドラルは重く、彼女を拒否した。
 「く…ッ」
 ただの鉄の塊のようになってしまった剣を捨て、オズボーンに拳を向ける。その手を、ガイラーが受け止めた。
 「やめな。6対1で、勝ち目があると思ってんのか」
 「そんなの関係ない!」
 アクエリアスは、がっちりと捕まれた手首を振りほどこうとやみくもに暴れた。こんな事をしている間にも、サロメは行ってしまうのだ。
 「離せ!私は…必ず、サロメを」
 「俺はな」
 なおも暴れようとする彼女を至近距離でにらみつけ、ウェアウルフは低い声で話しかけた。
 「出来りゃあこの場でお前をぶち殺してやりたい。お前のせいで、大事なモノを失くしたんだ」
 牙の並んだ口元が大きく開く。
 「ここにいる連中は全員そうさ。だが、サロメはそれを望まねぇ」
 その言葉に、アクエリアスははっと息を飲んだ。
 「分かったか。あいつはな、お前の事ももう、許してるんだよ」
 「ガイラー」
 その時、背を向けたまま、サロメがふいに口を開いた。
 「もうそれ以上、言わなくていいから」
 「でもよ」
 「おしゃべりが過ぎた様だな」
 オズボーンが、杖の先でこつんとガイラーの頭を小突く。
 「ちぇ…分かったよ」
 ガイラーは舌打ちをして、もう一度アクエリアスを見た。
 すでにその手に力はなく、彼女はただ立ち尽くし、目の前の男の顔ばかり見つめていた。
 「…ど、どうした?」
 彼が尋ねると、アクエリアスは弱々しく首を振った。
 「よく分かった…分かったから、離して」
 「あ、ああ」
 そっと、握っていた手を開く。魔族たちは一瞬身構えたが、アクエリアスは力いっぱい掴まれていた両の手首をさするだけで、何をするでもなくその場にたたずんでいる。
 やがて、長い沈黙の後、ゆっくりと長いため息を吐いて、彼女は言った。
 「サロメを、頼むわ」
 唐突な言葉だった。
 魔族たちは、突然の豹変に、ただきょとんとして彼女を見つめた。
 彼らの視線を浴びながら、アクエリアスは両手を広げて天を仰ぐ。高らかに響く声は、なにやら誇らしげでもあった。
 「いと高き天にある母よ、我が主、光の女神ユーシスよ。我が声が届くなら、願いを叶えたまえ」
 この期に及んで、一体何を?
 誰もがじっと見守る前で、彼女の祈りは言葉になり、そして、願いは叶った。

 激しい雨が降っていた。
 サロメが堕ちてきた日と同じだ、と思いながら、ラファエルは曇った空を見上げた。
 彼の傍らで、堕天使は涙にくれている。そして、彼らの前には、横たわったままぴくりとも動かないアクエリアスがいる。
 翼は無残にも焼けただれ、雨水のたまる床の上に羽根が散乱していた。
 「ううっ……うぅ…」
 必死で口元を押さえ、嗚咽を堪えようとするサロメに、声をかけられる者はいなかった。
 「いと高き天にある母よ、我が主、光の女神ユーシスよ。我が声が届くなら、願いを叶えたまえ」
 最後にアクエリアスが天に向って放った言葉は、懺悔だった。自らの罪を全て告白し、罰を願う。女神はそれに応え、愚かな天使に望み通りの罰を与えたのだった。
 突然湧き上がった黒い雲に空は押しつぶされ、強い雨と共に一条の雷が落ちた。金色の矢は神殿の屋根を粉々に砕き、狙い過たずアクエリアスの体を貫いた。
 サロメの悲鳴は轟音によってかき消された。そしてやがて、閃光で射られた目が視力を取り戻した時、彼らは全てが終わった事を知った。
 どれぐらい、そうしていたのだろう。ふと、雨音が弱くなって、周囲のざわめきが耳に入ってきた。
 「大司教様!」
 「サロメ様!一体、これは」
 一度は周辺を離れていた神官や騎士たちだった。雷が落ちた時の轟音と衝撃は、リンツの都ならどこにいても分かるほどに大きかったのだから、無理もない。彼らは雨の中駆けつけ、見た。
 「…悪魔だ」
 誰かがぽつりとつぶやいた。それを耳にして、はっと息を飲んで辺りを見回したのはラファエルだけではない。全員、元の姿をさらしてしまっている。
 そして、足元にはアクエリアスの無残な姿があるのだ。誤解されない方がおかしかった。
 「アクエリアス様が」
 ざわめきが瞬く間に広がっていく。聖騎士たちが、殺気立ち、手に手に剣を構えた。
 「やばいな」
 ラファエルが小さくうなった。戦って勝てない相手ではないが、こんなところで騒ぎを起こすつもりはない。
 まだ動けないサロメを、背中から抱きかかえるようにして立たせ、彼は仲間たちを振り返った。
 「こいつら、やる気満々だぜ?」
 「いや」
 その時、ずっとうなだれたままだったマーローが立ち上がった。
 「みな、心配はいらない」
 埃をかぶった上にずぶ濡れになって、とてもいつも通りの格好というわけにはいかなかったが、若き大司教の声は、雨の中によく通った。
 「彼らは敵ではない」
 一瞬、辺りが静まり返る。だが、すぐに、先程よりもっと大きな声があちこちから上がった。それに負けないよう、マーローはさらに声を張り上げる。
 「静かに!みんな、僕の言う事が聞けないのか!」
 「しかし、大司教様!彼らは…」
 「僕の客人だ!手を出すな!!」
 きっぱりと言い切って、彼は辺りを見回した。神殿で最も権威のある者が、魔族を客だと言っている。明らかに異常な事態だったが、剣は納めなければならない。聖騎士たちは慎重に手を下ろし、じっと様子をうかがった。
 「大丈夫だ。もう何もかも終わったんだから」
 自分に言い聞かせるようにそう言うと、彼は魔族たちを振り返って尋ねた。
 「……一体どうすれば、僕は、罪を贖える?」
 「もう終わった事なんだろ?」
 ラファエルが笑う。
 「自分で考えな。俺たちは、もう帰る」
 悪魔がわずかに指先を動かすと、彼らの足元に魔方陣が描かれた。そこから、魔族たちを包み込むように青い光が放たれる。
 「それじゃ」
 光は彼らの足元にまといつき、次第にその姿を飲み込んでいく。
 「サロメ」
 最後に、意を決したように、マーローは声をかけた。
 うつむいたままだった天使は、目を覚ましたかのようにはっと顔を上げ、じっと彼を見つめ返した。
 「すまなかった…でも、僕は、君を」
 「……分かっています」
 かすかに微笑んで、そして彼女は消え去った。
 雨はいつの間にか小降りになり、残された者を静かに濡らし続けた。

 「今、何と」
 「大司教の地位を教皇様に返上する。後は、任せた」
 「マーロー様!」
 自分の次に高位にある老司教を呼びつけてそれだけ言うと、青年は部屋を出た。持っていく荷物もほとんどない。着替えが少しと、貯えも少し。だが、これぐらい、何とかなるだろう。
 廊下で待っていた友人に声をかけて、マーローは歩き出した。
 「待たせたな、シェーンベルグ」
 「いーえ、これぐらい、どうってことないですよ」
 聖騎士の位を捨てた彼も、さっぱりとした笑顔でついて行く。驚いて見送る人々の間を抜けて、彼らは大神殿を後にした。
 二人はもう大司教と聖騎士ではなく、女神の信徒ですらない。ただの友人同士だ。
 「それで、まずはどこへ行きます?」
 「そうだな、やっぱり東へ――」
 初めて彼女に会った場所へ。
 事件は終わっても、マーローの償いはまだ終わっていない。シェーンベルグも、それは同じだった。
 だから、二人は歩き出す。
 再び彼らに会えるかどうかは分からないけれども――いつか、出会う日を願って。




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あ。