緑の荒野


 今日も朝日が眩しい。カーテンを通しても、貫くような太陽の光は彼のほほに当たり、白い肌を焼きはじめた。
 不快な思いもあらわに毛布にくるまろうとすると、分厚い木のドアを叩く音がした。
 「兄上。起きてる?」
 「……」
 「朝ご飯持って来てあげたわよ。入るね」
 ギィ…。
 薄暗い部屋に一人の少女が入ってきた。手にした盆には温かい食事が乗っている。彼女はテーブルの上に盆を置いて、そっと足音を潜め、兄のベッドに近寄った。
 「起きてる…?」
 返事はない。
 兄は静かに目を閉じて、ベッドに横たわっているだけだ。妹がそっと手を差し伸べてその髪の毛に触れると、彼はようやくまぶたを開けた。
 「……」
 「兄上、朝食持って来たわよ。起きて!」
 言われてようやく上半身を起こす。だが、彼は面倒臭そうに額に手をやったまま、一言だけしゃべった。
 「……いらない」
 「まっ…またなの!?」
 「……すまない」
 「すまないじゃないわよ!」
 妹は…ソフィアは、ばん、とベッドの端を叩いた。
 「兄上、昨日だって何も食べてないでしょ?一昨日も、その前も!もう…一週間も何も食べてないじゃない」
 心配は怒りになって、彼女は言葉を荒げる。
 「このままじゃ死んじゃうのよ!?分かってるの?」
 「……」
 兄、ドレインはうつむいて、妹から目をそらした。白い首筋、淡い色の金の髪。
 体調が優れないから、と騎士団長の地位を辞めたのは十日ほど前のこと。それから床についたきりになり、ここ一週間は何も食べていなかった。
 時折思い出したように酒を飲むことはあるが、それ以外はただ一日中部屋の中でぼうっとしているばかりなのだ。だが、だからといって目に見えて痩せ衰えていく訳でもない。ソフィアは、その姿を見る度、無性に不安になった。
 「お願い…お願い、何か食べて、兄上。お願いだから…死なないで」
 死なないで。
 そう言われて、ドレインは顔を上げた。ソフィアを見ると、彼女は胸の前で手を組んで、今にも泣きそうな表情をしていた。
 「母上が今朝…兄上は死んでしまうって言ってた…もう治らない病にかかってしまったんだって…」
 気丈な妹の目が潤む。
 「ねえ、本当なの?兄上…死んでしまうの?ねえ…そんなの、嘘だよね?死んだりしないよね!?」
 ドレインはじっとソフィアを見つめた。
 そして、長い沈黙の後、彼はゆっくりと首を左右に振った。
 「あまり長くはない…すまない、ソフィア」
 「そんな…!」
 少女の瞳にみるみるうちに涙があふれる。ベッドの傍らにひざまずき、彼女は兄にすがりついた。
 「どうして…どうしてなの?何故、そんな病に…」
 ソフィアの頭をそっとなでながら、ドレインはただ黙って彼女を見つめ返した。静かな表情には、何の感情もない。まるで他人事のようにすましている彼を見て、ソフィアは余計に感情を高ぶらせた。
 「兄上…どうしてそんなに冷静でいられるの?悲しくないの?怖くないの?」
 やはり、ドレインはゆっくりと首を左右に振る。
 そう、兄は昔からそうだった。父が死んだ時も悲しみを表に出さなかった。騎士団長に抜擢された時も喜ぶ素振りもなかった。無口な上に、やたらと感情に乏しいのだ。
 そしてそれは、自分の身にこれ以上無いほどの不幸が降りかかってさえ、変わることはなかった。
 「そうだ、ソフィア」
 突然、思い出したようにドレインは口を開いた。
 「わたしの後任には、コジャック・ポマールがいいと思うのだが、どうだろう?」
 「え?」
 「少し若いが、剣の腕は確かだ。わたしがそう言っていたと国王陛下に伝えてくれ」
 ソフィアはびっくりして兄を見上げた。
 「な…兄上…あたし…あたし、そんな話をしに来たんじゃ…」
 驚きが、彼女の目を涙ぐませる。
 それを見て、ドレインが少しだけ、微笑んだ。ごくわずかに唇の端が上がっただけの笑顔。知らない者が見れば、表情はまるで変わっていないように見えるかもしれないが、ソフィアにはドレインが笑ったことは十分に分かった。
 「いい子だ」
そう言って、再び彼女の頭をなでる。見つめるソフィアの目の前で、兄は今度はかすかに悲しそうな顔になった。
 「泣かないでくれ。お前に泣かれると…困る」
 「兄上…」
 優しい兄。剣が強くて頭も良くて、容姿も端麗な兄。誰よりも、尊敬する兄。
 彼はソフィアの誇りだった。彼女の目標であり、最も愛する人。無口で無愛想なのは、シャイで不器用なせいだと彼女は分かっていた。
 「うん」
 泣きそうになっていた顔を笑顔に戻し、ソフィアは微笑んだ。そしてふと、何をしに兄の部屋へ来たのかを思い出した。振り向くと、テーブルの上の器からは、まだほんのりと湯気が上がっていた。
 「ねえ、兄上」
 「…?」
 「今日の朝ご飯、あたしが作ってみたの」
 まだ温かい食事を乗せた盆を手にして、彼女はベッドのそばにひざまずいた。
 「ちょっとでもいいから食べて。食べないと、本当に元気出ないから…ね?」
 少し潤んだ瞳で、妹は兄を見上げる。
 今のドレインに、食べ物は必要なかった。だが、一口でもいいから食べなければ、また彼女の涙を見ることになるだろう。
 ドレインは仕方なく、スープのカップを手に取った。
 ゆっくりと、口に含む。十分に味わって飲み込んだ後、ドレインは何かを伺うように妹を見た。
 「あ…おいしくなかった?」
 不安げな面持ちになる妹に優しくかぶりを振り、彼は二口目を飲もうとした。
 白い顔が、もっと蒼白になった。
 「……うっ」
 無表情なドレインも、さすがに苦しそうに眉をしかめた。ソフィアにカップを返そうとして、取り落とす。
 カップが割れ、スープが床に広がる。
 ソフィアは狼狽し、ベッドサイドに駆け寄った。
 「兄上…兄上っ!?」
 「見…見るな……」
 ドレインは両手で口を覆った。目を閉じ、何かに耐えようとしているが、それは叶わなかった。
 喉の辺りから、嫌な水音がした。
 「グッ……」
 ゴボッ。
 指の隙間から、血があふれ出る。
 「あ…兄上ぇ!!」
 少し黒っぽく濁った血液が顎から滴り、シーツに次々と染みを作り出していく。その量の多さに血は逆流し、彼は咳き込み、鼻からも血があふれて止まらない。
 「は…は、うえを…呼んで…」
 「う、うん!」
 ソフィアは泣きながら階段を駆け降りた。
 「母上…母上……兄上が、兄上がぁぁ!」
 あたしのせいだ、あたしが無理矢理食事を食べさせようとしたから。
 罪悪感が彼女を責め苛んでいた。

 トリール城の中庭に、剣と剣とがぶつかり合う音が響く。午前中は、騎士たちの訓練の時間である。北方に強大なサマランカ帝国、西方に新しく興ったばかりのリャザニ王国が接するこの国には、優秀な軍隊が欠かせない。特に、リャザニとの国境ではいつも小競り合いが続いている毎日だった。
 ソフィア・ファレリィは、まだ19歳の若さながら、女性ばかりで編成されたトリール白薔薇騎士団の団長を務めていた。小柄で華奢な外見とは裏腹に、剣の腕は凄まじく、トリールには彼女にかなう者は二人しかいない。一人は彼女の兄であるドレイン・ファレリィであり、もう一人は黒鷲騎士団の団長、ウォーター・ベリーズである。
 ドレインの後任である紅光騎士団の団長候補となったコジャック・ポマールは、まだ練習試合でソフィアに勝ったことがなかった。
 「ソフィア」
 部下たちに稽古をつけているソフィアに、コジャックは気さくに声をかけた。
 「よし、そこっ!もう一度やってみて!」
 「…ソフィア」
 だが、ソフィアからの返事はない。何かを忘れようとしているかの様に真っ直ぐ前を見つめ、部下を指導している彼女は、コジャックなど見てもいなかった。
 「ソフィア!」
 大声を上げると、ようやく彼女は振り返り、面倒臭そうに返事をした。
 「…コジャックか」
 「何だはないだろう、何だは。せっかく俺が呼んでいるのに」
 「あなたに呼ばれて、せっかくも何もないもんだわ」
 ソフィアは眉をひそめた。
 「それで、何の用なの?つまらない用事だったら後にしてちょうだい。例えば、皆の前でまたあなたを負かすこととか」
 「ぐっ…」
 言い返せないコジャック。白薔薇の女の子たちが、くすくす、と笑う声がひそやかに聞こえて来る。
 今日こそソフィアを倒し、紅光騎士団の新しい団長にふさわしいところを見せ付けてやろうと思っていたのだが、はなから相手にしてもらえない悔しさに、彼はぐっと拳を握り締めた。
 「何をぅ…俺だってなぁ、やれば出来るんだよ、やれば」
 「そう…じゃ、やってみる?」
 にっこりと笑うソフィア。彼女がすっと左手を差し出すと、部下の一人がさっと出て来て訓練用の木剣を握らせた。
 「そうこなくちゃな」
 だが、コジャックが手を出しても、誰も木剣を持たせてくれない。紅光の騎士たちは、自分たちのリーダーがどうなるものかと笑いながら状況を見守っているだけだ。見るに見かねた白薔薇の一人が、そっと木剣を差し出した。
 「いくわよ。一本勝負でいいわね?」
 「望むところだ」
 二人は剣を構えた。
 決してコジャックは、弱くない。ぎりぎりのところまで追い込まれたこともある。だが、最終的にはいつもソフィアが勝っていた。
 ソフィアはじっと相手の顔を見つめ、間合いを計った。コジャックも、同じように彼女を見つめ返していた。  一秒……二秒……。
 そして、ソフィアが踏み出そうとした時。
 「!!」
 カラーン…カラーン…カラーン…。
 彼女は止まった。
 彼は止まらなかった。
 鈍い音がして、木剣が地面を転がった。
 「いっ……たぁー…」
 ソフィアは左手で右の手首を押さえた。
 「俺の勝ちだな?」
 自信満々に告げるコジャック。彼の繰り出した突きは、ソフィアの持った剣を弾き飛ばした。
 だが、ソフィアはうんざりしたような顔つきで言った。  「バカね、何考えてるの?」
 落とした剣を拾い、部下に手渡す。
 「非常召集の鐘を聞いたでしょ?あれが鳴ったら、全ての騎士団長、兵団長は即刻全員集合。知らないの?」
 「知ってるぞ」
 「じゃ、さっさと行くわよ」
 彼女はくるりと踵を返した。コジャックを待つこともなく、すたすたと歩きはじめる。
 「だが、今のは…」
 「あなたの勝ちじゃないわ。もちろん、あたしの負けでもないけど」
 「……」
 きっぱり言い捨てられて、コジャックは唇を噛んだ。が、思い直してすぐに笑顔に戻った。
 「…ま、今のはなしということにしておいてやるよ…っておい、ソフィア!」
 聞いているのかいないのか、どんどん歩いていってしまう彼女を、彼はあわてて追いかけた。

 大広間に居並ぶ戦士たちを驚愕が襲った。
 「何ですと?サマランカが国境を破った!?」
 国王から告げられた言葉を、黒鷲騎士団の団長、ウォーターが聞き返した。
 「そんなバカな!サマランカと我が国は、非干渉協定を結んでいるはず。こちらが何もしていないのに攻め込んで来るとは…」
 「リャザニと手を結んだのだろう」
 中年の国王は渋い表情で答えた。
 「サマランカの皇帝が病がちとは聞いていたが…おそらく、いよいよ皇太子のエドガーが実権を握ったのだな」
 北方の小さな国が、近隣の小国を次々と平定して一大帝国になったのも、皇太子エドガーの采配によるものであった。勇猛果敢な猛将であり、血の気の多いエドガーがこのトリールを攻めなかったのは、伝統を重んじる皇帝の方針で、歴史のある国を潰さないという配慮のためだった。
 しかし、和平は破られた。今やトリールは、北と西の両方から攻められる立場となったのだ。
 「しかし、それではリャザニも共倒れとなりましょう?どうするつもりなのでしょう」
 「エドガーを黙らせる程の強力な切り札があるのかもしれん…そんなものがあるとは思えないが、だが、戦は始まってしまった」
 重苦しい沈黙が広間を包む。口を開く者はいなかった。ついにその日が来てしまったと、ただ思うばかりだった。
 「北の国境がどうなっているのかは分からん。だが、民は守らねばならん」
 国王は低い声で続けた。
 「迷っている暇はない。全軍の六割をサマランカに、三割をリャザニに当てる。残り一割が城の守りだ。一時間後に戦闘配置を発表する。それまでに、全軍、出撃の用意をせよ!…家族との別れが必要な者は、済ませておけ」
 水を打ったように、静まり返る場内。
 「もちろん、わたしも最後まであきらめるつもりはない。早馬の用意もせよ。使者を立てるのだ。最後まで、粘り強く和平の交渉を行う…さあ、分かったら、即刻準備を整えるのだ!」
 オーッ!!
 時の声が上がる。たちまち城内は打って変わったように慌ただしくなった。
 「わたしたちも、行かなくちゃ」
 「ああ」
 ソフィアとコジャックも、次いで大広間を出て行こうとした。だが、二人はウォーターに呼び止められた。
 「待て、お前たち。我々には、国王陛下からもう少しお話があるそうだ」
 「我々…三人にですか?」
 二人はお互いの顔を見合わせ、そして三人揃って国王を振り返った。
 「三人とも…もっと、近くへ」
 言われるまま、玉座のそばまで近寄り、膝をつく。
 「それで、お話とは…?」
 三人の中で一番年上のウォーターが頭を上げ、口を開いた。じゃじゃ馬のソフィアも、血の気の多いコジャックも、彼には頭が上がらない。こういう時は、二人とも素直にウォーターに任せることにしていた。
 国王は、答えて言った。
 「わしの後継ぎの話だ」
 「……!」
 下を向いていたソフィアとコジャックも、思わず顔を上げて主君を見た。
 そう、現国王には、子供がいないのだ。
 王妃は十二年も前に死んだ。出産に失敗し、母子ともに助からなかった。国王は嘆き悲しみ、それから後妻も妾妃もめとることはなかった。
 「…どう、なさるのですか」
 静かに尋ねたウォーターに、国王は優しく微笑みかけた。
 「わしは養子を迎えようと思う」
 「養子…ですか?」
 いぶかしげな顔をする三人。
 「お前たちの言いたいことは分かっている。こんな非常時に、と思っているのだろう?だが、歴史あるトリール王家をわしの代で絶やすわけにもいかないのだ」
 そして、国王はにやりと笑った。
 「どうだ、お前たち?我が息子、我が娘として兄妹の契りを交わす気はないか?」
 「え…?」
 「お…俺たちが?」
 「陛下の、子供に…?」
 突然の申し込みに、ソフィアとコジャックはもちろん、冷静なウォーターも驚きの色を隠せなかった。
 「そうだ。この戦い、最初から勝てるとは思っていない。だからもし、わしの首一つで民が苦しい思いをせずにすむのなら、それでいいと思う。ただ…先刻も言ったが、トリール王家を絶やしたくはない。そしていつか機会があれば、また再び、我が子らに、先祖代代伝えられてきたこの地を治めてもらいたいのだ」
 「そのような大役に…我々を?」
 ウォーターの言葉に、国王はうなずいた。
 「お前たちは若くて、強い。だから、わしが死んでもお前たちは生き延びて…いつか、必ず、トリール王家の再興を成し遂げてくれると信じている」
 三人は、思わず平伏した。
 何という名誉、何という喜び。ソフィアはうつむいたまま、肩を震わせはじめた。
 帰ったら、一番に兄に報告しよう。きっと喜んでくれる。
 「必ず…陛下の願いを無にしないよう…いえ」
 言いかけて、訂正するウォーター。
 「我ら三人…決して、父上の願いを無にしたりは致しません」
 「頼んだぞ」
 「はっ!」
 さらに深くひれ伏し、彼らは忠誠を誓った。


続く…

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