緑の荒野

 ソフィアがそれを知ったのは、夕刻だった。
 家に戻ると、母親は、困ったように眉を寄せ、静かに事実を告げた。その様子があまりにも普段と変わらないので、彼女は笑って答えた。
 「嘘でしょ?」
 「いいえ…残念だけど、本当よ」
 手紙が届いてるわよ。
 そんな雑事と同じような軽さで、母は息子の死を口にする。
 「そんな…嘘よ!」
 言い捨てて、彼女は猛然と階段を駆け上がった。
 「兄上!」
 勢いよく扉を開く。朝、彼女を見送った時と同じように、ドレインはベッドの上に静かに横たわっていた。
 だが、ソフィアは、扉を開けたポーズのまま、身動きが取れなくなってしまっていた。
 いつもなら。
 眠っていても目を覚まし、彼女の姿を見つけてごくわずかだけ微笑んでくれる。素っ気無いながらも優しい声をかけてくれる。そんな兄が、今は、ぴくりとも動かなかった。
 「兄上」
 「ソフィア…」
 追いついてきた母にそっと背を押され、ソフィアは静かに兄に近づいていった。
 一歩、また一歩。近づくたびに、胸が苦しくなる。寒気がして、震えが止まらなくなる。ベッドはすぐそこにあるのに、彼女の足はまた、動かなくなってしまった。
 「大丈夫?」
 「……う、うん……」
 気遣う母の声で、また歩き出す。そして、彼女はベッドの傍らにひざまずいた。
 「兄上…」
 そっと、声をかけてみる。
 返事はない。
 ドレインは、固く目を閉じていた。肌は透けるように白く、妙に赤い唇だけがいやに目に留まる。
 体は冷たかった。呼吸もなかった。心臓の鼓動も、温かさも、もう、何も感じられなかった。
 頬に触れると、冷たく、堅い感触だけが返ってくる。まるで冷淡に拒絶されたかのようにソフィアはびくっと手を引っ込め、そして再びそっと手を差し出した。
 「兄上……兄上……」
  彼女の目から涙がこぼれはじめた。ぽとり、とシーツに雫が落ちて、それを見たソフィアは、唐突に朝の出来事を思い出した。
 あたしが。
 あたしが、食事をさせようとしたから、兄上は無理をして……!!
 「あたしの…」
 血を吐く兄を、苦しむ兄を、彼女はまざまざと思い出していた。
 「……せいなの……?」
 あのせいで。
 「ああ……いやッ…!」
 膝が折れる。ソフィアは両手で顔を覆い、崩れ落ちた。
 「ごめんなさい、ごめんなさい、兄上!!」
 号泣。
 それは、長い間続いた。

 前紅光騎士団団長、ドレイン・ファレリィの葬儀は、非常時ということもあって、その夜のうちに執り行われた。それは、とても簡素なものだった。
 参列したのは母と妹、それにコジャックの代理の騎士が一人、国王とウォーターの代理を兼ねた騎士が一人。司祭が別れの言葉を述べ、穴掘り人夫が棺の上に土をかけていく。
 棺の中に一輪の花も添えられない、寂しい葬儀だった。

 深夜、物音一つしない彼の部屋で、彼女は目覚めた。
 葬儀が終わって、ソフィアは一人、ドレインの部屋で泣いていた。果てのない罪悪感に苛まれ、ただ、ひたすらに泣くしかなかった。
 だがいつか疲れ果て、眠ってしまっていたのだろう。主人のいないベッドの上で起き上がり、彼女は目をこすった。
 窓は開け放たれていた。月は無く、星も見えず、一面に塗り込められたような闇夜が広がっている。ぞっとするような冷たい風が吹いて、喪服の彼女を震え上がらせた。
 重いカーテンがひるがえり、窓枠を叩く。彼女は立ち上がり、窓を閉めようと手を伸ばした。
 その時、階下でかすかな物音が聞こえた。
 「母上…?」
 誰もいない背後を振り返り、ソフィアは息を殺してたずねた。もちろん、返事はない。だが、じっと耳を済ませていると、今度は確かに扉を閉じる音がした。
 窓から外を見下ろすと、カンテラに火を灯した女性が、寝静まった街路へと出て行くところだった。灯りを受けてちらちらと輝く金色の髪に、白い服。間違いなく母、フィアナだった。
 「母上……一体、どこへ」
 つぶやいて、その途中で答えが見つかり、彼女は言葉を飲んだ。
 墓地。
 そう…その答えしか、あり得ない。
 教会へと通じる角を曲がり、すぐに母の姿は見えなくなった。それを確認すると、ソフィアは急いで窓を閉め、踵を返した。
 淡々と振舞ってはいたが、フィアナだって、やはり耐えられる訳がないのだ。夫に続いて息子さえも失って、普通でいられるはずはない。涙の一粒も見せなかったのは、ソフィアを思ってのことだったのだろう。
 真っ暗な階段を手探りで降り、台所にあった燭台に火を灯す。そして、母の後を追い、扉を開いた。
 兄上…母上!
 人気のない街路を通り抜け、広場を横切る。ソフィアは迷うことなく、街の外れにある、その場所を目指していた。ドレインが眠っている墓所を。
 誰よりも愛しい人の、亡骸が眠る場所を。
 石畳を踏んで、短い坂道を登る。教会の裏手、木々の間を抜けてたどり着いた墓地の門扉は、大きく開いていた。
 ランプの灯りが、長く影を落とす。
 真新しい墓標の前には、案の定、母が立っていた。そして、もう一人の人影が、彼女と向き合うように立っている。
 ソフィアは、目を見開いた。
 薄い金色の髪、炎に照らされて浮かぶ白い肌。
 兄上。
 見間違えるはずはない。物心ついた時からいつも一緒にいた彼を。ずっと傍にいてくれた、誰よりも大切で、誰よりも愛する人を。
 生きている?――でも。
 彼の足は、大地の上にはなかった。冷たい風が吹き抜けて、木々の葉を不気味に揺らしても、ドレインはまったく揺らぐことなく、墓碑のわずかに上、中空に立っていた。
 人ではなかった。

 母親は、穏やかな顔付きで息子に尋ねた。
 「体調はどう?」
 「…良い」
 ドレインは腕組みをしたまま、不満そうに答えた。
 「やはり、人のままでは無理があったのだな」
 「そうね。あなたはあの人の血を受け継いでいるもの。人間のままでは、いつまでもこちらにいる事は出来ないのよ」
 フィアナはそう言って、墓石の上に立っている息子から視線を外した。目をそむけるようにうなだれて、彼女は問う。
 「…魔族なんかに、生まれたくはなかった?」
 問われた彼も、うつむいてしまった母から、漆黒の夜空へと顔を向けた。
 フィアナの夫、つまりドレインとソフィアの父親は、人間ではない。魔物、それも魔界ではトップクラスの地位に君臨する魔族の一人、ヴァンパイアだったのだ。
 人ならざる者と恋に落ち、やがて二人の間には子供が生まれた。娘は母と同じ、ごく普通の人間に過ぎなかったので、何も問題はなかった。
 だが、息子は、父と同じヴァンパイアとして生まれた。不死の魔物なのに、温かい肉体と血液とを持って、である。
 幼い頃は、それでも別に問題はなかった。しかし、成長して次第に魔族としての能力が強くなってくると、本質とのギャップに肉体が悲鳴を上げ始める。早く本来の姿に戻ろうとして、人間としての体は急速に衰えていってしまうのだ。
 「いや」
 長い沈黙の後、彼は空を見たまま答えた。
 そんな肉体を、好き好んで無理を重ねながら保っていたのはドレイン自身なのだ。父が魔族であることも、自分がヴァンパイアとして生まれたことも、恨んだり嘆いたりするつもりはなかった。
 「ただ、あれの事が心配なだけだ」
 兄にべったりで、甘えん坊で泣き虫の可愛い妹。王家に仕える騎士として、外では気張って強がっているが、それもドレインに認められようとする一途な想いがあるからだ。彼がいなければ、一体どれほど悲しみ、傷つくことか。それを想像すると、簡単にソフィアを置いて逝くことは出来なかった。
 「本当にソフィアが可愛いのね」
 フィアナは、小さくため息をついた。
 「でも、それって」
 「そう…もう、限界だ」
 珍しく他人の言葉を遮って、ドレインは彼女を見た。
 「自分の感情ぐらい分かっている。母上の想像通りだ」
 小さく息を飲んで、母は顔を上げた。ランプの光を受けて赤く輝く瞳が、じっと彼女を見下ろしていた。
 「よもや、あれにそのような感情を抱くようになるとは思っていなかったが…これも魔族の性というものかな」
 彼はそう言って、自嘲気味に唇をゆがめた。
 自分のためにも、逝けなかったのだ。離れられなかったのだ。
 尖った牙がわずかに唇の端からのぞく。長く息を吐いて、ドレインは赤い瞳を閉じた。
 「私はもう行く」
 本来、あるべき場所に戻らなければならない。人として暮らした時間が長過ぎて、魔族としての力もかなり消耗していた。このまま夜明けを迎えれば、不死者といえども相当のダメージを受けなければならない。
 「母上。あなたには感謝している」
 かすかに微笑み、彼は母を見つめた。
 「ソフィアをよろしく頼む」
 「ええ」
 フィアナは、そう答えようとした。だが、背後で繁みがゆれるのに気がついて、二人は凍りついた。
 「イヤ」
 か細い声が、そう告げた。
 ドレインと同じ、薄い金色の髪が揺れて、彼らの前に、思いがけない人影が割って入った。

 ソフィアは泣いていた。
 「兄上…」
 ぶるぶると震える手が、真紅に染まっている。
 まさか、と思う前に、その色が血ではないことに気が付いている。ドレインは、複雑な思いで表情を失くした。
 「ソフィア、どうしてここに…あっ、それは…?」
 だが、フィアナにはランプで娘の手を照らすまでは分からなかった。震える蝋燭からこぼれ落ちた雫が彼女の手を覆い、赤く染めていたことに。
 「一体何をしてるの?こんなになるまで…熱かったでしょう!?」
 少し乱暴に、冷めて固まった蝋をはがす。震えの止まらない手から燭台を取り上げて、母は、ソフィアの顔を見た。
 彼女は、ただ彼だけを見つめていた。
 「兄上…生きていたのね、兄上?」
 風にさらされて冷えた頬も、愛する人に会えた喜びにふんわりと紅く染まり、上気している。握りしめてくる母の手をそっと押しやって、ソフィアはさらに一歩、墓碑へと近付いていった。
 「ねぇ、兄上…もう、どこにも行かないわよね?」
 ねだるように言って、すがるようにドレインを見上げる。
 「あたしを置いて行かないわよね?」
 「ソフィア」
 それを無表情に見下ろし、ドレインは尋ねた。
 「いつから聞いていた」
 「兄上」
 「答えるんだ」
 いつもと違う厳しい顔に、ソフィアは言葉を飲んだ。青く優しかった瞳も、今は血のように赤い。その人が、ふわりと宙を踏んで、彼女の目の前へと降り立った。
 「全て、聞いていたのか」
 確認するように、彼は問う。うなだれたソフィアは、小さくうなずいた。
 「そうか…それならば、分かるな」
 ふと、言葉が柔らかくなった。
 「私は――行かねばならん」
 見上げた兄は、微笑んでいるように見えた。
 「お前の愛してくれた兄は死んだ。もう、どこにもいない」
 優しく諭し、言い聞かせるように。しかし、ソフィアはかぶりを振った。
 「イヤ…そんなの、イヤよ!だって、兄上はここにいるもの。ちゃんとここにいるもの!」
 「だが」
 「魔族だって、いい」
 小さいけれども、きっぱりと澄んだ声で言い切って、彼女はドレインの胸にしがみついた。
 「兄上…お願い、行かないで」
 それだけが、ソフィアの望み。
 「……お願い…」
 絞り出すようにつぶやいて、顔を伏せる。
 ドレインは、自分の胸の中で震える肩に、冷たい両手を置いた。清潔な石鹸の香りと共に、めまいがするほど甘く、誘惑的な血の匂いがした。
 このまま抱きしめてしまう事は容易い。
 本人の魔力が足りないため、魔族のレベルにまで引き上げてやる事は出来ないが、下位の不死者として永遠に共にある事なら出来る。そのうえ、魔物同士ならば、人としての禁忌を気にする必要さえもない。
 ただ、唇を重ねればいいだけだ。
 彼は無言のまま、妹のあごに手をかけて、上を向かせた。
 「……あ」
 ソフィアの瞳は青い。澄み切った空のような、淡く晴れやかな青。期待と不安が入り混じり、彼女はされるがままに兄を見つめ返した。
 「あ…にうえ?」
 失いたくない。
 「ソフィア」
 ドレインは低い声で言った。
 「私とお前は、兄と妹」
 そのまま、彼女を突き放す。
 「そのように情熱的な台詞は、恋人に向って言うものだ」
 物言わぬ背中を向けられて、ソフィアは思わず一歩退いた。
 「あ、兄上っ」
 あわてて追いすがろうとしても、下がってしまった一歩の距離が妙に遠い。振り向いて欲しい一心で、彼女は叫んだ。
 「違う…違うの!」
 誰に、何と言って誹られようとも、今ここで、大切な人を失うことには耐えられないから。
 「あたしは、本当に、兄上のことが好きなの。愛してる…愛してるの!」
 その言葉が、最悪の結果を招くことになろうとは気付くはずもなく、ソフィアは告げた。今までずっと押し殺してきた思いの丈を、全て。
 「………」
 ドレインは振り返り、じっと彼女の顔を見つめた。
 そこにある決意が本物であることは、とっくの昔から知っていた。だからこそ、彼は答えた。
 「さらばだ、ソフィア。二度と会うことは――ない」

 冷たい風が吹いて、木々の葉がざわめく。
 青年の姿は風にまぎれ、一瞬の間だけ人の姿を残した。が、それもすぐに黒い霧となり、かき消すようにその場を去った。
 墓地には、お互いにかける言葉を失った、母娘だけが立ち尽くしていた。


続く…

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