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まどろんでいたドレインは、はっと目を覚ました。
窓の外を見ると、今もまた穏やかな夕暮れだった。だが、夢で聞いた声はあまりにもはっきりと耳にこびり付いていた。
助けて、兄上。
そう、ソフィアの声が確かに聞こえた気がした。
「…そんなはずはない」
窓枠に肘をついたまま、彼はゆっくり頭を振る。
私に未練があるから、聞こえるような気がするだけだ。
ぼんやりとした輪郭の赤紫色の雲の間をぬって、巨鳥がゆったりと飛んで行く。城の主、リカルド・キルマーノックは、また女を抱きにどこかへ出かけている。
そう、ここでは、何も起こらないのだ。千年の時も、たった一晩と何ら変わりはないのだ。
ドレインは身じろぎもせずに、じっと巨鳥が消え去っていくのを見つめていた。
兄上。兄上!
そうしている間にも、胸の奥へ直接ソフィアの声が響いてくる。
今日に限って、何故、こんなに。
もう動くことのない心臓が痛んだ。胸に手を当てて、ドレインはうつむいた。
まさか――何か、あったのか。
戦況は不利だと、リカルドも言っていた。
助けに行こうか。
そんな考えが、一瞬頭の中を横切って、彼は立ち上がった。だが、一歩を踏み出せないまま、立ち尽くす。
会わないと言ったのだ。それも、私の方から。
ドレインは額に手を当てて、また椅子に座り込んだ。
顔を見たら、もう二度と離れられなくなってしまう。間違いなく、彼女を闇へ堕としてしまう。
それが嫌だから、泣かせてまで、置いてきたのだ。
「ソフィア」
兄は顔を覆ったまま、つぶやいた。
「許せ」
空がゆっくりと、夜の闇へと変わり始めた。
朝靄が晴れる。離れて向かい合う敵軍の様子が徐々にはっきり見えてくるにつれ、トリール軍の兵士たちは緊張の度合いを増していた。
昨日はあんな事になってしまった。今日は一体どうなるのか。
サマランカ軍は、昨日と同じように静かに待ち構えていた。
「…ソフィア」
トリール軍の先頭に立つコジャックは、怒りと、恐怖と、孤独に苛まれながら、じっと相手を見守っていた。
白薔薇騎士団の団長は連れ去られた。黒鷲騎士団の団長は、リャザニに行ったまま、まだ戻ってこない。
今日は、彼一人で全軍を背負って立たなければならない。そう思うと、足の震えが止まらなかった。
「団長」
「大丈夫だ」
心配して声をかけてくる部下たちを押しとどめ、彼は待った。敵軍の将が現れるのを、ただ、ひたすらに待った。
やがて、サマランカの兵士が左右に分かれて、一人の人物が進み出た。
「……!!」
声にならない悲鳴が、白薔薇騎士団の面々からあがった。
「だ…団長……」
「う…そ…」
最前列に立っていたコジャックも、ただ言葉もなくその光景を眺めている事しか出来なかった。
現れたのは、ソフィアだった。
それも、服とは到底呼べないようなぼろ切れをまとっただけで。彼女は、小柄な裸体のほぼ全てをさらけ出したまま、感情のない目でトリール軍を睥睨した。
右手には、帝国の軍旗。
そして、左手には、男の首を下げていた。
ゆるいウェーブのかかった、濃い茶色の髪の毛。黒鷲騎士団団長、ウォーター・ベリーズのものだった。無造作につかまれたそれは、まだ血に濡れていた。
トリール軍は凍り付いた。
「ソ…ソフィア…」
コジャックの目の前で、ソフィアは言った。
「わたしの名は、ソフィア・ファレリィ」
抑揚のない声だった。
「サマランカ帝国皇太子殿下、エドガー様の忠実な下僕である」
誰もが、言葉を失っていた。
「今日は、降伏の勧告に来た」
その静けさの中、彼女だけが、何も見ず、何も感じていない。ただ人形のように、声高に告げた。
「今すぐ、国王の首を持って来い。さもなくば」
彼女は眉一つ動かさずに、空高く左手を掲げた。
「全員、こうだ」
「ふっ…ふざけるなあッ!!」
コジャックが叫んだ。
「ソフィア!!目を覚ませッ!!自分が何をしてるか、分かってんのか!?」
「わたし?」
焦点の合わない目でコジャックの方を見て、ソフィアは同じ事を繰り返す。
「わたしは、エドガー様の忠実な下僕」
「ソフィア!お前…」
「わたしは、エドガー様の、忠実な下僕」
さらに彼女は、同じ台詞を言った。
悪い夢だと思いたかった。だが、ソフィアは目の前に確かに立っている。
コジャックは眉をしかめた。
「分かった」
ソフィアが正気でないのは明らかだ。おそらく、魔法か薬か何かで操られているのだろう。そう考えなければ、説明がつかなかった。
それならば、操っている人間を引きずり出すまで。
「じゃあ、エドガーはどこだ?どこにいる!?」
「エドガー、様」
「そうだ、エドガーだ」
混乱して、叫びだしたくなる気持ちを必死で抑え、コジャックはゆっくりと答えを引き出そうとする。それが愛する少女を救う方法だと信じて、彼はじっと相手を見つめた。
質の悪いガラスのような、青く濁った目が彼を彼を見つめ返していた。
「エドガー様」
「そう…お前の、大事なご主人様なんだろ?今、どこにいる?」
「わたしの、大事な…」
その時、一瞬だけ、ソフィアの瞳が大きく見開かれた。二度、三度と大きなまばたきをすると、透き通った雫が流れ出した。
そして、彼女は答えた。
「いない」
「いない?」
コジャックは、思わず聞き返した。
「どこにも…いない」
寂しげな顔をしたのは、その時だけ。
涙を流し続けるソフィアは、またさっきまでと同じ、色のない顔に戻っていた。
「もう、戻ってこない。二度と、会えない」
乾いた声で言い切って、歩き出す。ただ真っ直ぐに、サマランカの陣営を離れ、たった一人でコジャックに向って。
その途中で、軍旗を捨てた。ウォーターの首も投げ捨てた。
「ソフィア」
彼には、もう何が何だか分からなくなっていた。
「団長!」
「ダメです、罠かも知れません!」
だから、引き止める部下たちの手を振り払ってしまった。
戻って来る彼女を迎えるために、無防備に両腕を広げてしまった。
「これは一体、何だ?」
リカルドの声で、ドレインはゆっくりとまぶたを開いた。
見上げると、不満そうな顔をした父親が、遠見の水晶球を片手に、彼を見下ろしていた。
「……どうか、したのか」
「いいから、見ろ」
まだ目覚めきらない頭のまま、彼は水晶球を受け取った。
昨日と同じ場所が、映し出されている。一瞬ドレインは、目を背けようとした。
だが、その光景を見た途端、そのまま動けなくなった。
戦場の中央、両陣営がにらみあう真ん中の空き地で、場違いにも抱き合っている一組の男女。青年の腕はがっちりと裸の少女の背中に回され、固く抱き合っているのが見て取れた。
それなのに、二人の視線は、どちらも全く違う虚空を見ていた。
「コジャック…ソフィア」
どれぐらいの間、二人はそうしていたのだろう。やがて、コジャックの腕が、名残り惜しそうに、ゆっくりと解けた。
糸が切れた人形のように、彼はその場に崩れ落ちる。少女の足元に、赤いものをまき散らしながら。
立ち尽くすソフィアは、血に濡れた剣を手に、にっこりと微笑んでいた。
わあっ、とどこからともなく声が上がる。指揮する者を失った二つの群集が膨らんで、彼女を飲み込んでいく。
ドレインは、流れることをやめた自分の血が、氷のように冷たく、凍っていくのを感じていた。
「おい、ドレイン」
リカルドが呼びかけに、彼は応えなかった。
黒い霧が、一瞬辺りを包む。次の瞬間、ドレインは跡形もなくその場から消えていた。
汚いものには触りたくない。
誰もが無意識のうちに思う、そんな気持ちが現れているかのように、ぽっかりとそこにだけ、妙な空間が開けていた。
そこにはソフィアが座っていて、持ち主の血で濡れたコジャックの剣をひたすら見つめ続けていた。返り血で赤く染まったほほに、かすかな微笑を浮かべたまま、ただ、じっと。
傍らに人が来ても、彼女は動かなかった。
「ソフィア」
その声が、彼女の待ち望んだ人の声であることも、すでに分かりはしないのだ。
「遅くなったな」
ドレインは静かに告げて、膝を折る。そして、そっと手をかけて、妹の細い手から剣を取り上げた。
「………」
冷たい手に体を震わせることもなく、剣を奪っても反応があるわけでもない。どこか虚空を見つめるだけのソフィアに構わず、ドレインは声をかけた。
「すまなかった」
体は例え傷ついたとしても、癒える時が来るだろう。だが、完膚なきまでに壊し尽くされた心が戻る日は来ない。
助けに来ることは出来たのに、そうしなかった自分が、憎かった。
兄は、温かい妹の体を抱きしめて、唇を重ねた。
「…う、ッ」
鋭い牙がドレインの唇を引き裂いて、血を滲ませる。それを含んで、ソフィアがうめいた。
「う、あぁ…っ」
苦しげに眉をひそめ、まぶたを閉じる。
そして、次にまぶたが開いた時、その目は兄と同じ、血の色に染まっていた。
「うぅ…、あ、あ」
がくがくと、小さな体が震え始める。ドレインは、そんなソフィアの体をきつく抱きしめていた。
不死者の冷たい腕の中、彼女もまた、不死者へと変貌していくために、命の温もりが容赦なく奪われていく。
自分で壊しておいて、自分で殺すのだ。この世で何よりも愛しい者を。
いつの頃からだったのだろう。彼女を想うようになったのは。
冷たい体を抱いて、ドレインは思い出す。
気が付いたらいつも傍にいた、一つ違いの、泣き虫の妹。実際の年齢よりも加速して大人びていく兄について行こうとして、いつも必死だった。
あの、嵐の夜も。
ドレインは平気だった。風がいくら唸っても、雷鳴が轟いても、普段となんら変わらず、静かに眠っていた。
だが、ソフィアにとっては、怖くて怖くてたまらなかったのだろう。
すさまじい轟音がする、木々が、家が揺れる。そんな日に限って、母は用事で家を空けている。だから、彼女は小さな手で、兄の部屋のドアを押した。
どんな物音にも反応せず、ぴくりとも動かない姿は、まるで死んでいるように見えたらしい。
「お兄ちゃん!」
ソフィアは叫んだ。ベッドによじ登り、必死で兄を揺さぶった。
「起きて、お兄ちゃん…お兄ちゃん!!」
ドレインが目を覚ますと、彼女は唇の端に血を滲ませながら泣いていた。あまりに怖くて、唇を噛みしめすぎてしまったのだ。
「ど…どうした?」
起き上がった彼の胸の中に飛び込んでくる、幼い少女。わけも分からず抱きしめて、至近距離で顔をのぞき込む。
「ソフィア?」
そして、ドレインは自分の異変に気付いた。
赤い色が滲んだ唇から、目を離せない。それが何を意味するのか分からないまま、彼は思わずキスしていた。
どんな花よりも甘い香り、どんなお菓子よりも甘い味。それ以上に驚いたのは、高鳴る感情に、心臓が本当に止まってしまった事。
「…お兄ちゃん?」
突然の兄の行為に、ソフィアは泣き止んだ。
「どうしたの?」
「唇が切れてた」
戸惑いを隠しながらドレインが答えた。心臓はちゃんと動いているけれど、今度は逆に激しくて、壊れてしまいそうだ。
そんな彼の気持ちに気付くはずもなく、無邪気な少女は素直に喜んだ。
「ホント?…あ」
そして、今度は彼女の方から、兄の唇をぺろりと舐めた。
「お兄ちゃんにも、ついちゃった」
普通なら――それはまだ、十にも満たない子供同士の、他愛もないキスに過ぎないはずだった。
だが、ドレインには違っていた。
甘美な血の味は、容赦なく彼の本性を揺り起こしてしまった。それと同時に、果てのない欲望にも似た、愛情をも。
その日から彼は、自分の感情を出せなくなった。
「……愛していたんだ」
冷え切ったソフィアを抱いて、彼は言う。
そして、もう二度と、離さない。
彼は泣いた。
戦場の真ん中に、小さな旋風が生まれた。
誰かの号泣にも似た、冷たい気流は次第に激しさを増し、周りの兵士たちすら飲み込んでいく。文字通り肌を切る寒さがやがて雪を呼び、吹雪が来る。
触れただけで手指を痺れさせるほどに冷たい雪は激しく降り積もり、平原にあるもの全てを貪欲に飲み込んでいった。
ほんの数時間で何もかもを覆い尽くし、美しく白い雪原だけを残して、戦争は終わった。
トリールは滅んだ。
そして、多くの死者が大地に還り、雪原はやがて芽吹く。呪われていると恐れられ、寄り付く者もない、緑色の荒野が広がって――今日も、冷たい風が吹き抜ける。