緑の荒野

 決戦の時は来た。
 エドガーは、たった一人、大剣を携えただけで浅瀬を渡ってきた。
 ソフィアはドレインから譲られた剣を持ち、二人の部下を従えて彼を迎えた。他の兵士たちは、少し後方に離れて待機している。その中にコジャックの姿もあった。
 「勝負は一本勝負」
 エドガーの言葉に、ソフィアがうなずく。
 「降伏するか、死ぬか、それとも戦闘不能になるか。いずれかで勝負ありとする」
 もう一度、彼女はうなずく。
 これがおそらく、兄上の望むあたしの生き方。それならば、これでいい。
 「よかろう」
 うなずいて、彼は大剣を振り上げた。ソフィアも部下を下がらせ、剣を構えた。
 「では!」
 言葉と共に、二人は剣を合わせた。

 「く…うっ…」
 一騎討ちは長引いていた。
 エドガーは、見た目通りの強さだった。剣の腕はさほどではないが、やたらと力が強い。大剣も相当の重さがあり、それを受け続けていると腕が痺れてきそうだった。
 これで…これで、皆負けたのか…。
 ソフィアは歯を食いしばり、ごりごりと押してくるエドガーの剣に耐える。
 一方、エドガーも困惑していた。体も腕も細いのに、ソフィアもやたらと力が強いのだ。
 一体どこに、そんな筋肉があるんだ?
 並みの男なら、簡単にやられている。少女だと思ってなめてかかると、負けてしまう。だが、目の前で頑張っている顔を見ると、どうしても、やっぱり子供ではないかと思ってしまう。
 そろそろ潮時だ。
 エドガーは小さくうなずき、一歩踏み込んだ。
 「ソフィア」
 「何よッ?」
 疲れた腕を振り上げ、ソフィアは大剣を受け流す。そして、エドガーをにらみつけた。
 「……?」
 金色の眼が、じっと彼女を見つめ返していた。猫のように、縦に細長い瞳。美しい色と不気味な形が同居する、不思議な瞳に見つめられ、ソフィアは一瞬、今自分が何をしているのかを忘れた。
 兄が遺した形見の剣が、彼女の手を離れて地面に落ちた。
 「ッ!」
 慌てて拾おうとしたが、体が動かなかった。
 「どうした?」
 目の前の男がにやりと笑った。
 「あ…たし…ッ」
 自分の意思に反して、唇が、腕が、足が、勝手に動き出す。何かに取り付かれたかのように、何一つ思い通りにならないまま、ソフィアはエドガーの足元にひれ伏していた。
 背後でざわめきが広がっていくのが聞こえた。
 違う。違うの!
 だが、彼女の叫びは誰にも届かなかった。ただ、言いたくもない台詞が口を動かした。
 「ま…参りました!!」
 驚愕のざわめきが、失望と落胆のどよめきに変わる。
 「ソフィアッ!」
 ひときわ大きく、コジャックが叫んだ。
 「お前、何を言ってるッ!?」
 「あたしの…負け、です…!」
 違う。まだ、勝負はついてない!
 それなのに、ソフィアは地面に額をこすりつけて、自らの敗北を認めてしまっている。傍から見れば、彼女が途中で剣を捨て、頭を垂れたように見えてしまうだろう。
 一体、何故。訳が分からなくて、青い瞳に涙がにじんだ。
 「よく分かった。もういい、立ち上がられよ」
 そんな彼女に、エドガーが鷹揚に声をかけた。差し伸べられた手を握って、ソフィアは立ち上がる。それすらも、彼女の意思ではないというのに、背中に突き刺さるトリール兵たちの視線が痛い。
 「約束どおり、君をもらって行くぞ」
 エドガーは高らかに宣言した。
 「異存はないな、ソフィア?」
 「………くぅッ」
 またしても、思ってもいないことを口走ろうとする唇を無理矢理噛みしめて、彼女はきっと敵将を睨みつけた。
 「う、くッ」
 「ほう」
 その表情を見下ろして、金色の瞳がすっと細められた。
 「まだ抗えるか。面白い娘だ」
 ぼそり、とつぶやいて、彼はソフィアの肩に手を置いた。
 「だが、勝負は終わった。約束は守ってもらう」
 そのまま、軽々と横抱きに抱え上げ、皇太子はトリール軍の方を振り返った。
 「楽しませてもらったよ。今日はここまでにしておこう」
 わっ、とサマランカの兵士たちが湧いた。
 「続きはまた明日だ」
 悠然と、エドガーは踵を返す。口々に自分たちの将をたたえながら、兵士たちが道を開ける。
 そして、ソフィアは身じろぎも出来ないまま、大人しく男の腕の中に収まっている。
 「なんで…」
 コジャックは、拳を握りしめたまま、それを見送るしかなかった。
 「なんでだよ!?ソフィア!!」
 叫んだ言葉は、兵士たちのざわめきの中へ、ただ吸い込まれていった。

 魔界には、黄昏か夜空しかない。
 気まぐれに、突然思い出したように夕方や夜が訪れて、規則正しい人間界の青空に慣れた彼を戸惑わせる。それと同時に、気分も体調も落ち着いていくのも感じていた。
 やはり――故郷はここだという事か。
 一日中窓の側に座って、外ばかり眺めているドレインに、一人のメイドが声をかけた。
 「ドレイン様」
 彼は、返事をしない。食事か着替えか、その程度しか用はないはずだ。しかし、その日は違っていた。
 「ご主人様が、お戻りになられました」
 「……そうか」
 言われてようやく、ドレインは重い腰を上げた。
 当り前だが、魔界に戻ってきたばかりの彼に、自分の居場所などない。仕方なく、父親の城を訪れていたのだが、今までずっと留守にしていた。メイドたちに聞いたらよくあることらしいが、それがようやく帰ってきたらしい。
 挨拶ぐらいはしておかないとな。
 立ち上がって部屋を出ようとする。だが、それより早く、父親の方が部屋に入ってきた。
 「来ていたのか、ドレイン」
 「ああ」
 自分に良く似た顔をした青年は、左右の腕に一人ずつ女を抱いていた。赤く、とろんとした目の二人からは、死者の匂いがした。
 「お前一人か?ソフィアはどうした?」
 そんな彼女たちを見て、あまりいい顔をしていない息子のことなどまったく無視して、父、リカルドはきょろきょろと部屋の中を見回して尋ねた。
 「何だ、もしかして連れて来なかったのか?」
 「ああ」
 「あれほど可愛がっていたじゃないか。喧嘩でもしたのか」
 リカルドはつまらなさそうに口を尖らせた。顔は同じでも、性格には天と地ほどの違いがある。話をしながらも、父親は女の尻を撫でるのに余念がない。
 「…そういう訳じゃない」
 ドレインが答えると、ようやくその手が止まった。
 「お前のことだから、どうせ、人間はこっちに合わんとか言いたいんだろう」
 ますます面白くなさそうな顔をして、リカルドは女たちから手を離した。
 「それとも兄妹だからとか言いたいのか?お堅いな、人間でもないくせに」
 「……」
 息子は黙ったまま顔を伏せた。それをしばらく眺めた後、父は懐に手を入れて、こぶし大の水晶球を取り出した。
 「まあいい。だがな」
 掌に乗せると、澄み切った水晶球の中に、白い煙が満ちてくる。それがいっぱいに広がり、いつしかそこには地上の光景が映し出されていた。
 じっとにらみ合ったまま動かない、兵士の群。どこか異様な緊張感が漂っている。
 戦場を確かめるようにのぞきこみ、リカルドは眉をひそめて言った。
 「戦況は不利なようだぞ。今迎えに行かなければ、後悔する事になるかも知れん」
 「その必要はない」
 きっぱりと、ドレインは答える。
 「ソフィアは充分に強い。簡単に負けるようなことはない」
 「…そうか」
 戦場に娘の姿が見えないのは気になったが、ドレインにその気がない以上、しつこく言っても仕方があるまい。
 リカルドはうなずき、水晶球を懐に収めた。そして、また元のように女を抱き寄せて、唇だけでにやりと笑った。
 「そこまで言うなら、好きにするがいい…女は、一人だけではないからな」
 そのまま、放蕩な父はまた出て行く。
 好色で、奔放。ヴァンパイアとしては、ああいう方がいいのだろうが、自分には無理だ。
 ドレインは踵を返し、また窓の外を眺めた。
 私には…一人しかいない。

 「ソフィア・ファレリィ…兄があの有名なドレイン・ファレリィで、母親も元白薔薇の騎士団長か。なるほど、な」
 鎧を着けたままのソフィアを足元に座らせて、エドガーは鷹揚に報告書を読んでいた。さすがに皇太子の天幕だけあって、内装は豪華だ。美しい侍女までも側に控えさせており、戦場の真っ只中にいるとは思えない優雅さだ。
 だが、とても逃げ出せそうにはないと、ソフィアは内心ため息をついた。
 縛られているわけではない。周りには護衛の兵士すらいない。それでも彼女は動けなかった。相変わらず、体の自由が利かないのだ。
 「父親は?いないのか?」
 「…あたしが小さい頃に、死んだわ」
 他に出来る事もないので、渋々ではあるが、彼女はエドガーの質問に答えていた。
 「では、母親が女手一つで育ててきたと言う訳か。道理で素直なわけだ」
 エドガーは妙に納得したようにうなずいた。
 「何よ…別にそんなの関係ないじゃない」
 なにやら楽しそうな敵将に向かい、ソフィアは軽く悪態をつく。おかしなことに、さっきまでは何も言えなかったのに、今は口だけは普通に動かせた。言ってやりたい事が山ほどあったが、それを我慢して、相手の出方を伺う。
 うまい具合に手足が動かせるようになったら、その瞬間に逃げ出してやる。
 そう思いながら、目だけで左右を見回す少女を見下ろして、エドガーは笑った。
 「で。さっきから随分きょろきょろしているが、何か望みのものは見つかったか?」
 「別に」
 「まぁ、何をしても無駄だがな」
 あっさりと言い捨てて、男は立ち上がった。無遠慮な足音を立ててソフィアに近付き、膝をついて彼女のあごを持ち上げ、覗き込む。
 金色の妖しい瞳が、真っ直ぐに彼女を捕らえた。
 「どんなに足掻こうが、お前は私から逃れることは出来ん。絶対にな」
 「どうして?…もしかして」
 ソフィアの眉がつり上がった。
 「あなた、魔法を!?一騎打ちの最中に、魔法を使ったの!?」
 一騎打ちである以上、剣のみで決着をつけるのが騎士として当然であり、暗黙の了解でもある。それも、国を賭けた戦いだったのだ。
 「いや、違うぞ」
 怒りをあらわにする彼女に対し、にんまりと、実に楽しそうにエドガーは答えた。
 「魔法ではない。持って生まれた、私の力だ。この、邪眼はな」
 邪眼。
 それは、目を合わせるだけで、相手を石化したり、殺したり出来る呪われた眼のことだ。だが、それは通常、魔物の持つものとされる。
 「それじゃ、あなたは、魔族…!」
 ふと、兄の面影が、目の前の男に重なった。全然似ても似つかないのに、胸が締め付けられる思いがする。
 「似たようなものかもしれん」
 そんなソフィアの思いを知るはずもないだろうに、エドガーはわずかに寂しげな笑みを見せた。だが、それもほんの一瞬で、彼はまた元のような自信に満ちた傲慢な表情に戻って言った。
 「まあ、そんなことはどうでもいい。お前はもう、私の玩具なのだからな」
 そして彼は立ち上がった。
 「それではそろそろ楽しませてもらおうか。ソフィア姫」
 「え…?」
 思わず聞き返す。
 が、皇太子は笑顔のまま、ソフィアに告げた。
 「王女なんだろう?そう聞いたぞ、そいつから」
 言われるままに振り返る。天幕の入り口に、声もなく立ち尽くしている人影があった。
 ぼろぼろの服、乱れた髪の毛。よどんで、焦点の合わない瞳は、紛れもなくここにいないはずの人だった。
 「……ウォーター様」
 リャザニに交渉に赴いたはずの、黒鷲騎士団の団長。ソフィアの義兄でもある彼が、人形のように突っ立っていた。他人に支配されて、心を失っていることは、一目で分かった。
 隣国は、とっくの昔に皇太子の手に陥ちていたのだ。
 「エドガー…あなた、ウォーター様にまでッ!!」
 「せめて生きたまま再会出来た事を、喜ぶんだな」
 冷酷な声音で言い放ち、エドガーはウォーターを呼んだ。
 「おい」
 「はい、皇太子殿下」
 「そこの女を犯せ」
 「はい」
 二つ返事でうなずき、ウォーターは歩き出す。ゆっくりと緩慢に、その力強い腕で、逃げられない少女を組み敷いていく。
 「やめて、ウォーター様!」
 ソフィアは叫んだ。
 「お願い、正気に戻って!しっかりして、ウォーター様!!」
 しかし、その声は届かない。優しかったはずの手が乱暴に鎧をはがし、服を引き裂いた。
 「いや…ッ、やめて、やめさせてぇ!」
 いくら懇願しても、エドガーは、ただ楽げにその様子をじっと見ているだけだ。
 「……助けて」
 絞り出すように言って、目を閉じる。
 誰も、助けに来てなんかくれない。
 あたしは動けない。ウォーター様はあいつの言いなり。そしてコジャックは、まだ何も知らない。
 そして彼女は、思い出してしまった。何とかして、忘れようとしていたことを。
 「……う…うぅっ」
 されるがままの体を投げ出したまま、ソフィアは涙をこぼし始めた。
 「お願い」
 そんな、冷たい顔をしないで、あたしを助けて。
 「助けて、兄上」
 二度と会わないなんて、言わないで。
 忘れることなど、絶対に出来はしないのだから。
 「兄上…お願い、兄上」
 はるか地の底、魔界の果てに届くように、ソフィアは力の限り、叫んだ。
 「助けて、兄上ぇぇ――!!」


続く…

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