薄暗い部屋の中、王女はたわんだベッドに腰かけ、両手で顔を覆っていた。時折肩を震わせるその巨体は、何だかとても頼りなく見えた。
「マリア様…どうか、なさいましたか?」
あまりにも静かな雰囲気に、リーシャが小さく声をかけた。だが、返事はない。三人は、互いに顔を見合わせ、それからそっと彼女に近寄った。
そっと、といっても、重い鎧に身を包んでいるキンブルは、ガシャガシャと結構うるさい音がする。それでも、マリアは顔を隠したまま動こうとはしない。
「姫…?」
ぱきん。
さらに騎士が近付くと、足元で変な音がした。
「…何か、踏んだな?」
キンブルがそっと足を持ち上げた。リーシャがしゃがんで彼の足元をのぞき込む。
ぱきっ、とまた音がして、キンブルの足が退けられる。
「あれ。これ、何でしょう?」
しばらく床の上をなでまわすようにしていたリーシャが、いくつかの破片を持って立ち上がった。
「これは…?」
キンブルとランディスがのぞき込む。リーシャの手のひらに載せられていたのは、サファイアと思しき青い宝石の破片だった。欠片を寄せ集めてみると、それはかなり大粒で、丁度、人間の眼球程度の大きさがある。
「まさか…殿下!?」
ランディスがマリアを振り返った。
「目が……取れてしまったのですか」
やはり返事はない。
その代わり、小さな鳴咽が王女の喉から漏れた。
「うっ……うううっ……」
無骨な手で左右のまぶたをしっかりと押さえ、彼女は泣いていた。あふれた涙が、ほほを伝わっていく。
右側のほほにだけ。
それが、音もなく、ぽとりと膝に落ちる。
「何てこった…」
キンブルが頭に手をやった。
「おい、ランディス。何とかならないのかよ?こういう時のために、お前がいるんだろ?」
「ええ。今、考えています」
そう答えたランディスは、自分のローブの懐に手を突っ込んだ。取り出したのは錬金術の材料にするためのくず宝石の入った袋だった。
だが、いくら探しても、小さな袋の中には代わりになりそうな大きな石はない。
リーシャが泣きそうな顔をした。
「馬鹿野郎、こんなんじゃ役に立たないだろ!」
キンブルがまた怒り出す。
「……仕方がありません。安物なんですけど、これを使ってみましょうか」
彼はローブの右袖をまくった。そこには銀の腕輪があり、大きな丸い黄水晶がはまっていた。
腕輪をゆるめて宝石を外す。それは、丁度よさそうな大きさだった。
「殿下、代わりの目を入れましょう」
彼は王女の足元に片膝をついた。
「さ、手をどけて下さい」
小さくうなずくマリア。だが、またそのままぴくりとも動かなくなる。
「あたし……」
しばらくたってから、ようやく、唇が動いた。
「このまま、壊れちゃうのかな…?あの人にも、会えないまま」
一瞬の、間。
「いいえ」
それを、ランディスがあっさりと否定した。
「信じていれば、きっと会えますよ」
あまりにもきっぱりと言い切るので、マリアは少し指をずらして、目の前の青年の顔を見た。
相変わらず、もさっとした前髪が分厚く顔を覆い、何を考えているのか分からない。愛想のない表情のまま、彼はやっぱり淡白に告げた。
「ですが、会えた時に目がないのでは、相手の顔もご覧になれませんからね。さあ」
ランディスに促され、ようやくマリアは両手を下ろした。
右側には、涙に濡れて美しく潤んだ青い瞳。
左側には、ぽっかりと口を開けた、真っ黒い窪み。
それは、本当に、壊れかけた人形そのものだった。人の顔にはありえない空間がじっと虚空を見ている。
「ひっ……!!」
思わず、リーシャが息を呑む。
底の見えない空洞が彼女を見つめ返す。
次の瞬間、メイドは吸い込んだ息をふうっ、と全部吐き出した。
「おっ…と!」
そのまま、気を失って床に崩れ落ちる彼女を、キンブルがあわてて抱き留める。
「リーシャ…!!」
マリアの表情がたちまち強張った。だが、とっさに顔を隠そうとした手を、ランディスは無情にも振り払った。
シトリントパーズを片手に、もう片方の手でしっかりと頭を押さえつける。
「いけません。じっとなさって下さい」
「い…いやあっ!」
魔術師の手と、大きな宝石が眼前に迫る。わけの分からない恐怖に襲われて、マリアは脅えた。
それでも、作業はやらなければいけない。
「泣いたら、右目も取れてしまいますよ!」
脅しの言葉に、一瞬マリアの動きが止まる。その瞬間を逃さず、ランディスは容赦なく彼女の頭を押さえつけた。
ぐい。
いささか乱暴な手つきで宝石を押し込む。
ゴリッ、と鈍い音がする。
「痛あいっ!!」
「少しの辛抱です!」
ランディスはマリアの左目を押さえつけながら叫んだ。
「キンブル殿。あなたは、リーシャを連れて外に出ていて下さい。ここからは…ちょっと、普通の御婦人に見せられるものではないので」
「わ…分かった」
絶え間なくあがる王女の悲鳴に背中を押され、騎士は扉を開いた。今、彼に出来る事は、ないのだ。
「それではいきますよ……偽りの眼よ、我、汝に命ず。我が力を受け止めよ…」
「あああああっ…」
呪文の詠唱が始まると、マリアはさらに苦しみにのたうち回り始めた。扉を閉めても、二人の声が聞こえてくる。
「光を映し、闇にきらめく…全てを映す、真実の眼となれ」
「きゃあああっ!!」
キンブルは顔を伏せてリーシャの顔を覗き込んだ。王女の悲鳴が耳に届く度に、眉間に苦しそうなしわが寄る。
「俺たち、これからどうなるんだろうな」
固くまぶたを閉ざした少女にそうつぶやいて、騎士は扉の前を離れた。
かなり長い時間が過ぎて、王女の部屋から出てきたランディスは汗びっしょりになっていた。
「ランディス」
すぐにキンブルが声をかけた。
「どうなった?」
「大丈夫ですよ」
流れる汗を拭おうともせず、魔術師はいつも通りぼそぼそと愛想悪く答える。
「青と黄色のオッドアイになりましたけれど、結構お似合いになっていて可愛いと思います」
「そんな事を聞いてるんじゃない!」
たちまちキンブルの口調がきつくなった。
「目は見えるようになったのかと聞いてるんだ」
「ああ」
気のない返事。ランディスは、唇の端を持ち上げた。どうやら、笑ったらしい。
「明日の朝には見えるようになっていると思いますよ。馴染むまで少し時間がかかるはずですから」
すると、キンブルは逆に静かになった。
「…そうか」
「……どうしたんです?」
「いや」
彼は口元に苦笑を浮かべた。
「あんな無茶をしても目が元に戻るなんて…やっぱり、人形なんだなと思って」
「……」
キンブルの声は少し沈んでいた。短い沈黙の後、彼はたずねた。
「なあ、ランディス」
「何ですか?」
「このまま、うまく例の男を姫が倒せたとするだろう」
「ええ」
魔術師は興味がなさそうな口調で答えた。だが、騎士はその様子に気付かないのか、うなずきながら言葉を続ける。
「そうすると、姫は人間になれるんだよな」
「ええ。そう、聞いていますけれど。それが何か?」
「その時…姫は、一体どういう人間になるんだ?」
「は?」
質問の意味を理解出来ずに、ランディスはキンブルを見上げた。口が開いている。キンブルはその顔を見て、嫌そうに説明を開始した。
「つまりだ。例えば、さっき、お前が姫の目を入れ替えたよな。で、今、姫が人間になったとする。その時、左目は青に戻るのか、それとも黄色のままかと聞いているんだ」
「ああ、そういうことですか」
実につまらなさそうに返事をした後、ふと、ランディスも首を傾げた。
「そういえばそうですね。それは結構、大事なことかも」
「結構じゃなくてすごく大事だろう」
騎士はぐっ、と拳を握り締めて見せた。
「考えても見ろ。あのごつい体のまま人間に戻るのか?だとすると、どう考えても可哀相だぜ。あのまま女王になったりした日には、みっともなくて国民の前に出られないじゃないか!」
「うーん…そうですねぇ」
唇を真一文字に結び、真剣な様子のキンブル。一方、ランディスはのんびりと顎に手を当てた。
「でも、前の体は損傷が激しくてもう使えませんし。人間であれば王位は継げるから、問題はないと…」
「馬鹿野郎!」
彼は怒鳴った。ぐいっ、とランディスの胸座をつかんでたたみかける。
「そういう問題じゃないだろ!?お前は、姫が可哀相だとか、そういう事は思わないのかよ?」
「……あなたは」
あくまでも、淡白に。
「殿下が可愛くなければ嫌なんですね」
「何だとォ!?」
キンブルの声が低くなる。
「人間は見た目ではない。特に、王となる者に大切なのは中身です。どんなに可愛らしくてもカリスマ…」
「違うっ!!俺はっ、姫のことを考えてだな…!!」
「とにかく」
見た目とは裏腹に、結構強い力でランディスは騎士の手首をつかんで振り払った。
「お湯を使わせてもらってきます。その後は、メンテナンス用の材料を買い出しに行きますからね、今夜は戻りませんよ」
「ランディス!」
騎士が叫ぶ。
しかし、魔術師は振り向きもせず、静かに部屋を出ていった。
深夜。
人の気配を感じて、ふと、マリアは目を覚ました。
窓が開き、涼しい夜の風が静かにカーテンを揺らす。
「……リーシャ?」
マリアはゆっくりと上半身を起こし、辺りを見回しながら尋ねた。
コツ…。
すると、部屋の隅の暗がりから、靴の音をさせて人影が歩み出る。
「今晩は」
静かな声。ぴったりとした黒い革の上下に身を包んだ青年は、ゆっくりとマリアのベッドへと歩み寄ってきた。
「あなたは…!」
「覚えていて下さいましたか」
月の光を浴びて、彼は微笑んだ。
銀色の髪の毛が、柔らかくさらさらと揺れる。緑色の目が優しく彼女を見つめている。
忘れられるはずがない。
「ああ…!!」
マリアは歓喜の声を上げた。
だが、それは次の瞬間、落胆のため息に変わった。
「あ……」
うつむく少女に、彼はにっこりと笑って話し掛けた。
「どうしました?」
「あの…あたし」
自分の姿を思い出す。手袋を外せない堅い指で、シーツをそっと引きずりあげる。そう、今は顔だって、半分包帯に包まれているのだ。
こんな姿を、見られたくなかったのに。
しかし。
「……どうして隠れるのですか?」
何も知らない青年は、ためらいもなくベッドのへりに腰をかけた。ただでさえ重量のあるマリアに加えて、もう一人分の体重がかかり、ベッドが苦しそうにきしむ。
「もっと近くで見たい」
すっ、と手が差し伸べられる。彼は右手をマリアの左頬に添えた。
「いつも、見ていたんですよ…遠くからですけどね」
あくまでも優しい口調。だが、マリアに応えられるはずはない。
うつむく王女に、彼はそっと手を引いた。
長い沈黙。
青年は座ったまま、別に何をするでもなくじっと彼女を眺めている。マリアも、ただ、時折彼の方をちらっと見るだけで、何も言えずにいた。
やがて、意を決したように、マリアは口を開いた。
「あなたは、あたしを見て……」
「ん?」
「何とも思わないの?」
ありったけの勇気を出した質問に、青年はその優しい目を細めて首を傾げた。
「どうしてそんな事を聞くのですか」
「だって…あたし」
鉄製の胸に手を当てると、小さく鈍い音がした。
「こんな……格好なのに」
機械の体。人ではない自分。
そう……前に出会った時の事が、まるで何年も、何十年も昔の事のよう。今は、あなたを殺さなければならない人形のあたし。
「ですが、あなたはあなたでしょう?」
青年は、答えた。
「人間でも人形でも同じことです。今、ここに、いるのですから」
「……え?」
聞き返すと、彼はくすっ、と笑った。
「私があなたをそんな風にしてしまった元凶なのに、どうして責める事が出来ますか。それよりも」
近付いてくる顔。
「あなたは私に出会って壊れてくれた…私には、その方が嬉しい」
「そ…そんな」
たちまち、マリアの頬が真っ赤になった。恥ずかしくてつい顔をそむけ、彼女はしどろもどろで尋ねる。
「そっ、そういえば、あの、聞きたい事が…あるんだけど」
「はい?何でしょう」
「あの、あたし、あなたの名前を…まだ知らないのよ」
「あっ…そうでしたっけ?」
驚き、そして子供のように無邪気に笑って、銀髪の青年は、答えた。
「名前は…マクレーン」
「それだけ?」
「マクレーン…」
形のいい唇が、言葉を続けようとした時。
コンコンッ。
短いノック。返事を待たずに扉が開いた。
「マリア様っ!?」
「!!」
青年は素早く立ち上がった。口元を押さえながら、肩越しに、ちらりとドアの方を見る。そこには、ランプを手にしたメイドの少女が立ち尽くしていた。
「マリア様…その方は?」
「リーシャ…」
マリアがつぶやく。
その間隙を縫うように。
「邪魔が入りましたね。では、また」
マクレーンはそれだけ言うと、ふっとバックステップを踏んだ。細い体が、無造作に窓から投げ出される。
「あっ!待ちなさいっ!!」
リーシャがあわてて窓から身を乗り出す。
が、彼女はすぐに、しょぼんと肩を落としてマリアの傍らに戻ってきた。
「何て人なんでしょう…」
「…どうしたの?」
「確かに、あの夜も、あの搭の上に突然現れて消えた人ですから、当然といえば当然なのかもしれないんですけど」
王女が不安げに尋ねると、リーシャは、信じられないものを見たという顔をして答えた。
「もう、いないんです…あの人」