名実ともに、サマランカ帝国の皇帝となったエドガーは、まさに無敵だった。ものの数年でまたいくつもの国を滅ぼし、残るは辺境の小国を残すのみ。小規模な反乱がいくつも起こってはいたものの、それも微々たるもので、帝国の基盤を揺るがすことは出来なかった。
「アニタ」
相変わらず玉座の傍に彼女をはべらせながら、彼は尋ねた。
「大陸を統一したら、その後はどうしよう?」
目の前の戦争を片付けることしか考えて来なかったエドガーも、終点が見えて来て初めてその事に思い至った。
「大丈夫ですよ」
アニタは答える。
「陛下には天賦の才がございます。思った通りになされば、きっとうまくいきますとも」
「そんなものか?」
「ええ」
その時、控えめに謁見の間の扉が開いた。
「報告でございます」
そう言って、衛兵が胸元から書簡を取り出し、いつもの定時報告を始めた。
「オレンブルグ地方、異常なし。トリール地方、異常なし…」
抑揚のない声で異常なし、の声が続く。だが。
「ルシヨン地方で、反乱が起きました。規模は約二千人、首謀者はキース・ルシヨン」
「何?」
エドガーが声をあげた。
「まさか…」
そして、それよりも驚いていたのがアニタだった。
あの誘拐事件の時に、死んだと思ったのに。
もはや何の関係もない人とはいえ、昔の主君の無残な死に様を見たくはなかった。だから、死体を確認しなかった。
「生きていたなんて…」
「そうか」
青ざめる彼女を見て、エドガーは意地の悪い笑みを浮かべた。
「ルシヨンといえば、お前の国だったな。ご主人様が生きていて嬉しいか?」
「そんな!」
アニタは激しく頭を振る。
「ただ、驚いただけです。私の主人はエドガー様だけ、他の人間になど従えません」
「本当か?」
金色の目が細くなった。
「人間など信用出来ん…特に、お前はな」
顎を掴んで、至近距離で目と目を合わせる。しかし、どんなに力をこめて見つめても、アニタの瞳から正気が消えることはないのだ。
「それにしても二千人とは少し大きいな」
ふいに、彼女に興味を失ったかのように、エドガーはアニタを引き離した。
「ルシヨン軍だけで制圧するには時間がかかるかもしれませんね」
「気に入らないな。よし、中央から一部隊派遣しろ」
「はい」
彼女は立ち上がり、いつでもきちんと頭の中に入っている状況を報告した。
「ポッツォーリ将軍の第一部隊、ロルカ将軍の第四部隊は現在東南国境でファーマナ軍と交戦中です。アラーク将軍の第五部隊はエンガディンを制圧したばかりで疲れているでしょうから、すぐに動かせる部隊は第二、第三、第六ぐらいです。いかが致しましょう?」
的確なアドバイスに、エドガーはうなずいた。
「よし、第二だ。すぐにルシヨンへ」
「はい」
軽く革靴の音を響かせて、アニタは出て行く。
彼女が出ていった後の扉を、エドガーはいつまでも眺め続けていた。
「ひるむな!」
解放軍の総大将、ルシヨン公国の公子キースは、先頭に立って全軍を率いていた。
「敵の兵士は、みんな精神を乗っ取られているだけだ。殺さずに、殴って倒せ!」
そう言って振り上げる剣は、刃を潰してある。襲い掛かってくるサマランカ兵の頭を狙って振り下ろす。
「オーッ!!」
解放軍の兵士たちの士気は高い。それもそのはず、この荒療治で邪眼の支配を解いた人々を味方にしているのだ。キース自身の存在も鍵となり、その結束は日々強くなっていた。
その日もルシヨン警備隊を打ち破り、数十人を配下に加えて戦闘は終わった。
「今日も、快勝でしたね」
レジスタンスの頃から共にいる仲間が言った。
「それにしても…最初に敵兵を殺すなといわれた時には随分驚きましたけれど」
彼女が笑う。
「確かにあの皇帝のために兵たちが命を捨てるとは思えなかったけれど、まさか邪眼による洗脳が行われていることに気付くとは、さすがです」
「トラリー伯爵が死をもって教えてくれたんだ」
あれからというもの、キースは身をやつし、大陸の各地を放浪しながら、見ただけで相手をコントロールするという能力について調べた。果たして、彼が思った通り、それは存在した。
邪眼、と呼ばれる不思議な眼は主に魔物が持っている。コカトリスやバジリスクなどの石化能力を持つ魔獣たちがその代表格である。もちろん、エドガーの邪眼はそんな単純なものではなかった。
彼の意志により、目を合わせた者はその自我を奪われる。こうして出来た操り人形は彼の言うことに従い、その能力で彼をサポートしていく。優秀な人物であればあるほど、洗脳してしまえば強力な味方となるのだ。
逆に、トラリー伯爵たちに行ったように、自我はそのままで、身体だけを操ることも出来る。あの黄金の瞳を見たら、だが。
それが分かってしまえば、あとは簡単だった。
支配された人たちを解放するだけでいいのだから。
殴り倒したり、捕らえた相手に、精神を癒す魔法をかける。それだけで、人々は自分を取り戻した。
救世の公子。
救われた者は誰が言うともなくキースのことをそう呼んだ。そして彼らは次々とキースの下に集い、解放軍はどんどんふくれあがっていった。
「そろそろ…中央にも僕らのことは届いているだろう」
キースはみなに告げた。
「いつ、あの男が来るかも分からない。でも、その時は、絶対にこれだけは忘れないで」
解放軍の主だった面々はうなずく。
「皇帝の顔を見ないこと。特に、右目だけは絶対に見ちゃだめだからね!」
その時、斥候が走って来た。
「来ました、中央の軍勢です!」
「規模は!?」
ざわめく人々を制して、キースは冷静に尋ねた。
「一個大隊といったところです。旗印から見ると、どうやら第二部隊のマルガリータ・ウファ将軍のようです」
「そうか…」
若き盟主は微笑んだ。
勝った。
「彼女の弟を解放したはずだったね。彼にも説得してもらおう…これでまた、有能な将軍が一人、仲間になってくれるはずだ」
「はい、キース様!」
「疲れているだろうけど頑張って!戦闘の準備を!!」
彼の指示で、みながてきぱきと動き出す。
だが。
誰もいなくなると、キースの笑顔がふと消えた。
「ティートは…まだ来ないんだね」
あの時は酷い事をしてしまったけれど、今なら、僕が必ず助けてあげる。だから、早く来て。
儚い期待を抱いて、少年は戦場に出た。
エドガーは逆上した。
「何だと…第二部隊が、寝返っただと!?」
報告を聞いて激昂し、傍らにいたアニタを床に向かってしたたか打ち付けた。
「そんな馬鹿な話があるか!一体どういうことだ!?」
しかし、伝令は、怒り狂う主人に反応する事も無く、ただ淡々と状況を伝えるだけだ。解放軍と第二部隊が交戦したが、さほど事態が進展しないうちに戦闘が終了し、ウファ将軍が解放軍に加わったことを、客観的に、冷静に述べるだけだった。
「もういい!」
皇帝が吼えると、伝令は一礼して立ち去った。広いホールにいるのは、たった二人だけ。アニタは、打ったところを押さえながら立ち上がった。
「まさかとは思いますが」
彼女は、静かに言った。
「陛下の邪眼のことが、知れているのではないでしょうか」
「……ありうるな」
少しずつ落ち着きを取り戻しながらエドガーが答えた。
「それならば、早急に手を打たねばならん。私が出るぞ」
「はい」
今までとは違う、緊張した面持ちで、二人はうなずきあった。
生まれて初めて、勝敗の決まっていない戦に出るエドガー。厳しい戦いになると、何となく分かっていた。
サマランカ軍にとっては初めての大敗。そして、解放軍にとっては、貴重な大勝利となった。あの皇帝エドガーを、倒すには至らなかったものの、退けることに成功したのだから。
ひとにらみで一万の軍を自分の配下にしてしまう皇帝も、肝心の兵士たちが彼を見ていなければ何の役にも立たない。ほとんどの兵に去られ、負けを悟った皇帝は、最愛の側近まで失って、飛竜にまたがり逃げていった。
解放軍は勝利の雄叫びを上げ、キースは褒め称えられた。
「キース様」
部下たちが、捕虜を連れて駆け寄ってくる。
「捕らえました、あの女です!」
赤く塗った鎧はぼろぼろに打ち砕かれ、ぐったりとその頭が垂れ下がっている。
死んでる…!?
一瞬、キースの顔がこわばったが、すぐにその表情が緩んだ。彼女が、血塗れの唇から、小さな吐息を漏らしたからだ。
「どうなさいますか?」
「もちろん、治療する」
少年は満面の笑みを見せた。
「この人は、僕の大事な女性なんだ」
やっと、取り戻せるんだ。
「……ごめんね、ティート。痛かった?」
甘えるように、彼は気を失った彼女の髪をなでた。
「でも、もう大丈夫だから…もう、大丈夫」
最も皇帝に近かった女性、ティートの治療は念入りに行われた。力の強い神官たちが数人がかりで祈りを捧げ、邪悪な呪いは消え去った。
魔法の力で傷も癒え、ようやく目を覚ました彼女が最初に見たのは、心配そうに覗き込んでいるキースの顔だった。
「……キース、様…?」
「ティート!」
がばっ!
子供の頃のように、彼はティートに飛び付いた。
「良かった、気が付いて…大丈夫?何処も痛くない?」
「え、ええ」
上半身を起こし、彼女は不思議そうに辺りを見回た。そこは小さな部屋のようで、ティートとキース、二人っきりにされていた。
「でも…あの、ここは一体?」
「心配いらない。ここはね、ルシヨンと帝国の国境の砦。安心していい、大丈夫だから」
「は、はい…」
何だかまだ納得がいかないという顔で、ティートはうなずいた。
「無理もないか…」
キースは彼女の頭をなでて、少し寂しげに微笑んだ。
あの様子からすると、相当強力な支配を受けていたんだろう。記憶だって、もしかするとないかもしれない。
それでも、こうして戻って来た。
それが嬉しくて仕方がなかった。
「あの、わたし、一体…?」
おどおどと尋ねるティートに、キースはまた甘えてじゃれついた。
「いいよ、何もしなくて。しばらくは、僕の側についていてくれる?」
「はあ…?」
苦笑する彼女に有無も言わせず、力強く胸の中に抱きしめる。
「んっ…」
「覚えてないかもしれないけれど…あの時は、ごめん」
それから、唇を重ねる。
驚きの表情が次第に緩み、彼女もキースを受け入れた。
「愛してる、ティート…これからは、もうずっと一緒だから」
砦の夜は、少しにぎやかにふけていく。いつも静まり返っているサマランカの王城とは随分趣が違う。
たまにはこういう雰囲気もいいけれど。
隣でぐっすりと眠っているキースを起こさないように、ティートは静かにベッドを降りた。
やっぱり…私の帰るところは、あそこしかない。
彼女は辺りを見回した。脱ぎ散らかしたキースの上着が、床の上に落ちている。音を立てないように探っていくと、思った通り、細身の短剣が内ポケットに入っていた。
窓から差し込む月の光に反射させて、刃の具合を確認する。大丈夫、使える…人間一人の首ぐらいなら、落とせる。
ティートはそれをぎゅっと握り締めて、再びベッドに近付いた。
ごめんなさい、キース様。でも、私には、こうすることしか出来ない。
皇帝が敗走する時、彼女は置いていかれた。それは、わざとだった。彼女自身が言い出した作戦だから、失敗するわけにはいかない。
解放軍の首謀者の首を、必ず取って帰ると約束したから。
「……ごめんなさい」
つぶやいた、その時。
バァンと、激しい音を立てて扉が開いた。
「キース様っ!!」
「!?」
飛び込んで来たのは、一人の女兵士。その後から、たくさんの人間が駆けつけてくる物音が聞こえる。
「キース様から離れろ、この売女っ!!」
「く…」
優しいキースは騙せても、彼を慕う女を欺くことは出来なかった、ということか。
振り向くと、キースはもう目を覚まして、呆然とした顔で部屋の中の様子を見回していた。
「ティート…イオナ?これは、一体?」
「お気をつけて!やっぱりこの女、奴の手先です!」
「くそうっ!」
悲鳴のような声をあげて、彼女は持っていた短剣を女に投げつけた。そして、キースを突き倒すと、開いていた窓から外へと身を躍らせた。
「あっ…ばかっ、ティート!」
この下は崖だ。
あわてて覗き込んだ時には、もう彼女の姿はなかった。ただ、闇を映した黒い川が、静かに流れているだけだった。