第四章 霧の港(後編)
空が白々と明けてきた。それにつれ、桟橋には濃く霧が立ち込め始めた。そこだけを包み込むように、濃く深く、何かを覆い隠すように。
「お待ちしておりました」
昨日の妖精が、シャウラたちが到着したのを見計らったように姿を見せた。
「…どうぞ、こちらへ」
ちりん、と鈴を鳴らして彼女が向き直ると、霧がうごめいた。扉が開くかのように、左右に割れて開いていく。
「……」
だが、その向こうも、ただ霧で覆われた空間が広がっているばかりだ。
「おい。やっぱり罠じゃないのか?」
アシルがシャウラの腕を引いた。
「……」
彼は黙ってうつむく。
「だが、行かなければ」
それだけ答えると、シャウラは振り向いて仲間たちの顔を見た。誰もが不安を隠しきれない様子で、彼と行く先の空間を見ていた。
ただ、ウィーダだけは、いつもと同じようににっこりとシャウラを見ていた。
「どうしたんだ、シャウラ?」
待ち受ける光景が分からないことが、彼の冷静さを保っているのか、全く動揺の色はない。
「行くんだろう?この先へ」
「……ああ」
シャウラがうなずく。ウィーダが彼の肩に手をかける。それに押されるように、シャウラは霧の中へと一歩踏み出した。
「ロザリエラ…来たぞ、私だ!」
「いらっしゃい」
次の瞬間、薄い紫色の霧は爆発するように膨れ上がり、彼らを包み込んだ。そして、一瞬の後。
「ふふ…久しぶりねェ、シャウラ」
青い髪が揺れた。
そこはもう、桟橋ではなかった。足元には一面の白い砂。そして、壁のように霧が四方を取り囲んでいる。上を見ても、空も見えない。
透ける衣装をまとった魔物の女は笑いながら、人差し指で赤い唇を押えた。
「予定外のお客様がいっぱい来ちゃったけど、それはそれでいいわよね?」
「何がだ」
感情のない声で答えると、彼女はすねたように眉を寄せて見せた。
「相変わらず冷たいのね…ひどい人」
「ロザリエラ」
少し怒りを含ませて、シャウラは言った。
「私はそんな話をしに来たのではない。ランディとアンディはどこにいる。返してもらおうか」
「何よ、たかが人間の一人や二人」
さも、つまらない話をするかのように、彼女は唇を尖らせる。
「そんなモノ、前はどうでもいいって言ってたクセに」
「黙れ」
きっぱりと言い捨てて、彼は剣を抜いた。白い砂に、鮮血が一滴、小さな点を描いた。
「返さないと言うなら、力ずくでも取り返す」
「全く…血の気の多いトコロは変わらないのにネ」
青い髪をさらりとかき上げ、彼女は笑った。
「いいわ。取引しましょ」
パチン。
指を鳴らすと、ロザリエラの背後の霧が動いた。彼女の配下の魔物たちが、引きずるように二人の青年を連れてくる。ぐったりとうなだれたランディと、あちこちに痕を残したアンディ。
アンディは顔を上げ、シャウラたちを見た。
「あ…シャウラさん…」
「大丈夫か、アンディ」
「僕は…平気ですけど」
ランディが。
言外にそう言って、彼は親友を見た。人魚の肩に担がれたまま、ぴくりともしない。
シャウラの眉がつりあがった。
「ロザリエラ。ランディに何をした」
「何よぅ…そんなに怒らなくてもいいじゃない」
その程度で怖気づいたとは思えないが、ロザリエラは一瞬だけひきつった表情を見せて答えた。
「死んじゃいないわよ。まだ壊してもないんだし」
「………」
「…分かってるわよ、返すわよ!ただし、こっちの言うことも聞いてもらわなくちゃね」
ゆっくりと赤い唇をなめ、彼女はシャウラを見据える。
「交換よ」
それは、予想できた条件だった。
「私…だな?」
確かめるようにシャウラが言うと、魔物は思ったとおりうなずいた。だが、彼女はさらにその白い手を上げて、もう一人の人物を指差した。
「それから、あなた」
「!」
それは、盲目の王子だった。
ミラノがはっとして、かばうようにウィーダの肩を抱く。それで誰が指名されたのかに気付き、彼は困惑したように眉を寄せた。
「私…なのか?」
「ゴメンなさいね。アタシ、あなたには何の恨みもないんだけど、ウェグラー様があなたも欲しいって言うのヨ」
「何故だ」
シャウラの口をついて、疑問符が出る。
「何故、私とウィーダなのだ?一体、私たちに何があるというんだ」
「それはアタシも知らないのよね〜」
しれっと答えて、彼女は笑った。
「ま、とにかく、二人対二人の交換よ。妥当なセンでしょ?…イヤとは言わせないわよ」
「………」
うなずかなければ、間違いなくランディたちは殺される。だが、自分だけではなく、ウィーダも要求されては、うなずけようはずもない。
逡巡するシャウラに、アンディが口を開いた。
「ダメです、シャウラさん…」
どこかが痛むのか、はぁ、と小さく息を吐き出してから続ける。
「僕らは構わないから…こいつの言いなりになんかなっちゃダメです」
「アンディ…」
ウィーダが思わずつぶやいた。シャウラは振り返り、彼を見た。不安げに王子の手を引くミラノをそっと押えて、彼は一歩前に出た。
「いいだろう。私でよければ代わりになろう。アンディを放すんだ、ロザリエラ」
「ウィーダ様!」
「そっちの王子様は、とっても素直でイイわねェ」
実に楽しそうにロザリエラが微笑む。
「それじゃ、二人揃ってこっちへいらっしゃい」
「ダメです!」
アンディが苦しげに頭を振る。
「こいつは…ロザリエラは、ランディをッ…ぐふっ」
何もないのに、急に喉を詰まらせたように彼は咳き込んだ。だが、それでも、アンディはまた顔を上げた。
「手放す…つも…なんか…クッ…うぅ」
ふと見ると、首筋に不自然なくぼみがある。見えない何かが、彼の首を絞めている。
「…そこ……の、は」
「もういい、しゃべるな」
それに気付いて、シャウラは言った。
同時にウィーダも何かに気付いたらしく、そっとシャウラの耳に顔を寄せた。
「ランディはどこにいるんだ?」
「ロザリエラの後ろだ。とても動ける状態ではなさそうだが」
「そんなはずはない」
あごに手を当て、ウィーダはつぶやいた。
「ランディの声が聞こえる…元気そうだし、意外と近い」
「何だと?」
シャウラはウィーダの顔を見た。真剣な面持ちで、他の人には聞こえない何かを聞き取ろうとしているようだ。
その様子を見ながら、ロザリエラがいらいらするように地面を二度三度踏み鳴らした。
「何してるの、早くいらっしゃいな!」
「まあそう焦るな」
やんわりと彼女を制して、シャウラはゆっくりとウィーダの肩に手を置いた。はたから見れば、目の見えぬ友人をいたわるかのように見えるが、実のところは時間稼ぎだ。
ふと、ウィーダが顔を上げ、まっすぐにロザリエラの方を向いた。
「彼女の近くにガラスか何かのようなものがあるか?」
小さな声でそう尋ねる。シャウラはぱっと彼女の様子を眺めて答えた。
「水晶のペンダントをつけているが」
「それだ」
きっぱりと、彼は断言した。読み取られないようにするためか、唇に指を当てながら小さく告げる。
「おそらくランディはその中だ」
「何?」
「近いんだが、何かに遮られている…くぐもって反響しているみたいなんだ。よく聞こえないが、とにかく出せ、と言っているのは分かる」
「…なるほど」
やや大きめの、胡桃ほどの丸い水晶球がロザリエラの胸元で輝いている。それは透明なものではなく、空のような淡いブルーだった。
「あいつなら、やりかねん」
シャウラはつぶやいた。
彼女は肉弾戦には弱いが、魔力は高く、高度な魔法を使いこなす事が出来る。特に、空間をねじ曲げたり、幻影を見せたりするのは得意中の得意だ。人間一人、あの中に封じ込めてしまう事など造作もないだろう。
「シャウラ」
少しいらついたのか、ロザリエラが微笑むのをやめて口を開いた。
「いつまで二人でごちゃごちゃ言ってるの?早くこっちへいらっしゃいな」
「分かった」
ウィーダが答える。
「ただし、ちゃんとお前がそちらの二人を返してくれるという証拠が欲しい。まず、アンディをこっちにもらおうか」
「約束は、ちゃ〜んと守るわヨ」
ロザリエラはにまっと笑って、指を鳴らした。人魚たちが、アンディの縛めを解いて砂地に立たせる。
「ホラ、さっさとお帰り」
「……」
アンディは苦しげに自分の首を押えながら、魔物たちとシャウラたちを交互に見た。
「来い、アンディ」
シャウラにうながされ、一歩ずつアンディが歩き出す。差し伸べられたウィーダの手に、アンディの手が触れた。
「アンディ、だな?」
確認するかのように、ウィーダはアンディを自分の近くに引き寄せた。両手で彼の顔をつつみ、額、鼻、ほほ、唇と指を這わせていく。
「どう?納得した?」
問いかけるロザリエラに、ウィーダはうなずいて見せた。
そして。
そのまま、すい、とアンディを右側によける。
「え?」
驚いている間すら与えている余裕はない。
次にロザリエラが見たのは、ウィーダの背後から自分めがけて襲いかかってくる雷の矢だった。
ぱきん、と硬い音が響いた。
白い肌を、青い水晶の破片が薄く切っていく。霧のように細かく散る血飛沫、砂のように風に舞う水晶のかけら。
「大丈夫か?」
シャウラは友に駆け寄り、膝をつく人影に手を貸した。
「すまねぇ」
荒い息をついて、彼は答えた。だが、その表情は硬く、声は怒りに満ちていた。
「また助けてもらっちまったな」
「構わん」
短く答え、シャウラは剣を構えた。
その二人の眼前で、ロザリエラもまた怒りに震えていた。
「シャウラ!よくも…よくも、アタシを騙したわね?」
「お前の方こそ、ランディの偽者をつかませて我々を騙そうとしていたのではないか?そうだろう」
「くうッ…!」
答えを失い、噛みしめた唇から、赤い血がつう、と滴り落ちた。
「もういいッ!」
彼女が吼えると、その口元にずらりと並んだ牙がのぞいた。蛇のように二股に分かれた真紅の舌が、ちらちらとうごめく。
「お前たちッ、皆殺しにしておしまい!」
魔物としての本性もあらわに、ロザリエラは叫ぶ。
いっせいに、まわりの魔物たちがその爪を、牙を見せた。ランディのように見えたのもたちまち魔物の姿となり、彼らに向って赤い口を開けた。
「それはこっちの台詞だ!」
刀を抜いて、ランディが立ち上がる。
「このオレを、よくもここまでコケにしやがって…てめぇだけは許さねぇ!」
「やれるものなら、やって御覧なさいな!」
魔物たちが、咆哮をあげた。
「いやあああああッ!!」
霧に閉ざされた空間に、絶叫がこだまする。
白い肌に深々と突き立てられた刀を、ランディは一息置いて、ぐっと引き抜いた。
魔物とはいえ、血は流れている。吹き出した鮮血が、彼の顔を汚した。
「く…うっ」
観念したかのように、女はうなだれた。もう動く力も残ってはいないだろう。
もう一度、今度こそとどめを刺すために。
仲間を奪い、傷つけた魔物を倒すために。
胸ぐらをつかんで上を向かせると、何故かロザリエラは笑みを浮かべていた。
「…何がおかしい!」
「ふ…ふふっ」
唇の端から血を垂らしながら、彼女はランディの顔を見つめた。その目は相変わらず、お気に入りの玩具を愛でているかのような色だ。ランディは乱暴に彼女をゆすった。
「何で笑ってんだよ!?」
「アタシを殺すんでしょう…?早く…なさいな…」
声にはならないが、白い喉がくつくつと上下に揺れる。明らかに、彼女は笑っている。
「何をたくらんでいる。答えろ」
不穏な雰囲気を感じ取ったのか、シャウラがきつい口調で尋ねた。
「ふふ…いいわよ…でも、もう聞いたって遅いんだから…ゲフッ」
泡の混じった血を吐いて、彼女は答えた。
「そもそもあなたたち、ここがどこなのか分かって…?」
足元はどこまでも続く白い砂地、周りは薄い紫色の霧に覆われている。少しばかり、その霧が、みなに近付いてきているような気がして、ランディとシャウラは顔を見合わせた。
「ここはね…アタシの、アタシだけの場所なの…空間の、ハザマ」
つぶやくように言って、ロザリエラはまぶたを閉じた。
「おバカさんたちね。ここに入ってきた時点で、あなたたちの負け…アタシが死んだら、帰る道もなくなる」
「な…なんだとォ!?」
思わず、ランディが手を離す。力なくどさっと地面に倒れこんでも、ロザリエラはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべているばかりだった。
「ふふっ…ランディ。あなたがあの時、最初の時にウンと素直にうなずいていたら」
彼の表情を確かめるように、一言一言ゆっくりと、彼女は言った。
「誰も死なずにすんだのにね…今回も、ネ…」
あからさまな落胆と絶望。後悔が彼を苛む。
ランディの瞳は、色を失いつつあった。
「おい…おい、待てよ…」
もう誰も失いたくない。
その一心で伸ばされた手が、彼女に触れる。彼女は微笑んで、その手を取った。
もう…どうなっても。
その時。
「ランディ」
ウィーダが彼の肩に手をかけた。
「その女の言うことを信用してはダメだ」
「でも…」
「出口は、ある」
きっぱりと、彼は言い切った。
「潮風が吹き込んでくる場所がある…そこだ」
顔を上げ、ウィーダは一点を指差した。途端に、ロザリエラの顔が苦痛と悔しさに歪んだ。
「お…おのれ、ウィーダ王子…ッ!」
半身を起こし、口元から垂れる血を手の甲でぬぐって、彼女は忌々しそうに王子をにらみつけた。
「目が見えないと思ってたのに…だからこそ、お前にまやかしは通用しないのね…」
そして、ふっと笑みを浮かべて、彼女は言った。
「そうよ、出口はそこにある…帰りたければ、勝手にすればいい」
そのまま、長い鉤爪のある手を自分の胸に当てた。
「ぐッ!!」
派手に血飛沫が飛び散った。みなが驚いて振り向くと、彼女は自分の胸の傷を、自らの爪で広げていた。
「くっ…ぐうううぅッ」
「おい、ロザリエラ!」
シャウラがその手をつかんで止める。だが、みるみるうちに、彼女の顔からは精気が失われ始めた。
「誰も…逃しは…しない、わよ…」
血の色の瞳だけが、魔物の本性を映して爛々と輝いている。さすがのシャウラも、気圧されて一瞬手をゆるめた。
「ふぐッ!」
次の瞬間、ロザリエラは彼の手を振り解き、また再び己の心臓に爪を立てた。
「シャウラ、駄目だ!風の匂いが弱くなってきた」
ウィーダが焦るように告げた。
「早くここから脱出しないと、本当に閉じ込められるぞ」
「分かった…ッ」
彼女の手を押えたまま、シャウラは彼に応えた。
「ウィーダ、出口が分かるのはお前だけだ。先に行ってみなを逃がしてくれ!」
「シャウラ、君は?」
「ロザリエラを押えておく者が必要だ。私は最後に出る、だから早く!」
「分かった」
ウィーダはうなずいて、呪文を唱え始めた。出来上がった氷の槍を何もない場所めがけて投げつける。
すると、そこだけ霧がすっと晴れて、向こうに港の風景がぼんやりと浮かび上がった。
「外だ…!」
わっ、と仲間たちから歓声があがった。
「でも」
クプシが不安げにシャウラを振り返る。
「お兄ちゃんが…」
「アシル」
ウィーダに促され、アシルがうなずく。彼はひょい、と少女を抱え上げると、有無を言わさず外への一歩を踏み出した。
「さあ、他のみんなも早く!」
言われるがままに、サファとアンディも外へ出た。大きなグリフォンが窮屈そうに狭い出口をくぐり抜けると、出口はまた一段と狭まったように感じられた。
「シャウラ!そっちはどうだ?」
「今行くから、お前も出ていろ」
シャウラの声に、ウィーダはうなずく。だが、まだ人の気配を感じて、彼はその場に留まっていた。
「シャウラ」
シャウラの傍らには、まだランディと、ミラノ、クザンが残っていた。
「その役目はオレがする。代われ」
「私は脱出しろと言っている。聞こえないのか」
瀕死のロザリエラを前に、二人はお互いをにらみつけて言い争いをしていた。
「こいつにはオレがとどめを刺すんだ。帰れなくなってもいい…こいつは、オレが倒すんだ!」
「駄目だ!」
「どうして!」
「お前には帰らなければならない場所があるだろう」
延々と続きそうになる話に、ミラノが口を挟んだ。
「ここは私に任せては頂けませんか?」
「え?」
二人が振り返る。その瞬間、彼女の口から小さく言葉が発せられた。
「クザン」
「ああ」
拳闘士の太い腕が、避ける暇もなく繰り出された。
「うっ…!」
「ぐわ!」
両の拳は容赦なくシャウラとランディの腹をえぐった。そのまま動けなくなる二人を軽々と両肩に担ぎ、クザンはミラノを振り返った。
「いいのか?」
「ええ。ウィーダ様をお願い…守ってあげて」
短く答えて、ミラノはロザリエラの腕を取る。
「さ、あなたももう少しだけ我慢してね」
「え…?」
驚くロザリエラと、涼しい顔のミラノを残し、クザンは出口へと歩き始めた。そこでは、不安にかられたような表情のウィーダが待っていた。
「それじゃ出ようか、王子様」
「クザンだけか?シャウラたちは?」
「ちょっと黙ってもらったんで、今担いでるところだ」
「そうか」
それでも、彼の顔は晴れない。
「ミラノはどこに?」
いつも傍にいたはずなのに、今は声が聞こえない。いつもつけている香水の匂いも、どこか遠い。ウィーダは辺りを見回して、彼女がいる辺りに顔を向けた。
「ミラノ!」
ミラノを呼ぼうとしたその時、クザンがすっと足を上げた。
「すまねえな!」
ドカッ、と鈍い音がした。
ふいをつかれて、ウィーダはあっけなく出口の外へと蹴り飛ばされる。
「悪く思わんでくれよ。ただ」
シャウラとランディも外に放り出し、彼も出口をくぐった。
「あいつしか、生きて戻れるヤツはいねぇんだよ」
その背後で、断末魔の悲鳴が響いた。
「ミラノ…ミラノ!」
桟橋の上で、ウィーダの叫びがこだまする。
だが。
中空に浮いた紫色の霧のかたまりは、次第に薄くなり、やがて、風に溶けるようにふっと消え去った。
ロザリエラは死んだのだろう。一人残ったミラノと共に。
「ミラノ――ッ!!」
いつ頃からだったろう。気がついたら、随分長い間一緒にいてくれた侍女。
国王に打ち捨てられた価値のない王子を、親身になって面倒を見てくれた彼女。武術も魔法も、全て彼女から教わった。
ウィーダ様には、剣よりも、リーチの長い槍の方が扱いやすいでしょう。
ウィーダ様には魔法の才能もおありですのね。では、氷系の呪文を習得なさってはいかがですか?
ウィーダ様、強くおなり下さい。お強くなれば、きっと、いつかは…。
いつも傍にいたのに。絶対に離れないと、いつも誓ってくれていたのに。
「どうして…」
クザンに蹴飛ばされたところ以上に胸が痛んで、ウィーダは立ち上がれなかった。
「すまねぇ、痛えか?ちょっと強く蹴り過ぎたな」
「クザン…なぜ」
聞きたい事は山のようにある。だが、言葉にならない。
それを察してか、クザンが口を開いた。
「王子。あいつの過去の話、聞いたことあるか?」
「え…?」
「昔は…俺と一緒だったってやつ」
「あ…ああ、そういえば」
幽閉されている王子に、普通の侍女など付けてもらえるわけはなかった。ミラノもクザンと同じ、元は奴隷として、闘技場で剣を振るっていたのだと聞いていた。
「あまり詳しくは聞いてないが…それが何か?」
「付き合いの長さで言えば、王子の方が長いだろう。でもよ…まあ、そうだな」
困ったように頬を掻いて、クザンは言った。
「あんまり言うとまた怒られるからイヤなんだけど、とにかくあいつは大丈夫なんだ」
「…言ってる意味が分からない」
「俺が知らないミラノを王子が知ってるように、王子が知らない彼女を俺は知ってるってこと。詳しい事は本人に聞いてくれ」
「本人に…って」
ロザリエラと一緒に、亜空間に閉じ込められているのではないのか?
彼女が死んだ以上、帰り道はないと言っていたではないか。
質問が出なくて唇を半開きにしたままのウィーダを、クザンは元気づけるようにどん、と叩いた。
「俺が全部バラすわけにはいかねぇんだよ。約束だから」
「約束」
「そうだ。とにかく、遅かれ早かれミラノは必ずお前のところに戻って来る。どんな手段を使ってもな。だから、お前は信じて待っててやれ。今、俺が言えるのはそういうことだから」
よく分からないが、ウィーダの心に何かざわつく感情が生まれていた。
「お前が信じてやらなくて誰が信じるんだよ?」
「…分かった」
ウィーダはクザンに手を引かれて立ち上がった。大きな手はとても力強く、がっしりと彼を支えてくれる。
この男は、自分の知らないミラノを知っている。
それなのに、自分は、彼女の顔さえ分からないのだ。
そう思った瞬間、この感情が嫉妬であることに気がついて、ウィーダは思わず顔をそむけた。
魔の霧が消えた日の午後には、早速ファネル行きの船が出ることになった。
シャウラたちは荷物をまとめ、桟橋に集まっていた。
「すまない」
長身の青年が、居並ぶ面々を見回しては何度も頭を下げる。
「仲間を失ったばかりだというのに、俺の頼みを快く聞いてもらって」
「構わん」
相変わらずの無表情でシャウラは答えた。
「どうせその辺りを通っていかねばならん。それに、お前の話を聞くと、どうもそれもウェグラーの手の者の仕業かと思う。そうなれば、放っておけるはずもないだろう」
「ありがとう、シャウラ…ありがとう、みんな」
サファはシャウラの手を握って何度も上下させる。
「そろそろ、船を出すぞ〜!早く乗ってくれ!」
船員が大声を上げた。
「よし」
ようやくサファから解放され、少しほっとしたような声でシャウラが告げた。
「では、行こうか」
はしけを渡り、船に乗り込む。
その時、一際大きな声が彼らを追いかけてきた。
「待ちやがれ!」
走ってきたのは、ランディだった。
「おい、シャウラ!なんでオレたちを置いてくんだよ!?」
その後ろから、息を切らせてアンディがついてくる。
「ロザリエラは死んだ」
あっさりとシャウラは答えた。
「だから、お前たちはもうついて来る必要はない」
「何だとォ!?」
「僕たちはお邪魔ですか?いない方がいいんですか!?」
珍しくアンディまで大きな声を出して尋ねた。
「いや、そこまでは言っていないが」
シャウラなりに考えたのだ。
これからはもっと危険な旅になる。仲間は欲しいが、関係のない者までは巻き込みたくない。
仲間の仇を自分の手で討てなかったばかりか、さらに一人の犠牲者まで出して、傷つき過ぎたであろうランディは、特に。
だから、ロザリエラも倒した事だし、この二人は置いていこうと思ったのだ。
だが、ついて来た。
「ゆっくり休めとかぬかしやがって、承知しねぇぞコラ!」
「なんだ?お前たちも乗るのか?」
「あったり前だ!」
船員の問いかけに怒号で答えて、彼らははしけを渡った。
普通の地面を歩くかのようにやすやすと細い板の上を通り、ランディはシャウラの隣に立った。
「全く、どういうつもりだ?」
「どういうつもりとは」
「もういいよ!」
あくまでも顔色を変えないシャウラに、青年は笑いながら怒った。
「とにかく、ミラノの分も頑張るから。お前らにはホント、何度も助けてもらったんだ…今度は、オレが助けるから」
「分かった」
少しだけ、唇の端を上げて、シャウラが微笑んだ。
「では、これからもよろしく頼む」
「ああ」
差し伸べられた白い手を握り、ランディは唇を噛みしめていた。