第五章 天の翼と闇の爪(1)
腐った風が吹く草原を、二人の人間が歩いていた。
彼女は幼馴染の青年に肩を貸し、半ば引きずるようにゆっくりと歩みを進める。風に乗って漂う腐臭と、友の重みに足を取られながら、それでも一歩ずつ、とにかく前へと。
「もういい…リィネ」
ふと、青年が足を止めた。右足は、左の倍ぐらいの太さに膨れ上がり、何重にも巻いた包帯の色がどす黒く変わりはじめていた。
「大丈夫?痛むの」
「そういう問題じゃない」
彼女が手を離すと、彼はずるずると座り込んだ。両手でそっと右足を押えてみる。まるで痛みがない事に、彼はぞっとした。
「もう駄目だ…足が言う事を聞かないんだ」
笑顔を作ったつもりだったが、なんだか情けない顔になっているのが自分でも分かる。
怖い。だが、やらなければならない。
彼は腰につけた短剣を取り出した。
「痛くなくなってきた。だから」
腐っていくこの足を、今ここで切り落とさなければならない。
リィネは首を振った。
「もう少し頑張れば、町に着くじゃない…!あと少しよ、ね、それまで持つでしょ?」
「駄目っぽい」
情けない笑顔のまま、彼は答えた。短剣でズボンの太股の辺りを切り裂く。まだ腫れていない太股も、血の気を失って青白くなっていた。
「い…嫌」
子供のように、彼女が首を振る。彼の手を止めようとして、右足の包帯に触れる。その指を、彼はとっさに振り払った。
「触るな!」
「タカ」
「いや…ごめん」
彼はうなだれた。
「でも、本当にもうヤバいんだ。このままこの足を放っておいたら、おれは…きっと、お前を襲う」
それは、ただの傷ではなかった。
冥王ベルフォード、と名乗る魔人がファネルの村に来たのは、つい十数日前のことだった。おぞましい吸血鬼は村に死病を撒き散らし、その病で死んだ村人は生ける屍――ゾンビと化した。
運良く助かった者たちも多くいたが、喜び合えたのも束の間だった。ゾンビとなり、ベルフォードの思うがままに操られる人々は、昔の隣人を襲い始めたのだ。不潔な爪や牙で傷つけられると、そこからみるみる傷は広がり、やがてまた、新しいゾンビとなる。村は、もはや人の住める場所ではなくなってしまった。
タカも、逃げる途中で噛みつかれた右足が、もう限界まで来ていた。
この足を放置すれば、彼は近いうちにゾンビに成り果てるだろう。そして、おそらくその時もっとも近くにいる幼馴染を襲うのだ。
「そう、そっちには触らないように」
タカは恐怖をこらえて、リィネの手を取った。自分で自分の足を切り落とす力は、弱った彼にはなかった。不本意ながら、手伝ってもらうしかない。
小さな短剣で、どこまで出来るものか。
そう思いながら、力をこめた時。
グオ……。
そう遠くない場所で、低いうなり声が聞こえた。
「!」
グルル……。
「うそ…」
リィネが血の気の引いた顔で立ち上がった。
「こんな時に…こんなところまでッ!」
タカも、背中につけたボウガンを手に取った。
腐臭が次第に強くなる。草むらががさがさと遠慮なく揺れて、彼らは姿を現した。
少し前までは友人だったモノ。ベルフォードの哀れな配下たち。
「つけて来てたのか?…くそうッ!」
唇を噛みしめながら、タカは矢をつがえた。
「モーリン…クロード、レティ…!」
「名前を呼ぶなッ!」
泣きそうになるリィネを叱りつけ、彼はゾンビの足に狙いを定めた。
「いいか、よく聞けリィネ」
よく知った友人たちの亡骸を地面に縫いつけながら、タカは言った。
「こいつらはおれが引きつけるから、お前はその間に港町まで逃げろ」
「え…っ」
「お前一人なら、もっと早く逃げられる。おれに構わず行ってくれ」
彼女を振り返ることなく、タカは次々と矢を放つ。だが、ゾンビの数は次第に増えてくる。
「おい!早く行けよ!」
「嫌…あなたを置いて、行けない」
「…そういう事言うなよな」
ふと、彼の表情が和んだ。
「ホントに構わないから、あいつを探しに行けってば。それとも、おれと一緒に死んでくれるのか?」
「あっ…う、ううん」
一瞬、リィネが困ったような表情を見せた。が、それはすぐに、恐怖に強張って固まった。
「でも…もう遅かったかも」
行こうとしていた方向からも、死者たちが現れていた。まさに四方を囲まれている。もう、逃げ場は、ない。
「く…くそぉッ!!」
タカは拳を地面に叩きつけた。震えるリィネをかばうように両手で抱きしめて、彼は天を仰いだ。
「神は…何やってんだよッ!どうして…どうしてみんなを助けてくれないんだ!」
二人は曇天を見上げる。
その時、ふわっ、と温かい風が吹いた。
「…ごめんなさいね」
優しげな声が聞こえたかと思うと、タカとリィネは突然まぶしい光に包まれた。
「うわッ…!?」
その光は一瞬で消えた。目に焼きついた残像もほどなく消えて、二人は自分たちのすぐ傍にいる人物を見上げた。
一対の白い翼。すらりとした手足に、ゆるいウェーブのかかった長い髪。女性は、にっこりと微笑んで振り向いた。
「私の力では、これぐらいしか出来ませんが…歩けますね?」
「えっ」
タカは間の抜けた声を出した。そして、あわてて自分の右足に手をやった。
「治ってる…タカ、足がきれいになってるわよ!」
リィネが叫ぶ。すっきりと細くなった足は腐りきってぶよぶよとした感じはなく、しっかりとした筋肉の手ごたえがした。あわてて包帯を取ると、彼の足は、何事もなかったかのようにちゃんとそこにあった。
「あなたは…一体」
「また次が来ます」
純白の翼をはためかせ、彼女は静かに告げた。
「大丈夫…助けはもう近くまで来ています。早くお行きなさい」
そして、彼女はゾンビたちに向って両手を広げた。
「あなたたちも、辛かったでしょう…さあ」
死者たちの動きが止まった。心のない彼らでさえも彼女に見惚れるように立ち止まり、じっと顔を見上げた。
「今度こそ、安らかにお眠りなさい」
優しい光が辺り一面を照らし出す。淡い光の中、ゾンビたちは溶けるように消えていった。
「……天使だ」
ぽつり、とタカがつぶやいた。リィネが声もなくうなずく。
「さ、早く行ってください」
うながされて、二人は立ち上がった。
「ありがとうございます、天使さま!」
その言葉に、天使は柔らかく微笑んだ。
「お〜い、こりゃ駄目だァ!」
丸一日の航海を終え、船の舳先から、港の様子をうかがっていた船員が言った。
「なんか、水が腐ってる。藻とか生えてたら入れねぇぞ。どうすんだよ?」
船頭はすぐにサファとシャウラを呼んだ。甲板に上がると、何とも言えないすえた臭いが鼻をついた。
「あんたら、どうする?」
「………」
しかし、サファは舳先から身を乗り出すようにしたまま、一言も答えない。顔から血の気が引いているのは一目瞭然だった。
「おい、サファノート」
シャウラに呼ばれて振り返った彼の顔は、驚くほどに表情がなかった。
「遅かった…かもしれない」
紫色の唇が動いて、ようやくそれだけを告げた。
「何だと?」
「俺が出てきた時は、こんなじゃなかった。ちゃんと…人がいたんだ。それなのに…この状態は」
シャウラの方を向いてはいるが、どこを見ているか分からない。焦点の合わない目を宙に泳がせながら、サファは続けた。
「ファネルと同じだ」
「おいおい、それじゃどうしようもねえじゃねぇか」
船頭が困ったように肩をすくめた。
「一度あっちに戻って、ガルダンの軍隊でも派遣してもらった方がいいんじゃねえのか?」
「いや、それは出来ない」
普通ならそう思うだろうが、シャウラはきっぱりと否定した。王都は魔物の襲撃を受けてぼろぼろ、唯一残された王子も今は傷心の痛みに耐えているところなのだ。
「それに、ガルダンに軍隊がまだあるとするなら、それは我々の事に他ならない」
「…そういや、王子様がいるんだっけ」
三人は押し黙った。
が、ふとサファが顔を上げ、意を決したように船頭に告げた。
「船頭。悪いんだが、はしけを一艘俺にくれ。そうしたら、もう君たちは帰っていいから」
「兄ちゃん、あんたまさか」
「一人でも俺は戻る。そう、約束したんだ」
さっきまでのうつろな表情が嘘のようだった。
「仲間を見つけて、必ず戻る。そうだったな?」
サファを見つめてシャウラが続ける。
「我々も行く。こちらにはラードラもいるから、船は一艘で足りると思うが、出来れば水と食料を多く分けてもらいたい」
「ああ、いいだろ」
船頭は二人の顔をじっと見てうなずいた。
「あんたらの覚悟はよく分かった。水も食料も持てるだけ持ってくがいいさ」
そして、野太い声で船員達を呼んだ。
「おい!はしけを下ろせ!お客さんが下船されるぞ〜!」
上陸した港町は、しんと静まり返っていた。どことなく、吹く風も生ぬるいような気がする。
まだ昼間だというのに固く扉を閉ざし、窓の鎧戸も閉めている家と、逆に扉も窓も半壊して開きっぱなしの家とが混在している町並みは、明らかにこの町が異常事態であることを物語っていた。
「おい、サファ」
まったく人気のない街路を歩きながら、シャウラが尋ねた。
「この町には人間はいないのか?」
「いるさ。ほら」
指差した先は、三階建ての一番上の窓だった。ぴったりと閉ざされたガラスの向こうで、カーテンが揺れている。
「あの家は扉も窓も閉じている。ということは、ちゃんと生きた人間が中に隠れているということなんだ。だが」
風に乗って、ふいにいやな臭いが漂ってくる。クプシが眉をしかめて両手で顔を覆った。
「いつまで持つかは分からない…こんな風にな!」
サファが剣を抜いた。建物の角を曲がり、臭いの元となっている魔物が一匹、ゆらゆらと現れた。
腐ってどす黒い肌、焦点の合わない目、何よりも、頭が半分ぐらいないのに、ソレはシャウラたちを見つけて、こっちへと向ってきた。
「ゾンビ…ですか」
「そうだ」
アンディのつぶやきに答えて、サファはさっと剣を構えた。
「いいか、絶対に噛みつかれるな。噛みつかれたら病気が伝染って、同じようになるぞ」
言うが早いか、彼は自分からゾンビにかかっていった。
両手両足に素早く剣を叩き込み、頭からまっぷたつにする。しかし、それでも魔物は動きを止めない。
「クプシ」
彼はそこまでやってから、思いっきり嫌そうな顔をしている少女を振り返った。
「こいつだって、元は普通の人間だったんだ。こんなモノになりたくてなった訳じゃない」
「サファ…お兄ちゃん?」
「こいつを少しでも可哀相だと思ってくれるんなら、どうか、君の炎の魔法でこいつを灰にしてやってくれ。ゾンビっていうのは、半分に切り裂いても死ねないんだから」
「え…」
クプシは驚いて、サファと、その足元でまだひくついている屍を何度も見比べた。
「でも…」
「クプシ」
うろたえる彼女の肩を、そっとアンディが支えた。
「僕からもお願いします。あの人の魂を救ってあげて下さい」
傍らで、シャウラもうなずいていた。
「これからは、今まで以上にお前の力が必要になる。やってみろ」
「……うん、分かった」
気味の悪い相手だが、それでも、進まなければならないのだから。
「炎よ…あたしに、力を」
彼女はつぶやいた。その手のひらに、みるみる大きな火球が形作られる。
「魔物を倒して!」
バシュウゥン!
クプシの手を離れた炎は、狙い過たずゾンビに命中した。炎に包まれたゾンビは間もなく動きを止め、やがて、肉の焦げる臭いを残して灰となった。
「これで…いいの」
「よくやった」
シャウラは地面に膝をつき、泣きそうになるクプシの頭をなでた。
「恐ろしいだろうが、これからはこういうのばかり出てくる。お前が頼りだ」
「…うん」
その時、キィ、と小さな音がして、近くの家の窓が開いた。
「あんた…もしかしてジリアスさん?」
カーテンの隙間から少しだけ顔をのぞかせ、女性が声をかけた。
「そうですけど」
サファが答えると、女性はさらにもう少しカーテンを開いて顔を見せた。
「本当に戻ってきてくれたんだね?じゃ、その人たちが」
「ええ、頼もしい仲間ですよ」
その言葉に、彼女はぱっと表情を輝かせた。
「ちょっと待ってて、今ドアを開けるから」
再び窓が閉じられ、それからすぐに扉が開いた。中年の女性が辺りをうかがう様に顔を出し、彼らを手招きした。
「さ、早く入っておくれ!急いで、急いで!」
半ば引きずり込まれるようにシャウラたちは家の中に入ると、再び扉は固く閉ざされた。
ただ、さすがに扉をくぐれなかったラードラは、一声鳴いて扉の前に座り込んだ。