第六章 砂漠の王(4)
空を切り、円を描いて、蒼く透けた竜が飛ぶ。
「何だと!?」
炎の魔人は、自分の目を疑った。
足も翼も持たないその姿は、ナーガと呼ばれる竜に似た生き物だった。長い胴体をくねらせ、ナーガはファランキオに巻きついた。
じゅうっ、と嫌な音がして、水蒸気が立ち込める。それに構わず、ナーガはぐいぐいと獲物を締め上げ始めた。
「おい、何だありゃ!?」
放心する少女たちに向って一番最初に声をかけたのはランディだった。
「…精霊ですね」
ミラノが答えた。
「あれは水の精霊、ナーガです。下位精霊のウンディーネとは違って、そうそうお目にかかれるものではありませんけれども」
「力が二人分だったからか」
「おそらくそうでしょう」
水の力そのものに捕らえられ、炎の魔人は苦悶のうなり声を上げていた。もうもうと舞い上がる蒸気の中、次第にファランキオの姿は小さくなっていく。
「弱まってるぞ」
アシルが叫んだ。
「今なら、剣も通じるんじゃないのか!?」
「…そうだな」
シャウラは、魔剣をかざした。
「ラードラ!」
声に応えてふわりと降りたグリフォンにまたがり、夜空に舞い上がる。翼が風を叩く音を見上げて、ウィーダが手を伸ばした。
「シャウラ、私も」
「ウィーダ様」
その彼の肩に手を置いて、侍女が微笑んだ。
「私がおりますわ」
「…そうだったな」
後ろからそっと主人を抱きしめて、天使は大きな翼を広げた。そのまま軽々とミラノは風を切る。
「ぐおっ…お、お前、たち…」
水竜に絡み取られて身動きもままならない魔人が、目の前に近付いてきた二人の王子を見てうなった。
「ファランキオ」
シャウラが目を細めた。
「負けを認めろ。伯母上を返してくれれば、これ以上戦う必要はない」
「断る」
頑として、うなずかないファランキオ。ウィーダが首を振った。
「やはり…話し合いでは決着をつけられないのか」
「そんなはずはない」
シャウラは魔人の目を見つめた。
「お前は昔、私に言ったな?人間を力で支配する事は間違っていると。魔人と人間は、分かり合えると言っていたではないか!」
「どうだかな」
顔を背け、ファランキオは笑った。そして、次の瞬間、口をすぼめて、炎の吐息を細く長く吹き出した。
「クアーッ!」
ラードラはそれをひらりと避ける。そのまま、シャウラを乗せて、ファランキオの心臓めがけて高度を下げた。
「ラードラ!?」
「キュオオッ!!」
「待て、私はまだ」
従順な魔獣が言う事を聞かない。ただ、とどめを刺せと言わんばかりに魔人の胸元ばかりを狙うラードラに、なぜかファランキオが微笑んでいた。
「わしよりも…ラードラの方が、お前のことを考えているようだな」
「何を言っている!?」
「ふふ…人質はまだ、わしの手の内にあることを忘れるなよ」
燃える手でナーガの胴をつかむ。炎で出来た体には、冷たい水は触れるだけで激痛を伴う。それなのに、魔人は無理に手を出して、中空に浮かんだ炎の檻を指し示した。
「わしを殺さぬというなら…こうしてやる」
小さなものを握るように指を曲げると、それに応じて檻が曲がる。小さな呻き声がもれた。
「ファランキオ!」
「…これ以上は駄目だ、シャウラ」
ウィーダが声を上げた。
「君が出来ないというなら…私がやる」
槍を構えて、彼はミラノとうなずきあった。
光の軌跡を描いて、シャイニーフェイバーが繰り出される。金の穂先はナーガをかすめ、ファランキオの心臓に突き立った。
「ウィーダ!」
シャウラの声は、感情のないただの叫びだった。
「私は」
一体、どうすれば。
魔人の中にいた頃は、たった一人の味方だった。今でも、それは変わらない――全く、何も変わっていないように見えるのに。
ウィーダが槍を引くと、炎のように朱い血がほとばしった。
「く…っ」
ファランキオが大きくバランスを崩した。
「さすがに…こたえるな…ッ」
傷口を押えることも出来ないまま、魔人はゆっくりと膝をつく。その姿はもうかなり小さくなって、人の背丈の二倍ほどもなかった。
「シャウラ、わしは」
荒く息をつきながら、ファランキオはシャウラを見上げた。
「強くなったお前が見たかった…ウェグラー様を倒してくれるほどに強いお前を、な」
「何だと?」
「わしはお前を腑抜けに育てた覚えはないぞ…わしを師だと言うのなら、それ位…自分の手で倒して行け」
彼は笑っていた。
冷笑や嘲笑はもうすでにどこかに消え、またあの優しい笑顔で、魔人は言った。
「お前はこれから、一度でも父と呼んだ男を倒すのだぞ…迷っている暇などあるものか」
「ファランキオ」
やはり、何も変わってない。
それを確認して、シャウラはうなずいた。
「分かった。では、遠慮なくいかせてもらう」
ラードラが高く鳴いた。剣が月の光を浴びて、銀色に輝き始めた。
「ウィーダ、ここは退いてくれ。ファランキオは、私が倒す!」
「ああ」
もう一つの月のように魔剣は弧を描き、そして、赤銅色の心臓を貫いた。
にわかに月の光が陰る。満天の星も消え、冷たい風が砂漠を吹き抜ける。そして、程なく、冷たい雫が無数に降り注ぎ始めた。
雨だ。
ナーガは嬉しげに一声鳴いて、溶けるようにその姿を消した。
その一方で、差し出されたマントを断り、ファランキオは力なく笑っていた。
「わしに構うな…もう、助かりはせん」
雨の粒が一つ体に当たるたび、そこから血煙のような赤い蒸気が立ち上り、えぐられたように形が失われていく。
「しゃべるな、ファランキオ。すぐに手当てをさせる。アンディ、ミラノ!」
「構うな!」
温かい癒しの手も断って、魔人はシャウラの顔をじっと見つめた。
「それよりも…すまなかった」
「何がだ」
「お前を魔人として育てた事…わしは後悔しているのだ」
ぽつ、と降りかかる雨がまた少し、彼を削っていく。次第に強くなり始める雨に打たれながら、ファランキオは続けた。
「信じられぬかもしれんがな、昔のウェグラー様は、あまり人間に興味がなかった…人間界の覇権にも。魔人としてはおかしな言い方になるかも知れないが…よく出来た武人だった」
それが、伝説の子が実在すると知ってから変わった。人を殺し、町を焼き、あらゆる手を尽くして手に入れたのが、シャウラ。
「ウェグラー様は、天界の神も…魔界の王も倒して、自分が世界を手に入れようとしているのだ」
涙のように、赤いものが彼の顔を伝った。
「止めてくれ…あの方を…」
雨が激しくなる。炎の形が、どんどん崩れていく。
「頼む…お前たち…しか…」
ごぼごぼ、と言葉が失せた。人の姿を失った魔人は、最後に一粒の大きな紅玉となって、シャウラの足元に転がっていた。
立ち尽くすシャウラの頬を、水が流れていく。
かける言葉も見当たらないまま、彼を見守る仲間たち。だが、その沈黙も、すぐに明るい声によって破られた。
「お母さん!」
ファランキオの生命と引き換えたかのように、固くまぶたを閉ざしたままだったマァナが動いた。少し苦しげに眉間に皺を寄せていたが、やがて、ゆっくりと目が開く。
遠慮なく叩きつける雨にしばらく顔を背け、不思議そうな表情を見せていたが、ふいにがばっと半身を起こした。
「クプシ…?」
「…お母さん!!」
飛びついてくる娘を抱きしめて、母親は優しく微笑んだ。状況が把握できなかったのは最初だけで、マァナはちらりと周りを見ただけで何もかも理解したようだった。
「よく頑張ったわね。ここまで、大変だったでしょう」
「うん…うん」
そんなに長い間離れていたわけではなかったけれど、懐かしい腕にしがみついてクプシは声を上げた。それ以上は、言葉にはならなかった。
すっかり濡れてしまった髪の毛をなでて、額に唇を当てて、マァナもそれに応える。だが、その表情は、悲しげに見えた。
「本当に、よく頑張ったわね…」
つぶやくように言って、彼女は顔を上げた。
視線の先には、凍りついたように動かないシャウラの背中があった。
「シャウラ」
呼びかけても、反応はない。
マァナはクプシを置いて立ち上がった。激しく降り続ける雨の中、彼女は青年の後ろに立って、そっと声をかけた。
「…帰りましょう。わたしたちの居場所に」
燃え上がる城から二人の王女と幼い王子を逃してくれたのは、他ならない炎の魔人、その人だった。
怒り狂う主人の目を誤魔化し、小さな村へかくまうが、それも時間の問題だった。やがてすぐ、魔人将軍の求める子供の居場所はばれ、母子は連れ去られる。それでも、炎の魔人は、残された妹とその娘をかばい、大陸へと逃した。
そして、三度目、成長した王子が魔人と化し、伯母に牙をむいた時にも、彼は現れた。王子が逃げおおせた後、死神の手にかかろうとしていた彼女を掠め取り、村人を救った。
「ウェグラーの怒りはどれほどのものだったでしょうね」
マァナはつぶやくように言った。
血を分けた伯母を、唯一残された肉親を、自らの手で絶つことによって、王子を完全な魔人に育て上げようとしていた魔人将軍の計画は、腹心の部下により、ことごとく邪魔されたのだ。
「だから最後に死をもって、許しを乞うしかなかった、と」
アシルの問いにうなずいて、彼女は言葉を続けた。
「あの人は…立派だったでしょう?」
「…でも、何だか可哀相だね」
少しだけ微笑んで、そしてクプシの頭をなでる。何度も何度も、いとおしそうに。
が、ふと沈黙を破り、彼女は立ち上がった。
「湿っぽくなっちゃったわね。外は楽しそうなのにね」
通りは、突然の恵みの雨に喜ぶ人々の歓声で満ち溢れている。長い間雨もなく、緑のない砂漠で生きてきた人たち。
それが今、その元凶であった炎の魔人の支配から解き放たれ、終わったのだ。そして、間もなく夜も明ける。夜明けをもたらしてくれた勇者たちは人々に引っ張り出されて、今頃は盛大なもてなしを受けているだろう。
ここにいるのは四人だけだ。マァナとクプシ、アシル、そしてシャウラ。
シャウラは腕組みをしたまま、壁に額をこすりつけるようにじっと立ち尽くしている。
「ねぇ、わたしたちも外に出ない?」
マァナは明るい笑顔を見せた。シャウラからの答えは、左右に揺れる頭の動きだけだった。
「大丈夫よ。あなたの事なら心配いらない。わたしが説明すれば、みんな分かってくれるわ」
「…そのことではない」
「ファランキオのことなら」
優しい口調できっぱりと彼女は言った。
「あれで良かったのよ。あれこそが彼の望み…分かってあげて」
「……」
「わたしたち、行くわね」
外からはドアを叩き、帰ってきた王女の名を呼ぶ声が聞こえる。マァナはクプシを抱き上げ、扉を開いた。
わっ、と歓声があがり、押し寄せる人の波にたちまち二人は飲み込まれていってしまう。
「おい、シャウラ!あのままじゃ、二人とももみくちゃにされちまうぞ!」
アシルが呼んでも、シャウラはぴくりとも動かない。だが、もう一度名前を呼ばれて、ようやく振り返った彼は、アシルにぷっと笑われることになった。
「なんだお前…泣いてたのか?」
「…知らん」
「つくづく、感情のコントロールが出来ない奴だな」
すると、シャウラは少し嫌そうな、しかし照れたような複雑な顔を見せて答えた。
「何とでも言え。私は人ごみは嫌いだ、それだけだ」
「なァに、泣くほどの事はないって」
腕を引っ張ってアシルは笑った。
「行こうぜ。お前がいなきゃ、多分始まんないだろ」
憮然とした表情のまま、シャウラはそれでも大人しく従った。
バスラムの新しい城下町には、新しい女王を称える声と、小雨が降り止まない。
「頑張ってね」
いつもと変わらない笑顔で、マァナは笑った。
「絶対に、生きて戻ってくるのよ」
「うん!」
クプシが手を振って答える。
「お待ちしております!」
マァナの後ろに居並ぶ町の人々が一斉に声を上げる。
「姫様ー!」
「お気をつけてー!」
「女王陛下もお気をつけて」
ウィーダが右手を差し出すと、マァナは一瞬きょとんとしたが、すぐに照れくさそうにその手を握り返した。
「ありがとうございます、ガルダン国王、ウィーダ陛下」
「…私はまだ国王になったわけでは」
「ええ」
困惑する王子に、微笑んで彼女は応える。
「でも、次に会う時はウェグラーを倒した時よ?その時は、あなたは国王になるんだから」
「そうですよ、ウィーダ様」
ミラノが一緒になって笑った。
「そして、シャウラもね」
彼女たちは、一行から少し離れた場所にぽつんと立っていたシャウラを見て微笑みあった。
まだ完全にシャウラに対するわだかまりが解けた訳ではない。彼が前に出れば、町の人々はいい顔をしない。だが、それでも人々は魔人将軍を倒そうとする一行のリーダーに怯えて逃げ出すことはなくなった。
「ウェグラーを倒せば、必ずみなさんもシャウラ様のことを認めてくれるでしょう」
「そうだな」
「おーい、ウィーダ、ミラノ!」
そこへ、布袋をいくつも積んだ騾馬を引いて、サファたちが現れた。
「言われた分だけ食糧もらってきたぞ。こっちの準備はいつでもいい」
「よし、それでは行こうか」
砂漠を抜けて、もっと西へ。山を越えれば、そこは魔物がうじゃうじゃと待ち受ける辺境の地だ。そしてそこに、魔人将軍ウェグラーの居城がある。
「シャウラ」
ウィーダが声をかけると、振り返ったシャウラが口を開いた。
「ああ…行こう」
控えめな声に、仲間たちが苦笑した。
「ま、仕方ないか」
「あっちのテンション下がっちまうのも問題だからなァ」
一行に向って手を振る民衆の顔は、期待に満ち溢れて輝いている。
「そうだ、こうすりゃいいんじゃねえか?」
クザンが笑って手を伸ばし、ラードラの背中にクプシを乗せた。
「ほら、シャウラの代わりだ。みんなに行って来ますってでかい声で言いな」
「うん」
小さな王女はグリフォンの上に立ち上がり、精一杯右手を上げた。
「それじゃ、行って来るねー!!」
雨に濡れて、その細い手首にはめられた腕輪の紅玉がしっとりと輝く。
うおぉ、と地響きのような歓声があがった。
そして、彼らは歩き始めた。