紫翼の天使
序章 〜 獣 〜


 「よーし、休憩だ。少し休め!」
 監督の怒号と共に、石切り場にはほっとした空気が流れ始めた。ガイラーも汗を拭い、仲のいい工夫の隣に腰を降ろした。濡れた服がぴったりとはりつき、鍛え上げられた筋肉の形があらわになる。
 「本当に、いい体してるなァ」
 周りに集まった男たちが笑い声を上げた。石を切り出すという重労働を担っている者が言うのだから、ガイラーの体つきは半端なものではない。だが、その立派な肉体を何に使っていたのか知る人間はここにはいなかった。
 ガイラーは、記憶を失っているのだ。
 彼が何もかも失って目を覚ました時から数えて丁度三年、手がかりを求めてあちこちを放浪したが、結局ガイラーという名前だけしか思い出せなかった。ここには、とりあえずの旅費を稼ぐため、数日前にやってきたばかりである。
 だが、美しい銀の髪に優しい碧の瞳、ワイルドで精悍な顔立ちに頑丈な肉体とくれば、娘たちが放っておかない。工夫たちに水を配る娘たちは、まず一番にガイラーの前に並ぶ。
 「ガイラー、お水をどうぞ」
 「いえ、あたしの水を飲んで」
 「あたしが先よ!」
 ガイラーは彼女等の顔を見ることもなく、いつも通りの返事をする。
 「俺はいい。他の人を先にしてくれ」
 そう言うと、彼女たちは明らかにしょげ返った様子で去っていった。
 「つれないなあ、兄さんよ。もう少し優しくしてやってもいいんじゃないか?お、ネエちゃん、水くれ」
 周囲からやっかみ半分の声が上がった。
 「これだけのイイ男が、女に興味ないっていうのはおかしいぜ。本当は、男が好きだとか?」
 「それも違うな」
 ガイラーは怒らない。
 「そんなことは関係がない。もっと大事なことに熱中していたような気がするんだ」
 青年は拳を握り締めた。
 ごつごつした大きな手を軽く前に突き出せば、それだけでビュッと風を切る音がした。
 もしかして、強かったではないか、という気がしていた。大勢の人を傷つけ、殺してきたのではないか、と考えると、過去を思い出したくなくなってくる。こうやって真面目に働いている方がいいのではないかと思う。
 俺は何者なんだ。
 監督のムチがぴしりと鳴った。
 「休憩終わり!さあ、また頑張って働け!」
 不服そうな声と共に、男たちは持ち場へと戻り始めた。娘たちがガイラーに手を振るが、彼はまるで見ていない。重いつるはしを片手で軽々と持ち、足場を登った。
 「よし、稼ぐぞ!」

 石切り工夫として数日が過ぎたある日、ガイラーは一人の娘に目を止めた。自分がそうであるように、こんなところで働いているのが場違いな、美しい娘だった。
 仕事の手を休めてちょっと見ていると、突然それは起こった。
 他の人だったら気付かなかったかもしれない。だが、ガイラーは見た。どこからか石が飛んできて彼女の持っていた水差しに当たり、壊れて落ちたのだ。
 「何してるの、この子は!」
 鋭い叱責の声が飛んだ。娘たちが一斉に彼女を見た。女中頭がムチを一振り、罰として夕食を抜くことを高らかに宣言した。
 彼女は何も反論せず、水差しの破片を片付け始めた。
 「今のは…」
 ガイラーがそばにいた工夫に尋ねると、彼は苦虫をかみつぶしたような顔をして、嫌そうに答えた。
 「セスのことは放っておけ。あの女はとんでもない性悪なんだよ」
 「性悪?」
 「あれにだけは、繕いものを頼むんじゃないぜ。ほころびが増えるだけじゃねえ、針がついたままの時がある」
 そして、振り返って彼女を見下ろした。
 「また水差しか。お前さんは知らねぇだろうが、ああやってすぐ仕事をさぼりやがる。今月に入ってもう四回目だ」
 「四回目だって?」
 ガイラーは聞き返した。
 「ああ、水差しだけで四回だ。皿は七枚、グラスは五つ。な、どう考えても、わざとやってるとしか思えないだろう?」
 「そんな…」
 「ちょっと顔が可愛いからって、いい気になってるのさ」
 娘は黙々と掃除をしていた。他の娘たちが罵声を浴びせてもそれには全く応えない。
 「さあ、仕事だ、仕事。あんな女に構ってると、こっちまで監督ににらまれるぜ。気をつけな」
 男は肩をすくめた。ガイラーは再び娘に視線をやり、それから石が飛んできた方向を見た。人は大勢いる。小石は足元にいくらでも転がっている。
 「一体誰が…?」
 見間違いではない。誰かがやったのだ。そう思った彼は、その晩、セスに繕いものを頼んでみた。
 翌朝ガイラーの部屋の前に届けられていた服は、新しいところがほころび、針もきちんと入れてあった。あまつさえ、泥だらけの手形がべったりとつけてあった。
 だが、明らかに、その手は男のサイズだった。

 「セス。水をくれ」
 ガイラーがそう言うと、周りにいた娘たちが一瞬凍りついた。それから、ざわめきがゆっくりと広がっていった。
 「どうして?」
 「どうしてあの子なの」
 悔しそうな声。非難の声。冷たい視線にさらされながら、セスはグラスと水差しを持って、ガイラーに近付いてきた。ガイラーはその足元をじっと見ていた。
 案の定、カツ、というかすかな音と共に、どこからともなく小石が飛んできた。それはかなりのスピードでセスの足をかすめ、彼女はよろめきかけた。
 ガイラーは風のように素早く立ち上がり、セスの体を支えた。娘たちの間から、悲鳴にも似た声が上がるが、彼はそれを全く無視する。
 「大丈夫か」
 尋ねると、彼女はうなずいた。顔を真っ赤にしながら急いで彼から離れ、グラスに水を注ぐ。そのグラスも、突然割れた。
 セスの手は血塗れになったが、彼女は顔をしかめただけで、一言も発しなかった。
 「じっとしていろ、すぐに取ってやる」
 ガイラーは彼女の手首を取った。手の平の傷に残ったガラスの破片を太い指で丁寧に摘み出す。そして、自分の服の裾を少し破って包帯代わりに巻いてやった。
 セスは、黙ったまま頭を下げた。
 「礼は…?言えないのか」
 ガイラーの問いに、彼女は困ったような表情を見せた。固く引き結んでいた唇が、わずかにゆるんだ。
 だが、彼女の声を聞くことは出来なかった。一人の娘が、ヒステリックに叫びだしたのだ。
 「生意気なのよっ、あんたは!」
 セスの髪の毛をつかんで引っ張る。悲鳴を上げることもなく引きずり倒され、彼女は頭を抱えて丸くなった。大勢の足が、彼女の体中を踏み付けにした。
 それに加わらない者たちも、被害者がセスと分かるとにやにやと面白そうに見ているだけだ。ガイラーは立ち上がり、半狂乱になっている娘たちの間に割って入ろうとしたが、他ならぬ現場監督が、彼を止めた。
 「やめておけ」
 「どうしてですか!」
 ガイラーが食ってかかる。
 「彼女はな…魔物を信仰しているんだ」
 「えっ」
 驚く彼に、監督は続けた。
 「三年ぐらい前の話だ。リンツの都の大司教様があの娘を連れてきた。人間になりすまして悪事を働いていた魔物を倒したのはいいんだが、人間である使用人まで殺すわけにはいかない。だから、ここで使ってくれと言ってな」
 ぐったりと横たわったセス。女たちはようやく気が納まったのか、散らばっていき始めていた。助ける者は、誰もいない。
 「だが、どうだ。使ってみたら生意気なことこの上ない。人間とは一言も口をきかないんだぞ。今だに魔物に忠誠を誓っていやがるんだ」
 「そんな…」
 「人も殺しているんだぜ」
 ガイラーは彼女を見た。
 「こいつが一言危ないと言ってやれば逃げられたものを、見殺しにした。そう、岩が落ちてくるのをただ黙って見ていたんだ」
 ぼろぼろになった娘はゆっくりと起き上がり、その場に座り込んでガイラーの巻いてやった包帯を丁寧に直し始めた。自分のためというよりは、包帯がいとおしくてたまらないといった様子である。
 「大司教様からの預かりものでなかったら、とっくの昔に殺していたさ」
 ガイラーには返す言葉もなかった。
 周りにいる人々の顔つきを見れば分かる。監督の言ったことに偽りはない。そして、彼女は殺したいほどに憎まれているのだ。
 「さあ、仕事に戻れ。お前ほどの奴が、あんな女に構うことはない。損をするのは自分だぞ」
 「…はい」
 監督は笑って青年の背中を叩いた。
 ちらりと見ると、セスはまだそこに座って楽しそうにしていた。

 その日の夜、誰もが寝静まった頃、ガイラーは自分の部屋をそっと抜け出して女性の宿舎へと向かった。セスの部屋の場所は知らなかったが、少し考えればすぐ分かる。トイレの隣にある物置のような狭い部屋に決まっていた。
 案の定、鍵もかからないような、隙間風の吹き込む小部屋に彼女は横たわっていた。月明かりでよくよく見れば、そこはただの掃除道具入れだった。
 「…かわいそうに」
 ガイラーはつぶやいた。穏やかな寝息をたてているところを起こすのは忍びなかったが、他の人間に聞かれずに彼女と話そうと思えば仕方がなかった。けば立った毛布からのぞいている足を、彼はそっと突いた。
 セスは体をびくっと震わせて飛び起きた。
 「静かにして…俺だ、ガイラーだよ」
 彼が名を名乗ると、彼女はますます驚いたような顔をした。
 「君と話がしたいんだ。ちょっと一緒に来て…」
 くれ、と言いかけたところで、ガイラーは言葉を飲み込んだ。
 彼女は微笑んでいた。そして、膝をつき、手をついて、まるで臣下が尊敬する主君に礼をもってするように、ガイラーに対して頭を下げたのだ。
 「何をしているんだ…一体何を」
 セスは答えない。ただ、頭を下げ続けている。その姿に、ガイラーはうろたえた。
 「俺は話をしにきただけだ。別に君をいじめてやろうなんて思っていないんだから、どうか頭を上げてくれ」
 ようやく彼女は顔を上げてガイラーを見た。あろうことか、彼女は笑顔で泣いていた。
 「な…何故泣くんだ」
 さっぱり分からない。
 理由はどうあれ、ガイラーは女の涙に弱かった。うろたえながら、彼はセスの腕を取って立たせた。
 「ここじゃ誰かに見られる。外へ出よう、いいだろ?」
 セスは一も二もなくうなずいた。

 石切り場を抜け、近くの林の中へ。満月の光を浴び、二人は苔の上に並んで腰を降ろした。並んでといっても、セスはかなりガイラーに遠慮していた。相変わらず何もしゃべらないが、傍らにいる男をとても嬉しそうに、懐かしそうに見上げては涙ぐむ。
 一方のガイラーはといえば、話をするといって連れ出したのはいいものの、思ってもいなかった反応に戸惑って、何を話すべきかただ迷っていた。
 「…君は」
 さんざんためらった挙げ句、彼は尋ねた。
 「俺を知っているのか」
 セスはうなずいた。
 「どうして何も言ってくれないんだ?願掛けでもしているのか」
 すると、彼女は悲しげな顔つきになった。ガイラーに向かって口を開き、その中を指差す。指示どおり覗き込んだ彼は、あっ、と叫んだ。
 「これは…この舌は」
 舌の上に描かれた真っ赤な紋様。それは、封印の魔法陣だった。
 「じゃあ、君の声は」
 うなずくセス。
 「これじゃしゃべれなくても仕方がないじゃないか…おい、他の奴はこのことを知っているのか?まさか、知っていて君をいじめているのか?」
 彼女はもう一度うなずいた。ガイラーは両手で彼女の肩をつかんだ。
 「誰だ?誰がやった!これをかけたのは現場監督か?」
 いいえ。セスは首を横に振る。
 「それじゃあ、女中頭か」
 ガイラーは思いつくまま、石切り場にいる人々の名を上げていった。だが、セスは誰の名を言われても、うなずかなかった。
 「文字は書けるか?…無理か。習ってないか」
 青年はがっくりと肩を落とした。彼女は彼の過去を知っている。だが、それを伝えるすべはない。彼女の声を奪ってしまった者が誰かも、彼女には伝えられないのだ。
 「困ったな…どうしよう、俺たち」
 が、ふと隣を見ると、セスは地面の苔をかきむしり、何かを描いていた。ガイラーが見ていると、それはやがて一頭の狼となった。
 「狼…?」
 彼女はうなずき、そしてガイラーを指差した。
 「俺が?俺が、狼?」
 うなずく。
 「悪い。どういう意味か、分からない」
 すると、絵の続きを描き始めた。
 大きな杖を持った男だった。服には女神の紋章が描かれている。かぶっている帽子が大きくて立派だ。
 「それは大司教だな。君をここに連れてきたとかいう」
 彼女はうなずき、自分の口を示した。さらに、大司教の杖から線を出し、その線で狼をぐちゃぐちゃに消した。
 狼を消しながら、彼女は泣いていた。
 「まさか…そんなことが」
 否定するガイラーに、セスは首を振った。
 「大司教が、君を」
 うなずく。
 「そして、俺を…倒したと」
 彼は呆然と言った。
 「だが、君の主は魔物だと聞いているぞ。まさか、君は俺が魔物だというのか?」
 セスの目に嘘はなかった。愛しい人に出会えた喜びにあふれている。
 ガイラーはうろたえた。自分は、こんなにも彼女に求められていたのか?
 「人違いじゃないのか。俺はただの人間のはず…」
 過去の記憶はない。間違いなく人間だと言い切れるだろうか?
 彼はためらった。隣にいる娘はじっと彼を見つめていた。
 「…思い出したい。君のことを」
 瞳の力に勇気づけられるように、ガイラーは言った。
 「分かった。二人でここを出よう。ここにいても、君がいじめられるだけで何の得にもならないからな」
 セスもうなずいた。
 「よし、早い方がいい。俺はちょっと部屋に戻って荷物を取ってくる。君は…何も持ってないか。すまない」
 横に首を振る。だが、彼女の顔は楽しそうだった。ガイラーはセスの肩を叩き、念を押した。
 「ここで待っていてくれ。すぐに戻る。そうしたら一緒に旅に出よう」

 ガイラーは忍び足で自分の部屋に戻り、静かに身仕度を終えた。ここで働いた金も少しばかりだが、とりあえずの旅費ぐらいにはなった。同室の男たちを起こさないよう扉をゆっくりと閉め、廊下に出た。
 そこに現場監督がいた。
 「こんな夜中にどこへ行く」
 「いや…ちょっとトイレへ」
 「荷物を持ってか?」
 手に持ったムチをしならせながら、監督は怒ったように言った。
 「セスが消えた。あの娘がどこへ行ったか知らないかね、ガイラー君?」
 「どうしてそんなことを俺に聞くんだ」
 「お前、ずいぶんあの娘に肩入れしていたじゃないか。何か知らないかと思っただけだよ」
 だが、その声には刺があった。ガイラーを疑っているのは火を見るより明らかだ。
 「知らない」
 「では、自分の部屋に戻れ」
 「嫌だ」
 彼は答えた。
 「俺はここをやめさせてもらう。どこかよそへ行って働くつもりだ」
 「そうはさせんぞ、魔物め」
 監督はムチを鳴らした。
 「お前が来てからというもの、あの娘の様子がおかしいので大司教様に手紙を出して尋ねたのだ。そうしたらどうだ、あの娘が仕えていたという魔物は銀髪碧眼、筋骨隆々とした青年だそうだ。お前ではないのか!」
 「そうだ!」
 ガイラーは叫び返した。
 「罪もない人間をいたぶるのがお前たち人間ならば、それをかばう俺は魔物に相違あるまい。違うか!」
 「言ったな、この外道め!」
 騒ぎを聞きつけ、周りの部屋の明かりが灯り始めた。ガイラーはきっと監督をにらみつけた。
 早くセスのところへ戻らなくては。
 着替えを入れた背負い袋を放り出す。拳を握り締め、身構えた。
 「やる気だな。良かろう!」
 監督がムチを振りかざした。
 「貴様が魔物でも、負けはしないぞ」
 だが、ガイラーの動きはあまりにも素早かった。ムチを振り上げ、打ち下ろす。そのわずかな隙に間合いを詰め、拳を突き出す。
 次の瞬間、監督は鼻血を出してふっ飛ばされ、ガイラーは自分の動きに呆然と立ちすくんでいた。
 「俺は…強いのか」
 ざわざわと部屋から顔をのぞかせた者たちが騒いだ。監督が叫ぶ。
 「そいつを…殺せ!魔物だ!セスを逃がしたんだ!」
 迷った者も多かった。だが、セスの名に反応した者も多かった。ツルハシやシャベルを振りかざす男たちの間を、ガイラーは必死の思いで駆け抜けた。
 「セスを探せ!捕らえて殺すんだ!」
 そんなことをさせるものか。
 立ち向かってくる人々は、ガイラーの拳であっけなく倒れていく。セスの描いた狼が脳裏を横切る。
 狼。そうか、俺は狼か。
 そう考えると、何やらとても楽しかった。
 ガイラーの後を追ってくる者たちは一人減り二人減り、やがて見えなくなった。安堵のため息をついて歩きだす。荷物は捨ててしまったが、なけなしの財産はポケットの中に入れてあった。
 やがて、苔の上にぽつんと座っている人影を見つけ、彼は小走りに駆け寄った。
 「セス!待たせたな」
 声をかけると彼女は喜んで振り返り、そして、その表情を凍りつかせた。
 「見つけたぞ、魔物どもめ」
 監督と、武器を構えた男たちが、じりじりと二人を取り囲む。
 ガイラーはセスを背後にかばいながら、自分を責めていた。
 「気付かなかった…俺としたことが」
 セスはしきりに首を横に振っていた。
 「すまない、セス。俺は…」
 風を切って矢が飛んできた。ガイラーの腿に刺さる。
 「ぐ…くうっ」
 強烈な痛み。いくら体が鍛えてあろうと、これだけは感じないというわけにはいかない。それでも彼はその場に立ったまま耐えた。
 セスが彼の背中を叩いた。声にならない悲鳴が聞こえてくるようだった。
 「守ってやれなくて、悪かったな…許してくれ、セス」
 背中についた彼女の頭が横に振られる。何を伝えたいのか、背中に指を這わせているが、こんな状況では集中できない。
 突然、二本目の矢が、ガイラーの腹に突き立った。
 「やったぞ!」
 誰かが叫んでいた。
 ガイラーはゆっくりと、矢を見下ろした。
 あまり血が出ていないような気がした。腿の傷もそうだ。そう思うと、痛みがすっと引いていく。
 「俺は…やはり、そうなのか」
 両手で矢を一本ずつ持ち、一息に引き抜いた。改めてよく見れば、傷は針が刺さったほどでもない。
 ああ、そうだった。俺は、こんなもの、痛くもないのだ。
 ガイラーは笑い始めた。
 「セス!思い出した、思い出したぞ!」
 折しも満月。
 青年は、変身した。
 銀の髪が逆立つ。耳が大きくなり、口は裂け、白い牙がのぞく。優しげな青い目はつり上がり、血を映す赤い瞳に変わった。大きな体がさらに一回り大きくなる。
 艶やかな毛並み、揺れる尻尾。そこにいるのは、一人のウェアウルフだった。
 「死にたい奴はかかってきやがれ」
 彼は吠えた。
 「逃げる奴は追わない。それが俺の流儀だ。さあ、どうする?」
 月の光に照らされて、美しい鈎爪が輝く。後の方から、がさがさと音を立てて数人が逃げていった。
 「残っている者は、死にたいのだとみなすが、いいか」
 「それはこっちの台詞だ!」
 監督が叫んだ。
 「やってしまえっ!いくら魔物でも、こっちの方が数が多いんだから、負けることはない!」
 「馬鹿な」
 向かってくる男たちを見ながらガイラーはつぶやいた。
 「力の差が分からないのか」
 彼の拳は鉄のツルハシを容易に砕き、二、三人を一度に薙ぎ倒した。だが、それでもかなり手を抜いていた。殺さずにすめばそれにこしたことはない。
 しかし、そんな彼の気持ちは、裏切られていた。
 「セス!」
 ほんのわずか、ガイラーが目を離した隙に、一本の矢が彼女を狙った。
 悲鳴も何もなかった。
 矢は狙い過たずセスの胸を貫き、その体はゆっくりと苔の上に倒れた。
 「セス!」
 つかんでいた男を投げ捨て、彼は娘の傍に駆け寄った。セスはすでに虫の息で、苦しそうに呼吸をする音だけが聞こえていた。
 「やった…悪魔の女を倒したぞ」
 そんな声がした。
 背筋が震えた。
 ああ…また。
 また、俺のせいで、お前が…犠牲になるのか?

 彼女と引き離された日が、昨日のことのように甦る。
 あの日。もう3年も前になるけれど。
 リンツの都の司祭とその軍勢が押し寄せて、さすがのガイラーも逃げ場を失っていた、あの時。
 セスはガイラーを守るため、窓から突き落とした。そして自分は一人残った。彼が逃げる時間を稼ぐために。
 彼のために。
 「セス」
 俺を愛してしまったせいで。魔族などに巡り会ってしまったせいで。
 かばうように、ガイラーは彼女を胸の中に抱いた。
 「寒いか…?冷たいだろ?…すまないな」
 ゆるゆるとセスは首を横に振る。
 「待ってろ…俺は必ずお前を蘇らせる。それまで…辛いだろうが、もう少しだけ待っててくれ」
 ガイラーの言葉にセスはうなずいた。そして、それきり動かなくなった。
 「……」
 ウェアウルフは急速に温もりを失っていく娘の体を苔の上に横たえ、彼らの様子を見守っていた愚か者たちを振り返った。
 「逃げられると思うなよ」

 石切り場は閉鎖された。その理由は、働いていた人々のほとんどが、何者かによって惨殺されたからだった。殺された人の死体はどれもこれも、狼か何かの野獣に襲われたかのように食いちぎられていたという。


序章〜獣・終

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