紫翼の天使
序章 〜 蟲 〜


 町は大騒ぎになっていた。小さな盗賊たちは屋根を伝い、人込みに飛込み、路地裏を駈けめぐって騎士たちを翻弄していた。キューブは呆然とその様子を見た。
 「くそっ…何をやっているんだ!」
 「兄貴っ」
 ふいにキューブの背後に盗賊の一人が現れた。覆面をむしり取って普通の子供の顔に戻り、にっこりと笑った。
 「な…何をやってるんだ、お前たちは?」
 「騎士連中が兄貴を疑ってるって聞いたんでね。兄貴んところに奴らが行ってるところに騒ぎを起こせば、疑いは晴れるだろ?」
 「そりゃそうだが…町は騎士でいっぱいだぞ。逃げ切れると思ってんのか?」
 キューブは少年の胸ぐらをつかんだ。
 「大人をなめるな。一人捕まりゃ、俺たち全部終わりなんだぞ!俺たちだけじゃねえ、お前たちの家族も、あの子たちもだ!」
 「でも、兄貴…」
 「でもじゃない!」
 キューブは子供に対して、初めて怒りの表情を見せた。それはいつもの温厚なお兄ちゃんの顔ではなかった。
 「お前はすぐに家に帰って、毛布かぶって寝てろ。外のことなんか知りませんって顔してるんだぞ」
 つり上がる眉、そしていつもよりいっそう赤く見える瞳。
 「いいな!これは、俺の命令だ!」
 少年はがくがくと震えるようにうなずくと、覆面を投げ捨てて脱兎のごとく走りだした。キューブは少年がその場を立ち去るのを見送り、覆面を拾った。
 「馬鹿野郎ばっかりだ…手間かけさせやがって」
 まだ騒ぎがおさまりきらない市場の方へと走り出す。一番聞きたくなかった声が、彼の耳に届いた。
 「一人捕まえたぞ!」
 「よし、縄をかけろ!」
 間に合わなかった。
 駆けつけたキューブの目の前で、多くの人々が、数人の騎士と一人の盗賊を取り囲んでいた。捕らえられた盗賊は顔を隠してはいるが、体つきは明らかに子供のそれだった。後ろ手にきつく縛られて乱暴に立たされる。
 「てこずらせおって…子供とはいえ罪は罪、容赦はしないぞ」
 キューブに質問していた騎士が子供の頭に手をかけた。覆面の間からのぞく瞳は、不安と怒りを含んでいた。
 「仲間をかばいだてすると罪が重くなる。正直に話せよ」
 騎士はそう言って、唇の端を上げた。
 「お前の罪が重くなれば、お前の家族の罪も重くなる。分かっているな」
 「………」
 少年は黙って大人をにらみつけた。が、その瞳が急に何かに気が付いて、うるんだ。
 もちろん、その変化に騎士たちが気付かないはずがない。彼らは背後を振り返り、家の屋根を見上げた。
 「そいつを放しな。そいつはただのおとりだぜ」
 同じ覆面の少年がそこに立っていた。太陽を背中に浴びて顔は分からないが、手の中で何かをもてあそんでいる様子は見て取れた。
 騎士はにやりと笑って、捕らえた盗賊を引き寄せた。
 「おとりであろうと、貴様らに加担したのだのから罪はある。放すわけにはいかん」
 「では、これを受け取れ」
 少年は屋根の上から無造作に手に持っていたものを投げた。小さなそれはこれまた無造作に落ちてきて、一人の騎士の肩にぽとりと音をたてて乗った。
 「さっ…蠍!」
 騎士の一人が叫んだ。
 「何っ?払い落とせ!」
 「だめですっ!入りました!」
 一瞬の出来事だった。蠍は電光石火の速さで鎧の隙間から中へ入り込んだ。
 「うわあああっ!」
 蠍に取りつかれた騎士は狂ったような叫び声をあげて兜の止め金に手をかけた。だが、その動きはすぐに止まった。
 「くう…っ!」
 鎧が派手な音をたてる。男はなすすべもなく倒れ、仲間たちは呆然と見るしかなかった。
 「さあ、縄を切れ!さもないと、次が行くぞ!」
 少年が屋根の上で手を振る。つまんでいる小さな影は、明らかに次の虫だと分かった。
 「愚かな!」
 盗賊を捕らえている騎士は叫んだ。
 「そのようなもので我々を脅すとは笑止千万!罪が重くなるだけなのが分からないのか?」
 「分かってないのは、お前らのほうじゃねえのか?」
 少年は笑う。
 「ほら、次行くぜ!」
 また虫が投げられる。今度は騎士たちは後に引いてそれをよけた。赤褐色の蠍はぺたりと音をたてて石畳の上に着地した。標的にたどり着けなかったことに気が付いたのか、蠍は素早い動きでどこかへ消えていった。
 「ふん、所詮虫だな。逃げてしまったぞ」
 「そのままだとお前らが踏んじまうからな。そうなっちゃ可哀相だろ」
 「どうだか」
 騎士たちはせせら笑った。人垣が割れて、別の一団が現れる。少年はそれを見て、天を仰いだ。
 騎士たちが連れていたのは他の盗賊たち、そして、かくまっていたはずの小さな子供たちだった。かわいそうな子供たちはわんわんと泣いて、助けを求めていた。彼らは屋根の上に立つ見慣れた影を見付けてさらに泣いた。
 「恐いよーっ!」
 「兄ちゃああん!」
 「助けてぇ、キューブ兄ちゃあん!」
 その悲痛な声を聞いて、騎士たちは笑い始めた。
 「語るに落ちたな、キューブ!間違いなく、貴様の名前を呼んでいるぞ!」
 盗賊たちは縛られて、がっくりとうなだれていた。キューブの名前がばれてしまった。もう、どうしようもない。
 「キューブの姉も捕らえてこい。盗賊をかばうなど、もってのほか…あの娘も罪人だ」
 キューブは覆面に手をかけてかなぐり捨てた。
 「姉ちゃんは関係ねえ。姉ちゃんは知らねえことだ!」
 「いや、それを言うなら町の人間すべてが同罪か」
 騎士は冷酷に言い放った。
 「まったくもって愚かな…町ぐるみで盗賊をかばうとは」
 捕らえた子供たちを見下ろして彼らは言う。
 「可哀相にな、みな罪に問われることになる」
 「…それは違う」
 キューブは答えた。
 「全ての罪は、俺にある」
 そして、自分の額にそっと片手を当てた。次にその手を離したとき、そこには、何か宝石のようにきらめくモノがあった。
 逆三角形を描く、三つの単眼。
 「この俺が町の人を惑わしたんだ…見ろ」
 その姿が一瞬ぶれたかと思うと、次の瞬間、少年の姿は変化していた。腰から下が、違う生き物になっていた。六本にも増えた足が屋根を這う。ゆるやかなカーブを描いて天を指す尾の先には、独特の形の毒針がついていた。
 人の上半身を宿した蠍。アンドロスコーピオだった。
 「まっ…魔物か!?」
 騎士が叫んだ。
 「魔族、だ」
 悠然とキューブは答えた。温厚な顔が、ふと歪む。唇の端をきゅっと上げて、ふてぶてしい笑みを見せた。
 「もう少しでこの町が俺のモノになったんだけどなぁ。惜しかったな」
 「貴様っ…人々を騙していたのか!」
 「ふふっ…今頃気付いたのか?遅ぇよ」
 悪役然として魔族は笑う。
 「お前ら、邪魔だ。消えてもらおうぜ」
 怒りに燃えて、睨みつける騎士たち。突然目の前に現れた魔界の眷属に、子供たちのことはすでに二の次になっている。
 そう…それでいい。
 キューブは両腕を広げた。あふれる魔力が形となり、光の球となって目の前に現れる。今なら、子供たちを避けて騎士だけを吹き飛ばすことは可能だった。
 だが。
 「待て。これが見えないか!」
 太陽の光が剣に反射してきらめく。キューブの見ていなかったところから、さらに数人の騎士が現れた。その腕の中には、ティムが抱きすくめられていた。
 細く白い首には、長剣の刃があてがわれていた。
 「魔法を収め、大人しく我々に従え」
 「何だと?」
 キューブの眉がつり上がった。
 「俺が、そんなことで言う事を聞くとでも思ってんのか」
 「お前が罪を認めて投降するならば、娘の命は保証する」
 騎士の腕の中で、ティムは顔を伏せていた。
 「さもなくば、この娘の命はない。いずれにせよ、魔族をかばっていた罪人だ。もとより極刑は免れない」
 「………」
 「まあ、お前は魔族だから、人間の命などどうでもいいのかもしれんが」
 辺りがしんと静まり返った。
 町の人々が、キューブを見上げてその返事を待っている。
 みんな、彼のことを人間だと信じていたのだろう。本当に彼らを騙していたのか。子供を助けようと盗みを働いたのはただの戯れなのか。本当の姉弟のように仲良くしていた彼女を見殺しにしてしまうのか――誰もが、その答えを待っていた。
 光球が消えた。
 再びただの子供の姿に戻って、キューブはうなだれていた。
 「みんな、騙しててゴメン」
 彼は答えた。
 「聖騎士ども。町のみんなにかけた魔法は解く。俺以外、誰にも罪はない…それでいいか?」
 「いいだろう」
 うなずいて、少年は屋根から下りた。

 地下牢に入れられたアンドロスコーピオはずいぶんと大人しかった。彼が逃げれば、罪は町の人たちが被らなければならない。それは、本意ではなかった。
 明日の朝になれば騎士たちと共に都の大神殿へと移送され、そこで処刑されるのだろう。もちろんそれも、本意ではない。
 本来なら、あの程度の聖騎士などどうということはなかった。だが、あと少しだけ、彼には力が足りなかった。3年前に受けた傷が完全に癒えてはいなかったからだ。
 生きている年月は普通の人間よりはるかに長いが、キューブはまだ魔族として完全な大人ではない。見た目どおり、まだ子供なのだ。だから、ダメージを回復するのも容易ではなかった。
 「くそ…ッ」
 冷たくて暗い牢の床を叩きながら、キューブは悔しそうにつぶやいた。
 「くそッ!また…またアイツのせいかよ!」
 リンツの都で威張っている大司教。彼によって狩られ、命からがら逃げ出した。そして、また狩られた。
 今度は、本当に命がないかもしれない。
 あの時は共に戦ってくれる仲間だっていたけれど、今はたった一人。むしろ、守らなければならないものが増えた分、不利になった。
 「あと少しだったのに…ゴメン、みんな」
 ぽつり、と涙が落ちた。
 コツン、と音がする。
 「…泣かないでよ」
 静かに、そんな声がした。
 「あたしだって泣きたいのに」
 「姉ちゃん」
 キューブが顔を上げると、薄暗い廊下にティムが立っていた。
 「どうしてここに?」
 「聖騎士たち、あなたを捕まえたと思って油断しまくってるみたいね。お粗末な警備だったわ」
 壁にかけられた蝋燭の炎が揺れると、彼女の影も大きく揺れる。だが、誰も侵入者に気付いた様子はなさそうだった。
 「でも」
 「シーッ」
 指を立てて、彼女はかすかに微笑んだ。そのまましゃがみ込み、ベルトにつけた小さなバッグから何かを取り出した。それは、一本の針金だった。
 「姉ちゃん…何を」
 「あなたを逃がすのよ」
 「へッ?」
 「いいから黙って聞きなさい…あ、これ持ってて」
 小ぶりなカンテラに素早く灯を入れ、鉄格子の隙間から差し出されたキューブの手に持たせる。その光で錠前を照らして、ティムは作業を開始した。
 「昔の話ってしたことないわよね。あたしがこの町に来る前のこと」
 針金がくねくねと形を変えて錠前の中に滑り込む。小さな手の中で、やがてカチッ、と軽い音が響いた。
 「父さんも母さんもね、実は盗賊だったの。でも…1回ヘマをしちゃって捕まった。家に聖騎士が押しかけてきたわ」
 その時、父は幼い娘を守ろうとして騎士の一人と揉み合いになった。そして、運悪く、騎士が抜いた剣がすべった。騎士は、死んだ。
 「事故だったの。でもね、そんなこと、誰も聞いちゃくれなかった」
 両親は人殺しの罪に問われた。二人は処刑され、娘は居場所を失い、故郷を離れた。
 「だから…傷ついて倒れていたあなたを見たとき…利用、しようと思ったの」
 ゆっくりと牢の扉を開く姉。弟は、その顔をじっと見つめた。強張って感情のない顔が、彼を見つめ返していた。
 瀕死の状態で倒れていたキューブは、半分人で、半分蠍の姿をしていた。流す血の色は赤ではなく、透明な黄色い体液。一目で人間ではないと分かるソレを、あえて彼女は拾った。
 「下心があったの。あなたを助けたら…いつか、いつか父さんと母さんの」
 「もういい、姉ちゃん」
 キューブは、ぎゅっと彼女を抱きしめた。ティムの赤い髪の毛をなでて、彼は言った。
 「理由なんかどうだっていい。俺は、姉ちゃんに助けられた。その恩は絶対に忘れねぇ」
 「ううん、まだ足りないわ」
 震えながら、彼女が顔を上げる。
 「ねえ、キューブ。いつだったか、わたしに嘘はつかないって約束したわよね?」
 「え?あ、ああ…」
 「それじゃ答えて。あなたが完全に回復するために必要なものは何?」
 「え」
 一瞬、キューブが止まった。
 「そ…それは」
 魔族が必要とするエサなど、相場が決まっている。
 「やっぱり、そうなのね?」
 「あ、いや、俺は…」
 その時、廊下に重い靴の音が響いた。
 「誰だ!?誰かいるのか!」
 「しまった…!」
 とっさにドアの格子を掴んで牢屋の中に戻ったが、ティムのカンテラが廊下を転がった。細い光が無駄に辺りを照らす。
 「侵入者か!」
 一人の声に反応して、さらに靴音が増えた。騒ぐ声がどんどん大きくなっていく。
 キューブはかばうように姉を抱き、牢屋の奥のほうへ隠すように押した。だが、彼女は動かなかった。
 「姉ちゃん?」
 「あたしを…」
 震える声で、ティムは言った。
 「食べて。そうすれば、力が戻るんでしょ?」
 彼女の顔が当たっている場所、キューブの胸がしっとりと濡れている。
 「死ぬの、怖くないから…あなたの力になれるなら」
 「…ったく」
 彼は笑った。
 「しょーがねぇなぁ。泣きながら言うセリフじゃねぇっての」
 両肩に手をかけて胸元から引き離し、ティムの顔をのぞきこむ。涙でぐちょぐちょになった顔で、それでも姉は唇を噛みしめていた。
 「ま、そこまで言うんなら、ありがたく食わせてもらうぜ?」
 「……う…うん」
 震えながらうなずいて、ぎゅっとまぶたを閉じる。
 優しい弟でも、やっぱり魔族。どんな恐ろしい事が起こるかと、ティムは体を固くした。だが。
 「!」
 唇に何か柔らかいものが触れる。
 その瞬間、ティムの体の中から何かが抜き取られるような感じがして、気が遠くなりかけた。しかしそれはすぐに終わり、彼女はきょとんとしてその場にへたり込んでいた。
 「ごっそーさん」
 キューブが笑っていた。
 「ゴメンな、初物もらっちゃって。でも姉ちゃんが色んなモノ食わせてくれてたから、それだけで十分だよ」
 わずかな精気を吸って、彼は回復していた。少年の下半身ががみるみるうちに蠍の姿となる。上半身も、体から生えてきた鎧のような外骨格に包まれていく。
 カンテラの灯りを反射して輝く蠍の外殻は艶やかで、昼間見た姿とは明らかに違っていた。尻尾の針も、一回り大きい。
 「じゃ、大人しく隠れてて。ちょっと片付けてくるから」
 指を鋏のように構えて一閃すれば、太い鉄格子がすっぱりと斬れた。
 廊下に現れた魔族の姿に、たちまち騎士たちは大混乱に陥った。
 「逃げるぞ!捕らえろ!」
 「くくっ」
 喉の奥で軽く笑って、キューブは鋏を振り上げる。今度の笑顔は、残忍だった。
 「今までの礼は、たっぷり返してやるぜ」
 夜は始まったばかりだ。

 「…どうしても行っちゃうの?」
 「ああ。傷も完全に治ったしね。それに、あんなところ見せちゃ…やっぱり、町の人たちに怯えられちゃうだろ」
 額にきらめく単眼が、さみしそうなティムの顔を映していた。もう一緒には暮らせない。
 それに、彼には目的がある。
 「俺、助けてやんないといけない人がいるから」
 「都に…行くのね」
 そこには、光の女神の大神殿がある。大勢の聖騎士とそれを取り仕切る大司教がいる。魔族にとっては、近付きたくはないであろう場所。
 「大事な人なんだ」
 そう言うと、ティムがすねたように唇を尖らせた。
 「あたしよりも?」
 「なっ…」
 思わぬ言葉に、一瞬言葉につまる。
 「な、何言ってんだよ、姉ちゃんのことだって大事だよ!比べるんじゃねーよ!」
 「あんた」
 彼女は自分より背の低い、しかし自分よりはるかに年上の弟の顔をじっと覗き込んだ。
 「顔が、自分の殻みたいに赤いわよ」
 「でえええ!?」
 「…いいわよ」
 そして、ティムはそっとキューブにキスをした。
 「いつでも、戻ってきていいのよ。あたし、その人とは違って魔族じゃないから、あんたよりずっと早くおばあさんになっちゃうけど。それでも良かったら、いつでも戻ってきていいのよ」
 「素直に会いたいって言えよな」
 キューブは、思いっきり泣き顔になっているティムを見つめて微笑んだ。
 「いいぜ。何かあったら、今度は最優先で飛んでくるから」
 ティムは、目尻に滲んだ涙を指先で拭ってうなずいた。
 「元気でね」
 「姉ちゃんこそ、元気でな。じゃ」
 魔物の少年は背中を見せた。そしてそのまま、二度と振り返る事無く歩き出した。
 翌朝、町の人々は、騎士も少年もきれいに消えているのを見て、納得するだろう。罪は彼が一人で背負い、連れて行かれたのだと。
 それでいい。
 ティムも、きびすを返した。
 「さ。新しい弟妹たちが待ってるんだったわね」
 孤児たちを迎えに、彼女も別の方向へ向って歩き始めた。


序章〜蟲・終

Novel Menu   Back to Read   Next to Read   Main Menu