紫翼の天使
序章 〜 愛情 〜


 館が燃えていた。丘の上に建つ古びた館は、全ての窓から炎を噴き出し、火の粉が強風にあおられて辺りに降り注ぐ。光の女神に仕える聖騎士たちは遠くからその様子を眺め、充実感に赤く染まった頬を上気させていた。おりから降り始めた強い雨に次第に火の手は弱くなり、やがて、黒い煙がたちのぼり始めた。灰色の石壁は黒く煤けて見る影もない。
 「よし、良かろう。引き上げるぞ」
 聖騎士のリーダーが言った。騎士たちはぬかるんだ道を戻り、それぞれの馬にまたがった。その中の数人は、やつれた様子の若い娘を自分の鞍の前に乗せている。彼女たちは、あの忌まわしい古い館から救いだされた生贄たちだった。
 「さあ、手を取って。乗れるかい」
 若い騎士シェーンベルグも、そんな娘の一人に馬上から手を差し伸べた。うろたえている彼女を同僚が抱え上げ、シェーンベルグの前に乗せた。
 「大丈夫かい?」
 「……え、ええ」
 娘は十八歳前後で、知的な顔立ちをしていた。知らない男にほとんど抱かれるような格好になっていることに恥じらいを覚えてか、うつむいて口篭もる。黒い髪が白い頬にかかり、緑の瞳は地面を見つめている。
 「しっかりつかまって。揺れるよ」
 青年は馬の脇腹を蹴った。おもむろに歩き始めた馬の背は大きく揺れ、彼女の背中は騎士の胸当てにぶつかった。
 「す、すみません」
 「構わないよ」
 半分振り返って彼を見た娘に、シェーンベルグは笑って答えた。
 「長い道程になる。疲れたら、僕にもたれて眠ってもいいよ。ちゃんと支えてあげるから落ちる心配などいらない」
 「…ありがとうございます、騎士様」
 娘はようやく微笑んだ。
 雨は止みそうになかった。騎士たちの鎧と馬具は重い音をたてる。晴れがましい凱旋の進軍は、妙に静かで重苦しい雰囲気に包まれていた。それは、生贄となった娘たちの全てを救いきれなかったせいかもしれなかった。
 館の主は、吸血鬼であった。
 ここ数ヶ月というもの、近くの町や村から若い娘ばかりが行方不明になるという事件が頻発していた。調べてみると、いつの間に棲みついたのか、打ち捨てられていたはずの郊外の館に魔物の気配があった。さすがに魔族クラスの大物ではなかったが、それでも人の生き血を好んで吸う恐ろしい不死者がいることに間違いはなかった。
 そこで聖騎士の一団が派遣され、捕らえられていた娘たちの救出と魔物の退治を行なったのだ。
 館の中はしんとしていた。歩きまわっていたのは、下級の魔物たちばかりだった。血を吸われ、魂を失い、生きることを忘れた不死者たち。ヴァンパイアの生贄となって死んだ者は、引導を渡してやらない限り、新しいヴァンパイアとなってそのまま永遠にさまようことになる。
 祈りを唱えながら彼らを撃破していった騎士たちは、もう一つの目的も達成することが出来た。幸いなことに、牢につながれていた娘たちは奇跡的に全員無事だったのだ。
 女神に感謝しながら、さらに騎士たちは館の奥へと進む。そして。
 ついに彼らは主の部屋へとたどり着いた。昼なお暗いその地下室で、ヴァンパイアは眠りについていた。
 部屋の中央に安置された棺桶の中に横たわる金髪の男。白く血の気の失われた顔の色、紫の唇は死人のそれ。このままにしておけば夜には目覚めて新しい生贄を求めるのだろう。聖騎士たちは迷うことなく棺桶に火をかけた。
 火はたちまちのうちにヴァンパイアと棺桶を包み込んだ。だが、それだけでは飽き足らなかったのか、まるで恨みを晴らすかのように炎は踊り、部屋のカーテンに燃え移った。古めかしい絨毯を舐め、高価そうな家具調度を食い尽くし、館のもの全てと騎士一人を巻き添えに、館は炎上したのだった。
 長い沈黙の行進の後、聖騎士の一行は森を抜けた。
 眼下に小さな村が見えてきた。娘たちの間から安堵のため息がもれた。
 「生きて帰れたのね、わたしたち」
 娘の一人が言った。
 「ああ、信じられない!ありがとう、騎士様!」
 口々に感謝の言葉があふれる。聖騎士たちも笑顔を見せた。
 シェーンベルグもほっとしながら、目の前の娘の様子をうかがった。だが、彼女は、笑顔ではなかった。
 「…悪夢を見ているようだわ…これで終わるはずがない」
 彼女はつぶやいた。青年は片手を彼女の肩にかけた。
 「大丈夫だよ。心配することは何もない。焼いてしまったんだ、あいつはもう甦りはしないよ」
 振り返った緑の目が刺すように鋭く彼を見返した。
 「そうかしら?」
 「そうだよ」
 シェーンベルグは恐れで凍りついた彼女の心をほぐそうと笑って答えた。
 彼女はじっと若い騎士を見つめ、そして、ふと表情をゆるめた。
 「そうね…騎士様がそう言うのなら、そうかもしれない」
 意外と愛らしい笑顔だった。
 「君、名前は?」
 「わたしはエリス」
 彼女は答えた。甘えるような優しい瞳でシェーンベルグを見上げた。
 「僕はシェーンベルグ・ハーモン。リンツの都に住んでいるんだけれど…」
 青年は魅入られたようにぺらぺらとしゃべりだした。
 「一緒に来るかい?」
 そう、彼はこの黒髪の娘に心を奪われていた。にっこりとうなずいた彼女に、シェーンベルグはそっと寄り添った。

 シェーンベルグとエリスのように、この行程で仲良くなったカップルは少なくなかった。ヴァンパイアがさらったほどなのだから娘たちは年頃の美女ばかりだし、片や女神に仕える大神殿の若い聖騎士たち。お互い、気にならないほうがおかしいと言うものだ。
 そして、そうやって出来たカップルの女の子たちは、吸血鬼に噛まれた傷の治療も兼ねて、神殿の下働きとして住み込むことになった。
 エリスが聖騎士の馬の世話係になって十日ほど過ぎた日のことだった。
 「エリス」
 彼女を呼ぶ声がした。馬の毛並みをすいていた彼女は振り返り、そこに愛しい男の姿を見つけた。兜こそ着けていないが、聖騎士の鎧をきっちりと着込んで剣を下げている。
 「あら、シェーンベルグ」
 エリスは微笑んだ。
 「どうしたの?今日は騎馬訓練の日じゃないでしょう?急な戦でも?」
 「違うよ」
 シェーンベルグは困ったように頭をかいた。
 「戦ではないが、午後から出掛ける。後から正式の連絡があると思うが、馬の用意をしておいてくれ」
 「何かあったの?」
 「君に関係のない話ではないからな。聞いておくか」
 シェーンベルグは声を落とした。
 「昨日、女の子がまた行方不明になったんだ」
 「えっ!?」
 エリスの口をとっさに手でふさぎ、彼は辺りを見回した。厩舎の中はいろいろとうるさい。馬が鼻を鳴らし、足を踏み鳴らしている。二人の話に気が付いた人はいない様子だった。シェーンベルグは続けた。
 「確か同じ村に住んでたよね…ココっていう子なんだけど」
 「……ココが」
 二人はお互いの顔を見合わせた。彼女はエリスと同じ村の出身で、同時にさらわれ、あの古城から救い出された娘の一人だ。
 シェーンベルグは厳しい聖騎士の顔になっていた。
 「今朝早く、村の方から連絡があった」
 「そ…それで、ココはどうなったの?」
 「明け方に帰ってきたんだけど…それが問題なんだ」
 「まさか…」
 「そうだよ」
 シェーンベルグはエリスの言葉を肯定した。
 不安を隠し切れない表情で、彼女はじっと騎士を見る。シェーンベルグは一呼吸置いて、ゆっくりと結論を告げた。
 「ヴァンパイアの仕業だった」
 エリスが息を飲み込んだ。
 「どうして」
 低い声だった。
 「首だよ。首筋に、噛まれた痕があった。そして、彼女には昨夜一晩の記憶が全くなかったんだ」
 シェーンベルグは静かに告げた。
 「あいつが復活したのかもしれないし、他のヴァンパイアかもしれない。いずれにせよ、調査の命令が下った。この近くにいるのは確かだ」
 「…そう」
 エリスはうなずき、馬を見上げた。
 「行くんだったら気を付けてね。わたし…わたし」
 「大丈夫だよ。僕たちには女神様がついていて下さるんだから」
 「…でも」
 その時、厩舎の入り口に、見たことのない馬が一頭引かれてきた。
 「厩はここかい?こいつを頼むよ!」
 下男が手綱を渡す。引いてこられた馬は見るからに疲れ切っており、かなり飛ばしてきた様子だった。
 「これは早馬ね。何の知らせかしら」
 エリスは手早く水桶を用意してやりながら言った。鞍を外して背中に水をかけると、湯気がたちのぼった。
 「足が太いな。農耕用の馬か?」
 シェーンベルグが尋ねると、他の厩番がうなずいた。
 「これを飛ばしてくるとは余程のことでしょう。村の方で何かあったんでしょうね」
 程なく、神殿の方からラッパの音が響いてきた。
 馬を眺めていたシェーンベルグははっと顔を上げた。エリスも手を止め、ラッパの音に耳を傾けた。
 「非常召集…」
 「おまえさんの運んできた知らせは、よっぽどすごいことらしいな」
 シェーンベルグはそう言って、馬の鼻面を軽く撫でた。
 「行ってくるよ、エリス…しばらく会えないかも知れない」
 「そう」
 彼女は顔を伏せた。前髪が顔にかかり、その表情は見えないが、馬の背に添えた細い手がかすかに震えていた。

 早馬が知らせたのは、もう一人の犠牲者のことだった。
 その娘も、例の吸血鬼の館から救出された娘で、ココと同じように一晩だけ姿を消し、首筋に傷跡をつけて帰ってきたというのだ。
 当然のことながら、聖騎士たちには再調査の命令が下され、すぐに出撃の準備が行われる事になった。  「一晩に、2人もだ」
 急ぎ足で厩へ戻ったシェーンベルグは、恋人にそう告げた。
 怖がるだろうとは思った。だが、次に犠牲になるのは彼女かもしれないのだ。きちんと事実を告げて注意を促す方がいいに決まっている。
 だが、エリスは、青い顔をしながらもしっかりとうなずいて答えた。
 「分かった…わたしも気をつければいいのね?」
 「そうか」
 あっさりとした答えに内心不安を抱きながら、シェーンベルグは馬の手綱を取った。
 「まあ、この神殿の中にいれば大司教様の守りもある。そう簡単には、君を奪われるようなことはない」
 「うん…」
 「だから、僕が帰ってくるまで、絶対に大神殿を出ちゃいけない。いいね?」
 だが、普段は大人しい彼女が、この時ばかりはすまなそうに恋人の顔を見上げた。
 「ねえ、シェーンベルグ」
 「何だ?」
 「わたしも…連れてって欲しいの」
 思わぬ言葉に、彼はぽかんと口を半開きにしたまま彼女を見つめ返した。
 「何だって?」
 「ダメかしら?ねえ、大司教様にお願いしてもいいかしら」
 「どうして急にそんなことを」
 長い沈黙の後、エリスは完全に下を向いたまま答えた。
 「………怖いの」
 固く握りしめられた拳は白く血の気が引いていた。
 「あなたと離れるのが怖い。もし、もしあいつが復活したんだったら、わたし…わたし!」
 その拳に、赤いものがにじんだ。言葉を失うエリスの震える手から、ひとすじの雫が垂れ落ちる。
 シェーンベルグはとっさに彼女の手首を掴んで開かせた。
 「エリス!しっかりするんだ!」
 あまりにも力を込めすぎて、爪が掌に食い込んでいた。そこから血がにじむ様を見て、エリスはようやく我に返り、大きく溜息をついた。
 「ごっ…ごめんなさい!」
 「いや、いいんだ。すぐに手当てしよう。それから」
 青年は自分の手で彼女の血をぬぐいながら微笑んだ。
 「一緒に行ってもいいかどうか、大司教様に聞いてみるよ。もしダメでも、僕が必ず守るから」

 例の館に程近いスアキンの村までは三日かかる。
 聖騎士の一行が到着したその日の夜、まるで彼らを嘲笑うかのように、一人の生贄が血を奪われた。やはり、館に捕らえられていた娘だった。
 「暗黒の闇に汚された哀れなる者よ」
 朝の光の中、帰って来たばかりの娘に浄化の儀式が行なわれた。
 「女神の力により、汝の肉体と精神を清める。御名の下に、消え去れ…悪しき呪いよ」  ごく小さな傷跡に、聖水が振りかけられる。その途端、血も凍るような恐ろしい悲鳴が彼女の唇からほとばしった。同時に、肉を焼く時のようなジュウッという音が響き、もうもうと水蒸気が立ち上った。
 朝の静けさを引き裂いて、それは長く長く続き、やがて、止んだ。
 「さぞかし痛んだろう…だが、もう大丈夫だ」
 治療に当たった聖騎士が、ぐったりと横たわる娘に優しく声をかけた。
 「香油を塗ってあげるから、ゆっくり休むといい。あとで護符を渡すから、身に付けておきなさい」
 祈りを終えた他の騎士たちも立ち上がった。二人がかりで娘を連れて行く。
 少し離れたところでは、シェーンベルグがエリスの肩に両手をかけたまま、じっとその様子を見守っていた。
 「絶対守る。もう二度と、あんな風にはさせない」
 エリスは小さくうなずいた。彼女も、一度は浄化の治療を受けている。その時のことを思い出してか、少し顔色が青ざめていた。
 「見ない方が良かったんじゃないかい?」
 「そうかも知れません」
 騎士の一人が尋ねると、低い声で彼女は答えた。表情が硬い。
 「今のうちに休んでおきなさい。城まではあと半日だ。すぐに出立するから」
 「はい」
 エリスは素直に答えた。シェーンベルグも敬礼し、彼女を連れて下がろうとしたが、ふとその騎士が青年だけを手招きで呼び寄せた。
 「エリス、君は他の聖騎士と一緒にいなさい。シェーンベルグに個人的な話がある」
 「…分かりました」
 彼女は一瞬だけ不思議そうな顔を見せたが、すぐに会釈してくるりと背を向けた。それを見送る若い騎士に、先輩である聖騎士は小さく声をかけた。
 「シェーンベルグ。彼女から絶対に目を離すんじゃないぞ」
 「はい」
 シェーンベルグもうなずいた。だが、もう一方の騎士は首を横に振った。
 「これは私の直感に過ぎないが…彼女は普通ではないと思うのだ」
 「えっ?」
 振り向くと、先輩は渋い顔で眉間に皺を寄せていた。他の聖騎士たちとにこやかに会話をしている少女を見ながら、彼は続けた。
 「君の恋人を疑うようで悪いのだが、私には何か彼女には裏があるような気がしてならないんだ」
 彼はそう言って目をそらした。シェーンベルグはじっと彼を見つめ、答えを求めた。
 「その…裏とは」
 「これは私が勝手に推測した仮定に過ぎない。だが、もしかして、まだヴァンパイアの支配から完全に解き放たれてないのでは」
 シェーンベルグは言葉を失った。聖騎士は青ざめた後輩の肩を叩いた。
 「すまない。でも、その可能性がないとは言い切れない…だから」
 「僕は、どうすれば」
 「奴を完全に消滅させることだ。そうすれば、何の心配もなくなる」
 青年は苦笑した。が、それもすぐに普通の笑顔に戻った。年上の騎士も同じように苦しんだ表情を見せていたからだ。
 「分かりました。頑張りましょう」
 シェーンベルグはそう答え、聖騎士もうなずいた。
 「さあ、そろそろ出掛けるようか。気を引き締めていけよ、本当に奴が復活していれば厳しい戦いになるのだから」
 「はい!」
 聖騎士の手が掲げられる。出発だ。


続く

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