丘の上にそびえる、煤けた暗黒の館は、雨に洗い流されて次第に元の姿を取り戻しつつあった。まるで、甦る不死者そのもののようだ。
再び降り始めた雨に打たれながら、彼らは一歩一歩館への道を歩む。エリスはここから救われた時のようにシェーンベルグと同じ馬に乗り、感情の見られない顔でじっと目的地を見つめ続けていた。
「着いたぞー」
先頭の騎士が声を上げた。おー、という疲れ果てた声がそれに応えた。
「後続が遅れてるようだな。少し休憩するとしよう」
早く着いた騎士たちは馬をつなぎ、前庭に三々五々腰を降ろす。シェーンベルグも花壇の縁に座ったが、エリスは立ち尽くしたまま、きょろきょろと辺りを見回していた。
「疲れてないの?」
「ええ、私は大丈夫。でも、その…」
ふと、白い顔に朱が差した。そっと恋人に耳を寄せ、恥ずかしそうに彼女はささやいた。
「あの…あのね、ちょっと、その…どこかに用を足せる場所って、ないのかな、って思って」
「あ」
彼は納得し、急いで立ち上がった。
美しかったであろう庭園も、今は無残な焼け野原である。が、ぐるりと見回してみても、どこもかしこも男ばっかりだ。後続の聖騎士たちも続々やってきて、男性の数は増える一方である。
「それじゃ、そうだな…あの辺でいいかな」
回廊の壁が崩れ落ち、庭園から死角になっている場所を見つけて、聖騎士はそっと彼女の手を引いた。
「ごめんなさい」
「コレばっかりは仕方ないよ。緊張したんだろ」
雑談している騎士たちの間を目立たないようにすり抜けて、二人は物陰に入る。
「それじゃ、あの、ちょっとだけ、あっち向いててね」
「ああ」
瓦礫の向うに小さくなって姿を消すエリス。シェーンベルグは、崩れた壁の穴から前庭の様子を眺めていた。
「それではこれより探索に入る!」
後続が到着したのか、団長がそう告げるのが聞こえた。それに伴い、ぞろぞろと正面の扉を破り、聖騎士たちが建物の中へと歩みを進めていく。
すぐ追いかければ、追いつくな。
そう思って、彼は恋人のいる方を振り向いた。瓦礫の向うに、彼女がつけていたリボンが揺れているのが見える。急かすのは悪いとは思ったが、それでも一応シェーンベルグは声をかけてみた。
「なあ、まだかい?」
「………」
返事はない。
「エリス?」
リボンがふわふわと、所在なげに揺れる。
まさか。
「エリス!」
彼は数歩の距離もないその場所まで、必死で走った。
リボンは、石ころにくくりつけてあるだけだった。
「しまった…!」
目を離したのは一瞬だ。だが、もはや彼女の姿は跡形もない。
「誰か…誰か、来てくれ!エリスが!!」
だが、叫んでみても、他の騎士たちももう行ってしまった後だ。
「ちくしょうッ!!」
悔やんでいる暇などなかった。彼はリボンを手に取り、回廊を見回した。
もしもエリスがまだ操られているのなら、行き先は…。
「こっち…だな」
館の奥、ヴァンパイアの部屋があるという方向を目指して、彼は歩き出した。
慎重に行く手を確認しながら、一歩ずつ聖騎士は奥へと進む。先に入った騎士たちの話し声や足音がどこかで反響し、突然聞こえてきたり、ふいに消えたりするのがたまらなく不気味だった。
それにしても、広い館だった。大勢の人間が来ているはずなのに、誰とも出喰わさないのが不思議だ。
また一つ、焼け残った扉を押し開き、シェーンベルグは落胆した。
また廊下。これはもう、住むところというより完全な迷宮だ。捉えた娘たちが逃げ出さないようにするための罠だろうか。それとも、彼らのような侵入者を拒むためだろうか。
「いい加減にしやがれ!」
ともすれば萎えそうになる気力を奮い立たせるためにそう叫びながら、次の扉を蹴飛ばして破る。次の瞬間、自分が凍りつくのが分かった。
「う……っ、く」
そこには、世にも恐ろしい地獄絵図が出来上がっていた。
聖騎士たちが死体になっていた。その顔から血の気は失せ、ヴァンパイアに襲われたということが一目で分かった。彼らの目蓋は半開きで、死にながらもうっとりと何かに見惚れている。
吐きそうになるのを堪え、シェーンベルグは必死で口元を押えた。
「みんな…」
膝が震える。五人もいたのに、一度にやられてしまったとでも言うのか。
「そんなバカな」
がっくりとうなだれた彼だったが、そのおかげで、自分の足元に点々と残る血の痕を見つけた。
まだ新しく、艶やかに盛り上がった赤い雫。それは、この部屋にあるもう一つの出口を通り、どこかへ続いていた。
ふと、恋人の笑顔が彼の脳裏に浮かんだ。
「よし」
胸元にいつも下げている光の紋章のペンダントを取り出し、ぎゅっと握りしめた。
必ず守ると誓ったのだ。ここで退くわけにはいかない。
シェーンベルグは右手に剣、左手に紋章を握り、血の道しるべをたどり始めた。
走り出したくなる衝動を堪えながら、部屋から部屋へ、あくまでもゆっくりと歩いて行く。小部屋に入るたび、変わり果てた姿の聖騎士が彼を迎えた。
それでも、彼は歩く。そして、いつしか、その場所にたどり着いていた。
完全に焼け落ちて黒く染まった壁と廊下。誰もいないはずなのに、蝋燭の炎が無数に揺らめく地下室。
燃え尽きて蝶番だけになった扉をくぐると、そこに彼女が立っていた。
黒い髪、ほっそりとした後ろ姿を間違えるはずはない。
エリス!
シェーンベルグは叫んだ。
叫んだつもりだったが、声は口から出る事はなく、喉もとでつかえた。
あまりにも強大で邪悪な気配が、足元から立ち込めてくる。部屋の中央で立ち尽くすエリスに、それは黒い霧となってまとわりつき始めた。
エリス!逃げるんだ…!!
だが、やはり言葉は声にならなかった。
目の前で、霧がしっかりとした形となり、一人の男の姿となる。あり得ない光景に、圧倒的な威圧感に体が縛られた。
「あ……あぁっ…」
辛うじて、うめき声をあげる。その瞬間、ちら、と黒服の男が彼を見た。
血のような真っ赤な瞳、透けるように白い肌、冷たい輝きを帯びた金色の髪。燃え尽きたはずの館の主。
「……」
ヴァンパイアは、最初からシェーンベルグに興味などないのか、すぐに視線を目の前に立つエリスに戻した。
魔物が伸ばす手に、彼女も当然のように手を差し伸べる。恋人の見つめるその前で、娘は魔物に抱きしめられる。蝋燭の灯りに浮かび上がる彼女の横顔は、うっとりと夢見るような笑顔でヴァンパイアを見上げていた。
二人の唇が一瞬触れあう。エリスは恍惚とまぶたを閉じ、そして再び相手を見上げた。
その瞳の色が、赤く変わっていた。
エリス…君は。
シェーンベルグは、左手の中に持っていた紋章を握りしめた。そこだけは魔物の支配が及ばないのか、指が動いた。女神の加護にすがるように、彼はさらに強くそれを握りしめ、祈った。
どうか、僕に彼女を救う力を――身も心も吸血鬼のモノに成り下がる前に、彼女を!
鮮血が飛び散った。
粉々に砕けた紋章の欠片が、いくつもシェーンベルグの掌に突き刺さっていた。だが、その痛みが彼を奮い立たせた。
聖騎士としての力と意思と誇りとが彼の体を呪縛から解き放つ。剣を構えて彼は進んだ。
「なんだと…!?」
驚いたように一歩ヴァンパイアが退く。エリスは無防備に振り向いた。感情を失った赤い瞳がじっとシェーンベルグを見た。
「エリス…ごめん」
小さくつぶやいて、聖騎士は剣をふるった。
訓練された長剣の一振りは、狙い過たず恋人の心臓を貫いた。
魔物にされてしまうのならば、自分のこの手で、その魂を女神の下へ。
力を失った娘の体は、何の抵抗もなく聖騎士の方へと傾いた。それを受け止め、シェーンベルグはもう一度彼女の顔を覗き込んだ。
見開かれた瞳は赤いまま、エリスは言葉もなく彼を見上げている。
「愚かな」
そんな二人に、ヴァンパイアが声をかけた。
「聖騎士。お前、自分が何をしたか分かっているのか」
「決まっている」
怒りと憎しみを抑えつけ、シェーンベルグは務めて冷静に答えた。
「貴様がエリスをヴァンパイアにしたから、それを阻止しただけ。貴様などに、彼女を汚させはしないッ!!」
「いつ」
それに答える声は、さらに冷静で、穏やかだった。
「私が、いつ彼女を下僕にした。よく見ろ」
「な…んだと?」
「その娘には、ただ少し血を運んでもらっただけ。それなのに、そのように深く突いてしまっては、もう助からぬではないか」
腕の中で次第に重くなっていくエリスを、シェーンベルグは抱えなおした。
「…う…っ」
死に至る激痛に耐えて、彼女は固くまぶたを閉じている。だが、恋人の温かい吐息が顔にかかるのを感じて、うっすらと目を開いた。
緑色だった。
「エリス!」
「……あ……ぁ」
みるみる血の気が失われていく唇はかすかに動いたものの、すでに声になるほど吐き出せる息もなかった。それでも、彼女は、シェーンベルグを見て微笑んで、そして事切れた。
「復活に必要な血さえ手に入れば、生かして帰すつもりだった。まあ、聖騎士たちには何人か犠牲が出てしまったようだが、それも我が身を守るため」
「嘘だ」
動くことのない死体を抱きしめてシェーンベルグは叫ぶ。
「嘘だッ!貴様がッ…魔物が言うことなど、誰が信じるか!」
「では、誰の言うことならば信じる」
静かな声で、ヴァンパイアは問う。
「人間ならば信用できて、魔物なら信じられないか。浅はかだな」
にらみつける騎士の視線を避けるように、人でない、生きてもいないモノは背を向けた。
「待て、逃げるのか!」
「私は無駄に人を殺したくはない」
「何をふざけたことを!」
シェーンベルグは剣を手に立ち上がった。
こいつの言うことなど信じない。ただ、光の女神と己の正義を信じて、こいつを倒す。
「お前にも家族や友があろう。帰るがいい」
しかし、剣は空を切った。ヴァンパイアはその場から一瞬で消え、シェーンベルグのすぐ隣に姿を現していた。
「だが、一つだけ忠告しておく」
「?」
「お前が一番信頼しているであろう男。それが、最も信頼してはいけない人間だ」
赤い瞳が間近で彼をのぞきこんだ。薄い唇が、その男の名を告げた。
「何故、大司教様の名を」
「いつか分かる」
そう言ってふと微笑んだヴァンパイアは、やけに悲しそうに見えた。
「戻ったら大司教に伝えてくれ。愛する者を失う辛さは、人でも魔族でも変わらない、と」
「え…っ?」
「私の言葉が信じられなくても、その想いはお前にも分かるだろう…そして、いつか」
その姿が陽炎のように揺らめいた。
「真実を知る時も来よう…何が正しいのか、分かる時がな」
ヴァンパイアの姿だけではない、部屋全体が所在無く揺れている。足元がぐらつく感覚に立っていられなくなって、シェーンベルグは床に膝をついた。
そして、次に顔を上げた時、彼はもう地下室の中にはいなかった。
雨に濡れた丘の上、ただ草が生えているだけの更地に彼は両膝をついていた。彼の周りには同じように呆然とした顔の聖騎士たちが何人も立ち尽くしていた。
「おい…俺たち」
誰かがぽつりと言った。
「何でこんな所に…?なぁ、館は?」
生ぬるい風が吹く。聖騎士の質問に答える声はなかった。
「どこ行っちまったんだよ!?」
影も形もなかった。
吸血鬼とともに、それは何も残さず消えてしまったのだ。
数日後、リンツの都では、魔物を倒すために犠牲となった尊い殉教者たちの葬儀が盛大に行われた。
だが、棺を見送る列の中に、あの若い騎士の姿はなかった。
真新しい女神の紋章が輝く、空っぽの棺。そこに、彼の兜が載せられていた。
恋人を失ってもなお勇気を捨てず、ヴァンパイアを撃破したものの、彼自身も魔族の毒気に冒されていた。死んでなお彼の体を蝕む邪気ゆえに、彼の亡骸は神殿の地下深くへ封印されたという。
彼の名はシェーンベルグ・ハーモン。最後まで、女神に忠実な聖騎士だったと、伝えられることになるだろう――