紫翼の天使
序章 〜 鉄剣 〜


 街を見下ろす時計塔の屋根の上、一人の青年が静かな微笑をたたえてそこに座っていた。
 「いい風だな」
 誰に言うともなく語りかける。
 「もうすぐ夜が明けるな」
 紺色から淡いブルーへ、東の空が次第に色を変えていく。星が消えていく。
 「いちいち言わなくても分かってるよ」
 返事があった。
 「そういう意味じゃないよ」
 青年が答える。さらににこっと笑って、腰に帯びた鉄剣に片手を添えた。
 「もうすぐなんだよ。お前には感じないか?」
 うっとりとしたように、遥か彼方を見ながら彼は言う。歌うように楽しげに、柔らかい声は語りかける。
 「全てが…始まるぞ」

 彼と彼女が出会ったのは、雨の日のスラム街だった。
 細い葉巻の先に小さな明かりが灯る。紫色の煙がゆったりと漂い、風に流されて消える。葉巻をくわえた唇は艶やかに赤く、すみれ色の目はものうげに伏せられている。
 彼女はもぐりの娼婦だった。盗賊ギルドの認可を受けた娼館に属さず、いつも街頭で客を待っている。言うことを聞かない彼女に業をにやして、ギルドは彼女に賞金をかけた。
 ミュラーもそれを得るため、建物の影からそっと彼女の様子をうかがっていた。
 しとつく雨も全く気にすることなく、女は葉巻を吸っていた。軒下からはみ出た肩が濡れているが、寒そうな素振りも見せない。ゆっくり、ゆったりと葉巻を吸い終え、吸い殻をぽいと捨てると、彼女は立ち上がってミュラーの方を向いた。
 「誰?盗賊ギルドの方かしら」
 彼はびくっと体を震わせた。すっかり気付かれていたとは恥ずかしいばかりだ。ミュラーは素直に姿を見せた。
 「ちょっと違うが、君の首を貰いにきた」
 「あら」
 女は嬉しそうに笑った。
 「正直なのね。はっきり言ってもらえると、こっちとしてもすっきりするわね」
 「それはほめてくれているのか」
 「ええ」
 彼女は楽しそうだった。ミュラーは真直ぐ彼女に近付き、その姿を仔細に検分した。短く切った髪は黒、長身でかなりの美形。もちろん、ぴったりとした服に包まれた体は見事なまでのプロポーションだ。
 「ふふ…わたしの家に来れば、全部見せてあげるわよ」
 「金は持っていないぞ」
 「構わないわよ。わたし、お金を貰わなければならないようなことは何もしないから」
 微笑む彼女に、ミュラーは尋ねた。
 「だが、君は娼婦だろう。金を貰わないと生活できないんじゃないのか」
 すると、彼女は楽しそうに笑い声を上げた。
 「おかしな人ね。これから殺す女の心配をしてどうするの」
 「殺すからこそ、相手のことをきちんと知っておいてやる必要があるだろう。少なくとも、俺はそう思っている」
 彼は答えた。
 ただ悪いからといっただけの理由で人の首に賞金がかけられることは少ない。野望と欲望が絡み合えば、混乱した世の中では何が起こっても不思議はない。よく知り、よく考えて倒さなかったばかりに、後悔したこともあったのだ。
 女は彼の思いを汲んだのか、妖艶な笑みから優しい顔になった。
 「えらいのね、あなたは」
 彼女はそう言って、ミュラーの手を取った。雨に濡れた、冷たい手だった。
 「わたしの家に来る?何か暖かいものでもご馳走するわ。いいでしょ?」
 「そうだな…それじゃ、少しだけ」
 ミュラーも微笑んだ。

 女の家は町の外れにある小さなあばら屋だった。だが、一歩入ると中は小綺麗にしてあって、居心地のいいところだった。女は乾いたタオルを出し、丁寧にミュラーの鎧を拭った。
 「返り討ちにしないと誓うから、鎧を脱いでくつろいだらどう?何だか窮屈そうよ」
 「そうか。それなら、手伝ってくれ」
 板金鎧を外し、鎖帷子を脱ぎ、ミュラーはほっとため息をついた。無骨な鉄剣は再び腰につけたが、それに関して彼女は何も言わなかった。
 「さ、どうぞ」
 大きめのブランデーグラスに、ちょっぴりのブランデー。彼女はまず自分で口をつけてみせてから、ミュラーに手渡した。
 「ありがたい。好きなんだ」
 「良かった」
 ミュラーは一口含んだ。かなり上等な代物であることに気が付いて彼女を見ると、彼女はにっこりとうなずいた。
 「友人から貰ったのよ。おいしいでしょ」
 「こんな上物は初めてだ」
 「まだボトル半分ぐらいあるわ。わたしはあんまり飲まないから、良かったら持っていってもいいけど」
 「いいのか」
 青年は相好を崩した。嬉しそうに酒を舐め始める彼に、女も気を良くしたのか、微笑んで傍らに座った。
 「それにしても、ずいぶん裕福そうな暮らしをしているな。これなら働かなくても食っていけるんじゃないのか?どうして娼婦なんかしている」
 たずねると、彼女の目がすっと細められた。
 「わたしは、復讐のためにここに来たの」
 紫の目が彼を捉えた。
 「憎い男がいるの。愛する人も、仲間も、全てを奪った人間が」
 ミュラーの背筋が凍りついた。憎々しげに虚空をにらむ彼女の目は、それだけで意志の弱い人間を殺してしまいそうな力を持っていた。
 「卑怯なやり方だった。疑うことを知らないあの人の記憶を消したのよ。あいつの言いなりになるあの人に、わたしたちは手を出せなかった…」
 そして、がっくりとうなだれる。
 「わたしたちはバラバラにされたわ。魔力も失って、こんなざまだわ…完全なわたしなら、こんなもんじゃないのに」
 美しく手入れされた爪を見つめながら、彼女はすみれ色の目を細めた。
 「なあ…」
 ミュラーは尋ねた。
 「その相手って誰だ?」
 女は顔を上げて、彼を見た。
 「…そういえば、あなた、賞金稼ぎだったわね。でも、残念だけど、あなたを雇うつもりはないわ」
 「ずいぶんと話が早いな。俺はまだ、お前に協力するとかそんなことは一言も言ってねぇよ」
 「でも、そういう目をしてた」
 形良く紅を引いた唇が、笑顔を形作った。頬杖をつき、少し嬉しそうに彼女は言う。
 「お人良しね。苦労するわよ」
 「そう…かな」
 ミュラーは薄く笑って目をこすった。
 久しぶりに強い酒を飲んだせいか、少し回ってきたのだろうか。いつもより、頭がぼうっとする。
 「あ…ちょっと、トイレ」
 「大丈夫よ」
 立ち上がろうとしても、すでに彼の足は言うことを聞かなくなっていた。
 おかしい…この俺が、こんなに酒に弱いはずは…ない……。
 彼女の冷たい手が頭をなでている。
 もしかして、謀られたのか。そんなことを思う間もなく、ミュラーは眠りの底へ沈んでいった。

 ひどい嵐の夜だ。
 その中を、彼は一人の女性を背負って歩き続けていた。重い病を患っていた彼の母だ。
 これは、記憶だ。
 ミュラーは自分に言い聞かせた。
 そう、俺は今眠っているはずだ。だから…これは、夢だ。
 だが、そう分かっていても、ミュラーは歩き続ける。目指しているのは、一軒の館だった。
 リンツの都でも、一、二を争う豪華な邸宅。そこには、彼の父が住んでいるはずだった。
 加速度的に重くなる手足。母が濡れないように二重にかぶせたマントすらも、逆にミュラーに容赦なくのしかかっていた。それでも、背中で苦しんでいる人を置いて行くわけにはいかない。
 父に会えれば、きっと母の病を治してくれる。この街で一番の神殿に仕えている、司教である父なら。
 ようやくたどり着いた門の前で、彼は呼び鈴を鳴らした。今にも倒れそうになるのを堪えながら、人が出てくるのを待つ。やがて、かなり長い間があって、使用人がやって来た。
 「どちら様ですか?」
 「俺の名前はミュラー…ミュラー・サリットだ。タバサ・サリットの息子といえば分かる、司教に会わせてくれ!」
 「サリット様ですね。そこでお待ちいただくのは大変でしょうから、とりあえずポーチまでおいでください」
 使用人に連れられ、玄関前のポーチに腰をおろした。雨がしのげるだけでも、ミュラーと母にとってはありがたかったのに、さらに別の使用人がやってきて、二人に温かい飲み物を差し出してくれる。
 震える母の口にそれをそっとあてがいながら、ミュラーは女神に感謝した。
 助かる。
 ハーブティの熱さが、父の優しさのように感じた。
 一度も顔を見たことのない父に会える喜びも噛みしめながら、ミュラーは待った。そして、ドアが開いた。
 「申し訳ありません」
 すまなさそうに、使用人が言った。
 「司教様は、お引取り下さいとおっしゃっておられます」
 「そんな!」
 ミュラーは思わず立ち上がった。背が高いので、いきおい、小柄な女性の使用人を見下ろす格好になる。
 「そんなはずはない!だってここは、レッカート司教の屋敷だろう!?」
 「え、ええ、そ、そうですが…」
 「まさか…俺たちのことを忘れてしまったのか」
 冷たい石の床に横たわっている母を振り返ると、彼女はマントにくるまったまま、小さく震えていた。
 彼女はいつも言っていた。
 あなたの父親は、あの大神殿の司教様なのよ、と。
 二人は愛し合い、ミュラーが生まれた。だが、あまり身分の高くなかった彼女との結婚は猛反対され、仕方なく司教は別の、高貴な身分の娘と結婚した。
 だから、母は頑張った。大切な一人息子を育てるために身を粉にして働いて、ついに病で倒れてしまうその日まで。
 町医者はさじを投げた。助かる道はただ一つ、大神殿で癒しの祈りを捧げてもらうだけ。だが、それには高額の寄付が必要だ。慎ましやかな二人暮しをしてきた母子に、払えるような金額ではなかった。
 でも、父なら。司教である、父ならば…!
 そう思ってみても、母にしては、自分を捨てた人に会いに行くのは辛いだろう。では、このまま、母が苦しんで死んでいくのを見ていろとでもいうのか。
 何日も迷って迷って迷いぬいた挙句の果てに、ミュラーはやはり母を連れてくることを選んだ。明日の朝まで持つかどうかも分からなくなり始めた今夜、ようやくここまで来たというのに。
 母の事を知らないとは、一体どういうことか。
 「すみませんが、お引取り下さい」
 「待て!」
 今にも閉められそうな扉に手をかけ、ミュラーは叫んだ。
 「会ってくれないなんて嘘だろう!?父さん、いるんだろう!?」
 「お、おやめ下さい!」
 あわてふためく使用人たち。だが、ミュラーも退くわけにはいかなかった。力任せに扉をこじ開け、玄関に一歩踏み込む。そこに、自分と大して年の変わらない青年がいた。
 「何の騒ぎだ!」
 彼が一喝すると、使用人たちはしゅんとしてうなだれた。
 「すみません、ご主人様。ですが、このお客様が」
 「何だ、こんな時間に客人か?」
 「はい」
 明らかに育ちの良さそうなその青年は、使用人を下がらせて前に進み出た。大柄なミュラーと対峙してもひるむことなく、胸を張って彼を見上げた。
 「君は何者だ?何の用事で、こんなに夜遅くに騒いでいる」
 「お前は誰だ?」
 「先に私の質問に答えるのが筋だと思うが」
 ミュラーが尋ねると、相手はまゆ一つ動かさずに答えた。
 「まあいい。私はこの家の者だ。それで、君は?」
 「司教に急ぎの用事がある。俺の名はミュラー。ミュラー・サリットっていう」
 「…ミュラー・サリット」
 口元に手を当て、青年は考え込むように首を傾げた。
 「どこかで聞いた事のある名前だな。父上の知り合いか?」
 「ああ。タバサ・サリットの息子だ、そう言ってもらえれば分かる!」
 必死の訴えだった。使用人たちの様子から、この青年がこの屋敷ではかなり格上の立場にあることは容易に見てとれた。だから、ミュラーはすがる思いで彼に母の名を告げた。
 「思い出した」
 青年は顔を上げた。
 「罪人の子だったか」
 そのセリフが、ミュラーの動きを止めた。
 罪人…?
 熱くなった頭でその言葉の意味を理解することは出来なかった。
 立ちすくむミュラーをよそに、青年は使用人たちに尋ねた。
 「それで、父上は何と?」
 「お引取り頂く様に、とのことだったんですが…」
 「何故か帰らないという訳か」
 ふぅ、と面倒くさそうに小さく溜息をついて、彼は言った。
 「ミュラーと言ったな。知った以上は問わねばならぬ。今、君の母親はどこにいる?」
 「え…そ、それは」
 何か悪い予感がして、ミュラーは一瞬口ごもった。それを見逃さず、相手は詰め寄る。
 「それは?」
 「すぐそこに…ドアの外に」
 言われて彼は、わずかに開いたドアの隙間からポーチの様子をのぞいた。ミュラーもつられて振り返る。マントにくるまれた母は、当り前だが冷たい石の上に小さくなって横たわっていた。
 「了解した」
 青年はうなずき、使用人の一人を呼びつけた。
 「雨の中悪いが、すぐに神殿に向い、聖騎士を二人寄越すように伝えてくれ。至急で頼む、とな」
 「は、はい!」
 命じられた使用人は、頭を下げるのもそこそこに、転がるように廊下を駆けていった。
 一目で母の状態を把握して、神殿に運んでくれるつもりなのか。
 …いや、それは違う。
 何かしらに例えようのない不安は、ミュラーの中でどんどん膨らんでいた。何か違う。この青年は、自分とは違う状況に立っている。
 「…母さんを、どうするつもりだ?」
 腕を組んで辺りを眺めている青年に、ミュラーは尋ねてみた。すると、彼はきょとんとした表情で聞き返した。
 「神殿に連れて行くのだ。聞いていて分からなかったか?」
 「それは分かるけど…でも、どうして」
 「罪人は裁かれるのが道理。それも分からないようでは、いくら腹違いとはいえ、我が弟として情けない」
 「ちょ…ちょっと待ってくれ」
 分からない事が山のようにある。聞きたいことが多すぎて、何から聞いたらいいのかさえ分からなくなりそうだったが、ミュラーは必死で頭を整理し、口を動かした。
 「罪人って何だ?母さんがいつ、何をしたって?」
 一番分からないことだった。どうして、母が罪に問われなければならない?
 いくら貧しくても、盗みに手を染めたことなど一度もなかった。なのに、何が一体罪だと言うのだ?
 「いくら何でも、光の女神の定めたもうた戒律ぐらいは、知っているな?」
 呆然とうなずくミュラー。法と秩序とを守るため、盗みや殺人などといった、人間が決して犯してはならない罪を定めたものだ。
 だが、思い当たるところは何もない。いつまでも難しい顔をしているミュラーに、青年は言った。
 「姦淫だよ。君の母親は、父上をたぶらかしたではないか。私の母上という婚約者があったのに、父上をだまし、君という子供まで作って」
 「それは違う!」
 思わず、叫んでいた。
 「父さんは、周りの反対があったから母さんと結婚できなかったって」
 「君の母親は、息子に嘘までついていたのか」
 やれやれとでも言いたげに肩をすくめ、彼は続ける。
 「さっき言ったろう。君は私の弟だ。つまり、私の方が早く生まれていたのだ。それがどういうことか、分かるな?」
 「そんな」
 「父上はもう罪を償っている。今度は君の母親の番だ」
 ドアの外で、重々しい金属音がした。白銀の鎧をまとった聖騎士が遠慮なく扉を開け放ち、青年の姿を認めて恭しく敬礼した。
 「お呼びでしょうか、司教閣下」
 「そこにいる女を神殿へ連れて行け」
 青年は言った。
 「女神の法により、裁きを受けねばならん」
 「かしこまりました」
 「待ってくれ!」
 とっさにミュラーは聖騎士たちの前に飛び出していた。
 「母さんは病気なんだ!そんなことをしていたら、死んでしまう!!」
 「それなら、なおのこと」
 あくまでも冷静に、表情を変えないまま、青年は言った。
 「女神の下に召される前に罪を償っておかなければな」
 「な…っ」
 言葉を失うミュラーの眼前で、小さな母の体は軽々と聖騎士に担ぎ上げられた。
 このまま連れて行かれたら、牢獄などに入れられてしまったら、彼女に訪れるのは速やかな死しかない。
 「待てッ!母さんを返せ!」
 ミュラーは鉄剣を抜いた。
 「構わん。早く行け」
 そういう青年の胸ぐらをつかんだ。
 「あいつらを止めさせろ!母さんを殺すつもりか!!」
 「放したまえ」
 少しムッとした顔で、腹違いの兄は言う。だが、そんな訳にはいかないのだ。
 「やめたまえ。それ以上やると」
 「うるさいッ!!」
 ミュラーは相手の目の前に、剣をかざした。
 「言う通りにしないと」
 「もういい」
 上品な手が、胸ぐらをつかむ太い手首に添えられた。
 「君は罪を犯した」
 ぱりっ、と空気が爆ぜる音がした。
 「過ちは償ってもらう。女神の名のもとに」
 次の瞬間、空気が引き裂かれるような音と共に、ミュラーの全身は金色の光に包まれていた。電撃に似た痺れが彼を襲い、容赦なく肉体と思考を麻痺させていく。
 「この者も牢に繋いでおけ!私への暴行は、女神への反逆とみなす」
 そして、二週間の強制労働を終えた彼は、共同墓地で、小さな墓石となってしまった母に誓った。
 復讐を。


続く

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