紫翼の天使
序章 〜 鉄剣 〜


 目を覚ましたミュラーは、自分の後頭部に何か柔らかいものが当たっているのを感じた。
 ゆっくりと確かめるようにまぶたを開くと、見慣れない女性の顔が間近にあった。
 「おっ…」
 一瞬驚いたが、すぐに思い出した。
 そうだった。この女の家に誘われて、たらふく酒を飲んで寝込んだんだったな。
 「いいわ。横になってて」
 彼女の細く、冷たい指先が彼の額をなでた。それがすっ、と下にずれ、今度は彼の目じりをぬぐう。そこは濡れていた。
 「俺…」
 「ごめんなさいね」
 眉を寄せ、まるで自分自身がさっきの夢を見たかのように辛い表情を浮かべて、彼女は何度も彼の頭や額をなでた。後頭部の気持ちいい感触は彼女の膝枕だ。ミュラーは素直にその心地よさに身を任せることにした。
 「泣かせるつもりはなかったの。ただ、ちょっとあなたの事が知りたかっただけ」
 「え?」
 「わたしね」
 くすっ、と悪戯っぽく笑って彼女は言う。
 「あなたの夢、見せてもらっちゃたの」
 ミュラーは馬鹿みたいに口を半開きにしたまま彼女の顔を見上げた。
 「信じられないって顔してるわね」
 「お前、魔術師だったのか?…あんまりそういう風には見えないけど」
 「まあ、似たようなものかしら」
 「じゃ、呪術師か?」
 彼女は笑って答えない。あまり聞かれたくはないことなのだろう。彼もあまりその辺りに関しては、興味も知識もなかった。
 「ま、何だっていいけどよ」
 太ももの感触を楽しみながら、ミュラーは言った。
 「俺の過去の夢なんか見たって面白くもなんともないだろ」
 ちょっと自嘲気味に笑って見せる。
 「逆恨みもいいとこだろ?兄貴の言うことの方がいちいち合ってるんだもんな。それなのに復讐なんて、ちゃんちゃらおかしいよな?」
 「いいえ」
 しかし彼女はきっぱりと否定した。楽しげだった顔が、また少し寂しげに曇った。
 「あなたは間違ってなんかいない」
 ゆっくりと確認するように彼女は言う。
 「わたしと、あなたは同じなの。あの男に愛する人を奪われた」
 「……お前も?」
 ミュラーの目が驚きに見開かれた。彼は体を起こしてベッドの上に座り、改めて彼女を見つめた。
 「お前は」
 「わたしの名前はカトレア」
 赤い唇がにっこりと微笑んで、彼女の正体を告げた。
 「人間じゃないの」
 女はそう言って立ち上がった。
 「わたし、何に見える?」
 「え?」
 ミュラーは間抜けな返事をして彼女を見上げた。恐ろしいほど美しい容姿の持ち主であるが、取り立ててどこかおかしいということもない。彼は答えた。
 「やっぱり、人間の女に見えるが」
 「これでも?」
 広げた両腕の向こうに、突如として漆黒の闇が現われた。デフォルメされた翼のような形をしているが、凹凸のない、ただののっぺりとした黒い空間のようにも見えた。
 「これがわたしの本当の姿」
 カトレアは言った。背中の翼をそのまま小さくしただけのような闇の形が、黒い髪の間から姿を見せていた。
 「魔物…いや、魔族か」
 長い間、賞金稼ぎとして渡り歩いてきたミュラーだ。魔物の格も分からないではない。
 完璧に人の姿を取ることの出来るほどの魔物は特に魔族と呼ばれ、並大抵の人間では太刀打ちの出来ない強大な力を持っている。圧倒的に格の高い連中だが、そうそうお目にかかれるものではなかった。
 「正解。分かってもらえて嬉しいわ」
 だが、それだけのモノが眼前にいるというのに、不思議と全く怖いとは思わなかった。いきなり取って喰われる訳でもないし、艶っぽいながらもどこかにお茶目さを漂わせる彼女の雰囲気のせいだろうか。
 ミュラーは遠慮なく、珍しいモノを鑑賞させてもらうことにした。
 「道理でな、そんじょそこらの女なんて敵わないほどキレイだと思ったよ」
 「ふふ、ありがと」
 カトレアは翼をしまい、また彼の隣に腰を下ろした。
 「怖くない?」
 「膝枕してもらったぐらいだからな。俺を殺すつもりがないのはよく分かってる」
 そう言うと、彼女がぷっと吹き出した。
 「大した自信ね!それだけで?」
 「もう一つ」
 笑う彼女に首を振り、ミュラーは答える。
 「俺とお前は同じ目的を持つ友人だ。大司教を倒す、っていうな。そうだろ?」
 すると、カトレアは目を丸くした。
 だが一瞬の後、驚きに見開かれた目はすぐに伏せられてしまった。形良く整えられた自分の爪に視線を落としながら、彼女は重たげに口を開いた。
 「…倒せないわ」
 「え?」
 「大司教は…あなたの兄は、あなたの…いいえ、わたしたち二人がかりでも、手に負えるような相手じゃないのよ」
 静かな声だった。
 「あなただって、いろんな修羅場をくぐってきたと言いたいんでしょう。でも、あの男は、それ以上に強いの。だって」
 ふと、彼女は言い淀んだ。ぷいと横を向いてしまった彼女の肩に手をかけ、ミュラーは続きを促した。
 「だって、何なんだ?あいつにどんな秘密があるというんだ?まさか」
 思いついたのは、あまりにも恐ろしいことだった。
 「悪魔と契約を」
 「いいえ。そうだったらどれほど簡単だったことか」
 彼女は答えた。
 「天使よ。天使が奴に味方している」
 「天使?」
 問い返したミュラーに、カトレアはうなずいた。
 「見たことないかしら?いつもあいつの側にいる」
 そう聞いて、ミュラーの頭に一人の女性の顔が思い浮かんだ。
 いつだったか、どうしても用があって神殿に出向いた時にちらりと見かけた。栗色の長い髪をした大人しそうな女性だったが、清楚な美しさは一度見れば忘れられないほどのものだった。
 「そういえば、いたな」
 聞いてみれば、兄の婚約者だという。だが、誰も彼女の出身を知る者はいなかった。
 「三年程前に、魔物に囚われていたのを助けてきたとかいう話だけど…まさか」
 「そうよ」
 カトレアはうなずいた。
 「彼女は正真正銘の天使。でも同時に、わたしたちの大切な仲間でもある」
 天使と魔族。
 それは、決して相容れることのないモノたち。
 天使は魔族を狩り、魔族は天使を憎む。存在自体が相反しているのだ。
 「ちょっと待て。それは一体どういう」
 「彼女はね」
 そう言って魔族が浮かべた笑みは、とても優しいものだった。
 「堕ちたの」

 ミュラーが生まれるのよりも遥かな昔、地上に降りて魔族と出会った不運な天使がいた。その名を、サロメという。
 「わたしが言うのも変だと思うかもしれないけど、彼女は本当にいい娘なのよ。わたしたち魔族にまで優しくしてしまって、その罪を問われたの」
 ミュラーはサロメの顔を思い出していた。優しく、気高く、美しい。遠くから一度きり見ただけなのに忘れられないのは、本物の天使だったからなのか。
 「それで、堕天使に」
 「そういう言い方しないで。これでもちょっとは責任感じてるんだから」
 妙に納得したようにうなずく彼に、カトレアは少しすねたような表情を作って見せた。
 「何はともあれ、堕天使は堕天使。魔界の眷属となってしまった事実は変えようがないわ。その彼女に、大司教は惚れてしまったのよ」
 いくら修練を積んだ聖職者でも、恋心ばかりは自分でどうこう出来るものでもない。さらに悪い事に、魔族とはいえ、天使としての清らかさはそのまま持ち続けていたのだ。
 「それで…あの男は、彼女を手に入れようとしたんだな?」
 ミュラーの問いに、魔族はうなずいた。
 「サロメは人を疑わない。魔族だって疑わないのよ、大司教を疑うわけがない。奴の渡した薬を素直に飲んでしまった」
 記憶を失った彼女は仲間の元を去った。そして、大司教は彼女と共に、カトレアたちを襲った。彼らがサロメを取り戻しに来ないように、そして自らの犯した罪をもみ消すために。
 魔族を妻に迎えるために。
 「何も覚えていないから、自分のことを聖職にあった人間だと思い込んでるみたい。能力は天使そのものだから、とんでもなく怖かったわよ」
 「そ…それで?」
 「わたしたちに彼女を傷つけられるはずないじゃない。わたしたちは…負けたわ」
 彼は呆然と口を開けた。
 「あの男はといえば、魔族を倒した功績で教皇の覚えもおめでたくなっちゃって。おかげで今では立派な大司教様だわ」
 「じゃあ、あいつは…教皇も、女神も…何もないじゃないか」
 言うべき言葉も失って、ミュラーはただ、目の前の女の顔ばかり見つめていた。彼女は微笑んではいたが、紫色の瞳はどこか寂しそうだった。
 「落ち着いて、ミュラー。あなたまでそんな顔しなくていいのよ」
 「カトレア」
 青年は大きく息を吐くと、ゆっくりとカトレアの手を握った。白く、柔らかい手はひんやりと冷たかった。
 「お前も大変だったんだな」
 「ふふ…あなたもお人好しね。魔族の言うことを信じるの?」
 試すように彼女が笑う。ミュラーは首を振った。
 「ああ。他の魔物がどうかは知らないが、お前の言うことなら、俺は信じる」
 「そう言って、人間ってのは堕落していくのよ。いいの?」
 「お前のせいなら構わないかも」
 彼も笑った。
 そして、人間と魔族は共に暮らし始めた。

 一緒に暮らしてこそ、分かることもある。
 特にカトレアは魔族だから、普通の人間のようにはいかない。食事は、その典型的な例だった。
 「普段だったら、こんなことしなくてもいいんだけどね」
 悪びれる風もなくそう言って、太陽が完全に沈むと彼女は町へと出て行く。
 サッキュバス。淫魔とも呼ばれる種族の一員であるカトレアは、男を引っ掛け、その精気を吸わなければならない。大司教に、そして何より天使にやられた三年前のダメージは、いまだ彼女を苛み続け、真の姿と能力とを取り戻せないでいた。
 仕方ないのはミュラーも分かっている。エサにされる心配がないと言えばそれまでだ。だが、カトレアが見知らぬ男に抱かれていると思うと何だか落ち着かなかった。
 自分では力になれないのだろうか。
 主人のいないベッドに横になり、じっと天井を見つめる。サッキュバスの魔力で保たれている小部屋の天井は染み一つなく、規則正しい木目が愛想なく並んでいた。
 彼女の仲間たちとやらは、一体いつ来るのだろう。いつまで…こうして、暮らしていられるのだろう。
 一人でじっとしていると、色んなことを考えてしまう。ミュラーは勢いをつけて立ち上がり、壁に立てかけてあった鉄剣を手に取った。
 「うーっ、やめやめ!」
 カトレアが帰ってくるまで、剣でも振って稽古をしていよう。そう思って立ち上がった時、彼は扉の向うで何かカサコソと小さな音がするのに気がついた。
 かすかな音だが、人が何人かいるようだ。それがしばらく続いた後、とんとん、と軽く扉が叩かれた。
 カトレアが帰ってきたのではないのはすぐに分かった。彼女なら足音など立てはしないし、そもそも入ってくる時にドアを開けない。
 「………」
 ミュラーは剣を握ったまま考えた。
 穏やかな生活のせいですっかり忘れていたが、カトレアは賞金首なのだ。次の刺客が来ても何の不思議もなかった。
 だが、今は運良く彼一人しかいない。ここは自分の家だと言ってうまく追い返すことも出来るだろう。彼は口を開いた。
 「誰だ」
 返事はなかった。その代わり、おもむろに扉が蹴破られた。
 「そこにいるのはミュラーだな!」
 「!?」
 入ってきたのは、知らない顔ではなかった。
 「お前ッ…」
 昔一緒に仕事をしたこともある賞金稼ぎの仲間だ。強引なやり方をするのであまり好きな相棒ではなかった。
 「どうしてここに」
 「それはこっちの台詞だ、馬鹿野郎」
 相手は剣を抜いて言い放った。その後ろには、二桁に及ぶ賞金稼ぎがずらりと揃っている。
 「てめぇ、自分の首にも賞金がかかったの知らなかったのか?」
 「何?」
 「へっ、ホントに馬鹿野郎だな」
 鼻で笑って、相手は言った。
 「悪い女に騙されましたってか?ま、俺にとっちゃ、そんなの知ったこっちゃねぇけどよ」
 「そ…そんなんじゃねえよ!」
 ミュラーは思わず立ち上がった。
 はたから見たらそうかも知れない。でも、ちゃんと理由はある。誰にも、言えるはずなどなかったが。
 「カトレアは」
 違う。
 悪い女じゃない。
 だが、反論はかき消された。一斉に賞金稼ぎたちが部屋の中になだれ込んできた。

 母を亡くしてから、ミュラーはずっと賞金稼ぎとして生きてきた。剣の腕は確かだった。どちらかというと、かなり上の部類に入る。
 しかし、それを知っている相手が十分な準備を整えて彼を捕らえに来たのだ。性格すらも把握されてしまっていては、形勢は不利になるばかりだった。
 やがて、疲れてきたところを突き倒され、踏みつけにされて、ミュラーは動きを封じられた。剣も奪われて、そのまま表の道路に引きずり出された。
 「ロープ出して」
 「いや、それは要らん」
 彼を縛ろうとする仲間たちに、あの賞金稼ぎが冷たく告げた。
 「首を落せ」
 「でも、出来れば生きたままでって言われてるじゃないか」
 「もう一人女もいるだろうが。それともう一仕事あるってのに、コイツを生きたまま放っておくとロクなことがない」
 「……くッ」
 ミュラーは地面に顔を押し付けられたまま、奥歯を噛みしめた。
 「逆なら人質って手もあったがな」
 勝ち誇ったように彼の頭を踏みつけ、男は言う。
 「好きな男の死んでるところを見せりゃ、女ってのはガックリきちまうんだよ。さ、やれ」
 だが、さすがにそれは気が引けるのか、他の賞金稼ぎたちは武器を手にしたまま互いの顔を見合わせていた。
 「何だ、腰抜けばっかりか。いい、俺がやる」
 つまらなさそうに言って、彼は剣を抜いた。ミュラーは目を閉じ、最期の瞬間を待った。
 彼女の役に立てなかったのは心残りだが、母の仇ならばきっと彼女が討ってくれる。それなら…。
 その時。
 「あんたたち」
 路地に、低い声が響いた。
 「何やってるの」
 ぱっと聞いただけでは、穏やかに状況を尋ねているだけのように思えるが、ミュラーには分かった。
 カトレアは、相当怒っているようだった。
 「遅いお帰りだったな」
 頭の上で、舌なめずりでもしてるかのようにイヤらしい声がする。それと同時に、金属のひやりとした感触が、ミュラーの首筋に添えられた。
 「大人しくこっちへ来な、お姉ちゃん。こいつに死んで欲しくなかったらな」
 「カ…カトレア」
 わずかにしか首は動かない。だが、それをどうにか動かして、ミュラーは彼女がいる方向を見た。小汚いブーツが並ぶ中、上品なエナメルの靴と白い足首が視界に入った。
 俺のことなんかどうでもいい。お前の好きなようにやってくれれば…そう、言おうとした。
 しかし、彼の口は勝手に動いて、とんでもない事を言っていた。
 「カトレアに手を出すな…あれは、俺の、女だ!」
 「ミュ…」
 一番驚いたのは、カトレア本人のようだった。
 賞金稼ぎたちを押しのけ、白い足がつかつかと近付いてきて、ミュラーの目の前に立った。
 「ミュラー。それ、本気なの?」
 「……ああ」
 勢いで言ってしまったが、本心はその通りだ。彼はさらに頭を動かし、辺りを良く見ようとした。
 「仲がよろしくて大変結構」
 賞金稼ぎが言った。ミュラーの首から剣を離し、彼はカトレアの肩に手をかけた。
 「なに、ちょっとギルドまで一緒に来てくれればいいんだ。イイ子にしてりゃ、死ぬようなことはねぇだろうよ」
 「…そうね」
 汚い埃を払うように、彼女は男の手を払いのけた。
 「でも、もう遅いわよ――あんたたち」
 払いのけられた手は、野菜か何かのようにスパッと切り取られて夜の街路に転がっていった。
 「こ…このアマッ…!?」
 闇に広がるのは闇色の翼。紫色のオーラを身にまとい、彼女は周りを取り囲む男たちをねめつけた。
 「カレに手を出しといて、ただで済むと思わないで」
 「何を…!」
 とっさに掴みかかろうとした男を片手で素早く払う。長く伸びた爪は刃物のように鋭くて、撫でるだけで相手を切り裂いた。かまいたちにも似た斬撃のために、痛みと出血は数秒の間をおいてから訪れる。
 「許さない」
 どこかに感情を置き忘れてきたような無機質な声と共に、カトレアは次の獲物に手を伸ばした。
 「許さないんだから」
 返り血が風に乗る。音もなく、賞金稼ぎたちが倒れていく。
 最初、ミュラーは彼女が怒っているのかと思っていた。だが、彼を押さえつけていた男がいなくなって体を起こすと、そうではないことが分かった。
 月のない夜、わずかな星の明かりと、持ち手を失って路地に転がるカンテラの炎が彼女の顔をうっすらと照らし出す。
 確かに返り血もたくさん浴びていたが、明らかに一筋、目じりから頬へと流れる雫があった。
 「カトレア、お前」
 声をかけると、彼女はぷいと背中を向けた。
 「これで全部」
 折り重なっている死体の真ん中で、彼女は言った。
 「ごめんなさい、遅くなって。怪我は、なかった?」
 「カトレア」
 ミュラーは立ち上がった。むせ返るような血の臭い。その中を一歩進んで、彼は尋ねた。
 いや、尋ねようとした。
 「お前、まさか」
 しかし、彼が全てを口にする前に、細い背中が崩れ落ちるように倒れた。
 「カトレア!」
 駆け寄って抱き起こすと、彼女は息をしていなかった。

 あまりにも軽過ぎる体をベッドに横たえ、彼はカトレアの顔をのぞきこんだ。相変わらず呼吸はしていないが、だからといって元から生きた人間ではないのだから、それは別に構わない。
 ただ、心配なのは彼女の顔色だった。白を通り越してすでに蒼い。よく見ると、かすかにシーツが透けて見えた。
 「カトレア」
 彼を守るために、無理をさせてしまったのだ。毎日の糧では、体調を保つだけで精一杯だったのだろう。急激に力を使い果たして、彼女は消えてしまうのだろうか。
 「カトレア」
 呼びかけても返事はない。ミュラーは少し考え、まぶたを閉じたままの彼女に自分の顔を近づけた。
 そのまま、唇を重ねた。
 その瞬間、頭から彼女の中へと引きずり込まれるような錯覚を覚え、あわてて体を起こす。頑丈さが自慢のミュラーだったが、軽い頭痛とめまいを感じて額を押えた。
 これが淫魔か?キスしただけで、こんなに生命力を持っていかれるものなのか。
 驚きながら彼女を眺めていると、ぴくり、とまぶたが動いた。
 「ん……」
 さすがに効果があったようだ。
 「カトレア」
 呼びかけると、今度はゆっくりと目が開いた。
 「今のは……あなた?」
 「ああ」
 すると、カトレアは嫌そうに眉をしかめた。
 「ダメじゃない、勝手にそんなことしちゃ」
 「でも、そうしないとお前が…消えてしまいそうだったから」
 「魔界へ引き戻されるだけよ。死にはしない」
 そして、またまぶたを閉じた。だが、もう透けて見えることはない。その様子にほっとして、ミュラーは頭を下げた。
 「すまない、俺のせいで。力、だいぶ使っちまったんだろ?」
 「まあね」
 くすっと笑って、彼女は言う。
 「でも、あなたも今の、結構効いちゃったんじゃない?しんどくない?」
 「平気だ」
 「そう…なら、良かった」
 ふう、と短く息を吐き出して、再び呼吸を始める。自分で意識してそうしているのだろう、規則正しいかすかな音を聞きながら、やがて、彼はうつむいたまま尋ねた。
 「お前は嘘をつかない奴だから大丈夫だとは思うが、正直に答えてくれ」
 「…何を?」
 「いいから。約束してくれるよな、俺に嘘はつかないって」
 彼女は顔を動かし、目を開いて彼を見た。下を向いたままのミュラーの表情はうかがい知れない。しばらく見つめてみても、彼はじっと、カトレアの返事を待っているだけだった。
 「…分かったわ。ちゃんと答える」
 カトレアはためらいがちにうなずいた。ミュラーが次に言う言葉は、彼女には何となく分かり始めた。
 「大司教と戦う時、俺は、お前の足手纏いになるな?」
 長い沈黙の後、彼女はうなずく。
 「……ええ」
 ミュラーもうなずき、さらに続ける。
 「いざという時、お前は俺を守ろうとするな?」
 「……ええ」
 「俺は、邪魔だな?」
 「ええ」
 とても小さな声で、彼女は肯定した。それを聞いて、ミュラーは満足そうな笑顔で頭を上げた。
 「ねえ、ミュラー…何を、考えているの」
 「大司教を殺せば、俺は捕まる。死刑は免れない。それならば、惚れた女の役に立つ方がいい。お前が俺のことをどう思っていようと、最初からそのつもりだったんだよ」
 そう言って、彼は遠慮なくベッドの上に乗った。
 「ちょ、ちょっと待って」
 「胸糞悪いが、今頃になってやっぱり俺たちが兄弟だって言うのをつくづく思い知らされてる。惚れちゃいけない相手に惚れるところなんか、そっくりじゃないか」
 ミュラーは笑った。動けない彼女の上にのしかかり、至近距離でカトレアの瞳をじっとのぞいて、そしてふと真剣な表情になった。
 「今のままで、俺は兄貴の前に顔をさらすことは出来ない。同じ罪を犯している男を裁くことは…出来ない」
 「それは違うわ」
 カトレアが弱々しく首を振る。
 「あなたは奴とは違う。それは分かってるでしょ」
 「だが、行き着く先は同じだ。俺が納得出来ないんだよ。だから」
 「ダメ!」
 彼女は叫んだ。だが、今の彼女では、もう自分を押さえつけている男を振り払う事すら出来なかった。
 「それだけは…!」
 布を引き裂く音で、か細い悲鳴はかき消された。
 「カトレア…愛してる」
 欲望を満たすためだけではなく、彼は彼女を抱いた。

 静まり返った部屋の中、彼女はたった一人だった。
 裸のまま、呆然とベッドの上に座り込んでいる。他には、誰もいない。
 「バカな人」
 唯一残った大ぶりの鉄の剣を抱きしめ、悪い子供を叱るような口調でつぶやいた。
 「わたしだって、魔族としてはそんなに年食った方じゃないけど、それにしてもこんなバカな男、初めてよ。自分が死ぬの分かってて、サッキュバスを抱くなんて」
 生命の糧を求めたカトレアは、自らの欲求をコントロール出来ないまま、ミュラーを貪り尽くしてしまった。精気のみならず、血も、肉も、生命も、全て。
 「バカ…ほんと、バカよ、あなたは」
 「そんなにバカバカって言うなよ」
 返事があった。
 「だってバカじゃない」
 唇をとがらせ、彼女は反論した。
 「絶対後悔するわ」
 「しないって」
 ミュラーの声はとても優しかった。
 彼の体はもうどこにもない。だが、意識はあった。最期の瞬間、魂までも全て吸い込んでしまう前に、カトレアはとっさにそれを剣へと封じ込めたのだ。
 とても生きているとは言えないが、ミュラーはそれで納得していた。
 「お前の力になったんだ、絶対後悔なんかしない」
 「いいえ」
 きっぱり言い切って、カトレアは剣を置き立ち上がった。
 「本当のわたしを見てないから、そんなことが言えるのよ」
 そして、両手を広げた。
 足元からするすると絡みつくように影が伸びて、何も着ていない体を覆う。服のように変化したそれをまとい、振り返った時、彼女はもうそこにはいなかった。
 「い…ッ!?」
 「ふふん」
 黒い髪、紫の瞳は変わらない。だが、彼は楽しげな含み笑いで鉄剣を見下ろした。
 「これでも後悔しないか?」
 「お前…ッ、男だったのかッ!?」
 「両性具有ってヤツだ。この方が効率いいからな」
 男の淫魔、インキュバスは笑ってベッドにどかっと腰をおろし、剣を手に取った。
 「ほーら、今、すごく後悔してるだろ」
 「……してない」
 短い沈黙。そして、彼は、とても優しい笑顔を見せた。
 「感謝してるぜ」
 そして、鉄剣となったミュラーを腰につけた。
 「それじゃ、行こうか」
 魂までも重ね合わせた彼らに、それ以上の言葉は必要なかった。ここにいる必要も。
 闇色の翼を広げ、二人はまだ明け切らない空へと舞い上がった。


序章〜鉄剣・終

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