はっとしてまぶたを開いても、まだ夜は明けていなかった。
「…夢」
サロメは半身を起こし、窓の外を見た。紺色の深い空に輝く満点の星。開け放たれた窓から、涼しい風がふわりと入ってくる。
天にある、秩序と光の女神の手により守られている、美しい夜空だ。優しい月の光の下、人々は眠りについているのだろう。
だが、彼女はなんだか眠れなくて、そのままベッドから下りた。白いガウンを肩にかけ、静かに部屋を滑り出た。
神殿の廊下は静まり返っていた。壁にかかった蝋燭の炎も薄く揺らぎ、はるかに高い天井は闇に包まれていた。冷んやりとした石壁を伝う風が心地いい。
そのまま、彼女は歩き始めた。
さっきの夢のせいで、目が冴えてしまった。軽い動悸のせいで頬が火照る。夜はあまり建物の外へ出るなとは言われていたが、彼女は熱くなった頭を冷やすため、そっと中庭へと足を進めた。
彼女がここ、リンツの都で最も大きな神殿で暮らすようになって三年が経つ。だが、彼女の中にある違和感は、いつまでたっても消えることはなかった。
理由は分かっていた。彼女には、ここに来る以前の記憶が、全くないのだ。分かっているのはただ、サロメという名前だけ。何故なら、彼女は囚われの身だったのだから。
――三年前のあの日。大司教マーロー・レッカートは、魔族の巣食う古城に乗り込んで彼らを倒し、生贄として捕らえられていた娘を助け出した。あまりの恐怖に心を閉ざし、記憶を失ってしまった美しい娘。それが彼女なのだ。
思い出さなくてもいい、とマーローは言った。
あそこでの暮らしを思い出せば、彼女はまた辛い思いをする。忘れていられるのならば、そのままの方がいい、と。
サロメは噴水の縁に腰掛け、夜空を見上げた。
来週にはマーローと結婚式を挙げる予定になっている。それには、何の異存もない。
司祭としての地位、優しい婚約者。何も手に入らないもののない。確かに楽しいし、幸せな毎日を送っている。
けれど、失ったものが何なのか知りたい。
本当は、とても大切なものを失くしてしまったのでは?
日増しにつのるその想いは、結婚式を直前に控えた花嫁にはよくある感情なのかもしれない。それでも、彼女は答えを求めずにはいられなかった。
見上げる空がふと、かげった。月が、不気味な血の色に染まっていた。
大司教の私室には、必ずノックをして入らなければならない。そうしなくても許されるのは、婚約者であるサロメともう一人、彼女だけだった。
「マーロー、知ってた?」
無遠慮に彼女は大きくドアを開け放ち、ずかずかと部屋の中央まで歩を進めた。
「何をだ?」
「サロメのこと」
「…それだけじゃ分からないよ、アクエリアス」
「最近、しょっちゅう夜中にウロウロしてることよ」
純白、長い裾の司祭服があまり似合わない、色黒で大柄な女性は、不躾にマーローのテーブルに手をついた。
「昨夜も見たわ。その前も、その前も!ここ一週間はほぼ毎日のようね。深夜に目が覚めてるみたい」
「そういう話をする時は、ドアを閉めてくれって言ってるだろう」
「ああ、そうだったっけ」
まるで気にとめてもなかったといった感じで、彼女はドアを閉めに戻った。どかどかと、ブーツの音がうるさい。
「すっかり忘れてたわ」
あっさり答えて、アクエリアスはマーローの傍らへ戻る。今度は鍵を閉め忘れているが、それはもう置いておく事にして、大司教は口を開いた。
「それで、サロメのことだけど」
「そうなのよ」
彼女は眉間にしわを寄せた。
「最近おかしいわ。さっきも言ったけど、毎晩起きて神殿の中をうろうろしてるのよ」
「寝ぼけてるという訳じゃないのか?」
「昨夜も見たって言ったでしょ。あれはちゃんと起きてる時の顔だったわ」
そして、マーローの背後をすり抜け、窓から中庭を見下ろした。
「あの噴水の縁に座って、じっと空を見てた。まるで、誰かを待ってるみたいに」
「誰かを、待ってる」
大司教はアクエリアスの台詞を繰り返し、立ち上がって彼女の隣に並んだ。
美しく手入れされた中庭には愛らしい花が咲き乱れ、神殿に礼拝する人々が楽しげに行き交っている。噴水の水は陽光を反射してキラキラと輝き、そこには一点のかげりも見られない。だが、青年は顔を曇らせて、じっとその光景を見つめた。
「まさか、記憶が戻ってるんじゃ」
「それはあり得ない」
彼女は首を振る。
「でもね…無意識のうちに、そういう行動を取ってるって可能性はあるかもしれない。まだ――呪縛は解けてないから」
サロメを捕らえていた魔族は、そんじょそこらで冒険者に駆除されているような低級の魔物ではない。魔界の中でも頂点に位置する邪悪な者たちばかりだ。
「やっぱり、あの魔族たちを倒さないとダメなのか?」
「そうよ」
アクエリアスは振り返る。夕焼けのような朱い髪、朱い瞳がじっと大司教を見つめた。その視線は揺ぎ無く、まっすぐに彼を射抜いた。
「それが天の定め。例外は許されない。彼女自身が自らの手で汚れを払わない限り、真に光の下へ戻ることは出来ない」
そして彼女は微笑んだ。自信に満ちた笑顔はとても誇らしげに天を仰いだ。
「大丈夫。私は、そのために来たんだから。必ずやり遂げて見せるわ」
まだわずかに不安げな面持ちを残していたマーローも、その顔を見て自信を取り戻す。
優しい笑顔で誰の心でも包み込んでしまうサロメ。それとはまた違う、まぶしい光のような爽快感がアクエリアスにはある。彼女たちが来てくれてから、そう、全てが上手く運んでいる。
「頼むよ、アクエリアス」
「ええ、いくらでも頼まれてあげるわ」
それじゃ、と言いたげにきびすを返して、それから彼女はまた、くるりと勢いよく振り返った。
「それでね、さらに続きがあるんだけど」
「…な、何だい?」
「邪悪な気配を感じるの」
アクエリアスの話は単刀直入すぎて、唐突だ。怪訝な顔をしてしまったマーローに、彼女は付け加えるように応えた。
「そう、あの魔族たちの気配。近くに来てる、そんな気がする」
「何だって?」
「これはチャンスだと思うわ」
にっこり笑って人差し指を立てて、彼女は笑う。
「だってそう思わない?あなたたちの結婚式まであと一週間。その間にうまく連中を倒せれば、何も心配することなく、幸せになれるわ」
彼は、じっと彼女の顔を見つめた。口元は笑っている。あくまでも軽い口調だが、目は決して笑ってはいなかった。
言うのはたやすいが、簡単なことではない。言葉のもつ意味に、大司教は黙ってうなずいた。
「もしかしたら、サロメも彼らの気配を感じて夜に出歩いてるのかもしれないわ。彼女から、絶対に目を離さないで」
「分かってる」
愛する人を、再び闇の底へ連れ去られるわけにはいかないのだ。
サロメを見た瞬間に一目で恋に落ちたマーローと、彼女を救うために遠い処からここを訪れた幼馴染のアクエリアス。
同じ目的の二人は、ひと時、真剣な眼差しを交わした。
「それじゃ、私はこれで」
そして、彼女はぱっと片手を上げた。長い服の裾を無造作にむんずとつかむと、そのまままたブーツを鳴らしながら部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送った後、開きっ放しになったドアを閉める為に大司教はゆっくりと歩き出す。
「それにしても、もう少しだけ、おしとやかにはいかないものかな」
いや。女神の法を守るために、戦士として修練を積んでいるのだから致し方ないか。
小さく苦笑して、彼は扉を閉めた。
「へっくし!!」
天井の高い神殿の廊下に、豪快なくしゃみが響き渡った。
「うー、誰かが私の噂をしてるな」
鼻の下をこすりながら、アクエリアスは早足で石床を踏みしめていく。
「おはようございます、アクエリアス様」
「おはようございます」
「おうっ、みんな、おはよう」
一時も立ち止まることなく歩いて行く彼女に、女性たちが声をかける。司祭や侍女、下女たちはみんな立ち止まり、スカートの裾をつまんで丁寧に礼をするのだが、アクエリアスはそんな事はちっとも気に止めていなかった。
「お前たち、サロメを見なかったか?」
「高司祭様なら」
一人の女性が上品な仕草で礼拝堂の方向を示した。
「お掃除をなさるとかで、礼拝堂の方へ」
「掃除ぃ?」
「はい。私達が致しますから、と申し上げたのですけど」
下女たちが恐縮する。
「今日はお掃除をなさりたいご気分とかで」
「…そう。ありがとう」
言うが早いか、アクエリアスは駆け出した。
掃除なんて、どうしてまたそんな事を。
彼女には理解できない行動だ。サロメはこの神殿でも大司教に次ぐ高い地位についている。掃除などする必要はまったくないのだ。
「サロメ!」
朝の礼拝もとっくに終わって閑散としたホールのドアを開け放ち、アクエリアスは大声で叫んだ。
「サロメ!いるんでしょ!?」
「アクエリアス?」
小さな声がして、椅子の間から立ち上がる小柄な姿。長い栗色の髪をかきあげて、高司祭はにっこり微笑んだ。
「どうしたの?何か、用事かしら」
「違うわよ」
ブーツの音を荒げ、アクエリアスは通路をまっすぐに彼女の方へ向った。近くまで行ってよく見ると、純白のサロメの服は、あちこちに埃がついて黒く汚れてしまっていた。
「どうしてあなたが掃除なんかしてるの?」
「だって、もうすぐ一般の人の参拝時間が始まってしまうもの」
「そういう意味じゃないわ。他の人にやらせればいいでしょ?ホラ、こんなに汚れて」
背の高い彼女はぐいとサロメの腕をつかんで引き寄せた。背中、肩、腰、そして司祭服の裾、と手際よくはたいてやる。そして、白く細い指で握りしめていた雑巾を取り上げて、椅子の背に引っ掛けた。
「まだ途中なのに」
「掃除は下女の仕事よ。あなたがやる事じゃない」
「でも…みんな、他にもいっぱい仕事あるから」
「だからって、あなたがしなくても」
少しきつい口調になってしまったかもしれない。しゅん、とうなだれた友人を見てアクエリアスははっとなり、息を飲んだ。
「ごめん、サロメ。私、別に怒ってる訳じゃ」
「いいえ…わたしの方こそ」
サロメはうつむいて、左右に首を振った。
「部屋でじっとしてると、何だか不安だったの…」
「不安?」
「わたし、このままでいいのかしら?このまま、大司教様と結婚して…それでいいのかしら?」
髪の毛と同じ、明るい茶色の瞳がアクエリアスを見上げた。細い肩に両手を置き、彼女はゆっくりと尋ねる。
「あなたは、マーローが嫌い?」
「…いいえ」
「彼はあなたをこれ以上ないって愛してる。きっと幸せにしてくれるわ。それでも、不安?」
すると、サロメはまた首を振ってうつむいた。
「違うの…そうじゃないの。ただ、何ていうか…本当に、わたしでいいのかしら、と思って」
ぽつり、ぽつりと彼女は言葉を絞り出す。
「過去のこと、何も分からないのに。アクエリアスの事だって、全然覚えてないのに」
「昔のことはいいのよ」
アクエリアスは両手を広げた。そのまま、しっかりと胸の中にサロメを抱きしめた。
胸の中にある温かい感触は、アクエリアスに安心感を与えた。
「あなたの事は全部私が知ってるんだから構わない。あなたは、自分が幸せになることを考えなさい」
心配いらない。やっぱり、ただのマリッジ・ブルーだったわ。
柔らかい髪の毛をなでて、彼女は微笑む。
「それにわたしは、あなたがこうして戻ってきてくれただけで嬉しいんだから…何も考えなくてもいいのよ」
「アクエリアス」
サロメはおずおずと手を伸ばし、アクエリアスの背中に手を回した。ぎゅっとしがみつくと、アクエリアスの胸元がじんわりと濡れてくる。
「ありがとう」
そして、しばらくの間、サロメは泣いた。
ステンドグラスから差し込む七色の光が、優しく二人を包み込んでいた。
「悪いな、こき使って」
「いいえ…」
低い声に答えるか細い声。
薄汚い古宿の一室には、一本の蝋燭が灯されていた。明かりはたったそれだけ。息が詰まるほどの暗闇に、二人はいた。
「これも…あの人のためですから」
黒髪の少女は、痛む頭を押えながら、一生懸命何かを思い出そうとしていた。少しずつ、わずかずつだが戻って来る記憶を頼りに、紙の上にペンを走らせていく。
「無理はするな」
「いいえ…これぐらい、大丈夫ですから」
出来てきたのは、ある建物の見取り図だった。広々とした前庭、大きな建物。噴水のある中庭をぐるりと回廊が取り囲み、最奥にはゆったりとしたつくりの礼拝堂がある。回廊を外れた裏庭辺りには、使用人や住み込みの者たちの宿舎がいくつか並んでいた。
「この回廊の左翼と右翼は三階建てになっていて」
と、少女は指をさす。
「位の高い方たちは、ここに私室をお持ちです。それからここが厨房」
緑色の目を少し辛そうにしばたたかせるのを見て、男はその手を止めた。
「もういい。少し休め」
「でも」
弱々しい声に首を振る。冷たい輝きをおびた金髪が、さらさらと揺れた。
「休め」
あくまでも冷静に言い放って、彼は感情の見られない顔をさらに硬くした。
「エリス」
「はい?」
「…すまない」
赤い瞳を細め、男は詫びた。エリスが見上げると、彼は困ったように唇の端を曲げ、悲しげに彼女を見下ろしていた。
「ドレイン様」
少女は男の手を取った。お互いのその手は、氷のように白くて冷たい。それもそのはず、二人に生はないのだから。
ヴァンパイア、ドレイン・キルマーノックは、事切れてしまったエリスを甦らせた。ただし、自分の下僕である、下級ヴァンパイアとして、だ。この世のいかなる理をもってしても、一度死んでしまった者を全く元通りに生き返らせることは出来ないのだ。
低級な、それも人の血をすすって意味のない徘徊を続ける魔獣として蘇ったエリスは、それでも自らの置かれた状況を嘆いたりしてはいなかった。
「いいんです。わたしの方こそ、わがままを言ってるんだから…仕方ないんです」
人間としてごく普通の生活を送っていた彼女に、人間の血を吸うことは出来なかった。忌まわしい行動を拒否する事で、その代わりに絶え間ない飢えと乾きに苦しめられ続けている。
そんなエリスに、ドレインは何度も謝罪の言葉を口にした。
「すまない」
「いいえ」
ヴァンパイアを憎み、また恐れる気持ちがないとは言い切れない。だが、それでも彼女はまた苦痛をおして、地図の方に向き直った。
「また思い出してきました。続けましょう、早く」
震える手でペンを取り、引きずるような字を書き綴る。倉庫、厩、書庫、地下牢、そして、大司教の私室、高司祭の私室。
少し線はぶれているが、それは間違いなく大神殿の見取り図だった。長い間いたわけではなかったが、エリスは中の様子をよく覚えていた。
「サロメ様のお部屋はここだったはずです。隣だったかもしれませんけど」
言われるまま、ドレインは地図をなぞる。外見から想像される通りの内容だ。だが、二人が探しているもう一つの場所がない。
「地下牢はこれだけか?」
「ええ…確か」
「おかしい」
ヴァンパイアはあごに手を当て考え込んだ。
「この造りでは、人間一人を誰の目にも留まらぬように幽閉しておくことは不可能だ」
「そうです…ね」
エリスも首をひねる。聖騎士の宿舎の地下に作られた狭いスペースは、誰でも簡単にのぞきに行くことが出来る。ここに、彼はいない。
ぽつり、と水滴が落ちて、書いたばかりの線がにじんだ。
「エリス」
「ドレイン様…わたし、もうだめです」
驚いたようにそれを手でこすり、彼女はドレインを見上げた。赤く染まってしまった瞳が、不安げに涙で濡れていた。
「やっぱり…もう、あの人は、生きていないのでは」
「大丈夫だ」
首を振るドレイン。
「必ず助け出す。サロメも、シェーンベルグも」
「…は…い……」
かすかに微笑み、エリスは机に突っ伏す。気を失ってしまったのか、そのままぴくりとも動かなくなってしまった。
柔らかい黒髪をそっとなでても、反応する様子がない。小さな唇に触れ、それから主人は下僕を横抱きに抱え上げた。
「不本意だとは思うが、少し食事をしてもらおう」
人間として、最後の誇りを保っておきたいという彼女の気持ちも分かるが、残念ながら、心というものはそんなに強いものではない。このまま我慢を続ければ、いつか襲い来る衝動に負けてしまう時が来る。欲望のままに他人を貪る快楽に捕らえられてしまう時が来てしまうのだ。
ドレインは、軽い体を抱いたまま、静かに扉を開いた。そして、薄暗い廊下に誰かが立っているのに気が付いた。
「久しぶり」
「…お前は」
見たことのない子供だった。上等そうな衣服に無邪気な笑顔を包んで、男の子はにっこりとヴァンパイアを見上げる。だが、小さなその手に握られた、彼の身長をはるかに超える杖は、とてもよく見慣れたものだった。
わずかに、ドレインの目が見開かれた。
「オズボーンか」
名前を呼ぶと、少し誇らしげに胸を張って、少年は微笑んだ。
「ずいぶん育っているな。いつの間に成長した」
「借り物だ」
「…そうか」
会うのはほぼ三年ぶりだった。彼らが生きてきた長さからすれば、三年などほんのわずかの間にしか過ぎないはずだったが、とても長かった。経験した事がないほどに長い、空白の日々。その間に何があったのか、語るのは容易ではないだろう。
本来なら三歳程度の姿になるはずのオズボーン。ぴくりとも動かない下僕を抱いたドレイン。
二人はお互いの姿をつくづくと眺め、それを了解した。ドレインは肩越しに出てきたばかりの扉を指し示して告げた。
「そこの部屋を借りている。好きに使うといい」
「分かった」
彼らは音もなく廊下をすれ違う。そして、ふと何かを思い出したかのようにほとんど同時に振り返り、同じ言葉を口にした。
「他の者は」
「他のみんなは」
そうか――まだ、出会えていないのか。
答えを見出した二人は、また互いに背を向けた。