私慾の天使


 頭が痛くなるほどに真っ青な、よく晴れた空。
 目立たない砂色のマントを着込んだ女は、市場の隅に置いてあった木箱の上に座り、片膝と剣とを抱えてずっと往来を眺めていた。
 ここ、リンツの都は、聖なる女神の大神殿があるために、この地方では二番目に人が多い。神殿と、この時計台がある役所とを結ぶ大通りには今日も何台もの馬車が行き交い、飽きるほど多くの人々が忙しそうに動き回っている。そこから縦横に伸びる道もにぎやかだ。その中でも特に人通りの多い市場通りで、彼女は人を待っていた。
 だが、いくら待っても、待ち人が現れる気配はなかった。
 一人憂鬱な彼女を置いてきぼりに、行き交う人々は楽しげに話をする。
 それは、街の人々の間では、いつになるのだろうと噂されていた事だった。若くて有能な大司教、マーロー・レッカートと、天使のように美しく優しい高司祭、サロメ・バンベルグとの結婚式。
 それが今朝突然、来週に執り行われると発表されたのだった。
 「どうして…!」
 黒塗りの剣の柄を握り締め、彼女は忌々しげにつぶやく。焦る気持ちが目を曇らせるのか、半日ここから往来を眺めていても、仲間たちの顔は一行に見えない。力強い魔力の香りは、確かにこの街のあちこちから漂ってくるというのに。
 ああ…どうして。
 知らず知らずのうちに、両の手に力がこもる。すると、ふいに、彼女の手元から低い声が上がった。
 「…痛い」
 「…ああ、すまない」
 相棒の声に、彼女は嘆息した。
 鉄剣ミュラーは、人間の魂を封じ込めた魔剣である。ただ、その魂は半分以上喰らい尽くされ、不完全なものとなってしまったために、一日の大半を眠って過ごしていた。普段は爪をたてた程度では起きないのだが、今日は何故か目を覚まし、のんびりとした様子で声をかけた。
 「どうした?イラついてるな」
 「まぁね」
 「お前らしくもない。爪、噛むなよ」
 言われて、彼女はあわてて自分の手を見た。いつの間にやってしまったのか、美しく整えられた中指の爪の先が少しギザギザになっていた。
 「む…」
 不満そうな声をもらし、彼女はわずかに魔力を使う。瞳と同じ、鮮やかな紫色に染めた爪が再びその形を取り戻す。そうして治したばかりの爪をまた口元に持っていきながら、彼女は目を伏せた。
 「だって…大司教が」
 「いよいよ結婚か?」
 カトレアが黙ってうなずくと、ミュラーは少し考えをめぐらせて答えた。
 「とうとう彼女も腹を決めたって事か?記憶は?」
 「戻ってる訳ないじゃない。記憶が戻ってたら、いつまでもあんな所にいないわ」
 「それじゃ、あの状態のままでもいいと納得したって事に」
 「…なるわね」
 そうなれば、彼女を取り戻す事は格段に困難になる。
 三年という短い、だが、人間にとっては十分に長い年月の間に、彼女が自らの意思で過去を思い出す事を放棄してしまったのならば。現在ある状況に納得し、あまつさえ満足してしまったのならば。
 「みんな…どこにいるのよ」
 ミュラーを抱いて、彼女はつぶやいた。
 その時、市場の中央でわあっ、と声があがった。
 ヒヒーン、と馬のいななきが響き渡る。高い蹄の音、物が壊れる音、子供の悲鳴。
 「何の騒ぎだ?」
 「たぶん、暴れ馬ね」
 カトレアはミュラーを片手に立ち上がった。
 ここはそう広い市場ではない。露店の角を曲がると、すぐに現場が見えた。案の定、一頭の大きな馬が手綱を引きちぎり、手がつけられないほどに跳ね回っていた。
 その足元に、子供が一人。逃げ遅れて転んだのか、丸くなって頭を抱えていた。
 「まずい…!」
 彼女は舌打ちをした。このままでは、あの子が踏みつけられてしまうのも時間の問題だった。重い蹄が頭にでも直撃すれば、確実に助からない。
 「闇よ」
 とっさにカトレアは魔法を唱えるべく左手を差し伸べた。
 「待て」
 が、その彼女を乱暴にぐいと引き、誰かが前に立ちはだかる。
 「コレ持っててくれ」
 背の高い銀髪の男は、言うが早いか何やら巨大な荷物を彼女に押し付けた。思った以上の重さと大きさに、一瞬よろけるカトレア。
 「ちょっとあなたッ…!」
 言いかけて、ふと気付く。
 愛想のない男だが、その背中は懐かしい。
 彼はちぎれた手綱をつかんで力任せに引き、馬の首に太い腕を回した。
 「どう、どうっ!」
 片腕で首を捕まえたまま、左手でがっちりとくつわを掴む。なだめているのか、無理矢理押さえつけているのかはよく分からないが、ついに馬は力負けして頭を垂れた。持て余すように蹄を打ち鳴らしていた足の動きも、二度三度と大きく踏みしめてから止まった。
 「ブルルルゥ…」
 「よーし、いい子だ。もう暴れんなよ」
 かなわないと悟ったのか、馬は完全に大人しくなった。その頭をなでながら、男が振り向いた。
 「よぅ。久しぶりだな」
 「ガイラー」
 彼女は、待ち望んでいた友人の名を呼んだ。
 だが、その顔は、あまり嬉しそうではなかった。
 「ねぇ…この荷物は、まさか」
 隙間もないほどにぴったりと、幾重にも布でくるまれた彼の荷物は、ちょうど小柄な人間ほどの大きさと形、そして重さがあった。封印すらも施してあるが、魔族ならばすぐに分かる。
 死の匂いが漏れてくる。
 「ああ、そうだ」
 ガイラーはうなずいた。馬から離れ、彼は手を差し伸べる。あまり丁寧とはいえないが、愛しいものを見るような優しい瞳で荷物を受け取り、横抱きにする。人の形をした荷物は、甘えてもたれるかかるように、ガイラーの胸に頭を寄せた。
 主人に忠実な、健気で一途なメイドのことは、カトレアもよく知っていた。
 「そんな…」
 「そういうお前だって、それ」
 苦笑まじりに彼が鉄剣を示す。
 「お互い、話すと長くなりそうね」
 二人は、複雑な微笑を交わした。

 金髪の少年は、窓を大きく開けてその様子をずっと眺めていた。
 「相変わらずだな」
 あまりにも真っ暗で退屈な部屋だったのでカーテンを開けてみると、階下に見える市場が何やら騒がしい。覗いてみると、暴れ馬と戯れている友がいた、という寸法だった。
 「…落ち着いたか」
 オズボーンは窓枠に肘を突き、楽しげに微笑んだ。
 「良かったな。誰も怪我はないようだ…馬も、な」
 「俺のせいじゃねーよ」
 少年の傍らで声がする。窓枠の外には一匹の赤い蠍が貼りついていた。
 「カトレアが何だかボーッとしてたから、ちょっと驚かしてやろうと思ってたんだよ」
 「まったく」
 彼が小さくため息をつくと、蠍はするすると部屋の中に入ってきた。そのままぽとりと床に落ち、次の瞬間には赤毛の少年に変わった。
 「二人に後できちんと謝っておくのだぞ?」
 「…分かったよぅ」
 キューブはしゅんと肩を落とした。そのまま、すねたように床にあぐらをかいた。
 見た目の年齢はほとんど変わらないが、精神的には圧倒的にオズボーンの方が上だ。子供の姿をした老人は、ちらりと幼い魔族を振り返る。まだしょげているかと思えば、もうけろっとした顔で部屋の中を見回していた。
 「ところでここは?」
 「ドレインの部屋だ。ほら、来た」
 オズボーンの声でキューブが窓に駆け寄る。下の市場に、黒づくめの男が現れて、そこにいた二人と出会う。そして、子供たちを見上げた。
 「みんな、そこにいたの?」
 カトレアが目を丸くした。
 「なーんだ、意外と近くにいたのね。近過ぎて、逆に分からなかったわ」
 「こちらもだ」
 ドレインがつぶやくように答える。
 「お前は格好が地味すぎるんだよ。らしくねぇ」
 「好きでこんな服着てるんじゃないわ」
 笑うガイラーに彼女が怒ってみせた。吸血鬼がそれを見てふっと笑う。
 「…戻ったな」
 あまりにも長かった三年間。やっと出会えた仲間。
 だが、と彼は宿屋の窓を見上げた。
 同じ疑問を、他の友も感じていたようだった。
 …あと一人。ラファエルは、どこに。

 夜が来る。
 不安に胸を締め付けられて、結婚間近の花嫁は今夜も目を覚ました。
 隣のベッドに横たわっている友人は安らかな寝息を立てていた。不安がる彼女のためにとわざわざベッドを運び入れて一緒に夜を過ごす事にしてくれたのに、やはりサロメは闇の中、まぶたを開いてしまった。
 「…アクエリアス?」
 小さな声で名前を呼んでも、反応はない。規則正しい寝息だけがサロメに応えた。
 窓から見える満月は今夜も赤く染まり、灰色に濁った雲をまとっている。柔らかく吹き込む風に誘われるように、彼女はまたベッドを降りる。そして、足音を忍ばせ、そっと部屋を滑り出た。
 アクエリアスに、そして婚約者であるマーローにきつく言われているにも関わらず、サロメは中庭へ向った。二人の心配を無下にしているのは分かっているけれど、それでも何故かそこに何かあるような気がして足を向けてしまうのだ。
 ゆっくりと扉を押し開き、夜露で少し濡れた草の上に立つ。そして、気がついた。
 誰かいる。
 見上げると、その人は月の光を背中に浴びて、回廊の屋根の上に立っていた。
 「だ…誰…?」
 返事はない。
 だが、腰まで届く長い髪と、彼女をじっと見つめる瞳の色は、暗い中でも何故かはっきりと見えた。
 目の覚めるような鮮やかな青い色。魅入られたようにそれを見ているうちに、ふと月がかげった。逆光になって見えなかった彼の顔が、ようやくサロメにも確認できた。
 彼はゆっくりと瞬きをしながら、表情もなくサロメを見つめ続けていた。
 知らない顔だったが、不思議と怖さは感じなかった。それよりも懐かしい感じさえして、彼女は緊張の糸をゆるめた。
 「あなたは…一体、誰?」
 小さな声でサロメは尋ねた。
 「こんな夜中に、どうして…」
 「お前を」
 彼の口元がかすかに微笑んだように見えた。
 「迎えに来た」
 「わたしを…?」
 「帰ろう、サロメ」
 青年は右手をすっと差し伸べた。
 「俺と一緒に、皆のところへ戻ろう…さあ、おいで」
 おいでと言われても、そこは屋根の上だ。届くわけがない。
 しかし、彼は自信に満ちた様子で手を差し出したまま動かなかった。
 見下ろしている格好にはなっているが、けして傲慢な姿勢ではなく、ただひたすらに彼女が来るのを待っている。じっと、信じているかのように。
 もしかしたら、この手を伸ばせば、届くのかもしれない。
 そんな気がして、サロメは、一歩前に進み出た。
 「そう…」
 今度は、ちゃんと彼が微笑んだのが分かった。サロメはいったん自分の右手を見つめ、それからためらいながら、また屋根の上を見上げた。
 「そこまでだ!」
 突然、静まり返った中庭に、凛とした声が響いた。
 思ってもいなかった出来事に、サロメは見て分かるほどに大きく肩を震わせた。上げかけた手をぎゅっと握り締め、あわてて背後を振り返る。
 回廊へと通じるドアのところに、婚約者が立っていた。
 それと同時に、にわかに辺り一面が明るくなった。見れば、かなりの数の聖騎士たちが、中庭のあちこちで魔法の火を灯していた。
 いつの間に、とサロメが驚いている暇はなかった。
 「立ち去れ!」
 大司教は大きく右手を振る。指差す先は、屋根の上に立つ青年。
 「邪悪なる者よ…貴様には」
 普段はあまり感情を表に出さない彼だが、今夜は違っていた。
 「サロメは、絶対に渡さん!!」
 怒りもあらわにそう叫び、聖騎士たちに命令を下す。
 「逃がすな、追うんだ!」
 「…くッ」
 青年がわずかに眉を寄せた。だが、再び雲が晴れ、満月を背負った彼の顔は見えなくなった。そのまま、くるりと背を向け、ひらりと跳んだ。
 「あ」
 思わず、サロメは声を上げてしまった。
 その彼女に歩み寄り、マーローは恋人の腕をつかんだ。
 「駄目じゃないか」
 「…あ」
 彼女は振り返り、そしてまた小さく声を漏らす。優しい恋人は、怒っているように見えた。それもそうだ、今日の昼間に、夜は外へ出ないと約束したばかりだったのに。
 「わ、わたし…」
 言葉を失い口ごもるサロメに、マーローはいつものような笑顔をくれなかった。怒りと不安とをない交ぜにしたような表情のまま、彼は腕を引き寄せ、肩を抱いた。
 「さあ、戻ろう」
 「……」
 うなだれるサロメ。そのまま、彼女は大人しく大司教に従い、回廊へと足を進めた。だが、最後にふと振り返り、少し前まで侵入者が立っていた屋根の上を見上げた。
 あの青年を追っていったためか、もう既に中庭はひっそりと静まり返っている。
 それなのに、まだ彼がそこにいるような気がしていた。

 「…アクエリアス」
 マーローに抱かれるようにして戻った自分の部屋で、サロメは友人がとんでもないしかめ面をしているのに出くわす事になった。
 「サロメ」
 大柄な神官戦士は腕組みをし、高司祭を見下ろして小さなため息をついた。
 「私が気付いてないと思った?」
 サロメがふらふらと出て行くのに気がついて窓から外を見たら、屋根の上に怪しい男が立っていた。すぐに大司教に連絡し、聖騎士を手配したのはアクエリアスだった。
 「……ごめんなさい」
 彼女にはもう頭を下げる事しか出来ない。しゅんとうなだれるサロメに、アクエリアスは静かに尋ねた。
 「ねぇ…もしかしてあなた、あの男の事を覚えているの?」
 「え?」
 まったく予想していなかった質問に、思わず彼女は顔を上げて聞き返した。
 「わたしが、あの人を?」
 「そう」
 神妙な面持ちでうなずいて、アクエリアスとマーローはじっと彼女を見つめ返した。
 しばらく考えて、サロメはゆっくり首を横に振る。短い記憶の糸はたやすくたどる事が出来るが、名前さえ分からない。だが、端正な顔立ちは、間近で見たわけでもないのに妙にはっきりと覚えていた。
 「あの男はね」
 黙ってしまったサロメに対し、アクエリアスが口を開く。とっさにマーローがそれを止めようとした。
 「その話は…まだ」
 「いい機会だから、話しておきましょうよ」
 赤い髪の毛をかき上げて、彼女は言った。
 「サロメだって知りたがっているわ。自分がどうして記憶を失うような事になってしまったのか――それが分からないから、夜な夜な星空を見上げなきゃならないほどの不安に怯えているんでしょう?」
 「それは、そうだが」
 「大丈夫。私に任せて」
 大司教はあまり乗り気ではないようだが、神官戦士はふと表情をゆるめ、優しい笑みを見せた。
 「それに、あの男がここまで来てしまったんだから、やっぱりサロメにも事実を知っておいてもらわなくちゃね」
 「…分かった」
 アクエリアスの言葉にマーローはうなずく。それに微笑みを返して、彼女は話し始めた。
 三年前に、サロメに降りかかった災いの全てを。


続く

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