私慾の天使


 人里離れた、鬱蒼と茂る森の奥に、打ち捨てられた屋敷があった。
 屋敷、というには頑強な造りで、小さな城と呼んでも差し支えなさそうなその建物は、いつの間に魔族の棲み家となってしまっていた。そこに、運悪く捕らえられてしまった娘が一人。
 明るい栗色の髪に、同じ色の目をした美しい娘の名は、サロメという。いつ頃からそんな所にいるようになったかは分からない。だが、自ら望んでそのような場所に行く人間はいない。その美貌ゆえ目をつけられ、捕らえられてしまったのだろう。
 彼女は、魔族たちに仕え、働かされていた。一体どのような酷い仕打ちを受けていたのかまでは定かではないが、ある日、サロメは人間の暮らす町まで買い物に出かけた。
 そして、マーローと出会った。
 彼は、サロメの清楚な美しさに心を惹かれて声をかけた。上品そうなたたずまいから自分と同じ聖職者だと勘違いし、その町にある神殿への道を尋ねたのだ。
 答えはノーだったが、これこそまさに、女神の導きというより他にないだろう。
 マーローは彼女の様子が普通ではない事にすぐに気がついた。そのままそそくさと、まるで逃げるように人間の町を後にしたサロメの後を追い、彼は、真実を知った。
 まだ司祭の位にしかなかった彼に、聖騎士団を動かす権限はない。だから彼は、わずかながら集まってくれた友人たちを伴い、少人数で館を急襲した。
 死にに行くようなものだったのかも知れない。今思えば、無謀な挑戦だった。だが、天は、正義を貫こうとする彼を見捨てなかった。
 祈りを捧げると、若き司祭の掌の中に、忽然と白金の指輪があらわれた。これを助け出したサロメの指にはめると、彼女はたちまち強力な神聖魔法の使い手となったのだった。
 天使もかくや、というほどの力に、魔族たちは逃げ出すより他なかった。何匹かは倒したし、封印出来た魔族もいた。
 完全な勝利に、サロメという戦利品を得て、マーローは凱旋したのだった。
 「その指輪には、女神の加護が備わっているんだ」
 マーローは、サロメの左手を取り、微笑んで言った。女神から与えられた指輪はそのまま彼女への婚約指輪となって、今もまだ薬指にはめられたままだ。
 サロメは複雑な表情をして、プラチナの輝きを見つめた。
 そこまで詳しい話は知らなかった。だが、それにしても、やはり腑に落ちない事がある。
 自分の力で魔族と戦ったのに、何故、その記憶さえもないのだろう?
 疑問を口にすると、アクエリアスはゆっくりと首を横に振った。
 「それも指輪の力なのよ。捕らえられている間はもちろん…戦いの時も、それはもう大変だった」
 彼女の目の前で、何人もの仲間が斃れたのだ。想像を超える、残酷な戦場。
 決着がついた瞬間、サロメは倒れた。そして、次にまぶたを開いた時、彼女は全てを忘れていたのだ。
 「それほどまでに心の傷が深かったんでしょうね。女神の慈悲なのよ…だから、思い出す必要はない」
 アクエリアスはそう言って、優しくサロメの肩に手を置いた。
 「でも、私たちは覚えているわ。あなたも気を付けなさい、さっきの男は」
 その顔が、ふと厳しくなる。
 「封印しておいたはずの悪魔」
 「!」
 サロメの表情がたちまち凍りついた。
 「悪魔……あの、人が?」
 「巧妙に人に化けてはいるけれどね。あなたを取り戻しに来たんだわ」
 「封印が解かれたという話は聞いていた」
 マーローがうなずく。
 「だから、夜は外に出ないように言っておいたんだ。アクエリアスが気付いてくれなければ、君は今頃、魔族に連れ去られていただろう」
 「そんな…」
 形のいい唇が震えた。思わず両手で、自分の肩を抱いていた。
 あんなに美しく澄んだ、優しくて、悲しげな瞳の人が…悪魔?
 「あなたを怖がらせるのは嫌だったから、なるべく話さないようにしていたんだけど、まさかここまで来られたんじゃあ、これ以上黙っておくわけにもいかないし」
 親友はそう言って、力を込めてサロメを抱きしめた。
 「僕たちが、必ず君を守る」
 うなずくマーロー。
 「もう二度と、あいつらの思うようにはさせないから」
 「そのために…戦いましょう、サロメ」
 そして、アクエリアスは告げた。
 「あなた自身の手で、彼らに引導を渡すのよ。汚れは自らの手で払わなければ」
 「汚れ…」
 同じ言葉をつぶやく彼女に、二人は厳しい表情でうなずき返す。
 何だろう、この感じ。
 サロメは言いようのない恐れを感じて、強張った顔のまま二人を見つめ返した。だが、二人は、それを彼女の決意の表れと見たのか、満足そうに微笑んだ。
 「それじゃ、行きましょ」
 「えっ?」
 「反省房よ」
 あっ、と小さく声に出して、それからサロメはうなずいた。
 大神殿の長たるマーローとの約束を破ったのだ。いくら婚約者で高司祭とはいえ、その罰は受けなければならない。
 彼女は、丸一日の謹慎を申し付けられたのだった。

 「正気か?」
 「ああ」
 三人の男女が確認するように問う。二人の子供が、それにうなずく。
 薄暗い安宿の一室で、彼らは互いの顔を見合わせていた。
 「なんで、そんな所に」
 銀髪のウェアウルフが低くうなるように言う。手入れされていないぼさぼさの頭をかきむしり、周りにいる仲間たちを見回すが、答えはない。
 「あいつは、バカか?」
 「何の目的があるかは知らぬ」
 さらに重ねて問うと、金髪の子供が、老人のような口調で答えた。
 「何か策があるのやも知れん。だが、あまり利口な策ではないのは確かだろう」
 そして、テーブルの上に広げられた大神殿の見取り図を、神経質そうに指先でコツコツと叩いた。
 オズボーンが示すのは、神殿の地下に作られた牢だ。エリスの話によると厳重な作りの石牢で、女神の法を犯した罪人の中でも、かなりの重罪の者が入れられるところだった。
 「ソレ、本当に本当なんでしょうね?」
 「残念ながら確実だよ、こいつが言うんだから」
 眉をひそめるカトレアに、キューブは自分の頭の上に乗っかっている虫を示して肯定した。百足だった。
 「目は見えないけど、魔物の気配には敏感なんだ」
 「間違いない。奴は、ここだ」
 オズボーンの探知魔法も同じ結果を示していた。
 一体何をどうやったのかは分からないが、とにかく今、ラファエルは大神殿の地下牢にいるのだ。それも、囚われて。
 サロメを取り戻すため、単身神殿に忍び込んだのはいいが、おそらく力が回復していないに違いなかった。そうでなければ、捕まる理由がない。
 「厄介なことになったな」
 「まったくだ」
 ドレインのつぶやきにオズボーンがうなずき、懐から小さな玉を取り出した。麦粒ほどの大きさしかない、透明な水晶玉を傍らの赤毛の子供に渡し、百足を指差しながら老人は言った。
 「その虫に、これを運んでもらう事は出来るか?」
 「遠見の水晶球?それにしちゃ、随分ちっちゃいけど」
 「性能は十分だ」
 非常に小さなその玉を、キューブはそっと百足の眼前に差し出す。あごを開き、虫はそれをくわえ込んだ。
 「大丈夫、持てるみたいだ。それじゃ、これをラファエルの所へ」
 了解。虫は、同族にしか分からない言葉で応えると、少年の体を伝わって床へ這い降りる。
 「これで少しは向うの様子が分かるといいんだけどな」
 誰ということもなくつぶやいた。みなが見守る中、虫は、静かに床板の穴に潜って消えた。

 一筋の光も差さない闇の中、気が狂いそうなほどの静けさの中に、彼はいた。
 あらん限りの声で叫んでみても、誰にも聞こえはしない。むしろ、それが体力を消耗し、自らの命を無駄に削るだけだと悟ってからは、彼はただ、じっと待っていた。
 今になっては、もう何を待っていたのか分からない。
 虫一匹入り込むことさえ出来ない石の穴なのだ。滲み出して壁を濡らす地下水だけが、彼を支える全てだった。
 だが、それももうすぐ終わりだ。もう動けなかった。何日もずっとこうしたまま、結局待っていたのは、死だったのだ。
 そう思いながらまぶたを閉じる。すると、どこからか低い音が聞こえてきて、かすかに光を感じた。
 「先客は、もう終わっているようね」
 低い女の声がした。
 聞いたことのある声だが、もはや反応する力もない。
 「ここは?」
 今度は知らない男の声だ。
 「お前のような害悪を封じ込めるための場所よ。ここで、仲間たちが来るのを待っているがいい」
 「俺は…囮か?」
 「まぁそうなるわね。こいつが帰れなければ、お前の仲間は探しに来るより他ないでしょうからね」
 彼は話の内容に興味を覚えて、うっすらと目を開けた。女が何かを手から床へと落とし、ぎりぎりと踏みつけているのが辛うじて見えた。首も動かせないし、目もかすんでいるのだから、それだけ確認するのが精一杯だ。
 再びまぶたを閉じた彼の方へ、足音が一つだけ近付いてきた。
 「それじゃ、おやすみ…次にここを開けた時は、ちゃんと殺してあげるわ」
 そして、低い音が響く。辺りはまた、何もないただの暗闇に閉ざされて、彼はゆっくりと息を吐いた。
 「…生きてるのか」
 男の声がした。暗い中、足音は規則正しく彼に近付き、そして、柔らかく冷んやりとした感触が、彼の頬を撫でた。
 「大丈夫か?動けるか?」
 誰かは知らないが、同じこの石牢に入れられた男は、彼を心配してくれている。
 僕のことなど放っておけばいいのに。
 声にならない声で、彼は答えた。もう唇を動かす力もないのだから、言葉もない。
 ここに入れられた以上、僕も君も終わりなのに。ただ、死ぬのを待つだけなのに。
 「そいつはどうかな」
 心の中のつぶやきが聞こえていたはずはない。しかし男は、はっきりとそう答えた。
 「お前がいたのには驚いたが、まだ生きてるんなら大丈夫だ。ほら、起こしてやろう」
 力強い腕が、ぐったりとした彼を支える。すっかり軽くなってしまった体を抱え上げ、そっと壁にもたれかからせた。
 君は…一体?
 「俺か?俺の名前はラファエル」
 男はそう言って、くすりと笑ったようだった。
 何が面白いものか。そう思ってまぶたを開くと、同時に、懐かしい香りが彼の鼻先をくすぐった。
 「食えるか?」
 暖かく、とろけそうに甘い香り。
 漆黒の石牢の中はぼんやりとした青い光に照らし出され、彼の目の前には、ボウルに入れられた一杯のクリームスープがあった。それも、ほんのりと白い湯気を立てている。
 「飢え死に一歩手前だったんだろう?ここでいきなりガッつくと逆に体が持たねぇからな、俺がゆっくり食わせてやるよ」
 男はスプーンにスープをすくい、慎重に彼の口元へ運ぶ。
 彼は、震えながら、わずかに唇を開いた。
 死にたくない。
 「ようし、その意気だ」
 ほどよい温かさの液体が口の中に広がった。塩味、脂の味、甘い香り。喉を鳴らして飲み下し、彼はせがむようにさらに口を開いた。
 「ガッつくなって言ってるだろう。ちゃんと全部食わせてやるから、ゆっくりな」
 二口、三口。ラファエルと名乗った男は、辛抱強く彼のペースにあわせてスープを注ぎ込む。無我夢中で全部平らげ、彼はようやく満足げなため息を漏らした。
 「大変だったろ。よく頑張ったなぁ」
 失われた力はまだまるで回復していない。けれど、生きる希望だけは戻ってきた。そして、目の前の見ず知らずの青年に、心の中で頭を下げた。
 どこの誰かは知らないが…本当にありがとう。
 青い灯りも、そしておそらく今のスープも、彼が創り出したものなのだろうということは容易に想像がついた。魔法だとすれば、相当な力の持ち主に違いない。
 しかし…ここへ入れられて、生きて再び出られるかどうか…
 「な〜に、すぐに俺の仲間が助けに来てくれるさ」
 青い髪の青年は屈託なく笑ったが、彼は眉を寄せた。
 あの女がいる。何人かかっても勝てる相手じゃない…!
 彼も、あの女に負けたのだ。恐ろしい、悪魔をも打ち倒す力を持つ女に。
 不安を隠そうともしない彼に、ラファエルはさらに大きな笑みを見せた。
 「喜べ。俺たちは、その女を倒しに来たんだからな」
 え…?
 「お前の名前は…シェーンベルグか」
 先ほどから、彼の心の中を読み取っているのだろう。ラファエルはうなずいて、しばらく考え込むような素振りを見せていたが、やがて顔を上げた。やっぱり笑顔だった。
 「お前がここに入れられた理由は分かった」
 説明しなくてもいいのは楽でいいが、少し不気味だ。シェーンベルグは不安な表情を浮かべたまま、じっとラファエルを見つめる。それに気付いて、彼は頭を掻いた。
 「お前がもう少し元気になって、ちゃんとしゃべれる様になったら、心を読むのはやめる。それまでは少しだけ辛抱してくれ」
 それなら、仕方がない。今はとにかく、この目の前の不思議な男を信用するより他に道はないのだから。
 それで、仲間とは、とシェーンベルグは促した。
 「俺の目的は一つ。サロメを取り戻すことだ」
 「!」
 では、君は!
 「そう…お前が出会った吸血鬼、ドレインも、必ずここへ来る。俺たちを助けて、彼女を救うためにな」
 シェーンベルグはうなだれた。
 あの日、恋人を連れて吸血鬼を倒しに出かけた日。彼は忌むべき魔族から、真実を告げられた。
 大司教マーローの婚約者は光の女神に背いた堕天使であり、大司教こそがみなに嘘をついて魔族をかばっている張本人なのだと。
 それを本人に問いただしたところ、シェーンベルグは有無を言わさずこの石牢へと叩き込まれた。だが、それこそが、魔族の言葉が真実であることを如実に物語っていた。
 大司教は、全てを知ってしまった聖騎士を幽閉し、食事も与えないまま死なせるつもりだったのだろう。
 「お前みたいなのがいるとは思わなかったけど、とにかく助かって良かったぜ。もうちょっと遅かったら死んでたな」
 それは、確かにそうだ。だが…
 聖騎士の顔は晴れなかった。魔族に真実を教えられ、そのうえさらに、魔族に救われたのだ。女神に仕える者としては、あまりありがたくはないような気がした。
 「それじゃ、後腐れなく死んでしまうか?」
 ふと目を細めてラファエルが問う。
 シェーンベルグは、迷った。そして、首を振った。
 このままでは、納得出来るはずもない。魔族と手を組むのは心外だが、裏切り者だけは何があっても倒さねばならない。
 どっちみち、今のこの状況では、ラファエルに従うより他はないのだ。
 「問題が解決するまでと割り切ってくれりゃいい。その後なら、決闘でも何でも受けて立ってやろう」
 分かった。
 聖騎士はかすかに頭を動かして、うなずいた。
 例え闇に落ちても、それだけはやり遂げてみせる。自分が信じる正義のためにも、そして、死んでいった恋人のためにも。


続く

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