私慾の天使


 突然、声にならない悲鳴を上げて、キューブは椅子ごとひっくり返った。
 安普請の宿に、派手な音が響き渡る。少年は両手で頭を抱えていたので、後頭部をしこたま床に打ち付けて、そのまま何も言わなくなってしまった。
 「ちょ、ちょっと!キューブ、大丈夫!?」
 「………ッてぇ〜…」
 カトレアに抱き起こされ、ようやくキューブの口が開く。その様子を冷静に、だがわずかに心配そうな面持ちで見つめていたドレインが言った。ただし、その顔は、オズボーンの方を向いていた。
 「何があった」
 「探りを入れていたのが、ばれた」
 少年の姿をした老人は、苦々しげに答えた。そして幼い友人を振り返る。キューブは、苦しそうに体のあちこちに手をやった。
 「…踏み潰された」
 百足と精神を通じて様子を感じていたのだ。突然踏み潰されれば、彼の肉体にも予告なく、同じだけの激痛が襲いかかる。
 「くそッ!」
 ようやく落ち着きを取り戻し、少年は叫んだ。
 「何なんだ、あの女!?」
 「女?」
 「赤毛の女だ」
 オズボーンは言った。
 「だが、水晶球も踏み潰された。それ以上のことは分からん」
 気まずい雰囲気があたりに漂う。手がかりは途絶えた。それ以上に、向うにも彼らの存在を感づかれてしまったのは、あまりにも痛い。
 聖騎士は総動員され、警備は厳重になるだろう。それこそ、蟻の這い出る隙間もないほどに。そんな中に、一体どうやって潜り込む?
 「水晶球を持たせていなければ、噛み付いて逃げられたろうにな…すまなかった」
 「関係ねーよ」
 すまなそうに言うオズボーンを突っぱねてキューブはすねたような顔をする。
 「百足を平気でつまめる女なんだ。オズボーンのせいじゃねー」
 しかし、そんな豪気な、言いかえれば大神殿に似つかわしくない上品さを持たない女がいる、という事は分かった。それもおそらく、ただ者ではない。
 「なぁ」
 深刻そうな仲間たちの表情を実につまらなさそうに見ていた男が、ふいに声を上げた。
 「どうせバレたんならさ、正面から正々堂々と乗り込んでやりゃあどうだ?」
 ガイラーは気楽な表情で笑う。
 「サロメは記憶がないことになってんだろ?それなら、家族だとか言って押しかけるんだよ」
 全員が、一瞬きょとんとなった。そして。
 「それは…思いつかなかった」
 ドレインがかすかに眉を上げた。
 「いいかも知んないわね」
 カトレアがにこっと笑う。
 「正面から迎えに行くのか」
 キューブがぷっと吹き出して、満面の笑みを見せた。
 「その時の、大司教の顔が見ものだな」
 オズボーンが承認し、計画は実行に移されることになった。

 反省房で過ごす一日は、かなりの苦痛を伴うことになった。
 別に、部屋が悪いわけではない。身分の高い人が謹慎するための部屋なのだから、ベッドだって清潔で柔らかいし、十分な広さもある。用を足すための個室さえ付いているほどだ。辛いのは、そんな理由ではなかった。
 たった一人、する事もなくじっとしていると、自分でも驚くような考えばかりが頭に浮かんでしまうからだった。夜もあまりよく眠れなかったし、日が昇ってからはなおさらだ。ベッドに腰掛け、格子のはまった窓から外を眺めながら、昨夜の出来事を何度も思い出すばかりだった。
 あの男性は、悪魔と呼ばれた。
 自分を捕らえ、閉じ込めて、全てを奪い去った男。魔界の貴族にして、忌むべき女神の敵。
 それなのに、恐怖も憎悪も何も感じなかった。何もかも忘れてしまったせいだと言われればそうなのかも知れない。思い出したくない程の目に遭って、完全に心を閉ざしているのかもしれない。だが、それならそれで、せめて何か、負の感情を抱いても良さそうなものだった。
 ただ、懐かしかった。
 マーローから、昔の親友だと言われてアクエリアスを紹介された時もわずかに懐かしさを感じたが、それよりももっと強く、彼には心が動いたのだ。
 …どうして?
 問ってみたところで答えの出るはずのない問いを何度繰り返した頃だろう。反省房の扉がノックされた。
 「おはよう。起きてる?」
 アクエリアスの声だった。
 「起きてるわ」
 まとまらない考えを振り切って、サロメは立ち上がった。扉に作られた小窓を開けると、司祭の正装に着替えた友人が立っていた。浅黒い肌に純白のドレスは、いつもの事ながら、あまり似合うとは言えなかった。
 「どうしたの?」
 「朝の礼拝の時間よ。こればっかりは、あなたにも出てもらわないと格好がつかないから」
 彼女はにこっと微笑んで、鍵束を取り出した。慣れた手つきでドアを開け、サロメを迎えるように両手を広げた。
 「さ、自分の部屋に戻って着替えてきなさい。まだ時間はあるから、焦る必要はないわよ」
 その言葉にうなずいて、彼女は歩き始めた。が、廊下の角を曲がったところで、足を止めた。
 「サロメ様!」
 一人の神官が駆け寄ってきてひざまずく。彼の息は切れ、肩が大きく上下していた。
 「ど…どうしたの?」
 「嬉しいご報告がございます!」
 切れ切れの息でそう告げる神官の顔は、何故かとても嬉しそうだった。
 「な、何があったの?」
 「サロメ様のご家族様が、おいでになりました」
 思いがけない言葉に、サロメは駆け出していた。

 「僕の名は、ヘンドリクセン・イスランド。リンツの東方、クル領を納めるリロイ・イスランドの次男です」
 金髪の少年は、凛とした声で周りの者にそう告げた。
 「この度、リンツの都の大司教、マーロー・レッカート殿の婚約者殿の名を聞き、僕が探していた人物かどうかを確かめるためにやって参りました。どうか、お目通り願いたい」
 まだ十歳かそこらぐらいなのに、堂々としたその態度。従者たる二人のメイドは少年の左右に控え、礼儀正しく待っている。
 そして、大神殿の門の前には、二頭立ての豪華な馬車が、彼の言葉を裏付けるように止められていた。あまりに立派な造りなので、神殿に訪れた一般市民たちもつい足を止めて見てしまうほどの馬車だった。
 「失礼ですが、サロメ様とはどのようなご関係で?」
 さすがに門番が対応するのは失礼だと思ったのだろう。すぐに位の高い神官が呼ばれて現れた。
 「サロメ・バンベルグ嬢は、我が兄、ヒックスの婚約者なのです」
 よどみなく、ヘンドリクセンは答えた。だが、周りに集まっていた騎士や神官たちがざわめく。
 それを片手で制し、神官は尋ねる。
 「それは…本当なのですか?」
 「女神に誓って」
 少年はそう言って、胸の前で両手を組んだ。女神に祈りを捧げる仕草だった。
 「何故、兄が来ないのかと皆さんは不審にお思いなのでしょう。ですが、現在父リロイは病に倒れ、代わりに兄が執務の全てをこなしているのです。その矢先、この神殿で間もなく結婚式を挙げる女性の名が、三年前にさらわれた義姉上と同じだと聞き及び、取り急ぎ弟の僕を寄越したという訳です」
 彼の言葉によどみはない。それに、それが真実であると裏付けるかのように、一人の聖騎士が進み出て言った。
 「私はこの方を存じ上げております」
 「何?」
 「以前、もっと幼い頃でしたけれども、お会いした事があります。確かにこの方は、ヘンドリクセン様でいらっしゃいます」
 そう言われれば、それ以上拒む理由もない。神官は少年に頭を下げ、神殿の中へと誘った。
 「すぐにサロメ様をお連れします。客間を用意いたしますので――」
 しばらくお待ちください、と言おうとする。だが、その前に、少年の顔色が変わった。
 「――義姉上!」
 この客人のことは、すぐに別の者が伝えていたのだ。
 現れた女性を見て、ヘンドリクセンは駆け出した。
 「義姉上ェ!」
 さっきまでは、小さいながらも貴族としての威厳を見せていたのだが、そんなものはすでに欠片もない。ただの子供に戻ったように彼は走り、躊躇なくサロメの胸に飛び込んだ。
 「あぁ、やっぱり義姉上だ…!」
 誰もが、驚きをもってその光景を見ていた。
 泣きじゃくる少年を、抱きしめることも出来ずに立ち尽くすサロメ。そんな彼女の戸惑いに気付いて、あわててメイドの片方が二人に駆け寄った。
 「お坊ちゃま、サロメ様は…その、記憶がございませんので」
 「あ」
 言われて初めて気付いたかのように、少年は一歩下がる。そして、改めて、涙をこらえた目で、サロメを見上げた。
 「サロメ…義姉上」
 サロメも、じっとヘンドリクセンを見下ろす。エントランスホールが、一瞬で静まり返った。
 「…あなたが、わたしの」
 わずかに口を開いて、彼女は言った。
 「弟…」
 そして、膝を折り、少年を抱きしめた。
 再び、ざわめきが広がった。
 もしかして、記憶が戻ったのか。婚約者の弟だという、少年の事を思い出したのか。
 彼女が記憶を取り戻すのは、いい。だが、そうなると、大司教との結婚は一体どうなってしまうのだろう?期待と不安と狼狽が、周りで見守る人々を揺さぶっている。
 長い、長い沈黙。
 「……サ…サロメ?」
 そのまま、微動だにしなくなってしまった彼女の腕に自分の手をやって、ヘンドリクセンは顔を上げた。しっかりと抱かれているために、目だけで振り向いてみても、彼の視界には栗色の髪しか入らない。
 「わたし…こうしてると…」
 やがて、サロメがぽつりと言った。が、その続きは、誰も聞き取る事が出来なかった。
 赤毛の女司祭が現れて、ざわめく人々を一喝したからだった。
 「これは一体、何の騒ぎ!?」

 彼女にとっては、それは、思ってもみなかった光景だった。
 サロメの家族だという者が名乗り出て、今、まさに目の前で、感動的な涙の再会シーンが演じられている。それは、ありえないはずのものなのに。
 「これは…一体」
 側にいた者から説明を聞いて、アクエリアスはもう一度、最初に言った言葉を繰り返した。
 金髪の少年からは、邪悪な気配はまるで感じられなかった。そう――この子供は、間違いなくただの人間で、魔族ではない。もっとも、危険な正体を魔法か何かで隠しているのかもしれないが、それを見破るためにはもっと時間をかけてじっくり調べる必要があった。
 だが、この状況下で、一体誰が彼の素性を疑う?
 アクエリアスは一時、険悪な表情で考えをめぐらせた。
 サロメに家族は存在しない。この一行が魔族の手の者なのは火を見るより明らかだ。ただし、その事実を理解できるのは彼女と、大司教マーローだけ。そして、ある日突然やって来て高司祭の座におさまり、大司教に可愛がられている、戦士のような赤毛の大女を好ましく思っている者が少ないのも、また事実だった。
 この場で事を荒立てるのは、得策ではない。
 アクエリアスはぱんぱん、とよく響くように手を叩いた。
 「静まりなさい!みな、今が何をすべき時か忘れたの!?」
 威圧的な彼女の声は、容赦なく神官たちを急かした。
 「朝の礼拝に遅刻するわよ!マーロー様はもうお待ちなのよ、それなのに、あなた達は一体何をぐずぐずしているの!!」
 規律を守り、秩序を重んじる女神の教えでは、遅刻も十分に懲罰ものである。神官や騎士たちは、あわててその場から立ち去り始めた。
 「さあ、あなたも」
 それを満足そうに見渡しながら、彼女はサロメの肩に手を置いた。
 だが、サロメはヘンドリクセンを抱きしめたまま、動かない。
 「サロメ?どうしたの、マーローも待ってるわよ」
 「…わたし」
 ようやく戻ってきた返事は、今にも消えそうな小ささだった。ゆっくりとした動きで少年を離し、友人を振り返る。
 透けるように白い肌には、まるで血の気がなかった。唇はほとんど形をなさないまま、怯えたような声がアクエリアスの耳に届いた。
 「お願い…もう少しだけ、この子と一緒にいたいの」
 「ダメ」
 それを、アクエリアスは一瞬ではねつけた。
 「礼拝をサボるつもり?そんなことじゃ、結婚式までずっと反省房に入っててもらう事になるわよ」
 「そ、それは」
 「花嫁として恥ずかしいでしょ?それなら、早く行きましょう」
 有無を言わさずサロメを立ち上がらせる。そして、アクエリアスは、少年に冷たい一瞥をくれた。
 「お客人。そういう訳ですので、今日のところはお引取り下さい」
 「ま…待って」
 不安げな面持ちですがりつくヘンドリクセンから、まるでサロメを取り上げるかのように抱き寄せて歩き出す。そのまま、彼らに背を向けて、アクエリアスは言った。
 「どうしてもと仰るのなら、また後日」
 「後日…だと?」
 ふいに、少年の声が低くなった。
 「そして、結婚式を済ませてしまうつもりか?女神の下僕よ」
 「!」
 その言葉に、アクエリアスは振り返る。少年は、背の高い彼女を見上げながら、しかし人を見下すような悠然とした笑みを浮かべ、続けた。
 「言葉が悪かったなら言い直そう。赤い髪の天使よ」
 「貴様、やはり、」
 魔族か!
 そう、叫び出しそうになるのを必死で堪え、アクエリアスはふと、傍らにいる友に目をやった。
 「アクエリアス…?」
 サロメは怪訝そうな顔で、彼女と少年とを見比べている。それもそうだ。高司祭は女神に仕える者、下僕と言われても何ら不思議がることはない。
 それなのに、アクエリアスは過敏に反応して振り返った。ましてや、天使と呼ばれて、激昂し、狼狽している。普通なら、天使に例えられれば喜ぶものではないのか。
 少年はクスッと笑った。
 「何で怒るんだろうね?変な高司祭様」
 答えられない彼女に、少年は背を向ける。
 「まさか本当に」
 「お客人」
 彼の言葉を遮って、彼女は声を張り上げた。
 「客間はすぐそこの扉です。礼拝が終わるまで、しばらくお待ち頂けますか」
 声こそ大きいものの、口調は棒読みで抑揚がなかった。だが、ヘンドリクセンは振り向いて、とても嬉しそうに微笑んだ。
 「ありがとう。遠慮なく、そうさせて頂きます」
 子供らしい満面の、そして、会心の笑顔だった。


続く

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