蒼い光に満たされた闇の中、彼は焦りを感じ始めていた。
「何故だ…?」
閉ざされた石の扉は、びくともしない。
確かにこれは、人間を死ぬまで閉じ込めておける石牢である。一枚岩の扉はとてつもなく重いだろうし、魔法によって封印もなされている。とはいえ、ラファエルは悪魔なのだ。腕力も魔力も、普通の人間とはケタが違うのだ。
だから、最初は簡単だと思っていた。それなのに、もう小一時間もこうしている。
ラファエルはがっくりと膝をつき、うなだれた頭に生えている両の角で扉を小突いた。
「一体、どういう封印になってるんだ?」
「僕を助けたから…魔力が…足りないのでは…」
かすれた声でシェーンベルグが尋ねた。あの後、このお人好しの悪魔は、かなりの魔力と時間をかけて、飢え死に寸前だった聖騎士を癒した。さすがにまだ立ち上がって歩き回れるほどではないが、壁にもたれて座っているぐらいなら出来る。その彼が、不安げな面持ちで悪魔を見つめていた。
「何言ってる。その程度でどうこうなる俺じゃねぇ」
目だけで振り返り、ラファエルは不満げに口を開く。
「錬金術系の魔法は得意分野なんだ。このぐらい…」
だが、言いかけたその口がふと、止まった。
大司教とはいえ、結局は人間である。その男が作った封印に、例え激しく傷ついていたとはいえ、三年も囚われていた。そして今また、あの男と、赤毛の女とが作った封印の石牢に閉じ込められている。
この俺が。人間などという存在をはるかに凌駕した、悪魔であるこの自分が、である。
ラファエルは、じっとシェーンベルグを見つめた。
「……?」
この青年がどれほどの魔力の持ち主なのか、こうすれば簡単に感じ取れる。他の人間に比べれば多少は強い方だが、それでも、悪魔とは比べものにはならない。マーローも、あの女も同じだった。
それなのに、何故?
たかが人間風情に、サロメが奪われる?俺が、負ける?
薄暗い封印の中で、何度も何度も繰り返した質問をまた自分にぶつけながら、ラファエルは頭を振った。考えれば考えるほど、分からなくなってしまうのだ。
「大体あの女、一体何者なんだ?」
それは独り言のつもりだった。だが、真面目な聖騎士は自分に問われたと思ったのか、かすれる声でそれに返事をした。
「サロメ様の幼馴染、という話だけど…」
「何?」
形の良いラファエルの眉がぴくりとつりあがった。
「それは、本当か?」
「女神に誓って。最初にここへ来た頃、そう言っていた…サロメ様を救うために、遠い国から来たと」
「故郷の名前は聞いたか?」
シェーンベルグはゆっくりと、首を横に振る。それを見ながら、ラファエルは目を見開いた。
「まさか。それじゃ、あの女は」
今度は彼が首を横に振った。不思議そうに見つめる聖騎士に、彼は言った。
「だって考えてみろ。サロメが生まれたのはどこだ?真実を知っているお前なら、分かるよな?」
「……」
青年は言われるままに考えをめぐらせる。そして、気が付いた。
「堕天使の故郷は……天界」
遥かなる高みにある聖なる場所。そこから訪れる者は、人間ではない。
「アクエリアス様は…」
女神の御使い。
それは、天使と呼ばれる。
今朝の当番である神官が、女神の教えを記した戒律を朗読している。若い男性の朗々とした声が、礼拝堂の中に満ちていく。
だが、神聖なる言葉もそっちのけで、祭壇の隅、重いカーテンの後ろでひそひそと会話を交わしている二人がいた。
「私の素性がバレたかもしれない」
「何だって…?」
「だってまさか、あんなに正面から堂々と乗り込んでくるとは思わなかったのよ。しかも、魔族の臭いが全然しないの…絶対に魔族のはずなのに」
アクエリアスはいらだちを誤魔化すかのように、人差し指で前髪をいじり始めた。
「興奮しちゃって…魔力を隠すのを忘れてたの」
「…それでか」
マーローはわずかに眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。曲がりなりにも神聖なる礼拝の最中である。大司教たる者が、取り乱した様子は見せられなかった。
「今、一応、客間で待たせてあるわ」
「厄介だな」
平静な風を装いながら、大司教は目を細めた。彼の愛する女性は、二人から少し離れた場所でみんなの様子を見渡していた。心なしかその表情がいつもより嬉しそうに見えるのは、気のせいだと思いたかった。
一目で恋に落ちた。
聖職者の家系に生まれ、忠実な女神の下僕になるためだけに生きてきた彼が、初めて他のものに心を奪われた。何故なら、彼女はまさに天使の姿をしていたのだから。
ただ美しいだけではなかった。穏やかな微笑み、優しい声、わずかに憂いを帯びた柔らかな色の瞳に、マーローは引き寄せられた。無我夢中で声をかけ、そして拒絶された。そこで諦められたなら、彼は平凡な人生を送ることになっていただろう。
しかし、彼は思わず彼女の後を追っていた。そこに待っていたのは、残酷な真実と強力なパートナー。
愛する女性が、よりによって女神に仇なす堕天使だと知って呆然とするマーローの前に、待ち構えていたかのように現れたのは、正真正銘の天使だった。
アクエリアスは、堕ちてしまった親友を救いたいのだと告げた。
二人は手を組んだ。サロメの記憶を封印して魔族たちから引き離す。そして、アクエリアスの聖なる力をもって、追いすがろうとする彼らを蹴散らしたのだった。
非情なまでの冷酷さをもって魔族を追い払ったパートナーは、髪をいじるのをやめて、ふとマーローを振り返った。
「仕方がないわ。あの時と同じようにしましょ」
あの時とは、二人で魔族と戦った時のことだ。マーローはうなずいた。
「サロメは…反省房に戻っててもらえばいいな?」
「そうね、そうしましょう」
アクエリアスもうなずき、そしてじっと自分の左手を見た。薬指にはサロメとお揃いの、白金の指輪がはめられていた。
「大丈夫――うまくやるわ」
「おっそいわね〜」
公子のメイドは客間のソファの上で、絶妙な曲線美を見せる足を組み替えた。それも、わざとスカートの裾を大きくめくって持ち上げて、だ。
端から見ると実にはしたない姿だが、サッキュバスであるカトレアは、裾の長い紺色のワンピースなど着たことがない。だから、スカートの中で幾重にも重なってごわつくペチコートが邪魔で仕方がないのだ。
さらに裾をひるがえすと、重なり合ったレースの間から、ぼとりと音がして蠍が転がり落ちた。
「痛!」
「あ、ゴメン」
あわててそれを拾い上げ、再びスカートの奥へ戻す。ヘンドリクセンの姿を借りたオズボーンが、半ばあきれたように言った。
「大人しくしておけ。関係ない者に今の格好を見せるつもりか?」
「…だって」
渋々膝を揃えて、カトレアはつまらなさそうに答えた。
「ガイラー遅いじゃない?何してるのかしら」
あまりにも体格の良い、筋骨隆々とした男は、貴族の公子の一行に加わるにはちょっと不釣合いだった。だから、彼は馬車の御者として神殿に入ったはずなのだが、それがなかなか現れない。彼には愛用の鉄剣ミュラーを持ってきてもらう手はずにもなっていたため、カトレアは余計に心配しているのだった。
「厩を貸してもらえないとか」
ぼそり、ともう一人のメイドがつぶやいた。
居心地の悪そうな表情をしているエリスは、ドレインに憑依されている。見た目こそ可愛い女性だが、中身は無愛想なヴァンパイアというわけだ。こちらも慣れない格好で、あまり機嫌が良くないのは一目瞭然だった。
「あれのことだ、意外と道に迷ってるかもしれん」
オズボーンがくすりと笑う。銀髪のウェアウルフは、鼻が利く分、地図を覚えるのはあまり得意ではない。
「…変な場所に出ていなければ良いがな」
ドレインが言った時、控え目に、客間のドアがノックされた。
「お客人…失礼する」
ドアの向うからでもよく通る男性の声に、一瞬、全員が身を固くした。
忘れもしない、この声は。
返事も待たずに扉が開く。入ってくる人影を認めてカトレアとエリスが立ち上がり、メイドらしく会釈をした。
「…初めてお目にかかる」
大司教マーローが、ゆったりとした歩みで客間の中央に進み出る。
「わたくしがこのリンツ大神殿の長、マーロー・レッカートです」
差し出された柔らかそうな手を、ヘンドリクセンはしばしの間、じっと見つめた。
「…どうされました?」
「いえ」
小さく首を振り、その手を握り返す。二人は握手し、そして何事も無く手を離した。
「以前に一度お会いした事がありますが、お忘れかなと思って」
そして少年は微笑んだ。だが、その緑色の目は笑ってはいない。じっと見据えられて、マーローは怪訝そうに眉を寄せた。
「そうでしたか?」
「命を救っていただいたご恩、決して忘れるはずはありません」
その言葉で思い出す。たまたま通りかかった地で、死の淵をさまよっていた子供だ。
確かに三年前はもっと幼かったから、一目では分からなかった。だが、どうしてあの時の子が、と考えて、大司教は気が付いた。
相手が思わず唾を飲み込むのを確かめて、少年は笑いながら目を細めた。
「ヘンドリクセン・イスランドです。思い出していただけたようで、光栄です」
「あ…ああ」
自分が甦生の呪文を失敗していた事に思い至ったのだろう。そしてその事が、最悪の結果を招いてしまっていた事にも。
呆然とするマーローとは裏腹に、笑顔を絶やさないまま、オズボーンは言った。
「でも、今日は昔の話をしに来たのではありません。サロメ・バンベルグ嬢の件で、お話があるのです」
「……そうでしたね」
ようやく大司教は、視点を正面にいる子供の顔に戻した。
「話はある程度聞きました。何でも、彼女があなたの兄君の婚約者であるとか」
「ええ」
オズボーンはうなずいた。そして、先ほどみなの前でして聞かせた話を、全くよどみなく、もう一度話してみせた。
「人違いではありません。先ほど、少しだけ顔を見ましたが、あれは間違いなく義姉上でした」
あの温かさ。髪の柔らかさ。優しく抱きしめてくれた腕の感触。
彼女は紛れもなく昔のままの彼女であり、あの時オズボーンが見せた涙は、偽物ではなかった。
「お願いです、もう一度…もう一度、義姉上に会わせてください!」
複雑な表情を浮かべて彼を見守る大司教に、たたみかけるように言葉を浴びせて、少年は待った。
それは、マーローにとって一番嬉しくない選択だろう。だが、どんなに嫌でも、彼女をここへ連れてきてもらう。
そのために、罠を張ったのだ。大勢の人にあの光景を見せたのだ。逃がしはしない。
「ええ、もちろん」
だから、彼があっさりとそう答えたのは、意外だった。
開けっ放しのドアを振り返り、サロメの名を呼ぶ。すぐに反応があり、もう一つの人影が部屋の中へと静かに滑り込んでくる。
オズボーンは予想外の展開に、思わず傍らの友人を振り向いた。少女の顔をしたドレインが、そっと彼の肩に手を置く。感情表現の乏しい吸血鬼にも、その戸惑いは隠し切れない様子だった。
「さあ、こっちへ」
言われるがままに進み出た女性は、確かに、サロメだった。
その頃、ガイラーは道に迷っていた。
そして、ドレインが心配したとおり、思ってもない場所に出ていた。
事前に地図を見せられ、一通りは頭に叩き込んだつもりだったのだが、どこかで曲がる場所を間違えたらしい。そもそも、幾何学的で左右対称な造りの建物だから、どこを通っても風景に変わり映えががないのだ。
布にくるんで片手に下げた鉄剣も、黙ってしまって何も言わない。仕方なく一旦厩へ戻ろうと回廊の角を曲がった時、かすかな風が、懐かしい匂いを運んできた。
「……」
ガイラーは振り返った。
誰もいない、がらんとした廊下が真っ直ぐ続いている。だが、確かに風は、この方向から吹いてきた。
耳を澄ましてみても、人の声すら聞こえない。もともとあまり人が通らない場所なのだろう。ガイラーは迷うことなく、その方向へと一歩足を踏み出した。手近な扉に近付いて、下げてあるプレートを読む。
「…空室?」
裏返すと、使用中と書いてある。おまけにドアには小さな窓が取り付けてあって、のぞいて見ると部屋の窓には上品な格子が取り付けてあった。
「なるほど。お仕置部屋ってとこか」
女神の戒律が厳しいのは、彼も身にしみてよく知っている。ちょっとした違反でも、きっちりと罰が与えられる。ここはそのための反省房が並んでいる廊下で、それ故に、人影が無いのだ。
ガイラーは軽く頭を掻いて、質問を口にした。
「と言う事は…ここにいるのか?」
もちろん答えてくれる者などないが、代わりにまた、廊下の奥からすうっと風が吹き抜けてきた。かすかに混じるその匂いが彼に答えをくれた。
彼女はここにいる。
確信を得て、ガイラーは廊下の奥へと足を進めた。空室の札ばかりが並んでいるが、彼は順番に小窓を開いてはのぞき込む。それを何度も繰り返した挙句、突き当たりの手前、一番奥の部屋で、ようやく使用中の札を見つけた。
「ここか」
聞き耳を立てると、確かに誰かが部屋の中を歩き回っている音がする。
もしも間違っていたら、などと彼は考えなかった。思い切りよく小窓を開き、ぐっと顔を突き出して部屋をのぞき込んだ。そして、ぎょっとして、あわてて窓を閉めた。
まさか。
俺の鼻は、いつからそんなにダメになった?
サロメがいると思ってのぞき込んだのに、部屋の中にはまったくの別人がいた。しかも、赤毛の女性だった。オズボーンが言っていた、百足を踏み潰した女かもしれない。
まずいことをした。
ガイラーは息を殺して、部屋の中の様子をうかがった。足音はもうしない。だが、彼のことをいぶかしんで声をかけてくるような気配もない。
どういうことだ…?
彼は必死で整理する。一瞬窓を開いた時に嗅いだ匂いは、間違いなくサロメのものだった。だが、目で見た姿は違っていた。ということは、同じ匂いのする別人か?
……あり得ない。
血の昇った頭を冷ましながら、彼は結論を出した。
それに、相手は鍵のかかった部屋に閉じ込められているのだ。何かあったとしても、こちらへ出てくる事は出来ないのだから、何も起こりようがない。それならば、話の一つでもしてみた方がいい。
彼は大きくうなずき、再び小窓の取っ手に手をかけた。サロメの匂いは、さっきより強くなっている。やはり自分の鼻に間違いはないのだと言い聞かせながら、そっと窓を開く。
「あの…」
「!!」
ガイラーは、再び飛び上がるほど驚いた。だが、今度は窓を閉じるのはやめて、その場に踏みとどまった。
鼻がくっつきそうなほど近くに、彼女がいた。彼がまた窓を開くのを待ち構えていたようだ。
「すみません、驚かせてしまって…でも、あの」
夕焼け色の瞳を不安げに瞬かせて、彼女は言葉を選びながら口を動かす。
「聞きたいことがあるんですけど、いいでしょうか?」
「…あ、ああ」
おだやかな口調に、ガイラーは次第に落ち着きを取り戻し始めていた。
「俺で分かる事なら」
「今朝…この神殿にお客様が見えたはずなんですけれど、ご存知ですか?」
「ああ」
容易にオズボーンのことだなと察しが付いた。彼は注意深く目の前の女性を観察しながら答える。
「確か、ヘンドリクセンとかいう子供だよな。入口のところで大騒ぎしてた」
「そう、その方です!」
心配そうだった彼女の表情がぱっと明るくなる。が、すぐにまた伏し目がちになって、声のトーンが落ちる。
「もう…お帰りになってしまわれたって…本当でしょうか」
「え!」
今度はガイラーが叫ぶ番だった。
そんなはずはない。あの話が、そんなに簡単に片付く訳がない。それに、もしそれが本当なら、ガイラーは敵地の真っ只中に置いてけぼりだ。そんな薄情な友人は持った覚えがない。
「いや、そりゃないと思うぜ?」
「そうですか…」
そう応えると、赤毛の女性はさらに深くうつむいて、唇を閉じてしまった。
「……」
ガイラーは、そんな彼女をじっと見つめた。
髪は燃えるように赤く、瞳も同じように赤い。肌は浅黒く日に焼けて、顔立ちはりりしい。見たこともない人なのに、だが、何故だか、妙に安心感を覚えてしまう。
そう。匂いだけではない。仕草が、表情が、そしてしゃべり方までも、彼女はサロメと同じなのだ。違うのは、見た目だけ。
だから、思わずガイラーは呼んだ。
「なぁ、サロメ」
「何?」
間髪入れず、答えがあった。
至近距離で、二人の視線が合う。彼女の瞳に揺らぎはなかった。
「お前、今、鏡持ってるか?」
「鏡?」
言われて彼女は部屋の中を振り返る。反省房の中には、ベッドと机しかない。鏡は与えられていなかった。
「ないけど…どうして?」
「じゃあ、ちょっと待ってろよ」
ガイラーはある確信を得て、服のポケットに手を伸ばした。だが、自慢ではないが、自分の容姿に気をつけたことなどない男だ。鏡など、どこにも入っていなかった。
「…俺も持ってねぇや。どうしよう」
「どうしても、鏡がいるの?」
「ああ、ちょっとな」
その時、彼の耳にかすかな声が届いた。
「ガイラー」
「……?」
「俺だよ、俺」
鉄剣のミュラーが、布越しに小さくささやく。
「鏡がいるなら、俺を使え。いつも磨いてもらってるから、よく反射するぜ」
「そうか」
言われるまま、彼は包みを解いた。黒光りする刀身に、のぞき込むガイラーの顔がくっきりと映っていた。
「これなら使えるな…ようし」
きょとんとしている彼女の目の前に、彼はゆっくりとミュラーを差し出した。
「これに自分の顔が映るから、よーく見てくれよ」
小さくうなずき、彼女は顔を寄せる。しばらくの間、沈黙があった。
そして。
「これ、わたしじゃない…」
呆然としたつぶやきが漏れた。
「どうして?どうしてわたし、アクエリアスの顔なの!?」