私慾の天使


 あの日のことは、忘れない。
 優しい彼女が、豹変してしまった日のことだけは。
 人間の町へ買い物へ出かけるのは、良くあることだった。だが、あまりにも帰りが遅かった。日が沈んでも、月が昇っても、いつまで待っても戻ってこない。
 優しい性格だから、何か捨てて置けないことが出来たのかも知れないが、それでも、仲間に心配をかけるようなこともまた、出来ない。
 崖の上に立つ古城で、魔族たちはまんじりともせず、彼女の帰りを待っていた。
 「オレ、ちょっと見て来よっかな」
 次第に重くなる雰囲気に耐えかねて、赤毛の少年が立ち上がった。妖艶な美女がそれに続く。
 「わたしも一緒に行くわ」
 他の者はただ黙っているだけだったが、それは同意に他ならない。静けさの中で、暖炉の薪がはぜた。そして、小さな足音が扉の向うで止まった。
 「あ…帰って来た」
 少年が顔をほころばせる。
 一瞬の間があった。そして、扉が開く。
 ゆっくりと入ってきたのは、見たことのない青年だった。
 「お前たちは」
 「お前は…」
 一目で聖職者と分かる衣服をまとった青年と、青い髪をなびかせた悪魔とは、同時に口を開いた。
 「魔族だな?」
 口をつぐんだラファエルとは逆に、青年は確認するかのように尋ねた。
 見れば分かる。角だの翼だの尻尾だの、まともな人間ならありえないパーツが付いているのだ。
 青年は答えを待たず、抜き身のまま手にしていた剣を構えた。
 「ふん…人間風情が、魔物狩りか」
 銀髪のウェアウルフがつまらなさそうに言った。名声や欲にかられて、無謀な冒険をしたがる人間というのはどこにでもいるものだ。指を鳴らして彼は立ち上がった。
 「だが、ただの魔物ならともかく、俺たちは魔族だぜ?分かって来てるんだろうな」
 「もちろんだとも」
 青年は真面目な表情を崩さずに答えた。
 「僕には天使の加護がついている。お前たちは、勝てない」
 「…何だと?」
 全員の脳裏に、帰ってこない彼女の顔が浮かんだ。
 そして、すぐに誰もが否定する。そんな事は、決してあり得ないことだから。
 それなのに。
 「……サロメ」
 続いて部屋の中に入ってきた人物を見て、彼らは息を飲んだ。
 神々しい純白の翼を広げ、無表情に魔族どもを見下ろす天使の姿に。
 「邪悪なる者どもよ」
 紛れもない彼女の声で、静まり返った広間に言葉が響く。
 「聖なる光の女神の名において、お前たちを粛清する」
   圧倒的な違和感をまとって、彼女はさらに歩みを進めた。青年の傍らに並んで立ち、まるで汚いものでも見るような蔑んだ目付きで部屋の中を見回す。ぞっとするような、冷たい顔だった。
 「姉ちゃん」
 キューブが呼んだ。サロメの顔がそちらを向く。
 「なぁ、やっぱ姉ちゃんだろ?何…やってんのさ」
 だが、彼女の表情は何一つ変わる事はなかった。
 「魔族などに気安く呼ばれる覚えはない」
 そう言って、すっと右手を上げた。キューブに向って伸ばされた掌に、輝く光が球体となって現れる。それは、聖なる力を源とした強力な魔法だった。
 「やめるんだ、サロメ!!」
 とっさにラファエルが飛び出した。オズボーンが防御の魔法を使ったが、冷酷な天使の力はやすやすとそれを上回り、部屋の中はしばしの間、閃光に満たされた。
 やがてその光が消えた時、そこには傷つき倒れた魔族たちが横たわっていた。
 「オズボーン!」
 カトレアが悲鳴を上げた。転生を繰り返すオズボーンの肉体は、普通の人間と何ら変わるところはない。胸をえぐられ、流れ出す赤いものが葡萄色のカーペットをさらに濃く染めていく。もちろん、彼女とて無事なわけではないが、それでも必死で小さな体をかき寄せた。
 「人間…だったの?」
 サロメが首を傾げた。
 「ここにいるのは魔族ばかりだと思っていたのに」
 純粋に不思議がっているその顔に、ラファエルが尋ねた。
 「まさか…俺たちの事が、分からないのか」
 答えはない。傷ついた魔族など無視したまま、サロメと青年は何事か話し合っている。そして、再び彼らの方へと向き直った。
 「まぁ、人間であろうとなかろうと、魔族に与した事実に変わりはない」
 青年が言った。剣を振り上げて、彼はラファエルの前に立った。
 「覚悟しろ、この悪魔め!」
 白銀の刃が振り下ろされる。避けようと思えば、それは簡単な事だった。
 だが、サロメが、向うにいる。
 その事実が、彼から、そして皆から、戦う気力を奪っていた。
 「ラファエル」
 誰かが呼んだが、それも聞こえないかのようにラファエルは立ち尽くし、刃を浴びた。あふれ出す血も構わず、彼は言う。
 「違う…こんなのは、お前じゃない」
 「私は、私よ」
 彼女は答えて、また光の玉を編み出す。
 「おしゃべりは終わりにしましょう――葬ってあげるわ」
 さっきの光球より一回り大きい輝きを構えて、天使は微笑んだ。
 違う。こんなのは、サロメじゃない。
 誰もがそう思いながら、けれどもやはり手を出せないまま、じっと立ち尽くしてしまう。
 「ダ…ダメです!」
 その光景に、ただ一人、魔族ではないセスだけが行動を起こせた。窓際に立っていたガイラーにしがみつくように飛びついて、開け放たれた夜の空へ向って彼を押した。
 「おい!」
 「お逃げください!みなさまも!!」
 忠実な侍女は、主人を崖下へと突き落とした。
 「お前…人間なのに、魔族に味方するのか!」
 青年が叫ぶ。それに応じて、サロメが構えた掌をセスへと向けた。
 「ダメだ、させるな!」
 魔族たちが彼女をかばう。だが、天使の魔法の直撃を受けて、ただで済むはずはなかった。
 気を失ったセスの上に折り重なるように倒れていたドレインが、霧となって消え失せる。カトレアも苦しげな表情を残して、影に潜んで姿を消した。キューブもすでに人の姿を取ることは出来ず、小さな蟲へと形を変えた。そのまま、逃げ出すより方法はない。
 それでも。
 「サロメ…お前は」
 ラファエルは、最後まで残った。体力は奪われ、魔力は尽き果て、傷だらけになった姿で、愛しい人の前に立つ。
 だが、彼女は、表情一つ変えず、三度目の魔法を放った。
 何故?
 薄れていく記憶の中で、彼は尋ねた。
 本当に…お前なのか……!?

 「何か変だと思ってたんだよ、ずっと」
 怒りを含んだ口調で言いながら、彼は空中をなぞった。それは十字の形をした、あるものの姿を描き出した。
 「少し冷静に考えれば分かる事だったんだ」
 記憶を失ったからといって、持って生まれた性格がそう簡単に変わるものではない。身についた技術や癖も、また同じだ。
 シェーンベルグは、悪魔の行為をずっと不思議そうに眺めていた。封印を解くのではなく、この石牢の中から何かを探し出そうとしているかのようだ。
 「……聞こえた」
 ぽつり、とラファエルがつぶやく。聖騎士もそれにつられて耳を澄ませた。言われてみると、確かにどこかからか細い声が聞こえてくるような気がする。だが、分厚い石の扉はぴたりと閉ざされて、外からの物音は聞こえないはずだった。
 「我が名はラファエル、お前の姿を知る者だ」
 自信に満ちた声で彼は言った。
 「どこにある、聖剣カテドラルよ。今、封印を解いてやろう」
 その言葉とともに、再び十字の形を描く。すると、それと同じ形の十字の光が、ぼうっと石の扉に浮かび上がった。
 助けて、とシェーンベルグの耳には聞こえた。
 「我は汝の主、サロメの友」
 ラファエルは石の扉を撫でながら言う。
 「サロメの代理として、我、ラファエルが命じる。捕縛の鎖を断ちて、我が前に姿を現せ!」
 すると。
 一瞬光が強くなった後、一振りの剣が扉の前に現れた。まるで扉をすり抜けて来たかのような唐突さだった。
 刀身はわずかに50センチ程度、すんなりとしたフォルムの簡素な小剣だったが、白銀のきらめきは地下牢には不似合いなほどの眩しさを放っていた。
 「おおっと」
 剣が床に落ちるのを避けて、ラファエルが数歩後退した。そして、シェーンベルグを振り返った。
 「立てるか?立って歩けるようなら、こいつを拾ってくれ」
 「…いいけど、どうして?」
 「この剣、俺には触れないんだよ」
 苦笑いして、彼は聖騎士に説明した。
 「こいつは聖剣カテドラル。サロメが天界にいた頃、女神様から直々に賜ったっていう、ありがたーい代物だ。だから、どんなに頑張っても、俺には触る事が出来ん」
 四つんばいで近付いてきたシェーンベルグは、恐る恐る剣の柄に触れた。その途端、温かい力が急激に彼に流れ込んできた。
 驚きの表情を隠せないまま、彼は剣を握りしめて立ち上がった。
 「やっぱ、聖騎士とは相性がいいみたいだな」
 「そ…そのようだ。何だか、体力がどんどん回復していくみたいだ」
 剣を構えたまま、ラファエルの方に向き直る。さすがに、これには彼もぎょっとした表情を見せた。
 「俺に向けるのはやめてくれ。心臓に悪い」
 「あ、す、すまない」
 あわてて切っ先を下に向け、聖騎士は微笑んだ。
 「しかし、どうしてこんな大切なものがここに?」
 「大事だからこそ、こんな所にあるのさ。たぶん、こいつには、サロメの記憶が封じ込めてあるはずだ」
 いくらアクエリアスが天使と言えども、同等の能力を持つ相手の記憶は簡単に封じたり出来るものではない。だから彼女は、女神の祝福を賜っている強力な剣を触媒にしたのだ。そして、さらにそれを大神殿の地下へと封印した。さらに強力なマジックアイテムと化した剣は、石扉の封印としても非常に有効な鍵となり得た。
 そして、ここに閉じ込められた者の一体誰が、鍵が扉に隠してあることを見抜けただろう?
 「…よく分かったな」
 シェーンベルグは、改めて目の前の悪魔の強さと賢さを思い知らされていた。
 だが、ラファエルは感嘆の声をあげる彼に、首を振って見せた。
 「あの日、サロメは、魔族を倒すためにそいつを使わなかった。女神から貰った聖剣だぜ?天使なら、絶対使うだろ」
 「それは、そうだ」
 自分だって、もし大司教やもっと上の聖職者、例えば教皇などから剣を下賜されれば、それがどんなに手に馴染まなくとも使うだろう。それが強力な聖剣ならなおさらだ。
 「でも、記憶が封印してあったら使えないよな」
 「そう。おまけに、あの時のサロメは」

 「最初ッから、サロメ本人じゃなかったんだ」
 めきめきと音がして、分厚い板が引きちぎられていく。
 鍵開けなどという小洒落たことなどガラではないし、そもそも最初から出来はしないのだ。だから、ガイラーは、力任せに反省房の錠前をつかみ、ひねり、ドアからもぎり取ろうとしていた。普段から鍛えている筋肉があってこそ出来る力技だ。
 やがて、鈍い音とともに、錠は役目を終えた。
 「サロメ」
 歪んだドアを押し開けて、彼は手を差し伸べた。
 「…はい」
 折れて尖った板の破片にもまるで傷つかない頑丈な手を取り、彼女はうなずく。見た目は何故かアクエリアスだが、中身はまぎれもなくサロメだった。
 ガイラーは確信していた。
 あの日も、こんな風に、この赤毛の女とサロメの外見だけが入れ替わっていたのだ。大司教と共に入ってきた彼女を見た時に感じた違和感は、それが原因だったのだ。
 「客間ってどこだ?あいつらはまだ、そこにいるはずだ」
 「案内します」
 サロメは先に立って廊下に出た。ガイラーも抜き身のミュラーを片手にしたまま、彼女の隣に並んだ。
 「ねえ、聞いていいかしら?」
 ふと、彼女は青年を見上げた。
 「顔が違うのに、どうしてわたしがサロメだと分かったの?」
 「……長い付き合いだからな」
 少し言葉を選んで、ガイラーは答えた。
 「長い、付き合い」
 「ああ。何年になるかな」
 三千年ぐらいだと言ったらさぞかし驚くだろうと思いながら、それは黙っておく事にする。が、サロメはとても聞きたそうな顔をしてじっと彼を見上げていた。
 「昔のわたしを、知っているんですね?」
 まるで容姿が違うので、ガイラーとしても振り向いて顔を見る度に驚くが、そこに浮かべている表情は何も変わっていない。彼は笑った。
 「別に、今と変わりゃしねーよ」
 「どういうこと?」
 「自分が何で、俺たちが誰か。それを知らないだけで、後は何も変わってねぇ」
 二人は並んで角を曲がる。筋肉の塊のようなごつい男が物騒なエモノを手にしているというのに、サロメにはまるで警戒心がない。  一体どこのどいつが、そんなお前を騙しやがった?
 その時、廊下の向うから、彼らの姿を見つけて走り寄って来る姿があった。
 「アクエリアス様!」
 思わずガイラーの背後に隠れそうになったサロメだったが、すぐに今の自分は反省房に入っていなければならない自分ではないことを思い出し、一歩前に踏み出した。いつも自信満々の友人のふりをすべく、少し胸を張ってみる。
 「どうしました?」
 だが、相手の若い神官は気付かなかったようだ。そのまま彼女の目の前で立ち止まり、乱れた息を吐きながら言葉を続けた。
 「様子が…変なのです」
 「何の様子が?」
 「客間の様子がおかしいんです!」
 サロメとガイラーは顔を見合わせた。小さくうなずき合い、彼女が先を急かした。
 「もっと詳しく説明して。それだけじゃ、何の事か分からないわ」
 「はぁ、それが」
 神官も困ったように眉を寄せた。
 「何か妙な物音がするので、みなで入ってみようとしたのですが、全然扉が開かなくて。外から見ても、カーテンが閉まっていて中が見えないのです」
 「こんな真昼間から、カーテンを閉め切ってんのか?」
 ガイラーがつぶやいた。一瞬、若い神官は怪訝そうな顔でこの大男を見上げたが、隣には厳格なことで知られるアクエリアス高司祭がいる。怪しい人物ではないのだろう、と判断して、彼の言葉にうなずいた。
 「窓は?窓から入れないのですか?」
 「やってみましたが、ガラスが割れないんです」
 サロメとガイラーは互いの顔を見合わせた。何かが起こっているのは間違いがなく、それには確実に、大司教と客人――つまり、オズボーンたちが関係している。
 「と言う事は、本物も客間だな」
 ガイラーのつぶやきに、サロメがうなずく。そして、彼女は神官に告げた。
 「わたしが、行きます。みんなには心配しないよう、そして、客間に近付かないように伝えて」
 「…え?」
 「一般の礼拝者には悪いけど、すぐに帰ってもらって。あなたたちも、客間には絶対近付いては駄目よ」
 思わぬ言葉に、そして驚くほどに穏やかで優しい口調に、彼は面食らっているようだった。だが、赤い瞳は真っ直ぐに彼の目を捉えた。
 「いい?必ずよ…すぐ行って!」
 「わ…分かりました!」
 きびすを返して神官が走り出す。その背中が完全に消えるのを見送って、ガイラーが傍らの女性を振り返った。
 「お前…どうして、そこまで?」
 「……そうしなきゃいけないって思ったの」
 サロメはじっと廊下の先を見つめた。
 「わたしたちも早く行かなきゃ。取り返しのつかない事になる前に」
 まだ、記憶は戻らない。しかし、心には分かるのだ。
 二人は、人気のない廊下を駆け出した。


続く

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