国境地帯の平原では、トリールとサマランカのにらみ合いがここ数日続いていた。
兵の数はサマランカの方が圧倒的に優っていたが、地理的条件はトリールの陣取る南側の方が有利で、また兵の質もトリールの方が上だった。皇太子エドガーが率いる敵の主力部隊もその力を十分に発揮できず、国境を超えたところで足止めを食らっていた。
「お待ちしておりました、ポマール様、ファレリィ様」
前線の盾となっている防衛部隊の隊長が、二日遅れで到着した二つの騎士団の団長を天幕に迎え入れた。一番上座にコジャックが、その隣にソフィアが腰掛けると、隊長は二人の前に戦場の地図を広げた。
「相手の出方は?」
「それが…全く動こうとしておりません」
川をはさんで北側に展開しているのがサマランカ軍。中央でやや突出したような形になっているのが、皇太子エドガーの率いる主力部隊だ。
「それどころか、連日、皇太子から使者が来まして…大将同士の一騎討ちで勝負を決めよう、と言うのです」
「一騎討ち?エドガーが最も得意とすると言われている戦法だな」
膠着状態を打開するためには、有効な作戦である。隊長は二人の顔色をうかがうように付け加えた。
「皇太子自身が一騎討ちに臨むので、こちらもそれ相応…つまり、三騎士団の団長のいずれかと戦いたいという話なのですが…」
コジャックはしかめ面をした。
「今までは、俺たちが来ていなかったから待っていた、と言うわけか」
「はい」
「うーん、そうか…」
腕組みをしたまま、青年は傍らにいる少女をちらりと見た。最愛の兄を亡くして間もない彼女は、まだ心ここにあらず、という様子だった。
相手の男がどんな男であれ、普段のソフィアなら互角に戦えるはずなのだが…今のままでは、到底無理だな。
コジャックがそう思いながら地図に視線を戻すのと同時に、ソフィアが立ち上がった。
「あたし…あたしが、やる」
「おおっ」
喜ぶ隊長とは逆に、コジャックは明らかに困惑の表情を浮かべた。立ち上がったソフィアは、拳を握り締めてはいるが、明らかにぼーっとしている。彼はソフィアの肘をつかんで引っ張った。
「待て、ソフィア。お前、忘れたのか」
「忘れたって、何を?」
「やっぱり忘れてるな。ウォーター様から言われたろう?」
出撃前に、リャザニ方面へ向かった黒鷲の団長ウォーターから、若い二人は念入りに釘を刺されていたのだ。ソフィアはあっ、と小さな声をあげた。
「そ…そうだったわね。ごめんなさい」
ウォーターは、戦闘ではなく、和平の交渉のためにリャザニに赴いている。リャザニとサマランカの間に交わされている密約を確かめ、帝国との戦線をこれ以上拡大しないためにである。何とかリャザニから情報を引き出して戻って来るまで、決していたずらに戦闘を開始しない事、特にエドガーとの一騎討ちには応じないように、と二人はきつく止められていた。
うなだれて座るソフィアを見て、今度は隊長の方が困った表情になった。
「え…?ファレリィ様、御出陣にはなられないので…?」
「ああ。悪いが、もう少し待ってもらわなければな。こちらにも都合というものがある」
コジャックは答えて言った。
「今の状態を維持したまま、なるべく日数を稼ぐんだ。和平の条件が整うまでの辛抱だ、最前線の兵士たちには大変な心労をかけるが、どうか頑張って欲しい」
「はい、分かりました」
完全に納得した訳ではなさそうだったが、隊長は頭を下げた。叱られた子供のように、しゅん、と沈み込んでいるソフィアをちらり、と見た後、彼は天幕から出ていった。入り口の布が揺れる。
「ソフィア」
その揺れが収まった頃、コジャックはようやく口を開いた。
「ソフィア。いつまでも下を向いているんじゃない」
少しきつい口調だった。ソフィアはビクッと肩を震わせ、コジャックを見上げる。
「お前がそれでは、軍全体の士気に関わる。帰らせるぞ」
「え…」
「え、じゃないだろ!?」
コジャックは両手で彼女の肩をつかんだ。
「何やってんだ、しっかりしろよ!まだ兄貴が…そんなに大事なのかよ?」
兄貴、という言葉に反応してか、ソフィアは思わず顔を背けた。だが、コジャックは手に込めた力をゆるめなかった。
「死んだ奴が、そんなに大事なのかよ!!」
「やめて…やめて、コジャック」
力のない拒否。ふと、コジャックの声が穏やかになった。
「…俺じゃだめなのかよ」
「……」
「俺だって、一応、お前の兄貴なんだぜ…それじゃ、だめか?」
ソフィアが大人しくなった。
「俺はお前より弱いけれど、ずっとお前のそばにることなら出来る。絶対にお前より先に死んだりはしない。寂しい思いはさせない」
コジャックは、反応のなくなった彼女をそっと引き寄せてみた。抵抗もなく、彼女はすっぽりと彼の腕の中に収まる。
彼は思い切って、口を開いた。
「…この戦争に勝てたら、また勝負してくれ、ソフィア。そして、俺が勝ったら」
だが、全部言う前に、ソフィアはうなずいた。
「うん…いいよ」
「まだ全部言ってないぜ」
「いいの…あなたの言いたい事は分かってるから」
少女はコジャックの腕の中でうつむきながら言った。それは、最強を誇る男勝りのじゃじゃ馬騎士ではなかった。本当に、ただの弱々しい少女だった。
「あたしを…絶対に、置いていかない?」
癒えるはずのない傷が、まだ、どうしようもなく彼女を苦しめていた。
二度と会わない。
あれほどに恐ろしい言葉は、今までなかった。
「あたしを、一人にしないで」
「分かった」
そしてコジャックは、それに応えてぎゅっと強くソフィアを抱きしめ、それから彼女の頬に軽くキスをした。
「あっ…」
びっくりする彼女に、コジャックは笑顔で返した。
「今のはツケにしておいてくれ。必ず勝ってやるから」
もう一度、彼女は小さくうなずいた。
「トリールの騎士は、腰抜けか!」
朝日と共に、戦場に罵声が響き渡った。
「私に勝てないと思ったら時間稼ぎをするのか!名誉ある騎士たる者が、とんだお笑い種だな!!」
それは、サマランカ帝国皇太子エドガーの声だった。
堂々とした体躯から発せられる声は凛として川面を駆け抜け、トリール前線の兵士たちのもとに届いた。彼はその姿を最前線に現して、堂々と騎士団を愚弄しはじめたのだ。彼の台詞に続いて、サマランカ兵たちが一斉にブーイングを始めた。
だが、ばっ、とエドガーが片手を上げると、それはぴたりと止んだ。
「あと三日だけ待つ!」
彼は告げた。
「それ以上はまからん。それでは、せいぜい墓石でも磨いて用意しておくんだな!」
どっと湧き起こる哄笑の中、エドガーは自軍の兵士の中に消えていった。同時に、トリール軍では、不服そうなざわめきが広がりはじめた。
「構わん。言いたいように言わせておけ!」
兵士たちの不満を伝えに来た部隊長たちに、コジャックはそう答えた。
「ですが…」
「分かっている…だが、まだ時機ではないのだ」
それも分かっている。ただ、コジャックとソフィアに皆が期待しているからこそ、一向に戦おうとしない二人に苛立ちがつのっているのだ。
「いいか、絶対に挑発に乗るな。我々は絶対に勝たなければならないんだ。ここで負けたらすべて終わりなんだからな」
「…はい」
すごすごと退出する兵士たちを見送り、二人はどちらともなく顔を見合わせた。言いようのない不安が彼らの間にあった。
もとより勝てる見込みの低い戦いである。唯一勝算の高い一騎討ちを拒んで、一体どうしようというのか。士気は下がり、二人の騎士団長に対する不信感は高まるばかりだった。
長い一日が過ぎ、次の朝が来る。エドガーは再びトリール軍の前に現れて、二人を罵倒した。
卑怯者、臆病者、お飾りの団長。ガキと女か。それでは無理だ。
「コジャック…もうだめ、あたし、我慢できない」
ソフィアは言った。
「あんなに酷い事を言われて、みんなも腹に据え兼ねているわ…お願い、あたしを戦わせて」
「だめだっ!」
コジャックは激しい口調で答えた。
「あともう一日、それだけ我慢するんだ。必ずウォーター様が戻って来て下さるから、それまで待つんだ!いいな!?」
「う…うん……」
だが、三日目の朝、コジャックの不安は的中した。
「トリールの臆病騎士ども!今日が最後の日だぞ!…それとも、私が恐ろしくて言い返すことも出来ないのか!?」
いつもの様に、エドガーの大音声が戦場に響いた。ため息にも似た嘆きの声がトリール軍を包む。
今日も…今日も我々の指揮官は、勇敢に立ち向かってはくれないのか。このまま、勝ち目のない消耗戦が始まってしまうのか。
その時。
「黙れ、黙れえッ!!」
突然、ソフィアが叫んだ。
トリール軍がざわめく。兵士たちが思わず道を開ける。彼女は真っ直ぐその道を進み、浅い小川を挟んでエドガーと対峙した。
「これ以上、我々を愚弄することは許さないッ!」
剣を抜き、不遜な敵の大将に向ける。エドガーは嬉しそうに笑った。
「女の子か…ということは、君が、白薔薇騎士団の団長か?名前をお聞かせ願おうか」
「ソフィア・ファレリィ」
彼女は胸を張って答えた。
「ソフィア…いい名前だな。だが、そんな小さな体でちゃんと私の相手が出来るのだろうな?」
「失礼な!」
確かに、ソフィアは小さい。背の高いエドガーと比較すると、まるで子供のようである。
だが、彼女には自信があった。兄から教わった剣の腕、そして父から受け継いだ力が。
「あたしは負けない!いつでも勝負を受けて立つわ!」
「いいだろう…」
戦場は、しんと静まり返った。
エドガーが片手を上げると、そばに控えていた兵士が、ソフィアの身長ほどもありそうな大剣を両手で掲げて差し出した。皇太子はその剣を片手でひょいとつかみ、天を指した。
「この一騎討ち、君が勝ったら、兵を引こう…少なくとも、私が生きている間は、二度とトリールには手を出さないと誓う」
その場にいる全員に聞こえるように、彼は言った。
「だが、私が勝ったら」
ソフィアはじっと相手を見つめた。
「君をもらう」
「え……?」
トリール軍がざわめく。エドガーは片手で彼らを制し、大きな声で告げた。
「私はソフィアに聞いている!どうだ、ソフィア?異存はあるかな?」
再び、辺りは静寂に包まれた。皆がソフィアの返事を待っている。
「あたしは…」
喉がからからに渇いている。ソフィアは一端唾を飲み込んで、続きを口にした。
「それでいいわ」
「待て、ソフィア!!」
その時、ひしめき合った兵士の間をかき分けて、コジャックが出て来た。彼はソフィアの腕をつかんで振り向かせ、厳しく叱責した。
「馬鹿野郎、何をやっている?」
「これでいいのよ。あたしがやるから、心配しないで」
「なっ…」
彼女の顔には、揺ぎのない決意が満ちていた。
「大丈夫、必ず勝つわ」
「でも、ソフィア」
心配の色を隠せないコジャックに、ソフィアは微笑んで見せた。
「これで、全部終わりにするから…心配しないで」
まるで、散る前の花のようだとコジャックは思った。嫌な予感が胸をよぎる。
まさか。
「まさか、お前、相討ちなんて考えてないだろうな!?」
「勝つって言ってるでしょう」
今度は怒りをあらわにして、少女は青年をにらみつけた。
「もういいから、下がってて!」
気圧されたコジャックを後に、ソフィアは再びエドガーの方に向き直った。
「お話は済んだかな?」
「ええ。ごめんなさいね」
「それでは…」
エドガーは高らかに宣言した。
「お互い、準備も必要だろう。そこで」
大剣で太陽を指し示す。
「太陽が南中した時、再びここで会おう。その時が勝負だ」
「分かったわ。楽しみにしているからね!」
二人が互いの手を上げ、約束を交わすと、両軍の兵士がわっと歓声を上げた。