二重奏(1)
「今から二百と六年の昔、僕は西方の小国の宮廷詩人だった」
シャライはリュートを抱え、静かな口調で語り始めた。
「古代国家は一つではなかった。我らが大地、ドラコリーラの中央に位置するは、最強の軍事国家、憎きラシェード帝国……」
帝国は、世界のほとんどを支配していたが、その支配力の及ばない地域が三ヶ所だけあった。ひとつは北方の海に浮かぶ極寒の地、氷の国ハイランド。一つは東南の島国アルシエラ。そして、ドラコリーラ大陸の西の端、コルドラ半島にある歴史ある小国、神聖王国トゥティア。
シャライは、神聖王国トゥティアの宮廷詩人として、王城に招かれた。
国王ティアーグ・エルト十八世は、首から紫色の竜牙を下げた、たくましい体つきの中年の男だった。
「吟遊詩人、シャライ・ヴェイダ・リストークよ。そなたの美声はトゥティア一、いや、世界一と聞いた」
謁見の間に通された彼は、喜びに震えながら王の言葉を聞いていた。
「そこでそなたに頼みがある。聞き入れてもらえるか?」
「はっ、このわたくしに出来る事であれば、何なりと」
「それを聞いて安心したぞ」
王は満面に笑みを浮かべた。
「余は、そなたの歌と声とを聞いて大変に気に入った。そこで、そなたを王宮付きの宮廷詩人として招きたい」
「は、喜んで」
シャライが頭を下げると、王は玉座から立ち上がった。ゆっくりと靴を鳴らし、詩人のそばまでわざわざ段を下りて、その耳元に口を寄せた。
「それだけではないのだ、シャライ」
「……と、申されますと」
「まだ民人には告げておらん。王城でも知る者は少ないのだが…間もなく戦が始まるのだ」
「戦」
彼は驚いて王を見上げた。
「そうだ。相手はラシェード帝国。我が国の安全を守る代わりに、国の財産の半分と、我が娘を皇帝の妻にと手紙を寄越したのだ」
ティアーグ王の紫色の瞳は、怒りに満ちていた。
王妃亡き後、王自らがいろいろと世話を焼いて育てた美しい一人娘、テュリア姫。文字通り目に入れても痛くない愛娘を、よもや自分より年上の皇帝ドゥランディスにくれてやるなど、到底出来ない相談だった。テュリア姫がいなければ、王の死後にトゥティアを継ぐ者もいなくなる。そもそも、帝国が約束を守るかどうかも、最初からあやしかった。
いずれにせよ、帝国がこの小さな国を支配下に置こうとしている事は間違いなかった。
「もちろん、断られたのですね?」
「当り前だ!」
王は立ち上がった。
「誰がみすみす彼奴らの手に、この伝統あるトゥティアを渡せるか!そう言って、使者の首を切って返した」
威勢良くそこまで言ったが、すぐに王は肩を落とした。
「それが昨日のことだ。だから、すぐにでも戦の支度を整えねばならん。使者が切られたと知れば、奴らはすぐに攻めてこようからな」
「なるほど…左様でしたか」
シャライのもう一つの役目はすぐに分かった。
急いでかき集められるであろう民兵を十分な戦力として戦わせるために、吟遊詩人の歌が必要なのだ。魔力のこもった歌は、聞いた者の勇気を奮い立たせて勇敢な兵士にする事が出来る。また、逆に敵の士気をくじいて腑抜けにすることも可能なのだ。
しかも風の龍の子であるシャライならば、自らの歌声を大きくしたり、風に乗せてより広い範囲に歌声を届けるという術法も使えるのである。
戦は嫌いなシャライだったが、母国が踏みにじられるのはもっと許せなかった。彼は、深々と王に頭を下げた。
「戦歌の歌い手、喜んで務めさせていただきます」
「おお…そうか!やってくれるか、シャライ!」
周りに並んでいた大臣たちも、口々に喜びの声を上げた。
「ありがたい…本当に、いいのか?」
「ええ。やらせて下さい」
王はシャライの両手を握りしめた。
「心から礼を言うぞ、シャライ…そなたほどの歌い手が味方なら、百人、いや、千人の兵に匹敵しよう」
ティアーグ王はうっすらと涙さえ浮かべていた。
それもそのはず、たった一人で絶大な効果をもたらす吟遊詩人は、目立つ故に狙われやすい。下手な将軍などよりも、よほど危険にさらされることになる。
それでも、シャライは、この誇り高い任務を受ける事に喜びを感じていた。
「陛下こそ、わたくしのような若輩者を直々にご指名くださるなど…わたくしは幸せでございます」
その時、玉座の後ろにある小扉がぱたんと開いた。
「お父様。吟遊詩人が来てるのですって?」
父親譲りのスミレ色の髪、アメジストの瞳がシャライを見つけて輝く。時間と運命を支配する、紫の龍の種族には美男美女が多いとされているが、少女は中でも特に愛らしかった。
「ご機嫌うるわしゅう、テュリア姫様」
シャライが会釈すると、テュリアはまっすぐ傍まで来て、父親と彼の間に割って入った。ちょっと格好をつけて、白い手をさっとシャライに差し出す。吟遊詩人は微笑み、片膝を折って、小さな姫の手の甲に恭しく口付けをした。
「あなたが吟遊詩人ね。名前は何というの?」
「シャライ・ヴェイダ・リストークと申します。風の眷属にございます」
「風のシャライね。カッコいいじゃない?」
テュリアはくるりと回って父の腕にすがり、甘えた声を出した。
「ねぇ、お父様、何か歌ってもらいましょうよ。とても素敵な声だわ」
「う、うむ、そうだな…」
ティアーグ王はすっかり頬が緩み切っている。だが、来るべき戦に備えて山ほどの準備をしなければならない彼は、心を鬼にして自分を押しとどめた。
「テュリアよ、わしはこれから大臣たちと大切な会議がある。残念だが、お前と遊んでやる事はできん」
そう言った後、シャライの背中をどんと叩いて前に押し出した。
「その代わり、シャライの歌を存分に聞かせてもらうがいい」
「いいの?」
「ああ」
王は詩人に目配せした。
「シャライよ、すまんがテュリアと遊んでやってくれないか。見ての通り、まだ子供ゆえ」
そして、小さなささやき声で続けた。
「そなたも、ゆっくり歌えるのはこれが最後かもしれんからな」
「はっ、かしこまりました」
シャライはうなずいた。それを待っていたかのように、姫は早速彼の手を引いた。
「それじゃ、こっちにいらして。中庭へ行きましょ!」
歩き出す二人の背中に、王の暖かい声が飛んだ。
「テュリアよ、あまり我侭を言ってシャライを困らせるのではないぞ。よいな」
「戦が始まるのでしょ?」
シャライを従えて中庭への通路を歩いていたテュリア姫は、急に立ち止まって振り向いた。
見上げる彼女の胸元で、父親とお揃いの紫の竜牙が揺れた。
「隠さなくてもいいの。だって、あたしには見えるんですもの」
「見える…?」
「そうよ」
そして、姫はぷいっとすねた様にそっぽを向いた。
「あたしを何だと思ってるの?運命の種族なのよ」
シャライはすっかり忘れていた。未来を見通す力のある時と運命の姫が、父王と祖国に何が起こりつつあるのかを知るのは、シャライがそよ風を吹かせるのと同じぐらい簡単なことだった。
「あたしが原因なのでしょ?」
テュリアはシャライの胸に両手を叩き付け、彼の顔を見上げた。
「あたしが、ドゥランディス皇帝のところへお嫁に行けば、戦は防げるのでしょ?」
「何を馬鹿なことを仰るのです!」
シャライは思わず彼女の肩をつかんで叱咤した。
「皇帝は、ティアーグ王よりもずっと年上なのですよ?そんな老人のところへ、それも妾妃として嫁ぐなんて、あなたが可哀相過ぎる」
「でも…」
紫色の瞳が哀しげにうつむいた。
「この戦を止めなければ、多くの人々が悲惨な目に会うわ。未来を見る目がなくても、見えることだわ…特にシャライ、あなた」
テュリアの声が震えた。
「なんだろう…このままじゃ、あなた、とても酷い…辛い目に会うような気がするわ」
シャライは、その言葉に一瞬寒気を覚えた。だが、そんな漠然とした不安はかなぐり捨てて行くしかない。例え運命の術を用いても、見える未来は数多くある可能性の一つに過ぎないのだから。
「大丈夫です。僕はただの歌い手であって、名のある将軍でもなければ、前線に立つ兵士でもありません。後ろの方でちょこっと手助けするだけなんですから」
「そう…?なら、いいけど」
再び姫君は歩き始めた。シャライはリュートを抱え、黙って彼女の後ろについて行く。しばらく無言のまま、二人の靴音だけが静かな廊下に響いた。
だが、重苦しい沈黙は、一人の女性の声によって打ち破られた。
「テュリア様!どこにいらっしゃったかと思ったら…そんなところで、何をなさっているのです?」
まばゆいばかりの金の髪、空の色を映した青い瞳。
とびきり美人というわけではなかったが、わずかに怒りの表情を見せながら近付いてきた彼女を、シャライはただ呆然と見つめていた。
「お父上はお仕事中なのだから、あれほど遊びに行ってはいけませんと…」
姫にお説教を垂れる途中で、初めて彼女は傍らにぼうっと突っ立っている青年に気づいた。
「あ、あの、あなたは…一体?」
「今度新しく来てくれた宮廷詩人よ」
テュリアに紹介され、シャライははっと我に返った。
「シャライ・リストークと申します」
優雅な身のこなしで一礼する。彼女はにっこりと微笑んだ。
「なるほど。新しい詩人殿がおいでになるとは聞いていたけれど…こんな素敵な殿方だとは思いませんでしたわ」
「そうでしょ、そうでしょー!」
彼女がシャライを誉めると、たちまちテュリアも顔をほころばせて彼女にじゃれついていった。
「シャライってば、とってもカッコいいでしょー?」
「ええ。これは、他の女官には見せたくありませんね」
「そうでしょーっ!!」
二人の乙女はハンサムな青年を前に、たちまち盛り上がってしまい、シャライはぽつんと取り残された。
結局、シャライが彼女の名前を聞くことが出来たのは、それからたっぷりと半刻も後の事だった。
彼女の名前は、アイティーア。テュリア姫の側近、親衛隊長である雷のアイティーア・カッセルと、戦の歌い手、風のシャライは、こうして出会った。