最期の歌



 二重奏(2)

 それから丸二日ほど、平穏な時間が過ぎた。
 シャライはティアーグ王や大臣たちといるよりも、テュリア姫やアイティーアと共に過ごす時間の方がはるかに多かった。王も、それを望んだ。
 三人で過ごす、歌と笑いにあふれた二日間。今にして思えば――こんなに楽しい時間はなかっただろう。だが、時は容赦なく、彼らの間を過ぎていく。
 彼が宮廷詩人として、そして戦の歌い手として王城に迎え入れられて三日目。
 ついに国王は、民の前で戦の始まりを告げた。城のバルコニーの下には、城下町の民がいっぱいに集まり、騒ぎ立てた。自分たちの国王を称える声と、卑怯なラシェード帝国、皇帝ドゥランディスを罵る声が町中にあふれた。
 シャライもバルコニーに立ち、民人に紹介された。
 その場にいる全ての人々の熱い視線を浴びながら、勝利を祈る歌を高らかに歌い上げる。例えようのない高揚感に包まれながら、美しい声を響かせる。
 やが歌い終えたシャライが一人、城内に戻ると、そこにアイティーアが待っていた。いつも二人と一緒にいるテュリア姫は、今は王と一緒にまだバルコニーに立っていた。
 「シャライ殿」
 アイティーアは、周囲に誰もいないのを確認すると、そっと彼の隣に立った。
 「何でしょう?」
 「二人きりでお話があります。今なら、姫に見つからずにすみますから」
 「分かりました」
 彼は静かにうなずいた。
 確実に迫り来る戦への恐怖心からか、テュリアはいつも必ず二人が傍にいることを要求した。シャライが王に呼ばれた時と、夜眠る時だけはさすがに彼とは離れたが、アイティーアと離れることは決してなかった。そのため、一緒にいる時間は長くとも、二人きりになったことはなかったのだ。
 シャライは先に立つアイティーアの後ろを黙って歩いた。彼女も黙っていた。
 「ここにしましょうか」
 彼女が口を開いたのは、テュリアの部屋の前まで来た時だった。シャライの返事も待たず、静かに中に入る。シャライも続いた。
 「本当に戦の歌い手をなさるのですか」
 ドアを閉じる時間ももどかしいかのように、アイティーアは言った。
 「ええ。やらなければなりません」
 「何故です?」
 強い口調で言いながら――わずかに顔を伏せて、彼女は、シャライの胸に飛び込んだ。
 突然のことだった。
 だが、シャライは一瞬の迷いの後、そっと彼女の肩に手を置いた。こんな展開になるとは思っていなかった。しかし、初めて見た時から、いつかこうなることを願っていたのだ。
 「何故、あなたが、そんな危険なことをしなければならないのですか」
 青い瞳が、強い光で彼を捕らえた。
 「この国を守るためです」
 「勝ち目のない戦いなのに」
 アイティーアは顔を伏せた。
 「あなたが戦うのは、テュリア姫のためではないのですか?…違うのですか?」
 声に苦渋がにじみ出ていた。腕利きの親衛隊長として、正義を象徴する雷の誇りにかけて、言えないことがあると、声にははっきりと表れていた。
 「それもある。でも、それが全てじゃない」
 シャライは答えた。
 「僕が戦うのは」
 「テュリア様は」
 しかし、彼の言葉はアイティーアによって遮られた。
 「あなたのことを愛しておいでです。しかし、姫と結婚すれば、あなたを待ち受けているのは死よりも辛い運命だとは…気づいておいでですか?」
 トゥティアが負ける。国王は討ち取られ、姫は囚われの身となる。敗軍の姫とはいえ、テュリアは気品もあるし、美しく、何より若い。帝国の貴族や、ましてや皇帝が、己の妃に…いや、妾の一人にしようとするのは間違いない。
 「その時、姫に夫がいたら、一体その男はどうなります?」
 アイティーアは苦しげに続けた。
 「姫は敵将の妾になるなど、絶対に拒むでしょう。そうなれば、姫が愛するその男を待つのは、考えるのもおぞましい責め苦となるでしょう。彼を愛するが故に姫が首を縦に振っても、彼は解放される事はない。殺されるのならまだましでしょう、もしかしたら、一生の間…」
 「僕にどうしろと言うんだ」
 話がよく分からない。
 苛立つシャライに、彼女は無言で答えた。
 白い指が儀礼用の薄い衣服にかかった。悲鳴にも似た高く細い音とともに、布地は引き裂かれていく。ほっそりとした首に、豊満な乳房があらわになった。
 アイティーアの行動が分からず、彼は呆然と立ち尽くした。
 「何の…つもりだ、アイティーア?」
 「あなたはあたしを襲ったのよ、シャライ殿」
 「な…何!?」
 彼女は、自ら破った服をかき集めて胸元を隠した。
 「汚らわしい男。テュリア姫は、怒り狂ってあなたを追放するでしょう。そうすれば、姫の夫になることも、戦の歌い手をすることもない」
 悲しげな声に、シャライは確信した。自分のマントを外して、それでアイティーアを包み込んだ。
 「最初は祖国のために戦おうと思っていた。陛下と姫に会ってからは、国と陛下と姫とを守ろうと思った。そこでアイティーア…あなたに会った」
 一旦そこで言葉を切り、シャライは腕の中の彼女を見た。アイティーアは自分で自分を抱きしめて、じっとうつむいていた。
 「あなたは僕に逃げ出して欲しいらしいが、僕としては、そういう訳にもいかない。この世で一番愛する人を残して逃げるほど、僕は臆病でも卑怯でもない」
 アイティーアがわずかに身じろぎした。
 「テュリア姫のことはもちろん好きだ。だけど、僕が心の底から愛しているのは…あなただ、アイティーア」
 シャライの腕に力がこもった。マントの中でアイティーアがごそごそ動き、ややあって顔を上げた。頬に、わずかな朱が差していた。
 「……本当?本当なの、シャライ?」
 「本当だ」
 彼はもっと力を込めて、彼女を抱きしめようとした。
 だが、その瞬間、何の予告もなく部屋の扉が開け放たれた。二人は慌てて飛び離れたが、もう遅かった。
 テュリアは、二人が間違いなく抱き合っているのを見た。
 もし、見ていなかったとしても、もって生まれた能力と、女性としての直感で分かっただろう。
 「テュ、テュリア様」
 アイティーアはあわてて平伏した。紫の姫は黙って彼女を見ていたが、みるみるうちにその瞳から涙があふれ出した。
 「遅かったのね」
 姫はつぶやくように言った。
 「悪い予感がしたから、急いで戻ってきたのに…もう、遅かったのね」
 そして彼女は、泣きながらシャライの方へ向き直った。
 「言ったのね、シャライ。アイティーアのことが好きだって、言ったのね?」
 「……はい」
 シャライはうなだれた。
 アイティーアは土下座したまま、動かなかった。テュリアは、二人を代わる代わる見て、ゆっくりと嗚咽の合間を縫って話し始めた。
 「知ってたわ。シャライがアイティーアを好きな事も…アイティーアがシャライを好きな事も。全部知ってたわ…だから、だから、二人きりにしたくなかったのよ!」
 涙のしずくがぽたぽたと床に落ち、カーペットに吸い込まれては消えていく。
 「全部…全部、知ってたんだから……!!」
 テュリアは、ひとしきり、泣いた。恥ずかしげもなく声を上げ、顔を覆い、泣きじゃくった。
 そして、次に顔を上げた時、彼女は笑っていた。
 「決めたわ」
 妙にさっぱりとした顔つきで、彼女は言った。
 「この戦が終わってトゥティアが勝ったら、あたしとシャライの婚礼を行うわ」
 平伏していたアイティーアの体が、びくりと震えた。
 「アイティーアは、しかるべき貴族のもとへ嫁ぐのがいいわ。従兄のゲイリー兄様なんてどうかしら?だって、小さい時からずっとあたしに仕えてくれてきたんだもの。もうそろそろ、幸せになってもいい頃よね?そうよね?」
 しゃべるうちに、再びテュリアの声にすすり泣きが混じり始めた。しかし、彼女は言葉を止めなかった。
 「あとでお父様にお願いしておくわ。いいわね、二人とも?」
 二人とも、何も答えられなかった。
 シャライはアイティーアが両の拳を握りしめ、小刻みに体を震わせているのに気がついた。声もなく、泣いている。
 駆け寄って、抱き起こしてやりたかった。しかし、目の前にいるのに、彼女はとても遠くにいた。しかも、二人の間には、テュリアが立ちはだかっていた。
 「返事は!?」
 紫の姫は言った。
 先に口を開いたのは、アイティーアだった。
 「お……仰せの、通りに」
 彼女は、さらに頭を低くして答えた。生まれた時から主人である者に、逆らうことなど出来るはずもない。
 何も出来ず、ただ立ち尽くすシャライの腕に、いつの間にかテュリアが腕をからみつかせていた。
 「ね、シャライもいいでしょ?」
 彼女ははしゃいで言った。
 「きっとお父様はもうご存知でいらっしゃるわ。きっと、喜んでくださってるわよ」
 シャライはしがみついてくる少女を見下ろした。
 「シャライ、返事をして。戦に勝ったらあたしの夫になると約束して。神龍に誓って!」
 それ以外の返事を求めない、まっすぐな紫の瞳が、彼を縛りつけた。
 「………分かりました、姫」
 力のない微笑が、シャライの顔に浮かんだ。
 「風のシャライ、我が神龍、カーフ・レスートの名において」
 愛する人が、泣いていた。
 「運命のテュリアに誓う。この戦に勝った暁には、姫、あなたと結婚いたします」
 シャライは誓いの言葉を最後まで口にした。神龍の名を用いての誓いには、絶対の力があるとされている。もし破ったならば、もはや神龍の加護を受ける事も出来ず、力を失い滅びていくしかない。
 テュリアの顔が喜びに輝いた。
 「本当ね?本当なのね、シャライ!」
 「ええ」
 彼女はためらうことなく彼の胸に飛び込んだ。シャライの腕は半ば反射的に姫君を抱きしめたが、目は、アイティーアを見つめていた。
 アイティーアは静かに立ち上がった。
 「着替えてまいります」
 淡々とした調子で、彼女は言った。シャライの顔を見ようとはしなかった。
 「シャライ様、しばらくこのマント、貸して下さいませ」
 「アイティーア殿」
 彼は、出て行こうとする彼女に声をかけた。立ち止まり、アイティーアは背中で次の言葉を待った。
 「それ、差し上げます」
 それだけ言うのが精一杯だった。アイティーアは背を向けたまま軽く一礼すると、静かな足取りで部屋を出て行った。


続く

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