戦歌(1)
翌日、ラシェード帝国の軍により、国境線が破られたという報せが王城に届いた。小さな村々は容赦なく攻め滅ぼされ、前線に派遣されていた部隊も散々な様子で退却してきた。もとより、トゥティアは小さな国である。さらにその次の日の夕刻には、帝国軍は王都の東に広がる草原にまで兵を進め、悠々と天幕を張った。
夜、王城で行われた会議は、暗く沈んだものとなった。
「どうすればいいのだ…!」
たった一日で、王は人が変わったようにやつれた。シャライは王の隣に席を与えられ、同じように暗い顔でリュートを抱えていた。
「陛下、そう暗いお顔をなさっては、ここにいる我々も勝てる気分が致しませぬ。ただ悩むのは、どうかお止めください」
若い貴族が言うと、王はすまなそうに顔を上げた。
「それは分かっている。だが、何もいい案が浮かばぬ」
大きなテーブルの上には東の草原の地図が広げられていた。南北に細い川が流れているだけの平原の東側には、三万を軽く越えるであろう大軍が陣取っている。明日の朝になれば一気に押し寄せ、叩き潰すつもりなのだろう。
それに引換え、トゥティアの兵はわずかに数千。それも全土からかき集めたため、城より西方の町はもはやがら空きになっていた。つまり王都を落とされてしまえば、それで終わりとなる。その上、何の障害もない草原での戦いは、小細工が使えない分、数が多いだけで圧倒的に有利だった。
「向うの軍の大将は、皇太子デリュート。その首さえ討ち取れれば、言う事はないのだがな…」
炎のデリュートに対抗するため、トゥティア軍には水と氷の種族で構成された精鋭部隊が編成されていた。が、相手に近付けないのでは、手の出しようがない。うまくデリュートをおびき出す方法がないかと誰もが黙り込んでいる中、突然シャライが口を開いた。
「僕を囮に使うというのはどうでしょう?」
全員が、一斉に彼を見た。
「僕がテュリア姫の許婚である事を、声高に言い触らすのです。皇帝ドゥランディスは、姫を欲しがっているのでしょう?ならば、帝国にとって、僕は国王陛下の次に狙うべき相手となる」
会議室はしん、と静まり返った。
「僕は歌い手でもありますし、目立ちますから…ほとんど、とは言えないでしょうが、主力の軍勢は引きつけられると思います。せめて、相手を二分出来れば」
「危険すぎます!」
誰かがテーブルを叩いた。
「死にたいのですか、シャライ様!」
「僕には守らなければならない人がいるんです」
シャライの言葉は静かだった。
「命を賭けてもかまいません。それで、彼女を守れるのなら」
辺りは再び静寂に包まれた。松明の燃える音だけが、部屋の中に響いた。
やがて、王がひとつ、咳払いをした。
「分かった、シャライ。そなたの決心、よく分かった」
「陛下ッ!?」
家臣たちが色めきたった。
「まさか、シャライ様を見殺しになさるおつもりで…!?」
「そうではない」
王は地図を見ながら言った。
「幻の術師を用意しよう。シャライの影武者を作るのだ。確かに、わずかでも敵兵を分散させる事が出来れば、突破口も開けよう。よし、どのように部隊を配置するか検討してみよう」
「はっ!」
軍議はにわかに活気づいた。兵法も何も分からないシャライはたった一人取り残されたが、それでも役に立つ事が出来て満足だった。いずれにせよ、彼に出来る事はもうない。
「陛下…気分が優れませんので、退室してもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わん」
シャライの問いに王は振り返って答えた。
「そなたは明日から戦場に立って戦う身。今夜は遅くなりそうだから、もう休むがよい。作戦の詳細は、明日の朝伝える」
「は、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、きびすを返す。その手に、王の手がそっと添えられた。
「死に急ぐのではない。悲しむ者は、一人だけではなかろう?」
「……は」
やはり、王も全てを知っている。
シャライは再び深々と頭を下げ、そして静かに扉を開けて出て行った。
一時でも死にたいと思ったのは、やはり間違いだったのかもしれない。
この城に、愛する女性が――アイティーアがいる以上、生きて守り抜かなければならなかった。戦に勝てば、自分は次期国王で、彼女は一貴族の妻となる。だが、負けたらどうなる?考えなくとも、待ってはいるのはそれより最悪の事態しかなかった。
シャライの足は、自然とアイティーアの私室へと向っていた。今夜もテュリアの部屋で、同じベッドで寝ているはずだが、ただ何となく彼は歩いた。
ドアはしっかりと閉じられていた。彼は、ドアノブに手をかけようとしてやめた。
「僕も、未練がましい男だな」
そうつぶやいて、ドアに背を向ける。だが、ノブの回るかすかな音を、詩人の耳は聞き逃さなかった。
振り向くと、アイティーアが困ったような顔をして、立っていた。
「アイティーア…何故、ここに」
「汗をかいたので、着替えを取りに…」
彼女は消え入りそうな声で答えた。
「早く戻らないと、姫様がお目覚めになって、怒られてしまうわ」
そして、足早に立ち去ろうとした。
シャライは彼女の背中に向って手を伸ばし、そしてそれをゆっくりと下ろす。だが、まるでそれを見ていたかのように、アイティーアは振り返った。
「昨日、言い忘れていたことがあったわ」
彼女は言った。
「あたし、まだ、自分の口から、あなたのことを好きだと言ってなかったわ」
生ぬるい風が吹いてきて、彼女の持つロウソクの炎が大きくあおられた。
「愛しているわ、シャライ」
そして、彼女は髪に結んでいた青いリボンをほどいて、風になびかせた。
「マントのお礼よ。大事にしてね」
シャライはそれを受け取った。ロウソクの灯りだけではあまりに暗くて、彼女の顔が良く見えないのが、歯ぎしりするほど悔しかった。
「例え姫様の夫となるのでも、必ず生きて戻ってきて。お願い」
「誓おう」
彼は間髪いれずに答えた。
「風のシャライ・ヴェイダ・リストーク、我が神龍カーフ・レスートのの名において…全ての龍の名において、万物に誓う」
静かな声が、誰もいない廊下に響く。
「僕が心から愛しているのは、あなただけだ。アイティーア、あなた一人だ」
「あたしも」
アイティーアの口元が、笑っているのが見えた。
「雷のアイティーア・カッセル、我が龍サダルメリクの名において、全ての龍の名において、万物に誓う」
小さな声で、同じように応じる。
「あたしの愛する人は、シャライ、あなた一人よ。未来永劫、あなただけ」
そして、見えないけれど、二人は暗がりの中、微笑みあった。
「さよなら、シャライ」
「さよなら…アイティーア」
城の廊下に、今度は固く靴音が響く。二人の間は、ただ、離れていくだけだった。
「我こそは風のシャライ、テュリア姫の許婚だ!帝国よ、姫が欲しければ、俺を倒してから行け!!」
シャライは不思議な気持ちでその声を聞いていた。三人の風の種族の若者が、幻の術により顔形を変形させ、彼の影武者として参戦していた。1人目の偽シャライは馬に乗り、最前線の部隊で敵の注目を一身に浴びていた。
「蛮族の皇太子デリュートが着ていると聞いた。それなら、我が前に出て、正々堂々と勝負せよ!」
それに合わせて、トゥティアの軍がときの声を上げた。帝国軍も動いた。
遠目から見てもそれと分かる、朱色の髪をなびかせた大男が進み出る。
「我こそが炎のデュリート。偉大なるラシェード帝国の、皇太子である!」
野太い声で彼は名乗った。派手な赤い鎧が目にも毒々しい。
「シャライとやら、良く聞け。貴様と国王の首を今すぐここへ持って来い。そうすれば、これ以上無駄な血を流すのはやめてやろう。だが、あくまでも抵抗すると言うのなら、トゥティアの民は皆殺しにするぞ!!」
「あのデュリートは、本物ですね」
シャライの隣に控えていた幻の術師がささやいた。
「少なくとも、幻の術は使っていないようです。似顔絵とも同じだし、間違いないでしょう」
「うん……」
彼は生返事をした。
「だが、君がここからでも、そういう事が分かるなら、向うもあれが僕でない事ぐらい分かっているんじゃないのか?」
「それはご安心を」
幻の術師は自信ありげに言った。
「向うは自軍に絶対の自信を持っているでしょう。影武者であることが分かっても、それを潰さないと気がすまないはずです。そこに油断が生じるのです」
「…そんなものなのか?」
「大丈夫ですよ、心配なさらないで」
一方、偽シャライとデリュートの話し合いは、終わりが近付いてきていた。
「どうしても断ると?」
「当り前だ。我らトゥティアの民、最後の一人となるまで戦い抜く!」
それに合わせて、再びときの声があがった。
「愚かな…それならば、滅ぶが良い!」
デュリートが剣を振り上げた。
「全軍、出撃!シャライを討ち取れ!血祭りにあげろ!!」
両方の軍が、一斉に動き始める。
シャライと、三人の偽者の部隊は、南北に細長く展開した。手薄に見せてわざとデュリートに突破させ、偽シャライの首の一つでも与えて油断させたところを、南北に隠しておいた主力部隊で挟み撃ちにする計画だった。
シャライはリュートを取り上げ、膝に抱えた。
「運命の龍は我らにあり!デュリートを討ち取れ!」
そして、朗々とした歌声が、戦場を包み込んだ。
作戦は、意外なほどあっさりと成功した。
トゥティア軍くみし易しとみたのか、それとも功を焦ったのか、デュリート自身が先陣を切って飛び込んできたのが、彼の寿命を縮めた。
かなりの数のトゥティア兵が傷つき、倒れた。偽シャライも二人まで討ち取られ、シャライ自身も刀傷を受けた。しかし、トゥティアは勝った。昼過ぎ、赤い髪の大男は自らの鮮血に染まって倒れた。将軍の一人によって、切り取られた首が槍に刺され、天高く掲げられた。
「ラシェード帝国皇太子デュリート、討ち取った!!」
帝国軍は撤退し、草原の東にある森の中に姿を消した。
「シャライ様、これを」
将軍たちが敵将の首を彼の前に持って来た時、シャライはそれを受け取っても何も言えなかった。半日戦い続け、歌い続けて声が枯れたせいだけではなかった。
「これが、デリュート」
ようやく彼が出した声は、かすれていた。
「僕たちは……勝ったんだな?」
燃えるような赤い髪、太く赤い眉毛。無念そうにかっと見開いた眼も、炎のような赤だった。シャライは両手でそれを持ち、まじまじと男の顔を見つめた。
「デュリート…死んでなお、憎たらしい奴だ」
涙が彼のほほを伝った。
「どうして、もっと僕を苦しめてくれなかった?何故、こんなにあっけなく死んでしまったんだ」
かすれた声は、デュリート以外には届かなかった。シャライは首を台に載せ、腰に差したダガーを抜いた。細い指で、長く赤い髪を一房、切り取る。
「これだけ、記念にもらっておこう」
彼は呟くように言い、首を将軍たちに返した。
「デュリートの首は取り急ぎ城まで持ち帰り、国王陛下に献上しろ。僕たちも準備が出来次第、凱旋するぞ」
「はっ!」
兵士たちは、次代の王が泣いているのを見た。誰もが、晴れがましい勝利に喜んで泣いていると思ったに違いなかった。