隣室ハ異界ノ果テ



第1話 優しき闇の翼(前編)

 新しい町、新しい部屋――新しい生活。もうすぐ、桜の咲く季節。
 重いダンボールをどかっと床に降ろし、和馬は少し汗ばんだ額を手の甲で拭った。そして、ダンボール箱に占領された狭い部屋を見回して、小さく溜息をついた。
 これで全部か……ちょっと多かったかな。
 彼は、この春から大学生になる。親元を離れ、今日からこの町、この部屋で新しく一人暮らしを始める。そのため、今日引越ししてきたのだ。
 だが、部屋の中は、運び終わったばかりのダンボール箱でいっぱいだった。あれもこれもと欲張って、持って来ようとしたのが間違いだったのだろうか。引越し業者はとっくの昔に帰ってしまって、手伝ってくれる人などもちろんいない。
 「ふわぁ……」
 和馬は溜息混じりのあくびをして、大きく伸びをした。
 動いたら暑くなってきたし、ちょっと窓でも開けて換気して、ついでに気分転換に飯でも食いに行くか。荷物を整理するのは、昼からでもいいだろう。
 荷物の間をふらふら歩き、ベランダに通じるガラス戸を開く。
 何気なく、ごく普通に。
 もちろんそこに、人がいるだなんて、露ほども思わずに。
 「え……?」
 窓を開けた瞬間、彼は固まってしまった。
 ベランダの手すりに、しがみついている人物がいる。それも、外側。しかも、女の子。
 乗り越えてこちらへ入ろうとしているのか、片足を手すりの上に引っかけたとても不安定な格好で、彼女はそこにいた。ちなみに、足を広げすぎていて、少々パンツが見えていたが、そんなことは、この場合、あまり問題ではない。
 「あ、あの……」
 泥棒だろうか。それも、新手の。
 スカート姿で、そんなことはないと思うが、和馬は恐る恐る話しかけてみた。すると、彼女は手すりから両手を離し、否定するかのようにばたばたと振った。
 「あっ、あのその、違うんです、わたしそのッ」
 次の瞬間、当然のようにバランスを崩す。小さな体が、大きく後ろへ傾いていく。
 「ちょ……ッ!!」
 このままでは間違いなく彼女は落ちる。とっさに和馬は動いた。裸足のままベランダに飛び出して、出来る限り手を伸ばす。
 だが、間に合わなかった。
 手すりを越えて伸ばした手は、空しく宙をつかんだ。彼の目の前で、彼女は後ろ向きに落ちていく。
 びっくりしたように丸く目を見開いた顔が、スローモーションの中みるみる遠ざかっていく。
 「おい……ッッ!!」
 冗談だろ、ここは五階だぞ!
 彼女の向こうには、アスファルトの路面が無表情に広がっていた。
 ここから落ちて――落ちて、助かるわけがない!!
 一瞬の後に確実に目の前に広がるであろう、凄惨な事故現場。見ていられなくて、和馬は思わず目を閉じた。
 そんな……なんで、どうしてこんな事に?
 俺が悪いのか?俺が、急に声をかけたりしたから?……でも、そもそも彼女が……いや、違う。
 真っ暗闇の中、とりとめのない考えが切れ切れに浮かんでは消えた。だが、ふとある事に気がついて、彼はゆっくりとまぶたを開いた。
 何も、落ちたような音がしない。
 「ひーん……」
 ついでに、彼女の声も聞こえてきた。
 「ごめんなさあぁい……」
 泣いてる……生きてる!?
 震える手を手すりにかけて、恐る恐る下を覗き込む。
 見ると、一人の男が彼女を抱き止めていた。
 黒い髪、黒い服、黒い角、黒い尻尾、そして黒い翼。
 ……角?尻尾?翼!?
 和馬の思考回路は、停止していた。
 明らかに人間とは異なる生き物であると思われるその男は、彼女を横抱きに抱えたまま、宙を飛んで和馬の目の前までやって来た。
 「驚かせてしまったようですまない」
 穏やかな声で、男は言った。
 「だが、手を差し伸べてくれたその心遣いには、大変感謝する」
 「は、はぁ……」
 何とか口を動かして、反応する和馬。男は夜空のような濃く青い瞳を細めてかすかに微笑むと、彼女を抱いたまま、隣の部屋のベランダの手すりにひょいと乗った。
 「では、これにて失礼する」
 「あ……はい」
 呆然と見つめるだけの和馬の前で、二人はつい立の向うへと姿を消した。ほどなく、がらり、とサッシ戸を開ける音がして――ぱたん、と閉める音が続いて、辺りはしんと静まり返った。
 「もしかして……今のが、お隣りさん?」
 そうなのか?アレが!?
 自問自答。だが、隣りの部屋に帰っていった以上、ほぼ間違いなく、あの二人はこの部屋の隣人なのだろう。
 人間かどうかはともかくとして。
 和馬はふらふらときびすを返した。
 とっさの事で、まだ掃いてもいないベランダに裸足で飛び出してしまった。砂粒が足の裏に張りついて痛い。
 それにしても、どうしてあの女の子、あんな危険な真似を?
 軽い痛みが、次第に和馬を普通の思考に引き戻してくれつつあった。
 人が引っ越して来たばかりの隣りの部屋に、何故あんな入り方を…
 その時、足の指に、何かが当たった。ちりん、とかすかな金属音をたてて、転がっていくものを拾い上げ、和馬は半分ぐらい納得した。
 安物っぽいが一応金属製で、キラキラ光る小さな石のはまった蝶のデザインの指輪。
 「これを拾いに来たのかな……?」
 そう考えれば、どうにか納得出来ないこともない。和馬は指輪のほこりを指で拭い、掌の中にそっと握り締めた。
 よし、届けてあげよう。
 お隣りさんならば仲良くしておいた方がいいだろうし、さっきの……人でない人のことも、何だか気になる。
 彼は足の砂を払って、部屋の中へと戻って行った。

 ぴーんぽーん。
 チャイムを鳴らすと、軽い足音がして、ほどなく扉が開いた。
 「はーい……あ」
 出て来たのは、さっきの女の子だった。和馬の顔を見るなり、彼女の頬がかあっと赤くなる。
 「あっ、あの、その、あ、えっと……」
 何か言いたいらしいのだが、しどろもどろで言葉にならない。そのまま、頭から湯気でも出そうな勢いで、小柄な彼女は凹んでいってしまった。
 「あ、いや、そんなに凹まなくても」
 和馬はあわてて手を振った。
 「それよりも、これ」
 握っていた掌を広げて、さきほど拾った指輪を見せる。
 「さっきは、これを取りに来たんだよね?ベランダに落ちてたんだけど」
 「あッ!!」
 その途端、女の子の表情が変った。
 左手でがしっ!と和馬の手を取り、右手でそっと、指輪をつまみ上げる。まるで高級なダイヤモンドの指輪でも扱うかのような優しい手つきで自分の指にはめ、そして、にっこりと微笑んだ。
 「ありがとう……!!」
 心の底からの、満面の笑顔。わずかに、目尻に涙が浮かんでいる。
 そんなに大切な物だったのだろうか?
 それはともかくとして。
 ……カ、カワイイ。
 思わず和馬は見惚れてしまった。
 「そうだ!なんか……なんか、お礼しなくちゃ。ね、何がいいかな?」
 「あ……いや」
 嬉しそうに矢継ぎ早にしゃべり出す彼女に、和馬は呆然と答えた。
 「確か、クッキーの缶があったんだけど、お菓子好きかな?」
 きびすを返して、部屋の中に戻ろうとする。その姿に、彼ははっと我に返った。
 「待って待って!クッキーはいいから」
 あわてて彼女を呼び止める。
 「それよりも俺、今日隣りに引っ越して来たばっかりなんだ。お礼はいいから、とりあえず、お隣りさんとして仲良くしてもらえればそれでイイんだけど」
 「あっ!」
 また、彼女がびっくりしたように声を上げた。
 「そ、そうだったねー」
 そして、改めて、二人はお互いの顔を見た。どちらからともなく、頭を下げる。
 「それじゃ、改めて」
 「初めまして」
 それから、和馬は自分の自己紹介を口にした。
 「俺は、須藤和馬。四月から、そこの桂都大に通うんだ」
 「あっ、そうなんだ?」
 にぱぁっ、と彼女が嬉しそうに笑う。
 「それじゃ、わたしの後輩になるのね〜?」
 「後輩?」
 和馬よりも頭一つ分、彼女は背が低かった。顔も童顔で可愛らしく、見るからに彼よりも年下だ。
 「じゃあ、今は一回生?」
 「違うわよ!」
 今度は威張ってふんぞり返る。
 「こう見えてもねッ、四年前にちゃーんと卒業したんだから、桂都大!」
 「え?四年前?」
 「……あッやだ、年がバレちゃう」
 彼女はあわてて自分の口をふさいだが、もう遅かった。
 「ちょっと待ってよ、22歳で卒業したとしても、四年前だよね?だから……」
 「コ〜ラ!数えなくてよろしいッ!」
 ぷんすか!という擬音が似合いそうなふくれっつらになる。
 だが、両手を腰に当てていた彼女は、すぐににっこりと笑顔に戻った。
 「まぁいいわ。隠したってしょうがないもんね」
 そして、どう見ても年下にしか見えない年上の女性は、自分の名前を口にした。
 「わたしは中川萌黄。こう見えても、専業主婦よ」
 「せ……専業主婦ぅ!?」
 さらに和馬は目を丸くした。
 「そ、それじゃまさか……さっきの黒い人が旦那さん?」
 あれは、どう見ても人間じゃないと思うんだけど……?
 恐る恐る質問する和馬に、萌黄はあっさり首を振った。
 「ううん、違うよ」
 「やっぱり?」
 ほっと胸をなで下ろす。
 「だって、あの人は」
 「アレはね」
 しかし、和馬がほっとしたのも束の間、次に萌黄が口にした台詞は、もっと衝撃的で信じられないものであった。
 「わたしが高3の時、異世界から召喚した、正真正銘本物の悪魔なの」


後編に続く

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