第1話 優しき闇の翼(後編)
図書室の奥にあった、一冊の古い本。
何となく手に取って、何となくページを開く。そこに記された言葉に目が留まる。読めないはずの、見たこともない文字。
それなのに萌黄は、何かに導かれるように、その言葉を口にした。
その途端、図書館に、黒い雷が落ちた。
「我は高貴なる闇の眷族」
雷と共に現れた黒髪の男は言った。
「我は漆黒の雷光、アレックス・ソルフォード。汝の召喚に応え、汝の望みを叶えよう」
悪魔だと、名乗った。
「それからの付き合いだから、えーっとね」
指折り数えて萌黄は言った。
「半年と四年と四年で、丸十年?とにかく、付き合い長いのよ」
「……計算違うよ」
和馬がつっこむ。
「それよりも悪魔なんだろ、あの人?魂取られたりするんじゃないの?」
「あら、平気よ」
しかし、あくまでも彼女はけろりとしていた。
「それは俗説なんだって。だってそもそも……」
「モエ」
その時、部屋の奥から男の声がした。間違いなく、さっきの男の声だ。
思わず体を硬直させてしまう和馬には構わず、玄関先の可愛い柄ののれんをくぐり、悪魔が顔を出した。
「すまないが、今からバイトに行ってくる」
ぽん、と萌黄の頭にてのひらを乗せてなでてやる彼の姿は、今はただの人間と同じだった。角も翼もない、ごく普通の長袖Tシャツに黒いパンツ姿だと、悪魔だとはまったく分からない。
その彼にむけて、萌黄は不満の声を上げた。
「今から?今日って、お仕事の日だった?」
「悪い。急に入った」
「ええ〜ッ!?」
彼は、まったく表情を変えず、淡々と答えて靴を履く。そのまま和馬の横を通り過ぎようとして、ふと振り返った。
「そうだ、お前。カズマと言ったな」
「は、はいぃ」
思わず返事が引きつる。
何と言っても相手は悪魔だ。信じたくなくとも、空を飛んでいる姿を見てしまっているのだから、身構えてしまうのも無理はない。
「な、なんでしょう……?」
何か、とんでもないことを言われるのではないか。和馬の耳元に、相手は小さくささやいた。
「話がしたい」
それは、萌黄には聞こえないように、こっそりと。
「後でお前の部屋に寄らせてもらうぞ」
「え……?」
「では行ってくる」
聞き返す間もなく、悪魔は一歩踏み出した。
が、その頭が、がくんと後方に引っ張られて止まる。腰まである長い彼の髪を、萌黄が思いっきり引っ張っていた。
「アレックス!おやつは?」
「……いらん」
「でも、もう用意しちゃった」
半分振り返って彼女の手をほどき、改めて背を向けて彼は歩き出した。
「心配ない。カズマが食べる」
「え?」
「では行ってくる」
否も応もなかった。きっぱりと言い残して、悪魔はどんどん早足で廊下を去っていく。和馬は振り返って萌黄を見た。
「じゃあ、上がって上がって」
彼女は無邪気に笑っていた。
苺たっぷりのショートケーキに、いれ立ての熱い紅茶。
知り合ってまだ一時間も立たないお隣りさんのダイニングで、和馬はおやつをご馳走になっていた。
「おいしい?和馬くん」
「うん」
素直に和馬はうなずいた。
昼食を食べそびれた若者に、大き目カットのケーキは非常に美味しかった。
「そう?よかったぁ」
目の前でぺろりとケーキを平らげる彼の様子に、萌黄も満足そうだ。だが、ふと一つの疑問が生じて、和馬はそれを口にした。
「でもさ、これ、俺が食ってもいいの?」
至極当然の疑問。
「旦那さんの分は、別にあるの?」
和馬が座っている場所からだと、嫌でも目に入るのだ。ウェディングドレスに身を包んだ彼女と、タキシード姿の男性が笑顔で一緒に写っている写真が、棚の上に置いてあるのが。
間違いなく、あそこに写っているのが旦那に間違いはあるまい。それを見ながら尋ねる和馬に、萌黄の声は何故か静かだった。
「ううん、ないの――っていうか、必要ないの」
「甘い物は嫌いなの?」
「ううん」
そう答えた萌黄は、正面にいる和馬を見ていなかった。焦点の定まらなくなった目で、どこか茫然と、彼女は言った。
「今はアメリカに出張中で、帰って来ないから」
さっきまで笑っていた顔が、固まっている。
そのまま苺を口に運ぶ。
「んん〜ッ!やっぱ、今の季節は苺が美味しいわねッ!!」
次の瞬間、彼女の顔がぱあっとほころんだ。
「チョコバナナとどっちにするか迷ったんだけど、やっぱり春は苺よね。そう思わない?」
「あ、うん、やっぱり苺だよね」
あわてて和馬は答えた。
しかし、あの時の顔は、一体……?
一瞬にして、感情が抜け落ちてしまったかのような冷たい表情。和馬は、それを忘れることは出来なかった。
考えてみれば、1LDKの学生マンションに、夫婦二人暮らしというのも変な話だ。しかも、居候として、悪魔が一匹くっついている。
一体、どんな日常生活を送っているんだろう?
首をひねりながら、和馬は自室のドアを開いた。
涼しい風が爽やかに部屋の中を通り抜け、カーテンをひるがえしていく。さっき荷物を運び込んだばかりの雑然とした部屋とは思えない――というか、部屋の中はきれいに片付いていた。
荷物はすべて開けられ、中身はあるべき場所にきちんと収まっていた。テレビもビデオも接続完了、ベッドにはシーツまでかけてあるし、あまつさえ使用済みのダンボールはきちんと畳まれて一ヶ所にまとめられ、紐で縛られている。完璧だった。
「一体、誰が……」
さっきの悪魔か?あんな短時間で、こんな事が出来るのは!?
しかし、彼は確か、アルバイトに出かけると言っていたはずだった。それならば、一体?
「あら、お帰りなさい」
その時、洗面所の扉が開いて一人の女性が顔を出した。
丸い眼鏡をかけた、優しげな顔立ちの女性。そこまでは、普通だった。
だが、まず、格好がおかしい。髪は紫色だし、着ている物は白いレオタード風のぴっちりした衣装。その上、髪の間と背中から、紫色の翼が生えていた。
明らかに、これも、人間ではない。そんな彼女は、雑巾を手にしてにっこり微笑んだ。
「ちょっと待ってて。あとは、雑巾がけしたら終わりだから」
和馬がつっこむ隙も与えず、彼女は背中を向けて窓を拭き始めた。手慣れた動作できびきびと、窓を磨き上げていく。その後ろ姿に、和馬は声をかけた。
「ねえ……もしかして、あなたも萌黄さんのところの人?」
「ぴんぽ〜ん」
彼女はご機嫌そうに振り向いた。
「分かってるわねぇ、キミ。話が早いじゃなーい」
雑巾をくるくる振り回し、翼を広げて和馬に飛びついてくる。そのまま彼女は、豊満な自分の胸の中に、和馬の頭を抱えて押し込んだ。
「嬉しいわぁ、こぉ〜んなによく出来たコがお隣りさんだなんて!これなら安心ね」
むぎゅー、という擬音が聞こえんばかりにしっかりと。
和馬は、温かく、柔らかい感触にほほを赤らめた。当たり前の話だが、女性の胸にこんなに密着するのは初めての経験だ。胸の動悸が早くなる。ついでに、圧迫され過ぎて、息苦しくなってきた。
「あの…………俺はちっとも安心じゃないんですけど」
「あら、ごめんなさい」
もがもがと頼むと、彼女はあっさりと手を離した。
「そういえば、自己紹介もまだだったわね」
白く上品な手を胸に当て、軽く会釈をしてから自らの名前と種族を名乗った。
「わたしはリリア。サッキュバスなの」
サッキュバスというのは、聞いたことがある。ファンタージーRPGなどでよく聞く魔物の名前だ。確か、男性とHをして精気を吸い取るとかいう――え?
しかし、青ざめかけた和馬を無視して、彼女はしゃべり続けた。
「趣味は掃除と洗濯。だからカズマ君も遠慮なく頼んでね。モエの部屋にはあまり物がないから、ちょっと退屈だったのよ」
嬉しそうに、楽しそうに。いつの間に和馬の名前を知っているのか尋ねたいところだが、そんな事はすぐにどうでも良くなった。
「それにしても嬉しいわぁ。こっちの世界の人はみんな、わたしたちがちょっと人間じゃないからってすぐに怖がったり逃げちゃったり、隣りの部屋に引っ越して来てもみんなすぐいなくなちゃって、寂しいったらありゃしないわ。わたしたちのこと否定しなかったのはホントにキミが初めてだから、他のみんなも喜ぶと思うの。きっとみんな会いたがってるわよ、まだアレックスにしか会ってないんでしょ」
「ちょ、ちょっと待って、リリアさん」
放っておくといつまでも止まらなさそうだ。和馬は無理矢理口を挟んだ。
「今、みんなって言った?萌黄さんが召喚したのって、アレックスとリリアさんだけじゃないの?」
そっちの疑問の方が大事だ。一体、この狭い部屋に、何人の人が住んでるんだ?
「七人」
リリアは、一瞬の沈黙の後、答えた。
「七人!?」
「……だったわ」
過去形で言い切り、彼女は深い紫色の瞳をわずかに伏せた。
「失ったの。こっちへ来てから、二人ほど……だから、今一緒にいるのは、五人」
「失った?」
意味のよく分からない言葉だった。死んだというのとは、違うのだろうか。
「それって、一体どういうこと?」
「さあ。わたしにもよく分からないわ」
あっさりと言い放ち、彼女はぱん、と雑巾のしわを伸ばした。
「こっちの世界とあっちの世界の法則は全然違うみたいだからね。死んだのか消えたのか、とにかくわたしたちの目の前にはいない――そういうコト」
そして、その話題はそこまで、と言わんばかりの笑顔を浮かべ、リリアはまた話し始めた。
「それよりも、キミがモエやわたしたちに興味を持ってくれたことの方が重要だわ。本番はこれからよ、頑張ってね」
「本番?頑張る?」
「そうよォ、応援するからちゃんとやるのよ」
「何を?」
どうも、この人は基本的に説明が足りないらしい。きょとんとする和馬に、ちょっとじれったそうな仕草を見せながら、彼女は言った。
「鈍いわねぇ。決まってるじゃない」
サッキュバスの魅惑的な唇が、妖艶な笑みを形作る。
「モエをオトして、カズマ君のモノにするのよ」
「ああ、そうか――って、ええ!?」
ちょっとおしゃべりなだけかと思ったら、やっぱりおかしい!
「何言ってんですかッ!!人妻じゃないですか!!」
「ぶ――ッ!」
和馬の反論に、唇をとがらせるリリア。
「カズマ君、頭かたーい」
「そういう問題じゃないでしょう?」
「じゃ、意気地がないのネ」
「それも違う!」
「じゃあ、じゃあ……」
リリアの翼がへなへなと力を失って下向きに垂れ下がった。
「もしかして、カズマ君は、モエのことが嫌い?そう……そうよね、だって年上だし」
「それも違います」
やはり魔物だから、人間とは根本的に考え方がズレているのだろうか。しゅんとしょげ返ったリリアに、和馬は諭すように言った。
「いいからよく聞いて、リリアさん。俺、今日会ったばっかりだけど、萌黄さんのこと嫌いじゃないよ。明るいし、可愛いし、どっちかっていうと好きな方だと思うけど、でもね」
ちょっと恥かしい台詞を口にしなければならないが、それも仕方がない。一息ついて、彼は続けた。
「萌黄さんは、旦那さんが帰ってこないってとても寂しそうな顔をしてた。どんな人かは知らないけど、それだけ旦那さんが好きだってことだろ?俺は、そんな人、口説けないよ。そんなことしても、余計に困らせるだけだ」
偉そうに語れるほど、彼にも女性経験があるわけではない。だが、その言葉は事実だ。
果たして、リリアは納得してくれただろうか?
そう思いながら、和馬はちらっ、と彼女の方を盗み見た。
「…………偉いわ、カズマ君」
ぐすん。
リリアは、眼鏡を外して指先で目尻を拭い、答えた。
「合格よ!」
なんで泣く?しかも、何が合格?
「キミならホントに大丈夫かもしれないわね。良かったわ!」
さっぱり訳が分からない和馬は相変わらず置いてけぼりで、彼女は鼻をすすりながら勝手に話を締めくくった。
「わたし、帰るわね。それじゃ今後ともヨロシク!」
そのまま、目の前からかき消すようにいなくなる。
「あ、こちらこそ……」
思わず返事をしてしまったが、もちろん、返事などない。しばらく呆然とした後、和馬は苦笑した。
まぁ、魔物とはいえ、悪い人たちじゃないなさそうだから、いいか。
こうして、彼の新しい、そしてこれからの人生さえも決定づけてしまう、波乱の大学生活が始まった――