第3話 ハーレムロード(前編)
4月10日は、私立桂都大学の入学式だ。
八反田さやかは、真新しいスーツに身を包み、少々緊張していた。
似合うって言ってくれるかな。
高校を卒業した後、1ヶ月間悩みに悩んで選んだ淡いピンクのスーツ。なれないパンプスが少々歩きにくいが、緊張でかちんこちんになった彼女には、その動きにくさが逆に冷静さを取り戻してくれていた。
確か、この辺のはずなんだけど……?
メモを片手に辺りを見回す。静かな住宅街の中に、学生マンションがひとつ建っている。マンション柏木、という名前を確かめて、さやかはうなずいた。
「あった……ここだわ」
あれほど言っておいたのに、彼女の幼馴染は新しい住所を教えてくれなかった。おそらくただ単に忘れていただけなのだろうが、もうちょっと気にかけてくれたっていいではないか、とさやかは思う。幼稚園からずっと一緒に育ってきた幼馴染だというのに、しょっちゅう置いてけぼりだ。
今回だって、折角同じ大学に受かったのに、ふーん、の一言で片付けられてしまった。
結局、彼の母親から住所を教えてもらって、迎えに来たのはいいものの。
「結構、時間ぎりぎりになっちゃったな」
彼の性格からして、おそらくまだ部屋にはいるだろうが、入学式が始まる時間を考えると急いだ方がいい。さやかは急ぎ足でマンションに入り、悲鳴を上げた。
「えー?ここって、エレベーター付いてないのぉ!?」
「ほらほら、ほ〜ら」
目の前でぴょこぴょこ動く赤い布切れ。理性ではだめだと分かっていても、野生の本能が、それを追ってしまう。青い目が、布の動きにつれて右へ左へと向いてしまう。
「ううっ……うぅーッ」
もう我慢できない。
風よりも速く、その手が伸びる。ついでに、爪も。
「フーッ!!」
猫科の動物特有のしなやかな動きを持って、彼女は布を捕らえた。その勢いで、布を持っていた相手にのしかかってしまう。
「ああーッ!」
どたーん、と派手な音がして、二人はもつれあって倒れた。
さやかは、耳を澄ませていた。
間違いなく、この部屋が407号室。表札には、ちゃんと須藤と書いてある。聞いたとおり、この部屋に彼女の幼馴染がいることに間違いはない。
しかし、チャイムを押そうとした指は、その直前で止まってしまっていた。
部屋の中から、騒々しい声が聞こえるのだ。それも、女性の声だった。さやかは自分の耳を疑ったが、追い打ちをかけるように、彼の声も耳に飛び込んできた。
そんな……そんな、バカな。卒業してまだ1ヶ月ちょっとしか経っていないのに、もう彼女を作ったっていうの!?
そんな……ひどいよ、和馬ちゃん。
さやかは、廊下に立ち尽くした。
「何をしてる、バカ!」
二人の下敷きになったリサリサが怒りの声を上げた。
「時間がないって言ったのはお前だろうが!何を遊んでいるか!」
和馬は今朝、寝坊した。
入学式が十時からだというのに、九時半まで寝てしまった。同じ大学のOGである萌黄が様子を見に来てくれていなかったら、完全に遅刻しただろう。
とにもかくにも時間がない。そこで、萌黄を始めとする女性陣総出で、和馬の支度を手伝うことになったのだが、逆効果なのが一人、混じっていた。
「いや、だって」
和馬は、少々ばつが悪そうに答えた。
「ネクタイ締めようとしたら、オズマがじっと見てるからさ……」
「だって……だって、和馬が揺らすんだもん!」
彼の上に完全に覆い被さってしまっているオズマはといえば、さも仕方がないと言わんばかりの表情だ。
「その程度も我慢できないのか、バカ虎」
「う〜ッ」
「いいから、早く和馬の上から降りろ。邪魔だ」
長い手を伸ばしてオズマの首根っこをつかみ、脇へポイと捨てる。それから彼女は和馬の肩を押して起き上がった。倒れた時に手放してしまったくしとムースのボトルを拾い、和馬の髪の毛に手を伸ばす。後頭部には寝癖がついて、なかなか激しい髪型になっていた。
「せっかく直りかけていたのに、またぐしゃぐしゃだ」
「ごめん、リサさん」
「お前はオズマの両手をちゃんと握っていろ。また暴れられては困る」
「分かったよ」
素直に答えて、和馬は傍らにいたオズマの両手をしっかりと握りしめた。
「あーっ!ネクタイ、裂けてる!」
その傍で、リリアが悲鳴をあげる。一瞬とはいえ、虎が爪を出してしまったのだ。
「しょうがないわねぇ。別のやつ出すわよ、カズマ君」
他でもない、和馬の荷物を整理してくれたのはリリアである。勝手知ったる洋服ダンスを素早く開けて、慣れた手つきでネクタイを取り出す。そのまま、和馬の首に回した。
「自分で出来るからいいよ」
「ダメダメ!わたしがやってあげるから、カズマ君は、オズマをちゃんと押さえてて」
こうもきっぱり言い切られると、反論のしようもない。大人しくオズマと手を握り合った和馬の鼻先に、ふわっといい匂いが漂ってきた。
「朝ご飯、出来たわよ。食べるでしょ?」
皿を持ってきた萌黄が、和馬の口の前に出来たてのおにぎりを差し出す。オズマが長い尻尾をぱたぱたと振り回した。
「あーっ、いいな、おにぎり!」
「しっかりオズマちゃん押さえててよ。和馬君にはそのまんまで、食べさせてあげるから」
「すいません、萌黄さん」
もはや、抵抗は出来なかった。和馬は大人しく口を開け、小ぶりなおにぎりを口に入れてもらう。
「熱くない?大丈夫?」
「熱いけど…………うまっ」
「良かったぁ」
萌黄はにっこりと微笑んで、次のおにぎりを手に持った。
「入学式の後はね、クラブの勧誘とか色々あってね、一度捕まっちゃうとお昼が食べられないのよ。だから、しっかり食べていってね」
「ありがとうございます」
ホントに何から何まで。
二個目を頬張りながら、和馬は心の中で頭を下げていた。
さやかは迷っていた。
扉越しに聞こえてくる女性の声は、一人ではなかった。明らかに二人以上、もしかすると四、五人はいるかもしれない、そんなにぎやかさだ。
とすると、もしかして、この声はテレビか何かだろうか、と彼女は考え始めていた。
だって、あの和馬ちゃんが女の子を部屋に連れ込むなんて、あり得ないもん。
奥手で、鈍感で、朴念仁で、およそ恋愛なんてモノと縁もゆかりもないはずなんだから。
「よーし」
彼女は一人うなずいて、ドアノブに手をかけた。それは、あっさりと回って、彼女を拍子抜けさせた。
「開いてる……?」
テレビつけっ放しで、鍵も開けっ放し?もしかして、本当にそのまま寝込んじゃってるとか?
そう考えると、どんどん心配になってきた。
「お邪魔するね、和馬ちゃん」
靴を脱いで、そっと部屋に上がる。
高校生の頃までは、よく寝過ごした和馬を起こすために、彼の母親に言われて部屋まで入り込んでいたものだが、いつもの部屋と違うとちょっとだけ緊張する。狭いキッチンを通って、間仕切りのカーテンを開く。
そこで、彼女が見た光景は――
狭い部屋を震わせて、さやかの絶叫がこだました。
「和馬ちゃんの、バカ――ッッ!!」
それはまったくもって唐突だった。和馬はおにぎりを喉に詰まらせ、目を白黒させる。
しかし、さやかは構わず叫んだ。
「一体、何やってんのよ!?このバカ!変態ッ!!」
「ざ…………ざやが?」
ご飯を飲み下しながら、彼はなんとか声を出して答えた。
「お前、どうしてここに」
「どうしてじゃないでしょー!?おばさんに聞いて、迎えに来たのよ!そしたら……そしたら、一体何なのよ、コレはッ!!」
彼女に言われて、改めて和馬は自分の周りを見回してみた。
金髪の間から虎の耳がのぞき、スカートの下からはにょっきりと長い虎の尻尾が生えているオズマ。ネクタイを締めてくれているリリアは何故かメイド服で、リサリサはモデル体型にぴったりフィットしたチャイナドレスを着ている。極めつけは、手ずからおにぎりを食べさせてくれている、エプロン姿の萌黄だった。
引っ越してきてから数日、ずっとこんな状態が続いていたのですでに何も感じなくなっていたのだが、確かに少々マニアック……かもしれない。
「あー……」
反論できない。仕方ない。和馬は、愛想笑いを浮かべた。
「ま、色々と事情があってな」
「何よ、それ!」
さやかの顔はすっかり赤くなっていた。完全に怒っている。そこに、非常に冷静な声が降ってきた。
「和馬、お前、彼女がいたのか?」
髪を梳く手を休めず、リサリサが至って普通に言った。
「ウソッ!そうなの!?」
リリアが目を丸くする。
「それならそうと、早く言ってくれれば」
「カズマもやるにゃー」
「違うって!」
オズマまで話に絡んでくると、余計にややこしくなる。和馬は激しく首を振って、否定した。
「こいつはただの幼馴染!幼稚園からずーっと一緒の、ただの腐れ縁で、彼女でも何でもないっ!」
きっぱりと、あまりにもきっぱりとそう言い切って、ちらりとさやかに目をやる。
「う……っ」
すると。
今度は唇をかみしめて、泣きそうな顔になった幼馴染がいた。
「和馬ちゃん……」
「な、何だよ」
今までにも、何度も言ってきた台詞ではないか。
小学校で、さやかが和馬にくっついていたせいで、クラスメートにからかわれた時。中学校で、一緒に登下校をしていて、付き合っていると言い触らされた時。高校で、さやかに想いを寄せる友人が、まず和馬にお伺いを立ててきた時。
いつもいつも、そう言ってきたではないか。
それが何故、今、ここで泣く?
「う……うぅーっ」
真っ赤な顔をして、涙をこらえようとするさやか。たちまち、和馬への非難の視線が雨あられと降り注いだ。
「うわー、カズマが泣かせたー!」
「……ひどい奴だな」
「違う!」
断じて違う!
しかし、助けを求めて顔を向けた萌黄でさえ、なんとも微妙な顔つきで彼を見つめ返した。
「ちょっと今のは可哀相だったんじゃない?」
俺は……悪くない、はずだ。たぶん。…………もしかしたら、ちょっと悪かったかもしれないけれども。
とにかく雰囲気は最悪だった。静まり返ってしまうと、余計に重苦しいムードがのしかかってくる。
その時、救いの神が現れた。
「まだぐずぐずしていたのか?車借りてきたから送っていって……」
悪魔だったが、とにかく助かった。
「アレックス!」
和馬はほっとしたように彼の名前を呼んだ。忘れかけていたが、そもそもこんな事態になったのは、入学式に遅刻しそうだったからなのだ。
最後のおにぎりを頬張って、和馬はさやかに近づいた。
「とにかくこのままじゃ遅刻する。送ってくれるそうだから、一緒に行こう、さやか」
彼女の肩に触れる。だが、さやかは固まって、カーテンの向うから顔だけのぞかせているアレックスに見入っていた。
「さやか?」
「アレックス……?」
呆然としたようなつぶやきが、彼女の唇からもれた。
「まさか……嘘ッ、ほんとに?本物のアレックスなの!?」
「は?」
言っている意味が分からない。和馬は、さやかとアレックスの顔を交互に見た。
いきなり泣き止んだ彼女は、別の意味でほほを紅潮させていた。それは、恋する乙女の顔だった。