第2話 「Dining Cat」へようこそ!(後編)
あの日、あの時、あの瞬間のことを、アレックスは忘れない。
「――以上」
大人しくテレビを見ていたはずの、主人が倒れた。声もなく、いきなり横たわる萌黄の姿に、最初は何が起こったのかまったく理解出来なかった。
「航空機墜落の臨時ニュースをお伝え致しました」
空港まで、みなで祐一を見送りに行き、帰って来てほんの数時間後のことだった。
「もう一度、繰り返しお伝え致します――」
それで、すべてが分かった。
画面に表示される乗客名簿の片仮名の羅列。そこに、あってはならない人物の名前がある。
「おい!航空会社に電話しろ!」
萌黄を抱きしめたまま何も出来ない自分。その後ろで、リサが叫んでいた。
「本当にその飛行機に祐一が乗っていたか、確認するんだ!」
「……したよ」
呆然とつぶやくような、ゲルハルトの声。
「間違い…………ないって」
「嘘よ!」
リリアが悲鳴を上げる。
「どうして――どうして、こんな事に!?」
たった一週間の出張のはずだった。
念のため、護衛として、二人の魔物も同行した。飛行機も、まだ飛行時間の少ない新しい機体だった。機長もベテランだった。問題はなかった。
それなのに、飛行機は落ちた。
押し黙る和馬に追い討ちをかけるように、アレックスは続けた。
「遺体は見つからなかった」
あくまでも淡々と、悪魔はしゃべる。
「当然だ、何もかも吹き飛んだのだからな。わずかな残骸も、すべて海の底に沈んでしまった」
乗客、乗員あわせて722名。誰一人として、帰って来た者はいなかった。
「それで、失踪宣告とやらがなされて、葬式も行われた。しかしモエは」
わずかに苦しげに、彼の声が詰まった。
「葬式には出なかった。祐一が帰ってくるのを、今でも信じているからだ」
重苦しい沈黙が、テーブルの上を支配する。和馬は、何度か口を閉じたり開いたりした後、絞り出すように尋ねた。
「でも、もう四年も経つんだろだろ?それなのに、どうして」
「同行した二人の魔物が戻らないからだ」
異世界とはいえ、魔物は魔物。あの程度の事故で、死ぬことはない。そうなると、おそらく何か戻って来られない状況に陥っているのだろう。
だからこそ、一縷の望みにすがってしまう――彼らと一緒に、祐一もどこかで生きているのではないかと思ってしまう。あきらめようにも、あきらめ切れないのだ。
「そんな……」
和馬はゆっくりと紙の束を下ろした。それを所在無く眺めながら、アレックスは言った。
「祐一が勤めていた会社から出た遺族年金と、航空会社から出た補償金。相当な金額になるが、それにも一切手をつけていない。祐一が帰ってきたら返すものなのだから、一円たりとも使えないと言う」
「だから、みんなバイトを?」
「ああ」
魔物たちはうなずき、そして、沈黙が訪れる。やがて、長く重苦しい静寂の後、悪魔が告げた。
「しかし、待つには長過ぎた。彼女はもう、限界だ」
雑踏の中、スーパーの袋を片手に下げて、萌黄は帰り道を歩いていた。商店街を抜けて、国道沿いの歩道を歩く。行き交う車を越えてふと見ると、向こう側にファミリーレストランの明るい光が見えた。
その窓に、見慣れた顔を見つけて、思わず立ち止まる。
「和馬くん……アレックス?」
それに、リサリサとゲルハルトも。金髪のウェイトレスも交えて、何やら楽しそうに談笑している姿が見えた。
「なんだ……仕事じゃなかったんだ」
思わず、そんな言葉が唇からもれた。
しばらく立ち尽くしたまま、道路越しの風景を見つめる。が、すぐにその顔はにっこりと楽しそうに微笑んだ。
「よーし、わたしも混ぜてもらっちゃおっと」
何のためらいもなく、彼女は足を上げてガードレールをまたいだ。そのまま、多くの車の行き交う車道へと飛び出す。
萌黄は、笑顔を浮かべたまま走り出す。
けたたましく、クラクションが鳴った。
突然辺りを満たした騒音に、彼らは窓の外を見た。
「あれは……ッ!?」
何度も繰り返し鳴らされるクラクションに、悲鳴のような甲高いブレーキ音。その真っ只中に、小柄な女性の姿が見えた。
「萌黄さん!」
和馬は立ち上がって窓ガラスに貼りついた。
「一体、何をッ」
しかし、声は届くはずもない。
そして、和馬の祈りを無視するように、耳障りな音を立てて、一台の車がハンドルを切った。
列を乱した他の車をよけようとして、制御を失い一直線に萌黄を目指してしまう。
「危ない……萌黄さんッッ!!」
次の瞬間、目撃していた誰もが、彼女がはね飛ばされる光景を想像しただろう。
だが、事実は違った。
和馬のすぐ脇を、金色の巨大な影が過ぎ去っていった。それはファミレスのガラス窓を割ることなくすり抜け、一度歩道に足をついてジャンプした。
ごく普通の人間である和馬に認識出来たのは、そこまでだ。気がついた時には大きな虎が、萌黄の襟首をくわえて歩道に立っていた。満足そうに尻尾を振っているその頭には、ウェイトレスが付けていたカチューシャが、申し訳なさそうに乗っかっていた。
「あの虎……もしかして」
和馬が振り向くと、さっきまでそこにいたはずの金髪のウェイトレスの姿が消えていた。やたらと彼に対して愛想がいいと思ったら、やはりそういう事だったらしい。
それはともかくとして、ウェイトレスが突然大きな虎に化けたので、店内は大騒ぎになっていた。
「おい、今の見たか?」
「見た見た……女の子が虎になったぞ!?」
思いっきり見られてしまって、大丈夫なのだろうか?
ふと別の不安に駆られて店内を見回す和馬の傍らで、リサリサが呆れ果てたようにつぶやいた。
「まったく……あのバカ」
どこから取り出したのか、薄紫がかった水晶球を取り出して掌に載せる。
「いきなり変身するなといつも言ってるんだけどね。後始末するこっちの身にもなって欲しいものだな」
ざわめく客たちからよく見えるように、背の高い彼女がさらに高々と水晶球を差し出した。さっきの一件があっただけに、必然的に何事かと注目が集まる。
「さーて。悪いど、今見たことは、全部忘れてもらうわよ」
にこっと笑う。それと同時に、水晶球から淡い光が溢れて、店中に広がった。
そして、その光が収まるにつれ、辺りは静かになっていった。立ち上がっていた人は、自分が何をやっていたのか分からなくて、あわてたように腰を下ろす。一様に窓の方ばかり向いていた客たちは、ふと我に返ったように、食事や会話に戻っていった。
「これでよし」
リサリサは満足そうにつぶやいて、どかっと音を立てて座り込んだ。
「で……あれ?二人はどこ行った?」
「外だよ」
和馬は窓の外を示した。おそらくそこでも二人が魔法を使ったのであろう、すでに車道の混乱はなく、道行く人々はごく普通に歩いていた。虎の姿もすでにない。
ただ、しょんぼりと肩を落とした萌黄が、アレックスと晴人に挟まれて、何やら色々言われている様子だった。
「萌黄さん、叱られてるのかな」
「それはそうだな」
頬杖をついてリサリサも外を見る。
「あの子はあの子で、いつもあんな調子だからな」
「いつも?」
やがてアレックスに頭を撫でられながら、萌黄は家に戻る道をたどり始めた。
「昼間にもやったろう?ベランダに落とした指輪を、わざわざ外から取りに行った」
「…………あ」
彼女に言われて思い出す。安全な方法はいくらでもあるのに、あれではわざと危険な方へ行こうとしているみたいだ。
「葬式が終わった頃ぐらいからだ。目を離したらすぐにああなる」
ベランダから落ちる。道路に飛び出す。そんなのは序の口だ。
天ぷら油をコンロにかけたままテレビを見ていた時だってあるし、風呂で眠りこけて溺れそうになった時だってある。
「まるで、無意識のうちに死にたがっているように見えるだろう……?」
彼の死を信じたくなくても、すでに心は限界を超えているのだ。
「だから、俺に」
彼女を、救って欲しいと?
そんな人を、一体、どうやって?
その時、実に脳天気な声が二人の間に割って入った。
「いやーゴメンゴメン」
満面の笑顔で彼女は戻ってきた。
「思わず飛び出しちゃったァ」
金髪のウェイトレスは、悪びれた様子など微塵も見せずにけらけら笑っている。リサリサが不機嫌そうな顔つきで立ち上がった。
「約束を思い出した。人を待たせている」
長い人差し指を彼女の鼻先にびしっと突きつける。
「悪いが和馬、後の話はこのバカ虎に聞いてくれ」
そして、胸元から財布を取り出してテーブルの上に置いた。
「基本的な事は大体話したから大丈夫だとは思うがな。じゃ、勘定はこれで払っておいてくれ」
「あ、ああ……」
そのまま、リサリサは振り返りもせずにヒールを鳴らして出て行ってしまった。残されたのは、和馬とウェイトレスの二人だけ。外を見ても、すでにアレックスも晴人もいなかった。
「あの、えーと」
「あたし、オズマ」
胸につけた名札を突き出すように、彼女は答えた。
「見たでしょ、さっきの。そういう事だから、あたしのこともヨロシクね〜」
まさに猫のように目を細め、牙のように見えなくもない八重歯をちらりとのぞかせて、さらににっこりと笑う。会心の笑み、というやつだった。
「ところでカズマ、これ全部、一人で食べ切れる?」
「え?」
ふと気付くと、彼一人しか座っていないテーブルに、たっぷり四人分の料理が並べられていた。自分で頼んだディナーセットはともかくとして、パフェにビール、ホットケーキにフライドチキン、シーザーサラダ。そう、注文するだけしておいて、三人とも帰ってしまったのだ。
「いや……ちょっと、これは」
「ねえ、カズマぁ?」
虎娘が猫なで声を出した。
「今さ、バイト上がらせてもらうから、一緒に食べてもイイかなぁ?」
「え?それはもちろん……」
「やったあッッ!!」
ウェイトレスは威勢良くぴょんッと飛び跳ねた。厨房に続く通路の辺りから、店長と思しき制服の中年男性が渋い顔をしてこちらを見ていたが、まるでお構いなしだった。
「お腹空いてたんだよねー!それじゃ、ちょっと待ってて!」
オズマは食べた。とにかく食べた。
リサリサの財布になまじお金が入っていたがために、さらに追加注文して食べた。さすがに、大型肉食獣だけのことはあった。
「なあ、オズマ」
いつまでたっても手も口も止まる様子のない彼女に、和馬は尋ねてみた。
「萌黄さんのことは、さっきまでの話で大体分かったんだけどさ」
「うん」
「本当に……俺でいいのかな?」
「うん」
即座にオズマはうなずいた。頬張っていたパスタを飲み込み、ビールを流し込んで、相変わらずの屈託のない笑顔を見せる。
「だって、カズマ優しいもん。きっと上手く行くよ。大丈夫だよ」
「そんなんでいいのかよ」
「うん」
またうなずいた後、彼女は大きな青い瞳をちょっとだけ伏せた。
「ごめんね。何か大変な事頼んじゃったみたいでさ。迷惑?」
「あ、いや、そんな事はないよ」
あわてて和馬は首を振る。
「俺じゃどれぐらい力になれるか分からないけど、出来る事はやってみるよ。それでいいかな?」
「うん!」
たちまちオズマの顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとう、カズマ!」
そして、目ざとく同僚を捕まえて、注文した。
「木田くーん!追加でチョコパフェお願い!」
「まだ食うのか!?」
尋ねた和馬の耳に、彼女のお腹が可愛らしく、くぅーと鳴く音が届いた。