第3話 ハーレムロード(後編)
泣いた烏がもう笑った、とはよく言うが、今のさやかはまさにそれだった。いや、それ以上だった。
隣の席に大人しく収まっている幼馴染を見ながら、和馬は耳半分で学長の祝辞を聞いていた。アレックスが飛ばしてくれたおかげで、二人は入学式にぎりぎり間に合った。滑り込むように会場である体育館に入り、隅の方の席に並んで座る。しかし、さやかは異様なまでに上機嫌だった。
「なぁ」
長い祝辞に誰もが退屈して、次第に会場がざわついてくる。それに乗じて、和馬はさやかをつついた。
「お前、さっきから何か変だぞ。何呆けてる」
「え……ッ?」
突然夢から覚めたように目を丸くして、和馬を見つめ返すさやか。何故か、耳が真っ赤だ。
「な、何?和馬ちゃん」
「何、じゃないだろ。さっきからずっとうわの空じゃないか。どうしたんだ、一体?」
「だって……」
動悸を押さえるように自らの胸に手のひらを重ねて、彼女はうつむいた。
「アレックスに……会えたんだもん」
「は?」
それはそうだが。答えの意味がよく分からない和馬を無視して、さやかはさらに続けた。
「しかも、車に乗せてくれたんだよ?あたし、もう、頭がボーッとしちゃって、もう……」
そのまま、目を閉じて、にっこりと微笑む。あまりにも満足そうな笑顔に、疑問が増えるばかりだ。
「ちょっと待て。アレックスが何なのか、お前、知ってるのか?」
この質問は少しおかしかったかもしれない、とは思いながらも、和馬は尋ねる。すると、やや不機嫌そうに細く目を開けて、さやかは彼をにらんだ。
「和馬ちゃんこそ知らないの?知らないのに友達やってるわけ?」
知ってるって。悪魔だろ?
そう言いたくなるのをぐっとこらえていると、彼女はバッグを開けて一枚のCDを取り出した。
「和馬ちゃん、あんまりテレビとか見てないんでしょ。ほら、コレ見てみなさいよ」
それは、つい最近発売になったばかりの新譜だった。和馬でも名前ぐらいは知っている。Beauty&Bloody Beastsという、女の子に大人気のビジュアル系ロックバンドだ。
「これがどうかしたか?」
しかし、それがアレックスとまったく結びつかなくて、和馬はCDを裏返した。ジャケットの表はアルバムのタイトルだけというシンプルなものだったが、裏にはメンバーの写真が載っていた。
「え……?」
四人いる。ギターのケイジ、ベースのレイ、ドラムのノア、そして、ボーカルのアレックス。
髪型も違うし、派手な化粧もしてはいるが、それは間違いなく、和馬の知っている悪魔のアレックスであろうと思われた。
そもそも、こんなに人間離れした、整いすぎた容姿の生き物が、この世に二人いるとは考えられなかった。
「おい……これって」
「やっぱり知らなかったの?」
驚きを隠せない和馬に、さやかはあきれた、という顔をして答えた。
「たまにはテレビとか見なくちゃダメよ。世の中に取り残されちゃうわよ?」
「……ああ」
確かに最近、テレビの類はまったく見ていなかったから、全然知らなかった。だが、仮にも異世界から来た悪魔が、よりにもよってバンドなんかやるか?
「で、歌は、上手いのか?」
「もちろんよ」
恐ろしく似合わない気がしたが、隣のさやかはまるでお構いなしだった。
「声は最高だし、ルックスも完璧だし、その上、プライベートは完全に謎に包まれてるのよ。実は人間じゃないんじゃないかって噂まで流れてるほどなんだから。和馬ちゃんは、知らなかったでしょうけどね」
本当に人間じゃないと知ったら卒倒しかねないな、と思いつつ、和馬は曖昧に首を振った。その様子をどう思ったのかは知らないが、彼女は耳元に口を寄せてそっとささやいてきた。
「大丈夫。和馬ちゃんとアレックスが友達だってことは、絶対誰にも言わないから」
「当り前だ……っつーか、頼むぞ。絶対だぞ」
もしマスコミにでもバレてしまったら、アレックスはともかく、萌黄があの部屋に住めなくなってしまう。
そう考えて、ふと、和馬は思いついた。
どうせいつかは、隣の事情がさやかにもバレてしまうだろう。それならいっそ、彼女もこのヘンテコな生活に巻き込んでやる。
萌黄さんだって、男の俺には言えなくても、女のさやかになら話せることだってあるだろう。まともな人間の友人がもう一人増えるのは、むしろ喜ばしい事だ。
「じゃ、改めて紹介するから、入学式終わったら俺の部屋に来ないか?」
喜んで乗ってくるだろうと思って、和馬はさやかを誘った。
「え……えっ?」
しかし何故か、一瞬だけ彼女はためらった。
「うん、分かった。行く」
それはすぐにいつも通りの笑顔にとって変わったため、和馬は別に気にも留めなかった。さやかが今朝、和馬を最初に見た時と同じ顔をしていた事に、気付きもしなかった。
「カズマ、お帰りにゃ〜ん」
部屋の扉を開けると同時に、オズマが飛びついてきた。
これはある意味、よく懐いたペットが飼い主の帰宅時に飛びついてくるのと一緒である、と和馬は認識していた。確かに彼女は、見た目は人間だし本性は虎なのだが、中身はただの猫である。
「よしよし。いい子で留守番してたか」
喉をくすぐると、ゴロゴロと本当に猫みたいな声を出す。だが、それをすぐ隣で見せつけられるさやかの心中は、決して穏やかではなかった。
「あ。朝の人だぁ」
怒ったものやら呆れたものやら、とにかく複雑な表情をしている彼女を目ざとく見つけて、オズマが脳天気な声を出す。
「カズマの友達?」
「ああ。紹介してやるから、そこを退け」
「はーい」
実に素直な返事をして、転がるように奥の部屋へと飛び込んでいく。続けて和馬とさやかが入ると、もう一人の人物が二人を出迎えた。
「お帰り、カズマ君。意外と早かったのねぇ」
よりにもよって、リリアだった。しかも、和馬のベッドで勝手に寝ていたらしく、起き上がったばかりの彼女はあろうことか、非常にセクシーなネグリジェ姿だった。
「あら、朝のお嬢さんも一緒なのね」
欠伸まじりでのんびりと言う。しかし、すでにさやかは、そんな事は聞いちゃいなかった。
「ねぇ、和馬ちゃん?」
長い付き合いだから分かる。和馬の背中を悪寒が走った。
「別にね、和馬ちゃんだってもう大学生だし、わたしの知らない間に彼女が出来てたっておかしくはないと思うのよ」
「ちょ、ちょっと待て」
「子供じゃないんだから、いちいち報告する義務だってないわよね」
「だから、それは、違うって」
和馬の反論は一切無視。さやかの声のトーンは、次第に低くなっていく。
「ましてや、わたしはただの幼馴染。それは分かる。よーく分かってるわ。でもね」
一拍の沈黙。彼女が深く息を吸い込む音が、やけに大きく響いた。
「二股ってどういうコトなのよ!?」
そして次の瞬間、さやかは叫んだ。
「にゃッ!」
その音量に驚いて、オズマの瞳が縦長になったほどだった。しかし、さやかは構わない。
「っていうか、朝は四人もいたわよねッ!?一体あれは何なの?どうして女の子があんなにたくさん……ッ」
耳まで真っ赤に染めて、朝と同じように彼女は怒っていた。それと同時に、言いようのない感情がさやかの心を締めつけた。
「どうして……どうしてッ」
ふいに、言葉が途切れた。ぷいっと顔を背けた途端に、あごの先から小さな雫がちぎれて飛んだ。
「さ……さやか?」
朝と同じだった。怒ってわめいて、最後に泣き出す。和馬には、さっぱり訳が分からなかった。
「カズマ、また泣かせた?」
「俺のせいじゃないぞ」
小声で言い合う和馬とオズマ。その時、リリアが意味深な笑みを見せてベッドから立ち上がった。
「はいはい。それじゃちょっと悪いんだけど、カズマ君もオズマも、出て行ってくれる?」
和馬とさやかの間に割って入るように立ち、自信たっぷりに言う。
「ここは、わたしに任せてもらえないかしら」
突然の提案に二人は顔を見合わせたが、ただ黙って肩を震わせているさやかを見ると、そうも言っていられなかった。和馬はうなずいた。
「分かったよ、リリアさん」
「えー?どこ行くの」
「どうせそろそろバイトの時間だろ。たまには送ってやるよ」
きょとんとするばかりのオズマを引っ張って玄関へ向かう。二人がドアを閉め、完全に気配が消えるのを待って、リリアは背中越しにさやかに声をかけた。
「お嬢さん……確か、サヤカちゃんって言ったわね」
返事はない。だが、彼女の次の言葉に、さやかは振り向かざるを得なかった。
「あなた、もしかしなくても……カズマ君のことが好きでしょう」
ずっと側にいるのが当り前だった。家が隣同士だったせいもあって、二人は兄妹のように一緒に育ってきた。
今までも、これからも、ずっと一緒にいられるはずだった。そのために、自分にはちょっと理想の高かった高校にも大学にも、必死で勉強して合格してみせた。
それぐらい、和馬のことが好きだった。家族として、友人として――そして、一人の男性として。
いつから芽生えたのかは憶えていないが、彼女は自分の中にあるその感情を知っていた。だからこそ、彼が自分の知らない女性に取り囲まれているのを見た瞬間、どうにも涙が出てきて止まらなくなってしまったのだ。
リリアには、それがすでに分かっていた。
驚きと気恥ずかしさと悔しさと、なにやらごちゃ混ぜになってしまって目を見開いているさやかの肩に手をかけて、優しく話しかける。
「答えたくないなら答えなくてもいいわ。でも、とりあえず、わたしの話を聞いてもらえないかしら?」
「………………」
ぴくりとも動かない彼女の姿を確認し、リリアは萌黄の事情を説明し始めた。もちろん、リリアたちが魔物だという部分は上手く誤魔化して、だ。
長い話が終わる頃には、さやかは泣き止んでいた。
「それで、和馬ちゃんを」
「そう。たまたま隣に引っ越してきた、っていうだけでそんな役を押し付けちゃって悪いとは思ったんだけど」
そう締めくくって、リリアはいたずらっぽくウインクしてみせた。
「サヤカちゃんなら、わたしたちがカズマ君を選んだ理由、分かってくれるわよね?」
長い付き合いのあなたらなら。言外にそう匂わせるリリアに、さやかは素直にうなずいた。
「だって、和馬ちゃんは……」
本当は分かっていた。さやかが何を思っているのか、どうして泣くのか。
あれだけ長い時間一緒にいて、気付くなという方が無理というものだ。彼女が和馬のことを愛していることぐらい、うんざりするほどよく分かっていた。
しかし、和馬は分からない振りをしなければならなかった。そうしなければ、彼女があまりにも可哀相だから。彼女をそんな目に会わせる自分を許せないから。
オズマをDining Catまで送った帰り道、和馬はゆっくり歩きながら考える。
どうして俺は、応えてやれないんだろう?
冷静に見ても、さやかは結構可愛い女の子だと思う。性格も明るいし、喜怒哀楽も明確で一緒にいるのも楽しい。それなのに、和馬は、一度もそういう目で彼女を見ることは出来なかった。
さやかだけではない。どんな女性に対しても、そうなのだ。
俺には――恋愛感情というものが、ないから。
恋人の振りは出来ても、本当の意味でさやかの恋人になってやることは出来ないのだ。
今までに何度も導き出した答えにまた今回もたどり着き、小さくため息をもらした。
まるでどこかに置き忘れてきてしまったかのように、それだけが、自分に足りない。だが、それだからこそ、あんなに女性に囲まれていても平然としていられるのだろうとは思う。
「リリアさん、上手くなだめてやってくれてるかな」
報われない幼馴染のことを考えて、和馬は少しだけ、歩みを早めた。
「なんで、まだいる?」
「だって、萌黄さんが晩ご飯に誘ってくれたんだもん」
ちなみに、和馬が部屋に戻っても、さやかはまだそこに居座っていた。リリアの説得は上手くいき過ぎたみたいだった。
オズマこそいないが、萌黄とリサリサが買い物から戻ったので、狭い事この上ない。
「和馬ちゃん」
その中で、ふいにさやかが言った。
「な、何だ?」
「これからも、ちょくちょく遊びに来てあげるから、感謝しなさいよね」
やっぱり女性に囲まれているという状況は変わらないが、表情はすっかり明るくなっていた。
「何が感謝だ。本当はアレックスが目当てなんだろ?」
「なによぅ、人が親切で言ってあげてるのに!」
これでもう、いつも通りの二人だ。
「和馬ちゃんのバカぁ!」
そう言うさやかは、それでもとても、楽しそうだった。