第4話 晴人先生の憂鬱(その1)
ある日、和馬が大学から帰ってくると、床の上に白骨死体が転がっていた。
「どうした?」
もちろん、今さらそんな事に驚くような彼ではない。ディバックを下ろしながら、平然と尋ねる。
「……疲れた」
すると、かさかさと乾いた音を立てて、骨が答えた。
「疲れた?でも、今日の仕事は夕方からだろ?一体何やってたんだ」
「精神的に、だよ。別に体はどうってことない」
Tシャツに短パンというラフな格好をした白骨死体は、そう言って上半身を起こし、軽く首を回した。それと同時に、淡い輝きが枯れた体を包み込む。
光が収まると、そこにはいつも通りの、童顔でチビッコの姿をした晴人が座っていた。彼は、アンデッドと呼ばれるタイプの魔物なのだ。
「あーもう、今日は仕事行きたくないなー。よいしょっ……と」
子供っぽい容姿に似合わない、おっさんくさい台詞を吐きながら晴人は立ち上がる。そして、窓にくっついて外をちらりとのぞき見た。
「あー……やっぱ、いるわ」
「何が?」
同じように立ち上がり、和馬も外を見た。窓から見えるのはいつもの光景で、取り立てて何も変わったところはなさそうだった。
「僕の追っかけ」
「は?」
思っても見ない答えに、和馬は晴人を凝視した。背が低くてちんまりとした印象の、私服を着ていたら誰がどう見ても中学生にしか見えないこの童顔の塾講師に、追っかけ?
「お前、もしかして、生徒にイジメられてんのか?」
「そんな事ないよ」
晴人は自分より頭ひとつ分背の高い和馬の腰にしがみつくようにして、もう一度窓の外をのぞいた。ちょっと離れた広い道路に、女子高生とおぼしき制服姿の女の子が三人、寄り添うようにくっついてこちらに顔を向けていた。
「あれだよ、あの子たち。去年の冬期講習から僕のクラスになった子たちなんだけど」
困ったように言って、晴人はカーテンを引いた。
「なんでだか知らないけど、僕のことをいたく気に入っちゃったみたいでね。この前、とうとう家までつけて来たんだ」
「え?そこまでするか?」
「現に、ああしてあそこにいるじゃないか」
和馬が見ていると、三人はきょろきょろと所在なげに辺りを見回していた。どうやら、近くまでは来たものの、正確な位置まではつかめていないらしい。もうすぐ出勤のために、あの辺りを通るであろう晴人を捕まえようという作戦らしかった。
「熱狂的なファンだな」
「うーん……」
和馬の言葉に、晴人が首をひねった。
「別の道を通って、っていうか、道なんか通らなくてもゼミまで行けるんだけどさ」
幼い顔を曇らせながら、彼は言う。
「そうすると、あの子たち、遅刻するんじゃないかと思って」
「……いくら何でも、そりゃないだろ」
「鬱陶しい」
突然、二人の頭上から低い声が割って入った。
「ここにいると大きな声で言ってやればいいだろう。男二人がこんな所でぐだぐだと……邪魔くさい」
リサリサだった。上から無造作に手を伸ばし、小柄な晴人の首根っこをつかんで猫のように持ち上げる。
「しゃべってないで、とっとと仕事に行け。それとも、ベランダからあの子たちのとこまで投げてやろうか?」
どうやら、彼女のご機嫌はすこぶる斜めの様子だった。この調子では、本当にベランダから晴人を捨てかねない。彼は、素直にうなずいた。
「分かった、分かった!ちゃんと行くから、降ろして」
「…………ふん」
ぽい。
いささか乱暴に晴人を投げ捨て、リサリサは和馬の隣に立った。窓から見下ろす女の子たちは、相変わらず不安そうな面持ちであちこちに視線をめぐらせている。
「それじゃ……行って来るから」
これ以上、彼女の機嫌を損ねないうちに、という事だろうか。立ち上がった晴人は、普段着からスーツに一瞬で着替えて、転がるように和馬の部屋を出て行った。
ものの数十秒もせず、晴人の姿は眼下の道路に現れた。案の定、すぐに見つかって、小柄な先生は女の子たちに取り囲まれてしまう。
「やっぱり、面白がられてるだけなんじゃないのかな」
和馬は、その様子を黙って見守っているリサリサを見上げた。
「晴人って子供みたいだから、先生って感じがしないし。そうだろ?」
「二人は、な」
しかし、赤毛の女性は、彼を振り返りもせずに答えた。
「あの、一番後ろにくっついている娘。あの子は違う」
「え?」
引っ張られるように連れて行かれる晴人。主に彼をつついているのは二人で、もう一人は何かあたふたした様子で彼女たちにくっついて行っている。
「あの子、この前ウチに来たよ」
四人の姿は、すぐに角を曲がって見えなくなった。リサリサはその方角を目で追い、それからようやく和馬を振り返った。
「相性占いの相手、ゲルハルトだった」
リサリサは、駅前の雑居ビルで占い師の仕事をしていた。魔物が魔力を使って占うのだから外れることはほとんどない。その分値段も高めで、女子高生のお小遣いでは少々厳しい。
それなのに、彼女がリサリサの店を訪れた、ということは、答えは一つ。
「あの子、本気なのか?」
「多分ね」
表情を変えずに、リサリサは答えた。
「で、占いの結果はどうだったんだ?」
「占ってない」
「は?」
占い師にあるまじき返事に、和馬はすっとんきょうな声を上げる。
「占ってないって……なんでだよ?可哀相じゃないか」
「料金はもらっていない、大丈夫だ」
「そういう問題じゃないだろう」
しかし、彼女は腕組みをしてゆっくり首を振った。
「いいか和馬、冷静に考えろ。相性が悪いというんならともかく、良かった場合どうする?まだ若い、前途有望な女の子に、異世界から来た正体不明の白骨死体と付き合えと、言えるか?」
「…………う」
それは、そうだ。
見た目は童顔で可愛らしくても、晴人の正体は、魔物なのだ。一度死んで再び甦った、生きる屍なのだ。
「子供の戯言として扱えと、ゲルハルトにも言ってある」
リサリサは、言った。
「なに、長くてもあと2年の付き合いだ。会わなくなれば忘れる……あの年頃にはよくある事だ」
顔の右半分に垂らした長い前髪が、うつむいたためにより深く、表情を隠す。それは、何だか苦しげにも見えた。
「ま。いずれにせよ、わたしには関係のない話だがな」
口元だけがにっと笑って、彼女は両手を広げた。
「子供の恋愛話など、つまらん。時間の無駄だった」
「え?」
そのまま、立ち尽くす和馬を残して、リサリサは背中を向けた。
「時間の無駄って……」
それじゃあなんで、わざわざ話に口を挟みに来たんだよ?
あの子の恋を応援したいのか、そうでないのか、さっぱり分からない。振り向くと、気まぐれな占い師は、不機嫌そうにどかどかと足を踏み鳴らして出て行くところだった。
「晴人先生」
今日の授業は全部終わり。明日の準備を整えて、職員室を出ようとした晴人の背中に、小さな声がかけられた。
「北村くん……か」
振り返ると、背の低い晴人よりもう少しだけ小柄な女の子が立っていた。数学の講義に通っている、北村怜子という高校生。自分から声をかけておきながら、どこか落ち着かなさそうに視線はさまよっている。
落ち着かないのは晴人も同じだった。
本来の志望は文系のはずだが、彼の講義を受けるために、不必要かつ苦手な数学に取り組んでいる姿は、彼への好意を如実に表していた。誕生日と血液型に始まって、恋人の有無、好きな女性のタイプなどを根掘り葉掘り晴人に聞きまくっていた、友人二人のバックアップもその事実を裏付ける。
それに何より、リサリサからすでに、彼女が晴人との相性占いを頼みにいったという事実を聞かされている。
しかし、だからといって、こんな遅い時間まで自分を待っていた彼女を放っておくわけにはいかなかった。
「どうしたの、こんな時間まで?」
「あの……」
声をかけると、怜子は視線を合わさずうつむいた。
「先生、これから、お暇……ですか?」
時計は夜の11時を回っている。晴人は、首を振った。
「だめだよ、帰らなきゃ。家の人が心配する」
「で、でも」
いつもは友人の後ろに隠れてこっそり付いてくるような女の子だが、今日はどうやら違うようだ。反論しかけて口を閉じ、困ったように晴人を見た。
「うーん……」
彼も困る。そうこうして顔を見合わせているうちに、二人のそばに警備員が寄ってきた。
「先生。もう電気消して鍵かけたいんだけど、いいですかね?」
「す、すみません」
晴人はあわてて頭を下げ、仕方なく怜子を促す。
「分かったよ。今日は遅いし、送っていってあげるから。それでいい?」
「は、はい!」
飛び上がるように顔を上げて、彼女はうなずいた。
「ありがとうございます!」
耳が赤く染まる。それを見ながら、晴人は複雑な表情で足元に視線を落とした。
一体、僕はどうすれば……?
棺桶に片足に突っ込んでいるような気分だった。
黙ったまま、二人はただ、並んで歩く。何から切り出したらいいのか分からなくて、晴人はただ、自分の隣を歩く少女を時折ちらちらと眺めるだけだ。しかし、怜子は、心に決めていることでもあるのか、迷わず前を向いていた。
ほどなく公園にさしかかり、彼女は言った。
「先生……ちょっと、ジュースでも飲みませんか?」
薄暗い照明に照らされたベンチのそばに、一際明るく輝く自動販売機が見える。晴人はうなずいた。
「そうだね。何飲む?」
緊張したせいで、喉はカラカラだった。子供みたいな顔にほっとしたような笑みを見せて、小銭を取り出す。
「え、え?先生が買ってくれるんですか?」
「いいよ、これぐらい。さ、どれがいい?」
「それじゃ、あの、ミルクティーを」
静まり返った公園に、がこん、と缶ジュースが吐き出される音が異様に大きく響いた。ちょっと驚いてしまうほど、大きな音だった。
「はい……じゃ、どうぞ」
「ありがとうございます」
怜子はミルクティー、晴人はアップルジュース。そのまま並んで、ベンチに座る。そしてそのまま、言うことがなくなって、黙り込んでしまった。しばらくの間、静かにジュースを飲む。
だが、ミルクティーを半分ほど飲んだところで、怜子が意を決したように顔を上げた。
「あのね、先生」
「……ん?」
「わたし、この前、駅前の占い屋さんに行ったんです」
何も知らなければ、唐突な話だと思っただろう。だが、彼は、その先に続く話を知っている。相槌も打てなくて視線をさまよわせる晴人に、彼女は続けた。
「好きな人がいるから……占ってもらおうと思って」
その一言一言が、晴人にとっては、重く、痛い。
「でもね、断られちゃったんです。占い師さんと、相手の人が友達だから、うまく占えないんだって……知ってました、先生?」
「えっ?う、うん」
思わず、うなずく。そして、はっと気がついた。
握りしめた缶に視線を落としていた怜子が、顔を上げてじっと彼を見つめていた。
「もう、リサさんから聞いたんですね?その話」
「……うん」
嘘をついても仕方がない。晴人がうなずくと、彼女はまた、手元の缶に顔を向けた。
「やだなぁ、恥かしい……告白する前に、バレちゃうなんて」
口元は笑っているが、うつむいた目は笑っていなかった。不安にゆれて、涙がにじむ。手が震えていた。
「でもね、先生……わたし、わたし」
ともすれば、かすれそうになる声を振り絞り、それでも怜子は話すのをやめなかった。
「先生のことが好き」
彼が、一体何なのかも知らずに。
彼女は、そう告げた。
そのまましばらく時間が止まる。晴人は、答えを求めて彼女の顔を見つめた。
「僕は……」
ゆっくりと、口を開く。
ゲルハルト・カールスルーエは忘れていた。そして、油断していた。
自分が魔物だから、大丈夫だと思っていた。目の前の事態で頭がいっぱいだった。
だが、この世界にはこの世界なりの危険がある。夜の公園などという場所には尚更だ。
若い、むしろまだ子供っぽいカップルを狙って、音もなくその危険は忍び寄り、鉄パイプを振り下ろした。