第4話 晴人先生の憂鬱(その2)
「……なんだってさ」
「でも、それはおかしいわねェ」
和馬の言葉に、萌黄は首をひねった。
「友達でも、占えない事はないわよ?だってリサ、わたしたちのこととか、時々占ってくれるもん」
深夜、萌黄の部屋に二人きり。魔物たちは出払っている。そんなところで何をやっているかというと、二人して、買い込み過ぎたケーキを食べているところだった。
今日が終わるまであと30分弱。萌黄に言わせると、何がなんでも今日中にケーキを食べてしまわなければならないらしい。
「今日はお金拾うとかね、買い物帰りに転ぶとかね、本当によく当たるのよ」
大した事じゃないじゃん、とツッコみたくなるのを、苺ごとぐっと飲み込んで和馬は尋ねた。
「他の魔物たちに対してはどうなの?占ってあげたりとかはしてる?」
「あんまり見た事はないけど、出来るでしょ」
萌黄は首をひねった。
「あ、そう言えば、自分とアレックスのことだけは占えないって言ってたわ」
「自分と……アレックス?」
「アレックスは、リサよりも魔力が桁違いに強いから分からないんだって」
桁違い。何だか恐ろしいことを聞いたような気がする。
だが、そんなことはまるで気にする様子もなく、彼女は続けた。
「で、自分に関係することは、主観が入っちゃうからダメなんだってさ。どうしても、希望や感情が入って、正確にはいかないそうよ」
「ふうん……なるほどね」
いずれにしても、どちらも納得のいく理由だった。では、どうして彼女は、晴人のことを占えないなどと言ったのだろう?
やっぱり、あの女の子を諦めさせるためなのだろうか。
「萌黄!」
その時、おもむろにドアが開いて、件の占い師が入ってきた。
「和馬も!ひどいじゃないか、ケーキを食べるんなら、どうして一声かけてくれないんだ」
「ああ、ごめ〜ん」
ケーキごときで眉を吊り上げるリサリサに、萌黄はのほほんと謝る。
「だって、リサ、今日は帰って来ないと思ったから」
「何も今日中に全部食べる必要はない」
「でも、本日中にお召し上がりくださいって書いてあるわよ」
妙なところで律儀な主人に、魔物は首を振った。
「少しぐらい過ぎても平気だ」
長い手を伸ばし、無造作に一つつかんで口に運ぶ。萌黄が叫んだ。
「あー!それは最後に食べようと思って取っておいたのに〜!」
鈍い音がして、晴人は突然地面に倒れこむ。手に持っていた缶が転がり、透明なジュースが広がっていくのと同時に、もっと色の濃い液体もゆるやかに流れ出していく。
何が起こったのか、分からなかった。
「せ……せ、先生?」
ようやく絞り出した声に、返事はない。その代わり、にやにやと下卑た笑いが怜子を取り囲んでいた。
「へへ……」
ぞっとするような、嫌な声。見上げると、明らかに風体の悪い若者たちがベンチの後ろに立っていた。一人が、その手に鉄パイプとおぼしき長い棒を持っていた。
「キミ、中学生?こんな時間に、いっけないんだァ」
誰かが言うと、みながげらげらと笑う。闇の中から手が伸ばされて、乱暴に怜子の腕をつかむ。
「ねーねー、そんなガキンチョは放っといて、オレたちと遊ぼうぜェ?」
「そーそ。楽しいコトしようぜェ」
また腕が伸びてきて、彼女の肩を押さえつける。
「行こ行こ。もっといいトコ、知ってんだからさァ」
怜子は動けなかった。怖くて――何よりも、恐ろしくて。
白っぽいコンクリートの上に倒れたまま、晴人はぴくりとも動かない。街灯に照らされて、黒く赤い水溜りだけがゆるゆると広がり続けている。
後頭部が、おかしな形に凹んでいた。血だって、もうあんなに流れ出してしまった――一目で分かる。もう、もう、愛する人は、生きてはいない。
恐怖が怜子を縛りつけた。
「先生」
小さく彼女は呼んだ。
「先生……先生ッ!先生!!」
次第に、声が大きくなる。それを聞いて、また不良たちは笑った。
「先生?このお子チャマが、先生!?」
げらげらと耳障りな笑い声が公園に響く。
「そりゃイイぜェ!先生、教え子と深夜の禁断デートってか!?」
「こりゃー訴えらんないねぇ」
さらに腕が伸びてきた。遠慮も何もなく、怜子の胸をわしづかみにする。スカートがまくり上げられる。
「ひッ…………!!」
遊ぼうぜ。いいトコ、行こうぜ。
それが何を意味するのか、分からない年齢ではない。
いや。やめて。助けて。許して。
しかし、それらの言葉は頭の中を巡るばかりで、声にはならなかった。ただ、口に出るのは一つだけ。
「先生……先生…………晴人先生ッッ!!」
泣きながら、ただ、彼を呼んだ。
ふいに胸を横切った嫌な予感に、和馬はケーキを食べる手を止めて顔を上げた。同じように何かを感じ取ったらしいリサリサと、必然的に目が合う。
「今のは……」
つぶやく彼に、リサリサは一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、それもすぐに真剣な表情に取って代わられた。
「魔力が流れ出している」
「え?」
何のことだか分からない和馬と萌黄の目の前に、彼女は水晶球を置いた。透明な球体の中心から夜の空の色がみるみる染み出して、闇の色に染めていく。やがてその中に、ぼうっと光る街灯が見えてきた。
「ここは……どこだ?」
人影がいくつか動いているのは見て取れるが、街灯の明かりだけでは頼りなく、周りの状況は分かり辛い。ただ、和馬の胸の中にある、何ともいえない嫌な気配は増していくばかりだ。
「公園みたいだけど」
「あっ、わたし、分かった!」
ふいに、萌黄が嬉しそうに手を叩いた。
「ここはねぇ、駅の北口を出てね……」
「行きながら聞く!案内してくれ、萌黄ッ!」
のんびりと話し出そうとする彼女を横抱きに抱え上げ、リサリサは立ち上がる。
「え?え?」
「とにかく、まずは駅だな?」
「う、うん」
言うが早いか、彼女は椅子を蹴飛ばして玄関に向かった。両手がふさがっていても、扉は魔法で勝手に開く。
「ちょっと待て!俺も行く!」
和馬はテーブルの上に置かれた水晶球をつかんで、あわてて後を追った。その手の中で、ぶつん、と音を立てて、街灯が消えた。
「その、汚い手を離すんだ」
幼い声は低く冷たく、地の底から響いてきた。
「それ以上、怜子くんに触るんじゃない」
例えではない。倒れたまま、血だまりの中に顔を伏せたまま、それなのに彼の声はくぐもったりせず、はっきりとその場にいた者の耳に届いた。
「な……何ィ?」
血だまりの中から、少年の体が起き上がる。
陥没した頭から、鮮血というにはすでに黒く色が変わってしまった液体を滴らせ、まるで糸で吊ったかのように不自然に、体を伸ばしたまま起き上がる。
「せ……先生?」
驚いたようにつぶやく怜子には応えず、後ろ姿のまま、彼は告げた。
「死にたくなければ、怜子くんを離すんだ」
「なッ……何だってんだよッ!?」
だが、一人がいきがって叫んだ。
「汚ねぇガキが、引っ込んでろ!」
再び鉄パイプを振り下ろす。それは、朽木を殴ったかのような軽い感触をともなって、晴人の左肩にめり込んでいく。
「先生!」
怜子がまた、悲鳴をあげる。しかし、さきほどとは違って、晴人はまったく動かなかった。
「愚かな」
腕がちぎれそうなほどに深くパイプは食い込んでいたが、まるで意に介する風もない。
「警告が聞こえないのか」
「うるせぇ!」
こんな、わけが分からない相手に、いい様にあしらわれてなるものか。変なところで高い不良どものプライドが傷ついた。
「大人しく死んでろ、この化け物が!」
かちり、と小さな音がする。何人かが、その手にナイフを持っていた。
「殺せ!」
誰かの声を号令に、一斉に飛びかかる。
その途端、彼らの見る世界は一瞬で変化した。
「せん――せい」
あふれ出す魔力にあてられて、街灯が、ばちっと火花を弾けさせて消えた。
公園の地面が割れる。そこから噴き出すのは、形のない悪意。
見えないはずの何かがおぼろげに靄をまとい、手の形になり、彼らをつかむ。そこから送り込まれるのは、心臓を鷲掴みにされるような圧倒的な冷たさ――恐怖。
「それは、君たちに傷つけられた人の思い」
返事はない。悲鳴さえ、あげられない。
魔法によって明確な力となった恨みが、憎しみが、悲しみが渦を巻いて、公園にあふれていた。その強さはまぎれもなく、彼らが今まで行ってきた悪事の報いに他ならない。
「思い知るがいい」
うめき声に混じって、みしみしと音がする。それは、人間の骨が圧力に負けて、折れようとする音だった。
二本ある右手で萌黄を胸元に抱きかかえ、もう二本の左手で和馬を引きずりながら、リサリサは風の速さで街を行く。すでに夜中の12時も近い街路を出歩く人の姿もなく、彼女は透明な羽を広げて文字通り低空を飛行していた。
見た人間がいたところで、それが何であるかを認識するのは相当難しい問題であろうと思われる。
「そこ、右!」
「こっちか!?」
狭い道を曲がる。ぶつからないように、急激に引っ張り上げられる和馬が短くうめいたが、気にしている暇はなかった。
「そしたら、見えるから、公園」
「あそこだな」
ぱっと視界が開けて、こんもりと植え込みが生い茂る一画が見えた。リサリサは二人を地面に降ろし、余分な手と羽根を引っ込めた。
「でも、こんな所で一体何が……」
萌黄が尋ねようと口を開きかけたその時、女の子の声が暗闇に響いた。
「いや――いやあああぁぁ!」
ぼきっ、と鈍い音がするのと同時だった。
「やめてっ……やめて、先生!」
地面に座り込んだ怜子は、両手で頭を抱え、いやいやをするように首を振った。
「やめて…………もう、やめて」
その声で、ようやく、晴人は振り返った。
「お願い……もう、やめて」
顔を伏せたまま、彼女は消え入るような声で言った。
不良たちはとっくの昔に意識を手放し、白目を向いて泡を吹いている。その真ん中にたった一人、彼女の制服が、取り残されたかのように白く浮き上がって見えた。
「怜子く……」
だが、晴人の言葉は全部続かなかった。
枯木をはたくような、軽く頼りない音がして、彼の首はねじ曲げられていた。
「この、バカがッ!」
リサリサだった。
長身から振り下ろされた平手は、崩れかけた晴人の頬を張り、本当の素顔をさらしていた。
「あれほど言っておいたのに……!」
「ごめん」
取れそうになった首を右手で支え直す。その顔は半分しかなく、もう半分は白く乾いた骨がむき出しになってしまっていた。闇のように深い眼窩の奥に、赤い光が見える。
つぎはぎのようで、どこか滑稽な顔。そんな彼を呆然と見上げる怜子に、晴人はもう一度謝った。
「ごめん」
もはや外見を取り繕ってもどうしようもない。
彼は魔物で、不死者で、化け物なのだ。
何のためらいもなく人間を殺せる、人外のモノなのだ。
「う……う、ううっ……」
優しくて、いつも笑ってて、教え方が上手なくせにどこか頼りにならない、可愛い晴人先生なんて、どこにもいないのだ。
そう思うと、改めて恐怖が心臓を締め上げてくる。じわじわと、なぶるように。
「うわッ……何だこれ!」
その時、ようやく追いついてきた萌黄と和馬が、怜子の目に入った。
「何なの?一体、どうしたの!?」
「う……っ」
この状況を見て目を丸くしている、ごく普通の男女。そんな二人に、彼女は思わずすがりついていた。
「うわああああああん!」
怜子は泣いた。
「ねぇちょっと、どうしたの?大丈夫?」
「うわあああああぁぁ……あああああぁんん!!」
涙をこぼして、大声をあげて、とにかく泣いた。ひたすらに、泣き続けた。