第4話 晴人先生の憂鬱(その3)
あれから二週間。
放課後の教室に一人残って、怜子は空を見上げていた。もうすぐ塾の講義が始まる時間だが、今ここにいたのでは、間違いなく間に合わなかった。
今までの彼女なら、晴人の講義に遅刻するなどあり得ないことだった。
大好きだったから。
初めて会ったのは、友達について何となく修光ゼミナールに行った時だった。ロビーでカバンの中身をぶちまけてしまった彼女を助けてくれた。見た目が幼いので学生だと思ったのだが、後で友人から講師だと聞いて驚き、それと同時に自分の気持ちに気がついた。
だから、苦手な数学の講義も頑張った。両親が感心するほど成績も上がり始めていた。
そう……大好きだったのに。
あれから、何度も思い出す。完全に打ち砕かれた頭を、骨の露出した顔を。
そして、ごめんと彼女に謝った時の、打ちひしがれたような表情を。
とりとめのない考えを巡らせていると、下校時間を告げるチャイムが鳴った。少し雲の多い空が、赤紫色に染まっていた。
「……帰ろ」
晴人先生の授業はもうとっくに始まっている。遅刻した生徒がいたら、視線を合わせることで、そっと叱ってくれるはずだ。
カバンを取って、怜子は立ち上がった。
ううん、塾には行かない。家に、帰るんだから。
のろのろと歩いて、教室の扉に手をかける。その瞬間、前触れもなく扉は勝手に、しかも豪快な勢いで開いた。
「怜子!」
「きゃっ!」
思わず悲鳴をあげてしまったが、落ち着いてよく見ると、廊下に立っていたのは親友の美香と可奈子だった。
「やっと見つけたわよ、怜子。メールしたのに、気付かなかったんでしょう」
「あ、ご、ごめん」
「まぁいいわ」
おろおろと謝る彼女の腕をぐっとつかんで、二人は顔を近づけた。
「それよりも、ねぇ……怜子、あんた、晴人先生と何かあった?」
あまりにも単刀直入な質問に、答えられるはずもない。言葉を失って視線をそらす怜子に、彼女たちはたたみかけた。
「やっぱり、何かあったのね?ねぇ、何?」
「………………」
開きかけた唇が、閉じた。怜子はただ黙ってうつむくだけ。
美香と可奈子はお互いの顔を見合わせて、うなずきあった。
「あのね、怜子」
彼女の手を握り、美香がゆっくりと告げる。
「晴人先生、ゼミ辞めちゃうかもしれないって」
「……え?」
「あんたへの手紙、預かってきたよ」
可奈子が自分のカバンを開けた。飾り気もそっけもない真っ白い封筒は、几帳面にぴっちりと糊付けされていた。
「前回の授業までは晴人先生来てたんだけど、今日は代理の先生で、その人がこれ、あんたに渡してくれって持ってきたの」
友人の言葉を半分ぐらいしか聞かずに、怜子は封筒に手をかけた。うまく開かなくて、封筒はあらぬ方向へ破れていく。
「ハサミなら持ってるわよ、もっときれいに……」
そんな声も聞こえていないほど、彼女は何故かあわてていた。無残な姿になった封筒を捨てて、一枚きりのレポート用紙を開く。そこには、ほんの数行だけ、文字が並んでいた。
――ごめん。
顔を見るのも嫌だろうから、僕は講師をやめます。せっかく成績が上がってきたんだから、講義は休まないで、これからも勉強頑張って下さい。
本当にごめん。さようなら――
「な……何、これ?」
左右からのぞきこんだ友人たちが、驚きの声をあげる。それは間違いなく、別れの言葉だった。
「ねぇ、一体どういうことなの?」
「あんたたち、何が……」
ぽつり。
手紙を持つ手が揺れた。水の雫が紙の上に落ちて、丸く跡を残した。
「怜子」
「ねぇ」
震える声で、怜子は尋ねた。
「もう、会えないのかな?」
あれから一度も会ってないけど。避けていたのは、わたしの方だけれど。
「わたし…………わたし……っ!」
言葉は嗚咽になって、形にならなくなる。二人が肩を抱いてくれた。
「落ち着いてよ、ね?怜子」
「とりあえず、ゼミ行こう」
美香がカバンを持ってくれた。可奈子が怜子の手を握り、三人並んで歩き出す。
「代理の先生って、晴人先生の友達なんだってさ。だからさ、とにかく会ってみればいいじゃん?ね?」
怜子はうなずいた。
一コマ分の講義を終えて、須藤和馬はため息をついた。
大丈夫、ちゃんと出来た。誰にも僕だとはバレていない。
テキストをたたんで、生徒たちを背に教室を出る。その時、背後から突然声をかけられた。
「ねー、須藤先生」
「な、何だい?」
本当は飛び上がるほど驚いたが、それを顔に出さないよう、細心の注意を払って振り返る。いつも晴人の授業に出ていた男子生徒が、怪訝そうな顔つきでそこに立っていた。
「はる……加納先生、ココ辞めるって聞いたんだけど。ホント?」
「あ、いや」
和馬は視線を宙にさまよわせて言葉を選んだ。
「もしかしたら、の話だよ」
「なんで?」
納得がいかないというように語気を強めて彼は尋ねる。
「もしかして引き抜き?どっか別の塾行くの?」
「えー?」
その言葉を聞きつけてか、他の生徒たちもぞくぞくと二人の周りに集まってきた。
「うっそ!晴人、辞めんの?」
「それホント?須藤先生」
「ちょっと待てちょっと待て!」
どうやら、美香と可奈子に話しているところを誰かに聞かれてしまったらしい。和馬は首を振り、何とかこの場を切り抜けようと答えを考え、口にした。
「まだそうと決まった訳じゃないから」
「じゃ、そうかも知れないんだ!」
生徒たちがざわめく。思っていた以上に晴人の人気があったことを思い知らされつつ、和馬は手を振った。
「とにかく!他のクラスの人たちにはまだ言っちゃダメだよ。本当に、本決まりじゃないんだから」
そう言い残して、逃げるように教室を出る。職員室とは逆方向に向かいながら、彼は眉をしかめる。
いつもと違って、高い視点から見下ろす景色はどこか不思議だった。
和馬の姿を借りた晴人は、強い違和感を覚えながら廊下を歩く。いつもなら気さくに声をかけてくれる生徒たちも、すれ違っても見向きもしない。
僕は、バカだった。リサリサの言う通りだ。
彼女が望むままに付き合ってしまったが故に、本当の姿をさらけ出してしまう事になろうとは。受け入れてもらえるはずなんか、ないのに。
そこまで考えて、ふと、口元に苦笑が浮かんだ。
受け入れて欲しかったのか?僕は。
…………馬鹿馬鹿しい。
自分の頭を自分の指先で軽く叩いて、晴人は唇を引き結んだ。廊下で一人、笑ったり落ち込んだりしていたら、和馬が変人だと思われてしまう。とにかく今日の仕事をきちんと終えて、それからのことはその後で考えればいい。
次の授業時間が始まるチャイムを聞きながら階段を登り、屋上に向かう。都合よく、誰もいない。この時間は丁度空き時間だし、しばらくここで頭を冷やしていこう。
晴人はフェンスに手をかけ、空を仰いだ。苦手な太陽はすでに沈みかかって、紺から紫へのグラデーションが不吉な様相で広がっていた。
どれぐらい、そうしていただろう。次の授業があることを思い出し、ふと振り返る。
彼女が、そこにいた。
いつもの場所に来てみたら、彼が立ち尽くしていた。
だが、少しだけ近づいてみてすぐに気付く。背の高い後ろ姿は、あの夜公園に現れて、泣きじゃくる怜子をなだめて家まで送ってくれた青年だった。
代理の先生とやらがこの青年なのは、偶然ではないだろう。怜子はゆっくりと、彼に近付いていったその時、ふと、何の前触れもなく彼が振り返った。
二人の視線が合った。
怜子の顔を見た瞬間、ごめん、と言った時とまったく同じ顔を、晴人はしてしまった。
だがすぐに、いつもの和馬の様子を頭に思い浮かべ、何とか彼らしい表情を作る。いくら中身が晴人でも、外見は和馬なのだから、そんな顔をしてはおかしいのだ。
そう。和馬と怜子は初対面。知らない相手だ。
自分にそう言い聞かせ、彼は彼女に愛想笑いを向けた。
怜子の顔を見た瞬間、ごめん、と言った時とまったく同じ顔を、和馬は浮かべた。
それは一瞬の事で、すぐに何かに気付いたように愛想笑いを見せる。普通の人なら、その変化には気がつかなかっただろう。
だが、怜子は気付いた。
「先生」
小さな声が、唇から漏れた。泣き笑いの表情で、背の高い青年を見上げる。
「よかった……もう、二度と会えないかと思いました」
「え?」
和馬が驚きの声をあげる。彼女の目の前にいるのは、あくまでも今日初めて出会った代理講師の須藤和馬のはずであって、晴人ではない。
それなのに、怜子は彼に歩み寄り、涙を浮かべて微笑んだ。
「先生……ごめんなさい」
「れい……き、北村くん」
和馬の唇が引きつったように彼女の名を呼ぶ。
「一体、何の事だい?僕は……!」
あわてる彼の言葉を遮って、彼女は迷わずその腰にしがみつく。
「晴人先生なんでしょ?」
「…………僕は」
和馬の声で、晴人は応える。
「僕は」
その後が続かない。正体をさらして立ち尽くしたあの時のように、また言葉に困ってうろたえる。
そんな彼にしがみついたまま、怜子はゆっくりと首を振った。
あの時はただ怖かった。人だと思っていた人が人で無くなっていく様が、人でないモノが人を傷つけていく様が。
しかし同時に、後悔に苛まれ、悲しみにくれるあの表情も、忘れる事が出来なかった。あの顔を思い出すたびに、何故か怖さは消えていく。
二週間講義をさぼり続けて、ようやく分かった。
彼の姿は確かに怖かったけれど、本当の姿を見て泣いて逃げ出してしまった自分の方を、見たくなかったのだ。それに気づいた時、会えないことが恐怖になった。
「本当に、あの時は、泣いたりしてごめんなさい」
今にも泣き出しそうに震える喉を叱咤して、怜子は言葉を絞り出した
「晴人先生は、どんな格好になってたって、晴人先生なのにね」
優しいところは変わらない。どこか頼りないところも、何もかも。
「……怜子くん」
吐き出すような台詞とともに、和馬の体が淡い輝きに包まれる。光の中でその姿はみるみる縮んで、怜子とほぼ同じ身長になる。
和馬の腰に抱きついていたはずなのに、いつしか彼女はしっかりと晴人の首に両腕を回していた。
「大好き、先生」
すぐ目の前にある微笑みに、晴人は照れたように視線をそらす。
「……参ったな」
どうやら彼女には、晴人の正体が何であろうともはや関係なくなったようだ。それならば改めて、答えなければならないだろう。
「僕は」
その時、豪快かつ無遠慮に屋上のドアが開いた。
「怜子、ここに……うわッ!」
「どしたの、美香?」
顔を出したのは、美香と可奈子。抱き合っていた二人は一瞬で離れたが、時すでに遅し、である。彼女たちはたちまち嬉しそうな顔になった。
「なーんだ、晴人先生、いたんじゃん」
「ごめーん、お邪魔だったねぇ」
「美香ッ!可奈ーッ!」
真っ赤になった怜子は、照れ隠しに叫んだ。
その夜。
和馬が自室に戻ると、さやかとオズマが待ち構えていた。何故かじっとりと、目が横線になりそうなほどに痛い視線でにらみつける。
「和馬ちゃんが年下好きだったなんて知らなかったわよ」
「は?」
さやかが言うと、オズマが隣でうんうんとうなずく。
「あたし、見ちゃったんだもんね。カズマがじょしこーせーと抱き合ってるところ」
「はぁ!?」
「修光ゼミの屋上。お使い行った帰りに、ちゃーんと見たんだからねー」
本当は晴人と怜子なのだが、もちろん、誰もそんなことは知るはずがない。
さやかが、指をぱきぱき鳴らしながら、冷たーい笑みを浮かべた。
「さて。どういう事なのか、説明してもらいましょっか、和馬ちゃん?」
「俺は知らない!オズマ、お前、何を見た!?」
「女の子と抱き合ってるとこ」
きっぱりと言い切るオズマ。逃げ道は、ない。
「あの子、誰なの?あたしも聞きたいな〜」
「ちょ……ちょっと待ってくれーッ!!」
結局この日、和馬への尋問は、晴人が戻るまで続くことになる……。