第5話 次元監査官マリー(前編)
昨日も雨、今日も雨。
ここ数日、天気が悪い日が多くて雨続きだ。嫌になるほど洗濯物が乾かない。
仕方がないので放っておいたら、リリアが部屋中に紐を張り巡らせてそこかしこに洗濯物をかけていったのだが、それがまたうっとおしかった。立ち上がると、頭にかぶさるからだ。それだけならともかく、女性物の下着まで干していくのも余計にどうかと思う。
和馬はレポートを書きながら、いらいらとペンを回していた。誰もいない部屋の中に、雨の降る音、水を撥ねていく車の音が静かに響く。静かすぎて、逆に集中出来ないような気がした。
いつもにぎやかな反動だろうか。
字を間違えてしまって、彼は小さく溜息をついた。修正液を探して手を伸ばすと、袖口が机の端に引っ掛かって手元が狂い、ペン立てを倒してしまう。
「ダメだ……少し休もう」
散らばった机の上はそのままにして、立ち上がった。座りっぱなしで固まってしまった腰を伸ばし、窓から外をのぞいてみる。静かな町を歩いている人影もない。見ているだけで、さらに気が滅入りそうだった。
隣、遊びに行くか。
洗濯物をかき分けて、玄関へ向かおうとしたその時だった。
バッターン! と派手にドアが開く音がした。
「久しぶりーっ、萌黄いるー!? 元気してたーッ?」
甲高い、女の子の声だった。
「おい、マリー! ちょっと待たんか!」
後ろで誰かが制止しているような声もするが、どうやらそれは全くの無視で、女の子はずかずかと和馬の部屋に乗り込んで来た。
「うっわー、洗濯物干してあるねぇ。雨だもんねぇ」
無造作に頭にかかる洗濯物を払い、彼女は部屋の中央までやって来る。そこでようやく立ち止まり、はためく布の間から辺りを見回した。
「模様替えした? ずいぶん雰囲気違うね」
「そうだねぇ」
和馬は相づちを打った。
「ここは萌黄さんの部屋じゃないからね」
「え……ええッ!?」
目の前のシャツが威勢良くめくり上げられた。その下から、びっくりした表情の女の子が顔を出す。セーラー服姿の、女子校生だった。髪の毛が結構茶色かった。
「だから言ったではないか、ここは隣室だと」
固まってしまった彼女を追いかけるように、若い男性の声が近づいてくる。どうやら制止していたのは彼らしいが、声だけがやって来て足音もしなければ洗濯物も揺れない。
ふと足元を見ると、ブルーグレーの毛並の猫が、琥珀色の目を見開いて女子高生を見上げていた。前足を上げて、柔らかそうな肉球でぷにぷにと彼女の足を押す。
「何を固まっておる、マリー。行くぞ」
「あ……う、うん」
マリーと呼ばれた女の子は、首をかしげながらも謝った。
「ごめんなさい、お邪魔して」
「ああ、いいよ」
和馬は事も無げに応えて手を振った。
ちなみに、彼の部屋のドアに鍵はかかっていない。アレックスいわく、結界といって、萌黄に害をなそうとする人間は、そもそもこのマンションには近づけないことになっているらしい。したがって、その影響をもろに受ける和馬の部屋も、泥棒やその類いの心配は必要なかった。
どっちみち、鍵なんかかけたところで、オズマだのリリアだのは平気で入ってきてしまうから、すでに諦めていたところだ。
しかし、と彼は振り返った。
出て行く途中の女子高生は、天井からぶら下がっているブラジャーのホックが髪の毛に絡んで四苦八苦していた。
「痛い、痛いよッ! ムーニャ、何とかして、コレ取ってぇ」
「それは無理な注文だ」
普通に見えるが、間違いなく普通の女の子じゃないんだろうな。
猫もしゃべってるし。
「そこの!」
マリーは悲鳴をあげた。
「そこのお兄さん、お願いですから、コレ取ってくださいぃ!」
「真理ちゃんは、お友達なのよ」
萌黄はにっこり笑ってそう言った。
レポートは進まないし、どっちみち遊びに来るつもりだったから、和馬は彼女を伴って萌黄の部屋を訪れていた。勝手知ったる自分の部屋のごとく、ちゃっかりとダイニングの椅子に座り込んだ女子高生は、萌黄の許可もなく冷蔵庫からケーキを出して、早速ぱくついている。
「友達ねぇ」
苦笑する和馬を、猫が見上げた。
「萌黄よ」
「うん?」
「この男……何者よな?」
体は小さいが、態度はでかい。ぴんと張ったひげを誇るように顔を上げ、尊大な口調で猫は問うた。
「お友達。お隣に住んでるの」
それをまったく意に介することなく、萌黄はあっさりと答えた。猫のひげが、わずかに震えた。
「いや……それだけか?」
「うん」
きっぱり。
あくまでもきっぱり言い切る萌黄に、猫はため息混じりに顔を伏せた。
「青年よ」
「俺?」
「そなたも、なかなかに大儀であるな」
実に深みのある、大きくて重たいため息に、和馬はさらに苦笑した。
「そう?」
「余には分かるぞ。無理せずともよい」
またひげを震わせ、やや大仰に猫は言う。琥珀色の目は労わるように優しく、しかしかすかな優越感を持って和馬を見下ろしていた。
微妙に偉そうだ。
「いや、別に、無理はしてないけど」
「いやいや! 強がらなくともよいぞ、青年よ。言わなくとも、余にはすべて、分かるのだ」
「いや……」
いつの間にか、猫はすっかり胸を張っている。だがそれも一瞬の出来事だった。
ケーキを平らげ戻ってきた女子高生が、何の躊躇もなく猫の首根っこを摘み上げ、ぽいと放り投げたからだった。
「萌黄、ゴチ!」
「いえいえ、どういたしまして」
「いやー、萌黄ん家はいつ来ても美味しいケーキが置いてあるから嬉しいなァ」
マリーはにこにこと微笑みながら、さっきまで猫が座っていた、和馬のすぐ隣の座布団に腰を下ろす。そして、改めて、和馬に視線を移した。
「で、萌黄。この人は一体誰なの?」
「だから、お隣に住んでるお友達よ」
三人分のお茶と猫用のミルクを持って、萌黄はにこにこと答える。
たぶん、と和馬は思った。大概の人――いや、人であろうがなかろうが、友好的でさえあれば、どんな生き物であろうとも萌黄にとってはお友達なのだろう。
明解に結論づけて、お茶をいただくことにする。だが、その和馬に、マリーは猜疑心タップリの視線を向けた。
「そんなバカな」
上から下まで遠慮なく眺め回して、茶髪の女子高生はきっぱりと言い切った。
「萌黄ん家の隣に住めるなんて、それだけで普通の人間なワケないじゃないの」
「何だよそりゃ?」
「だって、普通は耐えられないわよ?」
「耐えられないって、何に」
彼女が意図するところがよく分からない。顔中に疑問符を浮かべて聞き返す和馬に、マリーはため息をついた。
「黒い羽根が生えてて空を飛ぶような男とか、虎に変身するような女の子とか、しゃべる猫とかが出入りする家なの、ここは。で、今、この時代、この地球の日本って国に住んでる一般市民は、そういうモノは理解出来ないのよ、普通。日常生活に、そういう輩が存在してない時代と場所なんだから、常識的な理解の範疇を軽ーく超えちゃってるわけ……分かる?」
「ああ」
それなら分かる。普通の人はそうだろう。
和馬はふんふんと、納得してうなずいた。
「でも、俺はもう慣れちゃったから」
そんな簡単に片付けてもいいんだろうか。
さらにもう一度ため息を重ねて、マリーは自分の額に手を当てた。
「そう……そうよね。慣れたら、どうってことないわよね?」
「ああ」
「じゃあ、あたしの本当の姿を知ってもびっくりしない?」
「多分ね」
別段どうという感慨もないまま、和馬は答える。女子高生はこめかみの辺りをぴくつかせながら、笑った。
「じゃあ、見てなさいよ」
テーブルに手をつき、座布団の上に立ち上がる。お行儀が悪いので、ムーニャが眉根を寄せたが、気にしない。
彼女は大きく右手を振って、叫んだ。
「変――身ッッ!!」
次の瞬間、無駄にキラキラとした光の粒が足元から湧き上がった。螺旋を描いてマリーの全身を包み込み、弾けると、女子高生の姿はもうそこにはなく、近未来的なぴっちりしたボディスーツに身を包んだ女性がそこに立っていた。
「次元監査官、マリー・フィジィ参上!」
どうだ、見たか。
そう言わんばかりの自信満々の表情でポーズを決めたマリーは、悠然と和馬を見下ろした。
銀の髪、褐色の肌。紫色のスーツが、セーラー服の時には分からなかった体のラインを際立たせている。グリーンに透けるバイザーも相まって、セクシーかつ理知的なその姿は、男性の視線を釘付けにする魅力にあふれていた。
あくまでも、普通の男性ならば。
「次元監査官?」
和馬は、単純に疑問点を口にした。
「SFとかでよく出てくる、アレかな。それじゃ、未来人か宇宙人ってコトだな?」
「…………あんたって人は」
本当にびっくりしないのね。
がっくりとうなだれるマリーに、さらに追い打ちがかけられた。
「それにしても、他人の家で、しかも座布団の上でブーツっていうのは、良くないと思うぞ」