「お帰りなさいませ」
少し青い顔をして門の前に立った彼に、衛兵は敬礼して言った。
「家の中はそのままにしてありますので…どうぞ」
「うん」
うなずいて、一歩門をくぐる。
帰ってくるまでの時間はたっぷりあった。覚悟はしていたつもりだったが、今まで暮らしていた懐かしい場所から発せられる、どこか異質な雰囲気に、彼はわずかに臆した。
緑の芝生、楡の木、噴水のある池に白い壁の上品な屋敷。昨日の朝と変わらないが、昨日の朝とは確実に違う。
池のそばに、番犬が二匹、変わり果てた姿でうずくまっていた。一頭は頭を叩き割られ、もう一頭はズタズタに切り裂かれていた。
おそらく――人間は、これよりももっと酷い姿に。
ディアスは足早に玄関へと向かった。扉を開けば死臭が漂い、廊下を歩けば、無残な姿にされた者たちがそこかしこに横たわっていた。思いがけずこの屋敷の主人となった青年は、自分の世話をしてくれていた彼らの成れの果てを、正視することが出来なかった。
目を背けるように歩き続け、そして、ついにディアスは居間のドアの前に立った。仲の良かった家族。夜はよく、ここにみんな集まっていた。だから、おそらく今もここに…みんながいる。
長い溜息を吐いた後、ドアノブに手をかけて一気に引いた。
ドアと一緒に、首のない死体がゆっくりと彼の方に倒れてきた。
「いっ……!!」
顔が引きつった。あわてて飛び退くと、メイド服を着た死体は仰向けにばたっと倒れ、赤黒い血が少しばかり廊下に飛び散った。
「………」
ディアスはそれをじっと見、それから居間の方へと向き直った。どこかあらぬ方を向いているメイドの首の脇をすり抜けて、部屋の中へ踏み込んだ。
声も出なかった。
父も、母も、姉たちも、満足な姿を留めてはいなかった。ディアスは震える手で母の上体を抱き上げた。目は大きく見開かれ、口も恐怖に歪んでいた。
「う……」
彼の口から鳴咽が漏れる。
許さない。絶対に許さない。家族をこんな目にあわせた奴を、僕は決して許さない。
厳しいが、優しかった父。いつも笑顔を忘れなかった母。おっとりとしていたが勉強家の長姉ディアナと、明るくて快活で良く笑う次姉ディルラ。何よりも、大切な家族……!
ディアスはあふれそうになる涙をこらえ、父母の亡骸を揃えた。家族全員を並べて、その前にひざまずく。
「……父上、母上………ディアナ姉上、ディルラ姉上」
その声には、悲壮な決意があった。
「このディアス・アルシアラ・ノアール、父上たちの仇、必ず討ってみせます。赤の盗賊を、必ず倒してみせます」
涙がほほを伝って落ちた。
その時だった。
誰もいないはずの廊下に、けたたましい怒声が響いた。
「おのれ、だましたな!」
太陽の光が差し込む明るい部屋の中、赤い髪、赤い鎧、赤い仮面の盗賊が、片方の足首にロープをかけられ、天井から逆さ吊りにされていた。ゆるく波打つ長い髪が重力に従って垂れ下がっている。髪は床まで届いていたが、指先はわずかに床に揺れる程度だった。
その精一杯伸ばした指の、ほんの拳一握りぶんほど先に、黒光りする剣の柄が落ちていた。
「お前が油断しているからだ」
同じ格好だが髪の短い、そして背の高い男はそう言って、ゆっくりとかがみ込み、黒い柄を拾い上げた。
「これはお前には似合わない」
「何だと!?」
逆さまになったまま、女が叫んだ。
「これは俺がもらう。これからは、赤の盗賊と呼ばれてもいいのは世界にたった一人、この俺だけだ」
どこかもの悲しげな声で、彼は答えた。だが、逆上した女はそんなことに気付く余裕もない。腹筋を使って上体を起こし、腰から短剣を引っこ抜いてロープを切りにかかった。
「お別れだ。もう二度と会うこともないだろう」
男は剣の柄だけを腰につけ、ドアに向かって一歩踏み出した。
その時、何の前触れもなく、ドアが開いた。
「覚悟、赤の盗賊!」
ドアの向うに立っているのが誰かを確かめる暇さえ与えず、暗い廊下から青白いオーラが噴き出した。
「はァッ!」
男もとっさに柄を構えてそれに相対した。
ただ、赤いルビーがはまっただけの黒い柄に、突如として薄紅色の刀身が現れた。炎のように揺らめく刀身は、みずからと同じ色のオーラを吹き出して、青い炎をぴたりと止めた。
「何ッ!?」
廊下にいる人影が一瞬身を固くした。その瞬間、ロープから離れて自由になった女盗賊がどさっと音を立てて床に落ちた。そのままくるりと回転して立ち上がり、間髪入れず赤の盗賊へとつかみかかる。
「返せ!わたしの剣を、返せ!」
「や、やめろ!今はそんなことをしている暇は…!!」
ちらりと見ると、もう一度、廊下から青白いオーラが立ち昇りつつあった。まともに食らえば怪我だけではすまない魔法の炎だ。
男は思い切って、力任せに女を振りほどいた。
「逃げろ!」
小柄で軽い女は突き飛ばされ、男の腕を離れて窓に突っ込んだ。そのままガラスを破り、庭へと落ちていく。
かすり傷はたくさん負うだろうが、身のこなしの軽い彼女のこと。命に別状はあるまい。
男は彼女が吹っ飛ばされた軌跡を目で追い、小さく溜息をついた。その横顔に、炎が叩きつけられる。
「く…ッ」
またしても、薄紅色の刀身によって直撃は免れたが、今度はその熱と衝撃で、赤い仮面が外れ、床に落ちた。
精悍な顔立ちに、茶色い瞳。
「お前が赤の盗賊か」
廊下にいた人物が問った。光に照らされ部屋に入って来た黒髪の青年は、まだどこか幼さを残したその顔に、厳しい視線を浮かべていた。
「そうだ。俺が、赤の盗賊だ。お前は?」
「僕はディアス・ノアール。この屋敷の主。昨夜、お前たちに家族を殺された」
仮面の取れた赤の盗賊は、神妙な面持ちでうなだれた。その手でゆらめく炎の刃は、うわさとは違って、邪気の感じられない薄紅色だった。
盗賊が、再び顔を上げた。
「仇討ちなら今度にしてくれ。俺には、やらなければならないことがある」
「何だと…?」
ディアスが相手に向かって詰め寄ろうとした瞬間、盗賊が剣の切っ先をゆらり、と揺らした。
小さな炎の玉がディアスめがけて飛び出す。
「うっ」
転がって、避ける。そして次にディアスが顔を上げた時、赤毛の青年はもういなかった。
「僕を、殺さなかった…?」
赤の盗賊は、仲割れしたのだろうか?それで、自分を殺さなかったのだろうか?
ディアスは窓から下をのぞいた。
衛兵たちが逃げた盗賊を追って、右往左往していた。
その晩ディアスは家を出た。
家族の葬儀はまだ済んでいなかった。だが、彼は、盗賊を逃した後すぐに旅装を整え、旅立った。
小柄で髪の長い、気の強そうな女と、背が高くて意外と温厚そうな男。あの時のやりとりでは、あの男が殺人鬼の様には思えなかった。男は女を逃がし、人を殺さず自分も逃げた。人を好んで殺すのは、おそらく女の方なのだろう。
しかし、男は不思議な剣を持っている。普段は黒い柄だけなのに、いざとなると燃える刀身が現れ、剣の刃となり、火の玉を飛ばし、魔法を打ち消すことだって出来てしまう。あの剣があったからこそ、ディアスの父親だって倒されてしまったのだ。
どちらを追うべきか、彼は迷っていた。
ウラネリアの街を出て北へ数時間。街道は森の中へと続き、辺りは真っ暗になっていた。さすがに月の光も届きそうにない。自分の指先に魔法の灯かりを点したディアスは、目の前に浮かび上がった光景にぎょっとなった。
街道のど真ん中に、人が三人倒れていたのである。
「だっ…大丈夫ですか!?」
ディアスはあわてて駆け寄った。禿げ上がった中年の男と、その両側に彼の娘らしい少女が二人。周りに色とりどりの衣服が散乱しているのを見ると、どうやら行商の途中らしい。二人の娘はどちらも目を固く閉じてぴくりとも動かなかったが、父親は人の気配を感じてわずかにまぶたを開いた。
「や…ら、れ……た…」
緑の瞳を苦しそうに細め、男は言った。
「赤の…盗賊……だ……」
「何ですって?」
ディアスは思わず聞き返した。すると男は長く息を吐いて目を閉じ、自分の手の中にあったものをぐいとディアスに押し付けた。
赤く染められた、革製の仮面。
「これは…あの盗賊のッ!」
だが、もう男は返事をしなかった。そのまま、ディアスの腕の中で力が抜けていく。もう二度と目を開くことがないのは、明らかだった。
「あいつらめ…!」
ディアスは唇を噛んだ。
逃げる途中で、なお罪を重ねるのか!?
その時、片方の娘の手がぴくり、と動いた。三人とも同じように傷だらけで、栗毛の娘はすでに冷たくなっていたが、赤毛の娘はまだ息があった。あの女と同じように赤い、しかし短く刈られた髪の少女を抱き起こすと、幼げな目鼻立ちの顔に苦しげな表情が浮かんだ。
彼女だけでも、助かれば…!
ディアスは小柄な体を抱き上げて歩き出した。
もちろん、あの仮面をしっかりと背負い袋の中に押し込んで。
全身を切り刻まれる痛み――頭ががんがんする――ぼんやりした視界に、一つの顔が浮かんだ。
お前は…お前は。
「……ラ…ジュア…」
叫んだつもりだったが、声は弱々しかった。だが、同時に彼女は見慣れない光景に目を丸くした。
視界にあるのは木の天井、自分が寝ているのは柔らかいベッド。
「気がついた?」
そこに、人のよさそうな青年の顔がひょいと顔をのぞかせた。黒い髪に黒い瞳、おまけに着ている鎧も真っ黒だった。
「な……」
誰だ、お前。
びっくりしたのと、体に走る痛みとで声が出せず、ただ口をぱくぱくさせるだけの彼女に、青年はにっこりと笑って言った。
「大丈夫。しばらく寝てれば治るそうだから」
「…あ、そう」
ウリーラは呆然と答えた。
一体何なんだ、このお人好しそうな坊やは。
あからさまにそういう顔をしている彼女に、青年は微笑みながら尋ねた。
「僕はディアス・ノアール。君は?」
「わ、わたし?」
状況を掴み切れずにまた目を瞬かせた少女を見て、ディアスは急に真顔になった。
「君、服屋さんの娘だろ?」
「……服屋」
「そう。行商中だったんだろう、君たちの家族」
「家族」
繰り返して、ウリーラは押し黙った。しばらくの間、一体何の話をしているのか、皆目見当もつかなかったからである。心配そうにのぞきこむディアスを見て、彼女はようやく納得した。
こいつ、ものの見事に勘違いしているな?
あの親子を襲って殺した盗賊は――わたしなのに。
父親の必死の反撃に彼女自身も深手を負い、相討ちとなって倒れただけだた。それを通りすがりのこの青年が、彼女も被害者だと勘違いして助けたと言う訳だ。
ディアスが悲しげに言った。
「……お父さんも、お姉さんも死んでいたよ」
ウリーラはうなずいて、はらはらと涙をこぼす。何のことはない、本当は毛布の下で思いっきり自分の傷口をつねっているだけの事だったが、その涙は純情な青年をだますには十分すぎた。
「泣かないで。僕も、君と同じなんだ」
ディアスは聞いてもないのに話し始めた。
「僕も、両親と二人の姉を赤の盗賊に殺された」
「……赤の盗賊に?」
知らず、ウリーラの声が厳しくなった。
「それじゃ、お前は…」
「赤の盗賊を探している」
青年は袋の中から赤い仮面を取り出し、彼女の前にかざして見せた。
「必ず見つけ出して、この手で倒す」
「……」
ウリーラは泣くのをやめて、じっと彼を見つめた。
この男は、わたしを殺そうとしている。だが、目の前にいるこのわたしこそが親の仇だとは気付いていない――間抜けなヤツ。
怪我をして満足に動けない今、下手に行動するのはどう考えても不利だった。ウリーラは毛布から手を出し、差し伸べ、ディアスの手を取って握り締めた。
「わたしも一緒に行く」
青年は目を丸くした。
「わたしも、あいつには借りを返さないといけないんだ。一緒に連れていってくれ、足手まといにはならないから」
「でも、君はまだ怪我が」
「こんなもの、すぐ治る!大したことない!」
彼女はきっぱりと言い切った。
盗賊として、世間の荒波にもまれて育ってきた彼女のカンが、この青年は使えるとささやいていた。ラジュアを倒してあの剣を取り戻すためには、いい相棒が必要なのだ。返り討ちにするにはそれからでも遅くないと、彼女は考えていた。
「……君、剣が使える?」
ふいに、ディアスが言った。
「剣?」
「そう。僕は、剣が下手だから」
「……」
ウリーラはまじまじと相手を見つめた。
体格はいいし、頭も良さそうだし、銀をいぶして黒くした鎧はぴったりと体にあっている。腰には鎧と同じ紋章の、質の良さそうな、しかもかなり使い込まれた様子の剣がきっちりと吊るしてあった。品のいい顔立ちといい、どう見ても貴族の若い戦士にしか見えないというのに、剣が下手とは。
よほど謙遜しているのか、そうでなければ…。
選択を誤った、とウリーラは思った。
「こんな格好なのに剣が使えないなんて、おかしいと思うだろ?」
疑問が顔に出ていたのか、不審そうな顔つきの彼女に、ディアスはそれでも朗らかに笑いながら言った。
「これは全部親譲りなんだ。でも、僕はね」
にっこりと微笑んで彼は、毛布の上からウリーラの腹の上に両手を重ねて置いた。
「これなら得意なんだよ」
「うッ!!」
傷口を、激しい痛みが貫いた。ディアスの掌からまぶしい銀色の光があふれ出る。
ウリーラは痛みとまぶしさに顔をしかめ、目を閉じた。だが、ややあって、ふとまぶたを開くと、心配そうな表情のディアスと目が合った。
「な…ッ、いきなり何する、お前はッ!?」
「まだ痛い?」
「当たり前……あ、あれ?」
全然、どこも痛くない。
彼女はがばっと毛布をめくり上げると、シャツの裾をまくった。巻き付けられた包帯をぐるぐると解いていくと、白く滑らかな肌だけが現れた。
「傷が…治ってる」
さっきまでは大きな傷が走っていた場所をなでながらつぶやいた。
「お前、司祭か?」
「いや」
ディアスは笑った。
「ただの魔術師だよ。司祭様なら痛みもなく傷が治せるんだけど」
「いや、これで十分だ」
ウリーラもにっこりと微笑んだ。
「これほどの魔術師が一緒なら、きっとあいつを倒せる」
だが、彼女の緑色の瞳は何故か冷たく、決して笑ってはいなかった。