ディアスとウリーラが出会って一週間、二人はウラネリアの北にある都市マルフィニアに着いた。だがその頃、赤の盗賊は同じ街で、最初の標的に狙いを定めていた。
夜になり、彼は動き始めた。金のありそうな屋敷の壁をするするとよじ登り、二階の窓からそっと忍び込む。慣れた手つきで最初に入った部屋の家具調度を調べていくが、めぼしいものは特に見つからなかった。
「ちぇ…どこかにまとめて隠してやがるな」
彼は音もなく廊下に出た。月の光が仮面をつけていない横顔を照らしだす。赤い髪、赤い鎧の盗賊は、次の扉に向かって忍び足で歩き始めた。
だが、そこから人の話し声がすると気付くのより早く、その扉がいきなり開いてしまった。
しまった、と思った時には遅かった。どうやら衛兵の詰所だったらしいその部屋には、人間だけでなく番犬もいたのだ。扉はわずかに開いただけだったのに、番犬はたちどころに侵入者のにおいを敏感に嗅ぎつけ、けたたましく吠え立てた。
「泥棒か!?」
「捕らえろ!」
彼は急いで先程の部屋に戻ろうとした。しかし、廊下の向うから、今度は別の部屋から出てきたとおぼしき衛兵たちがわらわらと集まってきた。
な…何でこんなに衛兵がいるんだよ!?
後ろを見ても、廊下は衛兵と番犬でいっぱいだ。おそらく、先ほどの空き部屋に戻ったとしても、窓の下にはさらに大勢の衛兵が集まっているのだろう。
屋敷の主人は占いによって、今夜賊が入る事を事前に知っていた、などということは、彼には分かるはずもなかった。ただ、結果として、用意された罠の中に飛び込んでしまった事に間違いない。
彼は様子をうかがいながら、ゆっくりと足を運び、壁を背にした。
「貴様…赤の盗賊か!?」
衛兵たちは彼の容姿をカンテラで照らし、口々に声を上げた。
「こんな派手な格好の賊がいるか。赤の盗賊に決まっている!」
「気をつけろ…凶悪な殺人鬼だぞ!」
じりじりと彼を取り囲む人の輪が小さくなっていく。
「殺せ」
誰かが言った。
「人殺しだぞ…容赦するな」
「殺せ。殺してしまえ!」
ぞっとするような殺気が漂い始める。盗賊は、身震いした。
冗談じゃない。俺にはまだ、やらなきゃならない事があるんだぞ!
だが、衛兵たちの興奮は収まるはずはなかった。
「ウラネリアでは悪事の限りを尽くしたようだが、それもここで終わりだな」
一人が低い声で言って、前に進み出てきた。その手には、しっかりとした造りの長剣が握られていた。震える手で、彼が握りしめている短剣一本では、どう考えても勝ち目はなかった。
使いたくはないんだが…仕方ない、少しだけ。
赤の盗賊は、そっと自分の腰に手を伸ばした。そこには、真紅のルビーのはまった、黒い剣の柄があった。
「死にたくなければ、道を開けろ」
彼は柄だけを構えていった。刀身も何もないただの棒切れ同然のモノを持つ姿は、どこか滑稽だった。当然、恐れをなす者は誰もいない。
「何だとォ?貴様、そんな得物で俺たちとやろうってのか」
「そうだ」
彼は臆する事無く答えた。
「俺は赤の盗賊。この剣の餌食になりたくなければ、そこをどけ!」
噛みつかれそうな迫力に、一瞬だけ衛兵たちがたじろぐ。が、それは本当に一瞬のことだった。
「馬鹿だ、こいつ!やっちまえ!!」
わっ、という声と共に、先頭の衛兵たちが数人、彼に向かって襲いかかった。
「はあッ!!」
瞬時に現れた薄紅の炎が、男たちをなぎ倒した。
「俺は人殺しなんかしたくねぇんだ」
彼は言った。黒い柄に、薄紅色の刀身が炎のようにゆらゆら揺らめいていた。まるで、獲物を狙う蛇が頭を振っているかのように。
「俺を帰してくれ。お前らだって、死にたくねぇだろ?」
しかし、目の前に仲間が倒れているのを見て、衛兵たちは黙ってはいられなかった。
「殺せ!殺すんだ!!」
「生かして帰すな!」
怒涛のように攻撃が繰り出されてきた。それを避けて、剣を振る。なるべく相手を傷付けないよう、最低限しか反撃していないつもりだった。
はっと気がつくと、淡い紅色だったはずの刀身が、赤く色を変えていた。
「な……に?」
ふと見ると、足元には横たわる死体の山。おびただしく流れ出る血の河。むせ返るような死臭漂う地獄の中に、彼は立っていた。
俺が殺した?俺…が?
「違う」
ぽつり、と言葉が口から漏れた。
「俺は…俺はあいつにこんな事をさせないために、この剣を取り上げた。そうだ、そうだったな、ラジュア?」
自らに言い聞かせるために、剣を見つめながら叱咤する。
「ラジュア、お前はこの剣を神殿に返しに行くために持ってるんだ。人を殺すために持ってる訳じゃねぇ…」
だが、その声は次第に弱々しくなっていた。
「俺は……何のために、ウリーラを捨ててまで……この、ブラッド・スター・ルビーを」
赤い刀身はゆらゆらと揺れ、彼の目を捉えて離さなかった。血のように赤い刃は、血を吸えば、もっと赤く染まるのだろう。赤く――妖しく、美しく。
ラジュアは一歩、足を踏み出した。
「そうだ…金だ。お宝をもらって帰らないと」
足元の死体を土くれのように踏みつけて、彼は歩き始めた。
翌朝、街は騒然となった。
とある貴族の館に集められた数十人に及ぶ衛兵が、貴族とその家族もろともに、一晩のうちに皆殺しにされたのだ。その残忍な殺し方と、衛兵の一人が書き遺した血文字によって、犯人の正体は割れた。
赤の盗賊だった。
「あいつ、今この街にいるのか」
号外で配られた事件のあらましを見ながら、ディアスはごくりと唾を飲んだ。
「どうした、ディアス。怖いのか?」
隣に立っているウリーラが茶化す。彼女の方が一つ年下ではあるが、人生経験の豊富さゆえか、どうしても大人びて見えた。
「違うよ。でも、狙われやしないかなと思って。僕たちの宿」
「そうだねぇ…あいつが狙う場所の予想なんてつかないからなぁ。今晩あたり、危ないかもね」
「ウリーラ!」
ディアスが叫んだ。
「そんなこと言うなよ!怖いだろ!」
「やっぱり怖いんだな」
くすくすと彼女が笑う。青年は、憮然とした顔つきになった。
「じゃあ、ウリーラは怖くないのかい?」
「ああ、怖くないね」
朝の光を浴びて、彼女の赤毛が輝いた。緑色の目は嬉しげに細められ、ディアスは呆然とその横顔を眺めた。
「人間なんて、いつ死ぬか分かんないじゃん。赤の盗賊に殺されなくても、他の誰かに襲われて死ぬかもしれない。心配してても仕方ないよ」
「……そうかな」
彼は傍らに立つ少女を見つめながら答えた。
「やりたいことも出来ずに死ぬのは、僕は嫌だな」
「やりたいこと?例えば、どんな?」
「まずは、赤の盗賊を倒す」
ディアスは天を仰いだ。
「それからウラネリアに戻って、家を継ぐんだ。結婚して、子供を作って…」
「貴族ってのは、つまんないもんだね」
そんな言葉を遮る彼女の声は、何故か頭上から降ってきた。ディアスがさらに上を向くと、ウリーラは近くの塀の上にちょこんと座っていた。
「それで満足なの?面白くないなぁ」
「面白くないって、しょうがないだろ。そうする事が僕の務めなんだから」
「僕の務め、ねぇ…」
実に退屈そうなウリーラの顔を見ていると、彼は妙に不安になってきた。
赤の盗賊を倒す。これは、当然だろ?それから家に戻って一家の主になる…どこが気に入らないんだろう?
確かに、僕が貴族であるという事自体が、最初から気に入らない様子ではあったけれど…
「それなら君は、何がやりたいの?」
「欲しいものがあるの」
彼女はうっとりと言った。
「そう…まあ、そんじょそこらの人間には、触れることはもちろん、見ることも出来ないだろうね」
「そんなに凄いものなのかい?」
「ああ」
遠くを見つめる彼女の顔に、ディアスは目を奪われる。
「この世にたった一つしかないんだ。あれこそ、最高の芸術品だよ」
「…見たことあるの?」
「少しの間だけ」
ウリーラはそう言って、自分の両の手のひらに視線を落とした。愛しいものを見つめるかのような、優しい瞳は、今まで彼には一度も見せたことない色に満ちていた。
「ウリーラ…それって、一体何なんだい?」
「剣だよ」
彼女は振り向きもせずに答えた。
「戦の神が作った剣だ。美しく、強く、猛々しい…あの刃を見れば、きっと誰もが美しさに震え上がる」
「戦神が…作った」
魔術学校の図書館で読んだことがある。
この世界を構成する神々の一人、戦の神シルトは、一つのルビーに己の力を込め、この世でもっとも美しく、強い剣を作り上げた。その名はブラッド・スター・ルビー。持つ者を無敵の戦士とする伝説の聖剣である。
ディアスは、目の前の少女を、まるで信じられないものを見るような顔つきで見上げた。
「赤の盗賊が、持っている」
「そうだよ」
ようやくウリーラが彼の方を振り返った。
「そうか、ディアス。あんた魔術師だもんね、あの剣のこと、知ってるんだね」
のんびりとした声とは裏腹に、ディアスの背からどっと冷たいものがあふれ出た。
「あれが、ブラッド・スター・ルビー」
廃虚と化した自分の家で、赤の盗賊に、燃える剣を突きつけられた時のことがはっきりと脳裏によみがえる。端正な顔立ちの、どちらかというと知的で、穏やかそうな男だった。
だが、彼の目は、喜んで人を殺す目ではなかった。
そう…どちらかと言えば、今自分の目の前にいる、抜け目のない野良猫のようなこの少女の方こそ…
「ディアス」
その声に、彼はびくりと体を震わせた。
すぐ目の前に赤毛の少女が立っていた。恐ろしいほどに真剣な緑色の瞳が、じっと彼をのぞき込んでいた。
「見たことあるんだな、あの剣を?いつ?どこで!」
驚くほどに、きつい口調。
「ディアス!答えろ!」
「…僕の家に、昼間、赤の盗賊が来た」
彼の手をつかむ柔らかいウリーラの手が、ぎりぎりと力を増していく。小柄な少女のものとは思えないほどの力だった。
「それで?」
「見ている前で仲間割れしたんだ。髪の長い女が逃げた後で、男の方がその剣を出してきたんだ」
そこまで言うと、ウリーラの手に込められていた力が、ふっとゆるんだ。
「…そ、そうか」
ゆるゆると手を離す少女の姿に、ディアスは安堵の溜息をついた。ふと見ると、彼女はもういつも通りのさばさばとした顔をしていた。
「ごめん、ディアス。つい、取り乱した」
「いや、いいんだけど」
しかし、彼の心の中に、ぽつりと一つ、黒い雲が出来た。
まさか、そんなはずは……