別に、俺と彼女は付き合っていたわけではない。
ただ、家は近所で、ガキの頃から兄妹のようにじゃれながら育ち、学校も一緒だったし、好きじゃなかったというなら嘘になる。東京の大学へ進学すると彼女が言った時、確かに俺はちょっとばかり無理して勉強した。
だからといって、別に将来彼女を恋人にしようとか、嫁さんにしようとか、そこまで俺は――いや。
今となっては白状するより他はないが、多分俺は、そう思っていたのだろう。
こんなことに、なりさえしなければ。
よく言えば想像力が豊か、という表現になるが、ぶっちゃけ、彼女には少々空想癖があった。
小説やマンガのキャラクターに恋をして、目がハートマークになるという、女の子にありがちな例のアレだ。
いわゆる、恋に恋する乙女というやつなんだろう。俺に向かって、俺の知らないキャラクターの話を、それこそ文字通り目を輝かせ、無邪気に話して聞かせたことは、一度や二度ではない。
しかもその愛情はいつだって猛烈に情熱的で、そして――いつだって、すぐ冷めた。
そりゃそうだろう。しょせんは、ニセモノの恋。乙女の幻想なのだ。
マンガの連載が終われば、一緒に終わる恋なのだ。
あまりにバカバカしくって、いつも聞かされるどこかピントのズレたのろけ話に、俺はその時も適当に相槌を打っていた。
無精ひげの男。
くわえタバコで、少しだらしない服装。
背は高すぎるほどではないが、やや痩せ型で、服によってはひょろりとした印象を与える。
昼間はビルの清掃員をやっているが、裏ではスナイパーというヤバい仕事に手を染めている。だから、名前はない。ただ、組織から与えられたコードネームが存在するだけの男。
そして、実在しない男。
彼女は、ゲームのキャラクターである彼について、またいつもと同じように、うっとりと恋する乙女の瞳で語っていた。
珍しく、長続きしてるな。
俺がそう思い始めたのは、彼女が半年経ってもまだ彼の名前――コードネームを口にしていたからだった。
そのゲームのブームは、世間的には終わっていた。だが、彼女はまだ彼のことを話すときは、なんとも照れくさそうな嬉しげな顔になる。
ちなみに、俺はそのゲームにはまったく興味がなかった。のろけ話も聞き流していた。
だから悔やんだ。
あの事件で気付けば。
俺が止めていれば。
今でも、そう思う。だが、俺は一笑に付した。それは、ただの偶然だったんだと。
ホントは違っていたのに……!
「今日ね」
真冬のさなか、彼女は赤く頬を染めて俺に言った。
「カレが来てくれたの」
冷たく白くなってしまった拳の中に握りしめていたのは、一発の弾丸だった。
「……どこで拾ってきたんだよ、そんなモン」
「カレがくれたのよ」
話を聞いてみれば、道を歩いていた時に、近くの家のベランダにあった植木鉢が目の前に落ちてきたのだという。それも、不自然に。
不思議に思って落ちて壊れた鉢を調べてみると、その弾丸が出てきた。
「ほら、ココ」
嬉しそうに差し示す弾丸には、小さく一文字、アルファベットが刻んであった。
あの男のコードネームと同じ文字だった。
それを指でたどり、彼女は心の底から嬉しそうに笑った。
「ね?」
だが、そんなはずはない。
「……バカバカしい」
弾丸なんか、サバイバルショップに行けばいくらでも売っている。
たまたまその弾丸が落ちていたところに、植木鉢が落ちたに決まっている。
この日本で、そんな事が現実に起こるワケがない。例えもし仮に、裏世界の暗殺者がいたとして、どうして一介の女性を喜ばせるためだけに、銃をぶっ放す必要があるというのだ。
俺は首を振った。
彼女の楽しい夢を壊すのは可哀相だが、空想もここまでいくと、ちょっとヤバいかもしれない。
これ以上、この妄想の恋が続くようだったら、カウンセリングの先生でも探してきてやろう。
そう思って、俺は忠告のつもりで言ってやった。
「言っとくけど、それ、俺以外のやつに言うなよ?頭おかしいと思われるからな」
「何よぅ」
すると彼女は不満そうに唇をとがらせて答えた。
「信じてくれないんならいいわよ。もう1個証拠があるけど、見せてやんないんだから」
その日はそれで終わったが、俺は気にも留めやしなかった。
どうせ、大した物ではないと思っていたからだ。
後々分かる事だが、この日彼女が弾丸と一緒に手に入れたものは、タバコの吸殻だった。
それから二ヶ月後、バレンタインデーの夜。
俺は彼女の訃報を聞いた。
信じられなかった。
死因は射殺だった。
あり得なかった。
俺は、彼女の親御さんからの電話をもらったまま、たっぷり三十分は立ち尽くした。
その日、彼女はプレゼントの包みを持って雑踏に現れたらしい。
バレンタインデーだったんだから、女の子がそれっぽい包みを大事そうに抱えて通りを歩いているのは、何もおかしい事ではなかった。だが、目撃者の話によると、奇妙なことだらけだった。
まず、風も何もなかったのに、両手で持っていたはずの包みがはね飛ばされた。
紙袋は破れ、地面に叩き付けられる。中身のチョコレートも砕けて、破片が飛び散った。
だが、彼女は驚いていなかった、という。
むしろ何故かその表情は笑顔に変わり、どこかを振り返った。
次の瞬間、周りにいた人は、彼女が心臓から血を流しながら倒れるところを目撃する事になる。
俺には分かった。
あの日、彼女に自分の存在を示した男が、彼女の心を奪いに来たのだ。
チョコレートを持って、自分の愛を捧げにきた女を、その魂ごと受け取ったのだ。
ゲームの中から、銃を携えて。
――だが、そんなバカな話があるか!
結局、犯人が見つからないまま、彼女の葬式はとり行われた。
俺がちゃんと彼女の話を聞いていてやれば、良かったのだろうか?
棺の中でまぶたを閉じている彼女の表情は、笑顔だった。周りの悲しみも知らず、自らの恋に殉じたとでも言いたいのだろうか。
冷たくなった頬に触れてみて、俺は気付いた。
顔の周りに敷きつめてある花の中に、吸殻が一つ。
……ヤツだ。
背筋が寒くなった。
そんなものを、誰が好き好んで棺に入れる?
この中に、ヤツがいる!
俺は振り返った。葬儀の参列者が、俺の背後にたくさんひしめいていた。俺の知らない顔の男もたくさんいた。
「だ……誰か」
おかしい。ヤツは存在しないと、そう言ったのは俺だった。
だが、気付いたら俺は叫んでいた。
「誰か警察を呼んでくれ!犯人が、この中にいる!」
……もちろん、犯人は見つからなかった。
俺は、愛する幼馴染みを失ったショックで半狂乱になっていたためにあんな事を口走った、という理由で無罪放免。
でも、だけど、違うんだ。ヤツはちゃんとあの時も、彼女を見送りに来ていたんだ。
今なら信じられる。
ゲームの中に存在していたはずの男だが、それが何故か、この現実の世界にいる。
だが、やはり信じられない。
そんなことを毎日考えているうちに、俺はタバコが手放せなくなっていった。
食欲もあまり湧かないから、少し痩せてきた。
ひげを剃り忘れたあごに何となく手をやってみる。
ふと顔を上げて、鏡を見たら、そこに彼女が思い描いていたであろう、例の男が立っていた。
ああ、そうか。
俺だったのか。